♦️623「自然と人間の歴史、世界篇」ペルー

2018-11-10 21:18:10 | Weblog

623「自然と人間の歴史、世界篇」ペルー

 2018年8月、南米ペルーのビスカラ大統領は、ベネズエラからの難民の流入が「健康・公衆衛生に対する差し迫った危機」だとして、非常事態宣言を発令した。隣国のエクアドルも8日に同様の措置をとっている。

 ペルーは、この措置により今後60日間、北部の一部地域に対し、防災庁や保健省などの政府機関が直接介入できるという。ペルーはベネズエラと国境を接していないし、かなり離れている。それなのに、北部のエクアドルとの国境沿いの街に、太平洋沿いを南下してきた大量のベネズエラ難民が滞留しているとのこと。

 一説によると、現在42万人のベネズエラ人がペルーに滞在している。この1年間で4倍に増えたという。ベネズエラでの経済危機は、2018年11月現在も続く。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)と国際移住機関(IOM)によると、この経済危機で周辺国などに脱出したベネズエラ人は8月までの累計で230万人以上だという。

(続く)

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♦️622『自然と人間の歴史・世界篇』ボリビア(1960年代~)

2018-11-10 20:41:57 | Weblog

622『自然と人間の歴史・世界篇』ボリビア(1960年代~)

 1960年代から1970年代にかけては、政治が不安定であった。1969年4月にバリエント大統領が死去すると、左派軍事政権となったのものの1971年8月には右派のバンセル政権が成立する。この政権は、アメリカにすり寄るとともに、石油ブームに乗ることができた。しかし、1978、79年に続いて1980年には3回目の民政移管を目指す大統領選挙が実施される。そして、左派のシレス・ソアン候補がけ1つ1選投票で有利とみるや、右派勢力が軍事クーデターを起こして政権を奪取する。

 しかし、その後の経済は危機に陥るなど安定しなかったので、民衆の怒りが爆発する中、1982年には軍部が自ら退陣して民政移管がおこなわれた。

 2006年1月には、初の先住民出身のモラレスが大統領に就任する。2014年10月の大統領選挙では、現職で反米左派のモラレスが当選した。約6割の得票率で3選を果たした。任期は2015年1月からの5年間だ。任期を全うすれば計14年の長期政権になる。

 経済は、比較的良い。ブラジルやアルゼンチン向けの天然ガス輸出がけん引役となっている。低所得者層への支援制度の拡充などで国民の支持は厚い。

昨年3月に死去したベネズエラのチャベス前大統領の盟友で、外国企業の国有化も辞さない強硬な政権運営で知られる。

 

(続く)

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♦️618『自然と人間の歴史・世界篇』ウルグアイ(1960年代~)

2018-11-10 19:52:06 | Weblog

618『自然と人間の歴史・世界篇』ウルグアイ(1960年代~) 

 ウルグアイ東方共和国は大西洋に面し、面積、人口ともに南アメリカのスペイン系諸国の中では、最も小さい。

 1973年かの軍事クーデターから1985年3月まで文民・軍事独裁政権であった。議会は閉鎖され、事実上の軍政であったものの、軍人が大統領職にあったのは1981~85年3月に過ぎなかった。その後,コロラド党,国民党による中道左派政権が立ち、民主主義の回復や自由主義的経済政策に取り組む。

 1990年代に経済危機が起こり、国民の二大政党に対する信頼が低下する一方、左派勢力が伸びていく。2005年には史上初の左派政権たる第一次バスケス政権が成立する。この政府は経済、教育、社会福祉、貧困削減などに成果をあげる。2010年、かつて左派ゲリラであったホセ・ムヒカが政権を引き継ぐ。そして、前政権の方針を踏襲しつつ教育,治安,住居及びインフラ整備などに取り組む。

