□258の3『自然と人間の歴史・日本篇』戊辰戦争、奥羽、会津、五稜郭での戦い

2018-11-09 19:05:13 | Weblog

258の3『自然と人間の歴史・日本篇』戊辰戦争、奥羽、会津、五稜郭での戦い

 戊辰戦争(ぼしんせんそう)の発端としては、新政府軍側の驕り高ぶりに対する旧幕府勢力(旧幕府残党や新政府4側に距離をおく諸藩)の反感もあったであろう。上野に立てこもった彰義隊(しょうぎたい)の抵抗があったものの、長州藩の軍略家大村益次郎の作戦にひっかかり、鎮圧される。すでに江戸城が開城されており、「旧幕府残党」とみなされたので、意気も大して上がらなかったであろう。奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)には、東北の盟主であった仙台藩、米沢藩を始めとする東北の26藩、越後の6藩が参加した。 

 この同盟だが、新政府にはむかうような性格を併せ持っていた。それというのも、時を少し戻すと新政府軍から、会津藩と庄内藩を討つよう仙台藩と米沢藩宛に東北の諸藩に対し命令が下っていた。ところが、その諸藩からしてみたら、なぜ自分たちが新政府軍の尖兵となって会津藩、庄内藩と戦わなければならないのか釈然としなかった。
 しかし、両藩を許すべきだという彼らの主張は、新政府軍の認めるところとならなかった。そこから、自分たちの利害か新政府軍と馴染まないということに動いていき、かかる同盟を築くにいたる。そうして彼らは会津、庄内の勢力にくみし戦うことになる。

 ところが,新政府軍が白河口、越後口から大挙して進攻すると、秋田藩をはじめ、脱退が相次ぐ。そして、新政府軍側に協力する藩が相次いだ。続いて、新政府軍が北陸を鎮定し、白河、棚倉、二本松を攻略したため、米沢、仙台の両藩も降伏するにいたり、同盟は瓦解した。
 これにいたり、新政府軍と旧幕府軍の関係はもはや多勢に無勢となった。その中で最後まで抗戦した会津藩も9月 22日、ついに降伏した。会津の戦いでは、多くの若い命が失われた。

 これらの戦いに威力を発揮したものに、アームストロング砲による砲撃があるが、これは佐賀藩から供給されたものという説があるものの、どうやらこれは佐賀藩の自家製ではなくて、出元はイギリスからの輸入品であったのではないか。なお、佐賀藩は、鳥羽・伏見の戦いをみて、新政府側についたことになっている。

 それに加えて、先の江戸開城に不満を持った榎本武揚(えのもとたけあき)らの軍人を中心とするグループ約3千人は、箱館、松前、江差などを占拠し、力を誇示する。北海道を掌握する。一説には、「蝦夷共和国」(えぞきょうわこく、仮称)の樹立を目指して乗り込んだというのだが、そこまでいえる証拠はみあたらない。

 箱館の五稜郭を占拠し、新政府軍を迎え撃とうとした。しかし、軍艦開陽丸が江差沖で沈没したりで、兵力が続かないままに弱体化し、翌1869年(明治2年)5月にここを明け渡した。総裁の榎本は、のちに許され、新政府の仲間にはいる。

(続く)

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