□145『岡山の今昔』瀬戸大橋線沿線1(児島~下津井)

2018-11-18 21:15:31 | Weblog

145『岡山(美作・備前・備中)の今昔』瀬戸大橋線沿線1(児島~下津井)

   児島駅を出発して市街をしばらく走ると、列車は鷲羽山(わしゅうざん、倉敷市)トンネルに入る。
 鷲羽山は、瀬戸内でも有数の景勝地とされる。児島半島の南端付近、備讃瀬戸に乗り出すような地形の先端にある。標高133メートルの山が、海面から屹立している。山姿が類稀である。両翼を広げ大空を羽ばたいている鷲に見えるとことから、江戸時代中頃に誰彼となくこの名が付けられた。

 ごつごつした岩石肌の露わな山頂の「錘秀峰」からは、180度ある程の広角度で見晴らしがよい。ここから見下ろす風景は、文豪・徳富蘇峰により「内海の秀麗ここに集まる」と絶賛された。

 それというのも、かかる山の全体が、1930年(昭和5年)に「下津井鷲羽山」として国指定名勝に指定、さらに1934年(昭和9年)には、この地区を含む瀬戸内海一帯が日本最初の国立公園「瀬戸内海国立公園」に指定された。
 この辺り、霞がかっていない日には、瀬戸内海に浮かぶ釜島、櫃石島、六口島、松島、与島、本島、広島、豊島などの島々が眼下に広がって見えた筈だ。そして、それらの向こうには、四国の山々まで見渡たせたであろうか、あれは小学校の遠足時であったろうか、その時の記憶をたぐり寄せてみるのだが。

 もちろん、瀬戸大橋(児島・坂出ルート、瀬戸中央自動車道・JR本四備讃線⦆はなかった。それでもバスで鷲羽山に上る時、下るとき、あれは水島の工業地帯の海沿いの尖端部あたりであったのかもしれない。その時のきらきらした白いタンクや、赤白まだらな煙突群などをちりばめた光景が、あれから半世紀余が過ぎた今でも、ほとんど色褪せることなく脳裏に焼き付いて離れていない。
 このあたりの海は、古代、近世から明治の中期位までは、瀬戸内地域の天然の良港として栄えたことで知られる。向かって左、東側には田之浦(たのうら、倉敷市)が、向かって右の西側には下津井(しもつい、倉敷市)の港町である。

 後者の下津井は、東隣の田之浦と結んで、備前を通る西海航路の起点となっていた。江戸中期以降は北前船が盛んに寄港して交易していた。萩野家などの多数の問屋の蔵が建ち並んでいた。当時の遊山や金比羅参りへの中継地にもなっていて、当時四国へ向かう旅人の多くはここから讃岐へ渡っていたらしい。

 かのドイツ人医師のケンペルも、1691年(元禄4年)に長崎から瀬戸内海を経由して畿内そして江戸へ向かうおり、海上から下津井港を描いた、その絵を『江戸参加府記』に掲載している。

顧みれば、1640年(寛永17年)には、牛窓にもあった幕府の異国船遠見番所が下津井に出来た。1660年(万治3年)になると、さらに在番所が設けられたことで、海上警備や出入りの船の監視・取締まりが強化されていった。

 さらに、参勤交代にここを通る西国大名や将軍の代代わりにやってくる朝鮮使節団の接待の場所としても、あれやこれやで便宜であったらしい。さらには、漁港としてもなかなか羽振りが良かったようで、『下津井節』なる漁歌に、こうある。
 「1.下津井港はヨー、入りよて出よてヨー、まとも巻きてよ、よぎりよてヨー、トコハーイ トノエー、ナノエーソーレソレ。
 2.下津井港に、錨を入れりゃ、街の行灯(あんど)の灯(ひ)が招くよ(以下、略)」
 念のため、これに出てくる「まとも巻きてよ」とは、追い風をまともに受けて船が走ること、また「よぎりよてヨー」とは、向かい風に向かって船がジグザグに進んでいく様をいう。

 さて、本線に戻ろう。この鷲羽山トンネルを抜けると、いよいよ瀬戸大橋の始まりとなる。橋の構成は、6つの橋と4つの高架橋で本州と四国とを結ぶ。自動車道を通っての場合、橋を通って観光客が立ち寄れるのは、パーキングエリア(休憩所など)と観光施設が設置されている与島(よしま)とのことだ。

