♦️216『自然と人間の歴史・世界篇』ホッブズ

2018-11-23 21:52:19 | Weblog

216『自然と人間の歴史・世界篇』ホッブズ

 イギリスのトマス・ホッブズ(1588~1679)は、社会契約説の先駆をなした。そもそもの話、人間の自然状態を互いに平等だと見た。神を前提してそうみなすというのではなく、直観というのであろうか、人は生まれながらにして能力に優劣なく、したがって互いに平等であるとしたのが、最初の特徴だ。

 2番目の特徴としては、彼は平等から不信が生じるのだという。この判断にあっては、人種や民族の違いは、まだ導入されていない。まともな理由の示されないまま不信を持ち出すのは、たぶん、現に自分の生きている世の中を観て、不信が渦巻く欲得の世界だと感じていたのではないだろうか。その過程では、競争が芽生えたり、不安があったり、そのほかにも様々厄介な問題が惹起されていくとみる。

 ここでいう彼の主著とされるのは「リヴァイアサン」といって、別名はかの「旧約聖書」に出てくる海の怪物レヴィアサンだというから、さぞかしカオス(混迷とか混沌)の雰囲気を出したかったのだろう。

 そんな独特の設定であるからして、そのまま放っておいたら、戦争に陥ってしまうだろうと、ホッブズは考え、こういう。

 「以上によって明らかなことは、自分たちすべてを畏怖させるような共通の権力がないあいだは、人間は戦争と呼ばれる状態、各人の各人にたいする戦争状態にある。すなわち《戦争》とは、闘い、つまり戦闘行為だけではない。闘いによって争おうとする意志が十分に示されていさえすれば、そのあいだは戦争である。」

“”Hereby it is manifest that during the time men live without a common power to keep them all in awe, they are in that condition which is called war; and such a war as is of every man against every man. For war consisteth not in battle only, or the act of fighting, but in a tract of time, wherein the will to contend by battle is sufficiently known.“”

 

 すなわち、「諸政治国家の外には、各人の各人に対する戦争がつねに存在する」となっている。ここから引き出される結論の最有力は、人々は国家との社会契約に入って、かかる争奪から抜け出さなければならず、この文脈では独裁国家さえもが許容範囲に入っていくものと考えられる。

(続く)

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○258の2『自然と人間の歴史・日本篇』鳥羽伏見の戦いと江戸開城(戊辰戦争前編、1868)

2018-11-23 19:10:34 | Weblog

258の2『自然と人間の歴史・日本篇』鳥羽伏見の戦いと江戸開城(戊辰戦争前編、1868)

 1867(慶応3)年10月14日、江戸幕府第15代征夷大将軍の徳川慶喜が朝廷に政権を返上した。その本質は、資産と武力を保持しつつ一旦退くことで面目を回復し、やがて新政府を牛耳ろうとねらったものといえよう。同年12月9日には、王政復古の大号令が発せられた。

 その後、徳川慶喜は京都から大坂へと退く。その一方で、幕府の軍勢は大坂から京へと進軍した。そのため、京の伏見では、幕府軍と薩摩藩を中核とする新政府軍の勢力が拮抗することになり、一触即発の緊張が高まっていた。

 明けて1868(慶応4)年1月3日、伏見上鳥羽の小枝橋で戦端が開かれた。現在の城南宮(京都市伏見区中島鳥羽離宮町)の西方、鴨川にかかる小枝橋のたもとにて、両軍の戦いの幕が切っておろされた。新政府軍の5千に対し、幕府軍は15千であり、かなりの数の開きがあったものの、統率力は前者の方が上回っていた。

 あくる1月4日、幕府軍の戦線は、伏見桃山からは南西側の淀(京都市伏見区淀、現在の京阪本線淀駅の西南方向にある)付近まで後退した。当初は優勢だった幕府軍は劣勢に傾いていった。1月5日には、そもそも幕府軍本営のあった淀城からして、城主(譜代の淀藩・稲葉氏)不在のところ、留守役の家臣たちはこのまま幕府軍に付いてよいものか、新政府軍に付くか、日和見の状態に陥っていた。1月5日、鳥羽と伏見で敗北した旧幕府軍は淀城に入ろうとしたものの、淀藩から入城を拒否されてしまう。それというのも、1月4日には尾張徳川家の徳川慶勝から「中立を守るように」と、また三条実美からの出頭命令も受けていたので、国家老たちは、日和見(ひよりみ)を決め込んだのだ。

   そんな中で1月6日、新政府軍側から皇軍であることを示す「錦の御旗」がひるがえった。そのことにより、日和見だった各藩は雪崩を打つように新政府軍側に恭順していく。かかる情勢が支配的となって幕府軍は敗走、徳川慶喜は城内に立てこもって戦うと諸藩の兵たちを鼓舞したのもつかの間、夜陰に紛れてか自軍を置き去りにし、大阪湾に控あった幕府の戦艦・開陽丸に乗船し、江戸へと逃れた。

