□216『岡山の今昔』岡山人(20世紀、片山潜)

2018-11-28 10:36:13 | Weblog

216『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山人(20世紀、片山潜)

  片山潜(かたやません、本名は薮木菅太郎1859~1933)は、作州の久米南条郡羽根木(現在の岡山県久米郡久米南町羽根木)の藪木家に生まれた。家は、当時のこの辺りではやや貧しかったのだろうか。13歳で、初めてできた誕生寺の成立小学校に入学する。ところが、わずか4か月足らずでやめてしまう。

 以後は、家業を手伝う傍ら、副業として炭焼きに精を出す。それでできた炭を背負って約6キロメートル離れた大戸下まで運搬し、売っていたと、後の「自伝」に記している。その大戸下には、山田方谷のつくった知本学舎があった。教塲から洩れてくる生徒の声を聞いて、学問をしたいとの気持ちを抱く。

 やがて1877年(明治10年)には片山家の養子となり、いよいよ学問をしたいとの気持ちが高じていく。1880年(明治13年)、岡山師範学校(現在の岡山大学)に1年通学するのだが、これにも満足できない。そして22歳の青年は、上京する。それからは、実に多様な事柄について、首を突っ込んで、学んでいく。

 1884年(明治17年)には、さらに大志を抱いて、アメリカに行く。いったん思い立ったら、引かないのが彼の特色であった。かの地の大学では、大学予科で勉強しなければならず、苦労したそうだ。コックをして働いて、学費を稼ぐ。日曜日は、教会のミサに参加するといった生活。洗礼を受けて、キリスト教徒になる。

 1889年には、アイオワ大学、現在のグリンネル大学に入学を果たす。大学院に進み、修士論文は「ドイツ統一史」であった。1894年には、友人とイギリスに行き、社会勉強の中で、神学士の称号を得た。また、アメリカに戻って、エール大学の1年の在学を終え、日本の横浜港に着いたのが、1895年1月のことであった。

 1911年12月には、東京市電従業員のストライキの応援にうごき、翌12年1月に検挙され、禁固5か月の刑の判決を受ける。出獄後の家族5人での生活は厳しいものであった、そこで一家は、1914年に日本より自由と考えられるアメリカに渡る、これが4度目の渡米であった。そのアメリカでも社会主義者への風当たりが増してくると、1921年7月、今度はソ連のモスクワに新天地を求めた。1922年7月15日の日本共産党の結成には、モスクワの地から賛成の意を送ったらしい。

 その後もモスクワにとどまり、ソ連側の論客に加わる。1940年には、アムステルダムで開催の第二インターナショナルの大会に出席し、日露戦争(1904~1905)への反対を世界に向けて訴えた。その後、ソ連の地で平和なうちに生涯を終えたとはいえ、その心は日本の地を振り返り、また振り返りの晩年であったのではないか。当代の中でも最も大いなる旅路を踏破した日本人として有名だ。

(続く)

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