(続く)

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□144『岡山の今昔』瀬戸大橋線沿線1(岡山~児島)

2018-11-18 21:10:59 | Weblog

144『岡山(美作・備前・備中)の今昔』瀬戸大橋線沿線1(岡山~児島)

 瀬戸大橋線は、岡山を出発して南に下り、1988年(昭和63年)4月10日に開通した瀬戸大橋を通って、瀬戸内海の5つの島(櫃石島(ひついじま)、岩黒島、羽佐島、与島及び三ツ子島で、すべてが香川県に属する)を跨ぐようにして、四国の終着駅・高松までを結ぶ。道路・鉄道併用橋としては世界最長を誇る。

 この道路橋は、瀬戸中央自動車道と呼ばれる。鉄道の停車駅は16駅があって、各駅停車もある。この線の名称の由来は、JR四国とJR西日本の共通愛称で、正式には岡山県側から宇野線、本四備讃線、予讃線の3線を辿4人って行く。児島駅以北はJR西日本の管轄下にある。
 さて、旅を急ぐ人もおられるかもしれない。そんな時は、岡山駅~高松駅を結ぶ快速「マリンライナー」に乗ると便利だ。岡山を出た列車は高架を抜け、山陽本線を乗り越え、さらに新幹線をくぐって進む。JR線大元(おおもと)、宇野線備前西市(びぜんにしいち)、宇野線妹尾(せのお)、宇野線備中箕島(びっちゅうみしま)、宇野線早島(はやしま)、宇野線久々原( くぐはら)、宇野線茶屋町(ちゃやまち)と行く。
 岡山駅~茶屋町駅は宇野線として走り、植松駅の少し手前で宇野線と分かれる。それから、宇野線植松(うえまつ)、木見(きみ)、上の町(かみのちょう)、それから児島(こじま)と行く。途中の植松・木見・上の町の各駅は、いずれも無人の高架駅。

(続く)

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♦️411の2『自然と人間の歴史・世界篇』マンハッタン計画

2018-11-18 10:19:28 | Weblog

411の2『自然と人間の歴史・世界篇』マンハッタン計画

 そして迎えた1942年6月、アメリカのフランクリン・ルーズヴェルト大統領は、原爆製造計画であるマンハッタン計画(1942~46)に着手した。核兵器開発が最終的にマンハッタン計画として発足したのは1942年8月13日の事であった。マンハッタン計画にはカナダも関わっていた。このマンハッタン計画に深くかかわったアメリカの財閥としては、ロスチャイルド家が有名だ。

ウランの調達は、アフリカのベルギー領コンゴ、カナダのグレートベア鉱山、アメリカのコロラド州カルノー鉱山で行われたようである。その3か所ともロスチャイルドの支配下にある鉱山でした。おまけに、マンハッタン計画の監督を務めたのが、ロスチャイルド一族でハンブローズ銀行のチャールズ・ジョスリン・ハンブローであったと言われ、一財閥としては相当の入れ込みであったことになるだろう。
 ともあれ、アメリカ陸軍直轄のマンハッタン工兵地区を中心に開発されることとなった。開発は、オッペンハイマーらの手によって進められた。ヨーロッパから亡命してきたフェルミ(ユダヤ系イタリア人)、ボーア(デンマーク人)、シラード(ハンガリー人)などの物理学者が協力した。

この政府によって組織された計画に動員された人々は総勢約12万人、その中でもダウケミカル社、デュポン社、ロッキード社、ダグラス社などの軍需産業やシカゴ大学、カリフォルニア大学、ロスアラモス研究所など多くの大学・研究機関が参加・協力したのだという。
 原爆製造には、1942年から46年の間に約18億ドルが投じられた。爆弾には、ウランとプルトニウムの2種類の製造が目指された。プルトニウム原料については、1941年の1月、グレン・シーボルグとカリフォルニア大学の物理学者で構成される彼のチームが、バークレーのサイクロトンで1グラムの100万分の1より小さいネプツニウムの中に新しい原子の痕跡を確認したところであった。
 開発は、秘密裏に進められた。協力企業には、箝口令(かんこうれい)が敷かれた(例えば、デュポンのホームページに同社にとっての経緯が掲載されている)。1945年7月に爆弾製造が完成する。その爆弾には、2種類があり、その一つはウラニウムを爆薬による誘導で二方向から合体させることで爆発させる「ガン式」(山田克哉「核兵器のしくみ」講談社新書、2004)である。今ひとつは、プルトニウムを複雑な仕掛けで爆発させるもので、「インプロージョン式プルトニウム爆弾」(同)と呼ばれる。
 ところが、4月にルーズベルト大統領が脳溢血で急死したことで、副大統領職から突然トップに就任したのが、ハリー・トルーマンであった。そして7月の連合国首脳会議であるポツダム会談のときに、トルーマン大統領はこの原子爆弾の完成、その実用化の報告を受けたのではないか、と伝わる。