 その後のことだが、江戸に帰った元将軍慶喜はどのようにふるまったのであろうか。一説には、こうある。

 「江戸城に帰還した慶喜(よしのぶ)は、抗戦と降伏の間を揺れ動いていた。フランス公使ロッシュは、慶喜に再起を勧告した。また勘定奉行小栗忠順(おぐりただまさ)は、卓抜な作戦計画を立てて慶喜に献策した。すなわち、東海道を海岸沿いに東進中の天皇政府軍を優秀な海軍力で横撃して撹乱し、さらには敵軍を関東平野に誘い入れ、箱根峠を封鎖して袋の鼠にし、包囲殲滅せよとの戦略だった。小栗策が実行されたら、形勢は再逆転したかもしれない。したがって鳥羽・伏見戦後といえども、ただ徳川家が最終的に天下を失うかどうかは未確定だったのである。しかし、いずれも慶喜の容れるところとはならなかった。」(毛利敏彦「幕末維新と佐賀藩―日本西洋化の原点」中公新書、2008)

 ともあれ、慶喜からはもはや確固たる戦意はなく、時の流れにむ身をまかせていくしかなかったのではないか。そのまま謹慎に入り、勝海舟が後の始末を頼まれた形となる。その勝は、征討軍の参謀・西郷吉之助と談判し、無抵抗での江戸開城と引き換えに慶喜の助命を求める。軍に帰った西郷の進言により、幕府側の申し出を受け入れることとし、開城が滞りなく行われた。これに不服の彰義隊が上野に立てこもり新政府軍に抵抗するも、銃火に勝る新政府軍の前に敗退し、江戸幕府の実質的支配がここに終わる。 

 

 さても、作家の大岡昇平(おおおかしょうへい)は、そのエッセイ「母成峠(ぼなりとおげ)の思い出」(「太陽」1977年6月号所収)の中で、この戦争というものへの慨嘆であろうか、それとも挽歌であろうか、こう述べている。

 「私の戊辰戦争への興味は、結局のところ敗れた者への同情、判官びいきから出ている。一方、慶応争間からの薩長の討幕方針には、胸糞が悪くなるような、強権主義、謀略主義がある。それに対する、慶喜のずるかしこい身の処し方も不愉快である。その後の東北諸藩の討伐は、最初からきまっていたといえる。(中略)
 多くの形だけの抵抗、裏切りがでる。あらゆる人間的弱さが露呈する。
 戊辰戦争全体はなんともいえず悲しい。その一語に尽きると思う。」

 

 

(続く)

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♦️244の2『自然と人間の歴史・世界篇』近代立憲思想の系譜(ロック)

2018-11-23 09:17:46 | Weblog

244の2『自然と人間の歴史・世界篇』近代立憲思想の系譜(ロック)

 ジョン・ロック(1632~1704)は、イギリスの哲学者、政治学者であって、近代の立憲思想に大いなる影響を与えた。
 「すでに示したように、人間は生まれながらにして、他のどんな人間とも平等に、あるいは世界における数多くの人間と平等に、完全な自由への、また、自然法が定めるすべての権利と特権とを制約なしに享受することへの権原をもつ。それゆえ、人間には、自分のプロパティ、つまり生命、自由、資産を他人の侵害や攻撃から守るためだけでなく、更に、他人が自然法を犯したときには、これを裁き、その犯罪に相当すると自らが信じるままに罰を加え、自分には犯行の凶悪さからいってそれが必要だと思われる罪に対しては死刑にさえ処するためにも、生来的に権力を与えられているのである。」(ジョン・ロック著・加藤節(かとうたかし)訳『統治二論』岩波書店、2010)
 なお、原文は以下の通り。
 “Man being born, as has been proved, with a title to perfect freedom, and an uncontrouled enjoyment of all the rights and privileges of the law of nature, equally with any other man, or number of men in the world, hath by nature a power, not only to preserve his property, that is, his life, liberty and estate, against the injuries and attempts of other men; but to judge of, and punish the breaches of that law in others, as he is persuaded the offence deserves, even with death itself, in crimes where the heinousness of the fact, in his opinion, requires it.”
 「政治権力を正しく理解し、またその起源を尋ねるためには、われわれは、すべての人間が天然自然にはどういう状態に置かれているのかを考察しなければならない。そうしてそれは完全に自由な状態であって、そこでは自然法の範囲内で、自らの適当と信ずるところにしたがって、自分の行動を規律し、その財産と一身とを処置することができ、他人の許可も、他人の意志に依存することもいらないのである。
 それはまた、平等の状態でもある。そこでは、一切の権力とは相互的であり、何人も他人より以上のものはもたない。」(鵜飼信成訳『市民政府論』岩波文庫、1968、「10」)
 こうした彼の立論の背景には、神の下で自由に暮らしていた仮想の自由なる生活があったろう。続いて、その後の社会の変化につきこう述べる。

 「彼の身体の労働、彼の手の働きは、まさしく彼のものであるといってよい。そこで彼が、自然が備えそこにそれを残しておいたその状態から取り出すものはなんでも、彼が自分の労働を混じえたのであり、そうして彼自身のものである何物かをそれに附加えたのであって、このようにしてそれは彼の所有となるのである。