 ムヒカ政権が勇退した後の2015年には、第二次のバスケス政権が発足し、さらなる改革が進行中だ。ちなみに、2016年4月に日本に来たホセ・ムヒカ大統領の言によると、彼ら左連合政権の基本的な考え方が「草の根民主主義」であることが分る。

 「きわめて少数の者に、世界の富が集中している。生産性が高まったけれども、分配の仕方が悪いので、社会的な弱者に恩恵が及ばないのだ。

『政治に関心がない』『政治は重要じゃない』という人がいるが、政治を放棄することは少数者による支配を許すことにつながる。民主主義には限界がある。それでも社会をよくするために戦わなければならない。

 政治とは、すべての人の幸福を求める戦いである。」(2016年4月7日の東京外国語大学での講演より)

 

(続く)

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□174『岡山の今昔』 岡山人(19世紀、浦上玉堂)

2018-11-10 09:09:34 | Weblog

174『岡山(美作・備前・備中)の今昔』 岡山人(19世紀、浦上玉堂)

 この鴨方(生まれたのは、現在の岡山市街)の郷土に江戸後期に生まれた画家に、浦上玉堂(うらかみぎょくどう、1745~1820、本名は浦上兵右衛門)がいる。彼は早くに武家の家督を継いでから4代藩主・池田政香(いけだまさか、任は1760~1768)に気に入られるなどして精勤し、37歳で同藩の大目付に出世する。しかし、43歳の時、1787年(天明7年)には、その任を解かれ、左遷される。「大目付免ぜられ大取次御小姓支配役仰付け」られたというから、相当の降格であった。よほどの失敗をしたのかという推測も、おそらく当たらず、確たる理由はわかっていないようだ(例えば、久保三千雄「浦上玉堂伝」新潮社、1997)。
 そうなった理由については、はっきりしていない。けれども、藩内に「此兵右衛門は性質院陰逸を好み常に書画を翫(もてあそ)び琴を弾じ詩を賦し雅客を迎へ世俗のまじらひを謝し只好事にのみ耽りければ勤仕も任せずなり行き」(岡山藩士・斎藤一興「池田家履歴略記」)とあるので、当たらずとも遠からずというところか。48歳の時には、妻が亡くなる。

 50歳にして、二人の息子を連れて脱藩する。鴨方藩とその宗藩の岡山藩が脱藩に寛容であったことも幸いしたのかもしれない。それからは、九州から北陸くらいまでの各地を放浪する。ちなみに、その時のものか、同年にしたためた詩に「少衝イッショウ伊佐翔いし遠か下縁焔か円煙霞」云々とある。

 画業もさることながら、「玉堂」の号名の由来である七絃琴の名手であったことも、旅ゆく先々で名士としての応対、庇護に預かるのに役だったに違いない。

 やがて京都に落ち着いてからは、いよいよ画業に精を出す。玉堂の画風のすごさは、心境の自由さにあるのではなかろうか。例えば、40歳代前半の作品に「南村訪村図」(岡山県立博物館蔵)がある。岡山の豪商河本一阿のもとめに応じて描かれたらしい。小品だが、中国風の山中に人が二人見えていて、後の漂泊の哀感がもう滲み出ているのでないか。 そればかりでなく、観る者に、もこもこした息吹を与えてくれるのが、なんとも趣がある。後半生(こうはんせい)には、日本画壇とは一線を画しながらも、怒濤の峰を築いていく畢生(ひっせい)の画家となってゆく彼であったのだが、それに至る頃の故郷にあって何を考え、どのような日々を送っていたのだろうか。

(続く)

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□105『岡山の今昔』倉敷から鴨方、浅口へ(鴨方藩など)

2018-11-10 08:53:46 | Weblog

105『岡山の今昔』倉敷から鴨方、浅口へ(鴨方藩など)