 一般には、彼は、その就任からわずか3週間後に広島・長崎に投下することを決定するにいたったとされるのだが、確かなところはわからない。もしくは、そのトルーマンが市街地への原爆投下を承認した事実が見つかっていないのを根拠に、軍の「暴走」で市街地への投下が行われたという説(例えば、2016年8月6日放送のNHK「NHKスペシャル、決断なき原爆投下」)も提出されている。

(続く)

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♦️411の1『自然と人間の歴史・世界篇』「原子爆弾」と「原子力発電」の可能性

2018-11-18 10:18:02 | Weblog

411の1『自然と人間の歴史・世界篇』「原子爆弾」と「原子力発電」の可能性

 1938年、物理学者のハーンは、共同研究者のユダヤ人のマイトナーは中性子をウランに衝突させると、二つのバリウム原子ができるのを見つけた。ハーンはドイツにいて、マイトナーは亡命先のストックホルムにいた。二人は、この実験結果の意味するところを、「ウラン原子核がほぼ半分に割れたためである」と考えた。

 1939年、物理学者のイレーヌとジョリオは、ウランに中性子を当てたところ、その核分裂反応の過程で中性子が複数発生することを測定した。これにより、核分裂反応が連続して起こる可能性を発見した。

 1941年春、カリフォルニア大学バークレイ校で、グレン・シーボーグらが核物質の実験を繰り返していた。彼らは、原子炉中でウラン238が中性子を吸収しベータ崩壊して生産されるものだが、彼らは中性子照射したウラン中に生成するこのプルトニウムの分離に成功し、さらにそれがウランと同様に核分裂を起こすことを確認した。

 また1942年の同じアメリカにおいて、物理学者のフェルミらは、黒煙のブロックを積み上げた中にウランを入れ、核分裂の連鎖反応を起こすことに成功した。その際、出力を制御することが目指され、「中性子吸収材のカドミウムから作られた制御棒を用いて、出力を制御」(京極一樹「こんなにわかってきた素粒子の世界」技術評論社、2008)したという。

このプルトニウムは質量数239で、放射性(アルファ線)があり、半減期2万4110年であり、これを規定量以上に用いることにより原子爆弾・水素爆弾・原子炉の燃料となるものだ。

ここに半減期というのは、放射性物質としての放射性元素や放射性同位元素が崩壊して別の元素に変化するとき、元の元素の半分の量が崩壊するのにかかる時間をいう。もっとも、「崩壊は、少しずつゆっくりと発生します。半減期の2倍の期間が過ぎても崩壊がすべて終わるのではなく、半分の半分が完了するので、合計して3/4の崩壊が完了します」(京極、前掲書)ということだ。
 ところで、中性子が他のウラン235の原子核に当たるためには一定の体積中にある程度以上のウラン235が存在しなければならない。当たり続ける=連鎖反応が起こる量を臨界量という。原子力発電所では臨界量を越えていて、中性子の量をコントロールするのを通じて連鎖反応を抑えることで安全を保っている。

しかし、2011年3月の福島原発事故のような不測の事態が起こったときにはその連鎖反応を抑えられなくなる。原爆とかは、はじめから爆発させて、核分裂の連鎖反応を抑えることを意図していないわけだから、爆発のエネルギー(E=M×C×C)が外部に暴力的な被害をもたらすことになる。
 ここで、爆発のエネルギー式(E=M×C×C)は、アインシュタインによって発見された。この式が意味するのは、核爆発によって失われるエネルギー分だけ質量のほんの少しが減少するということです。このあたりのわかりやすい、しかも系統だった説明は、矢野健太郎「数学への招待」(新潮文庫)の中でも試みられている。

(続く)

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