それは彼によって自然がそれを置いた共有の状態から取り出されたから、彼のこの労働によって、他の人々の共有の権利を排斥するなにものかがそれに附加されたのである。」(同、「33」)
 「契約によって依然として共有地のままになっているものがあるが、そこで人が共有のものの一部をとり、それを自然の与えた状態から取去ると、そこに所有権が生まれる。」(同、「34」)
 「人が自分の自然の自由を棄て市民的社会の覊絆のもとにおかれるようになる唯一の道は、他の人と結んで協同体を作ることに同意することによってである。(中略)もし幾人かの人々が一つの協同体あるいは政府を作るのに同意したとすれば、これによって彼らは直ちに一体をなして一箇の政治体を結成するのであり、そこでは多数を占めた者が決議をきめ、他の者を拘束する権利をもつのである。」(同、「100」)
 「人々が国家として結合し、政府のもとに服する大きなまた主たる目的は、その所有の維持にある。このためには、自然状態にあっては、多くのことが欠けているのである。」
(同、「128」)
 「立法者が、人民の所有を奪いとり、破壊しようとする場合、あるいは恣意的な権力のもとに、彼らを奴隷におとし入れようとする場合には、立法者は、人民に対して戦争状態に身をおくことになり、人民は、かくて、これ以上服従する義務を免れ、神が人間を一切の実力暴力に対して身を守るため与えられたあの共通のかくれ場所にのがれてよいことになる。であるから、もし立法府が、社会のこの基本的原則を守るならば、そうして野心なり、恐怖なり、愚鈍なり、もしくは腐敗によって、人民の生命、自由および財産に対する絶対権力を、自分の手に握ろうとし、または誰かほかの者の手に与えようとするならば、この信任違反によって、彼らは、人民が、それと全く正反対の目的のために彼らの手中に与えた権力を没収され、それは人民の手に戻るようになる。人民は、その本来の自由を回復し、(自分たちの適当と思う)新しい立法府を設置することによって、彼らが社会を作った目的である自分自身の安全と保障の備えをするのである。」(同、「222」)
 こうした流れでは、各人は、各人の本来的に持つ自然権力、それは神から付与されたものなのだが、それをひとまず自分から切り離して社会、ひいては政府に委ね、自然権は憲法に規範に保障された基本的人権となるとはいえ、同時にそのことは、自然権力が変じて、警察、裁判所、刑務所、ひいては軍隊などの暴力装置ともなりうる。

それゆえ、それら政治というものが本来の自然権から逸脱していく傾向を持つ時には、各人はその政府の暴走を止め、あるいはよりよい政府に改める権利を持つことを主張している。


(続く)

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♦️244の1『自然と人間の歴史・世界篇』近代立憲思想の系譜(ルソー)

2018-11-23 09:16:36 | Weblog

244の1『自然と人間の歴史・世界篇』近代立憲思想の系譜(ルソー)

 おりしも、政治的な大衆運動に参加する人々の脳裏には、後に近代の立憲思想と呼ばれるものが芽生えつつあった。これを先導し、あるいは力づけたものとしては、知識階級からの働きかけがあったろう。

 啓蒙思想家ジャン・ジャック・ルソー(1712~78)は、こう説き起こしている。

 「私は、不平等の起源と進歩、政治的社会(国家)の設立と弊害とを、それらの物が、もっぱら理性の光によって、そして、統治権に対して神権の裁可を与える神聖なる教義とは無関係に、人間の自然から演繹されうるかぎりにおいて、説明するようにつとめてきた。

 その説明の帰結として、不平等は自然状態においてほとんど無であるから、不平等は、われわれの能力の発達と人間精神の進歩によって、その力をもつようになり、また増大してきたのであり、そして最後に所有権と法律との制定によって安定・正統なものとなる」(ジャン・ジャック・ルソー著・本田喜代治、平岡昇訳『人間不平等起源論』岩波文庫、1933、第二部)

 これにある「統治権に対して神権の裁可を与える神聖なる教義とは無関係に、人間の自然から演繹されうるかぎりにおいて、説明するようにつとめてきた」とは、社会をか神という絶対的存在抜きに見る先駆となった。

 この考えが、台頭しつつあった市民、中でもブルジョアジーに受け入れられていったことは、想像に難くない。続いて、国家の運営につき、こう述べている。
 「国家がよく組織されるほど、市民の心の中では、公共の仕事が私的な仕事よりも重んぜられる。私的な仕事ははるかに少なくなるとさえいえる。なぜなら、共通の幸福の総和が、各個人の幸福のより大きな部分を提供することになるので、個人が個別的な配慮に求めねばならぬものはより少なくなるからである。

 うまく運営されている都市国家では、各人は集会にかけつけるが、悪い政府の下では、集会にでかけるために一足でも動かすことを誰も好まない。なぜなら、そこで行われることに、誰も関心をもたないし、そこでは一般意志が支配しないことが、予見されるし、また最後に、家の仕事に忙殺(ぼうさつ)されるからである。」(ジャン・ジャック・ルソー著・桑原武夫、前川貞次郎訳『社会契約論』岩波文庫、1954、第3編第15章)

 

 (続く)

 

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