♦️201『自然と人間の歴史・世界篇』17世紀オランダの絵画(フェルメール)

2018-11-22 19:33:27 | Weblog

201『自然と人間の歴史・世界篇』17世紀オランダの絵画(フェルメール)


 ヨハネス・フェルメール(1632~1675)は、17世紀のオランダを代表する、独特の画風をものにしていた。その短い人生で精力的な画業があり、確認されているだけで35点の絵が現在につながる。
 1647年頃には、画家になろうと修行を始める。故郷オランダのデルフトを出て誰かに師事することもあったのかもしれない。1653年末、親方画家として聖ルカ組合に加入をはたす。この年の春に結婚していたことから、生活の安定をも求めたのだろう。初めは、宗教などをテーマに「物語画家」を目指したものの、25歳頃には、次に繋いでいくため、より需要の見込める「風俗画家」への転身を図る。
 やがて一閃のような心境の変化があったのかもしれない。画業が本格化するのは、1650年代後半からであった。「眠る女」(1656~57)や「窓辺で手紙を読む女」(1658~59)、それに「士官と笑う女」(同)や「牛乳を注ぐ女」(1658~1660頃)といった作品群では、光がじんわり射し込む室内での、庶民らの仕草とか、語らいとかが描かれる。特に、「牛乳を注ぐ女」では、壺に注がれる牛乳のしたたりに見入ってしまう。
 これらにあるのは、作家の目の前で繰り広げられる、庶民の日常の姿だ。迫真というのではないものの、窓から差し込む光をじっくり眺めているうち、なぜだか、自分もその中に吸い込まれてゆく。「ポワンティエ(点綴法)」という技法を用いて、白色系統の明るい色の小さい点で光を描いている分、自然な光の繊細さを醸し出しているという。
 1660年には、「デルフト眺望」を発表する。南側のスヒー港から眺めた姿であり、陽がまだ明け切らない、しばしの朝の風景をとらえたものだろうか。著名な画家となってからの彼は、ちょっとした外出はあったものの、終生この町を離れることはなかったようだ。
 1663年以後は、「手紙を書く女と召使」や「ギターを弾く女」などをものにしていく。優しいタッチにして、慎ましやか、当時の人びとの精神生活の一端が窺えるのである。調度品や登場人物の衣服など、それらへの光の当たり具合などからは、超人的かとも思われる、細部への拘りが窺える。
 1668年には「天文学者」を、翌1669年には「地理学者」を描いた。この二つは「寓意画」と呼ばれるものであって、当時の新鋭オランダの意気込みを感じさせる。1670~72年には、聖ルカ組合の理事に選ばれており、その画業で地方の名士に叙せられていたのかもしれない。
 まだ43歳の若さで死んだのには、貧窮によるものがあったのだろうか。21歳の時結婚した妻との間に15人の子供がいたという。その死の4か月後に、妻カタリーナが自己破産を申請し、デルフト市が認可している。一説には、夫の死後、妻は借金返済のため、彼の絵を売却してしばらく生活を切り回していた記録が残っている、というのだが。これだと、画家の晩年はすでに蓄えの乏しい生活であったのではないか、とも推察される。その頃、絵画に対する需要が急に冷え込んだともされるものの、それにいたる原因まではよくわからない。
 参考までに、小林賴子氏は「力をつけてきた周囲の列強諸国が祖国の脅威となるや、フェルメールの周囲にも波風が立ち始める」(小林賴子「フェルメール、生涯と作品、改訂版」東京美術、2007)とされる。

(続く)

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