 さて、船穂を通り過ぎた列車は、ほどなく新倉敷の駅に列車は滑り込むのだが、ここで、トンネルを含め南西へ下ってきた山陽新幹線と出会う訳だ。新倉敷を出たら、ほどなく浅口市(あさくちし)に入って、そこの金光(こんこう)に来たる。そこを過ぎて尚も西へ進むと、鴨方(かもがた)に至る。
 江戸時代、この地には新田藩(にったはん)と呼ばれる小さな藩があった。これとなるには、岡山藩の分藩としてではなく、1672年(寛12年)に本藩の内高2万5千石を与えられる。事の成り行きは、前岡山藩主(初代)池田光政は、隠居するにあたって、二男の池田政言(まさとき)宛てに同石分の新田を分知することで、別家(本藩本知の外高を持った上での分家待遇)を立てようと思い立つ。この願い出は、大方幕府(将軍は徳川家綱)の認めるところとなる。
 以来、岡山本家の支藩扱いにて、特に領内に陣屋は置かれることなく、日常の政務は本藩が面倒を看ていた形だ。そのまま推移して幕末に至ると、鴨方藩と称した。これら政務に関連して、本藩との間を結ぶ連絡道「鴨方往来」(かもがたおうらい)が設けられていた。

 この道は、当時の岡山城下、栄町の千阿弥橋を起点として、西に向かって当時の庭瀬(にわせ、備中国都宇郡賀夜郷)、撫川(なしかわ、上代のこのあたりは備中国都宇郡撫川郷)、浜ノ茶屋、長尾、占見、地頭下などを通って鴨方に通じていた。瀬戸内の海岸線に近いところから、「浜街道」(はまかいどう)とも呼ばれたらしい。

 さらに鴨方を出て少し西に行くと、そこは里庄である。明治初期の道でみると、里庄からは、川手・本町・西町から里庄町高岡を経て笠岡の小田県庁(現在の笠岡小学校のある場所)に達していた。一方、里庄町から南へ向けては、南隣には寄島町(よりしまちょう)がある。ちなみに、以前の浅口郡内のうち、2006年3月に金光、鴨方、寄島の三つの町が合併して浅口市となっている。

 今地図を広げ、この寄島町へ倉敷方面から行くには、主に二つのルートがあるようだ。一つは、里庄町から県道矢掛寄島線を南に暫く下って行くと、そこはもう寄島の海である。今ひとつは、現在の倉敷市の南端から海岸沿いを辿って行けば、程なくしてこの温暖勝風光明媚な町に至ることができるだろう。


 現在の浅口市寄島町南部の沖合には、小さな三つの島(寄島とも三郎島とも)があるとのことだし、その南側には、特に瀬戸内海では今やほとんど見ることができない自然が広がっていて、さらに南方沖合(水島灘、備後灘の寄り合うあたり)には、いわゆる「笠岡諸島」があって、人々の生活がここでも営営と続いているのである。

 このあたりでは、『古事記』に見える神功皇后(じんぐうこうごう、『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯 比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめ))とは、仲哀大王の皇后であるとされる人物で、応神大王を産んだとされる人物とされるものの、現在では、文中での脈絡のままに実在していた可能性は極めて薄いと考えられている。

 けれども、各地にこの種の伝説が数多く残されている中での一つとして、この地ならではの伝説が生み出されてきたことは、それはそれとして、郷土にとって未来に向かっての意義あることとして受け取って良いのではあるまいか。

 それに加えて、2018年8月、京都大学が、同大岡山天文台(岡山県浅口市鴨方町本庄)で整備していたアジア最大級の光学赤外線反射望遠鏡(愛称・せいめい望遠鏡)が完成した。11月から全国の大学などによる共同利用が始まっている。

 このせいめい望遠鏡は口径は、3メートル80センチと世界最大級だという。18枚もの鏡を組み合わせて1枚の主鏡とする国内初の分割鏡方式を採用。望遠鏡の動きや温度の変化などで起きる鏡同士のずれは、最新制御機構で絶えず50ナノメートル(2万分の1ミリ)以下に調整できて、使う人の便利性が大いに期待されるという。

(続く)

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