○258の2『自然と人間の歴史・日本篇』鳥羽伏見の戦いと江戸開城(戊辰戦争前編、1868)

2018-11-23 19:10:34 | Weblog

258の2『自然と人間の歴史・日本篇』鳥羽伏見の戦いと江戸開城(戊辰戦争前編、1868)

 1867(慶応3)年10月14日、江戸幕府第15代征夷大将軍の徳川慶喜が朝廷に政権を返上した。その本質は、資産と武力を保持しつつ一旦退くことで面目を回復し、やがて新政府を牛耳ろうとねらったものといえよう。同年12月9日には、王政復古の大号令が発せられた。

 その後、徳川慶喜は京都から大坂へと退く。その一方で、幕府の軍勢は大坂から京へと進軍した。そのため、京の伏見では、幕府軍と薩摩藩を中核とする新政府軍の勢力が拮抗することになり、一触即発の緊張が高まっていた。

 明けて1868(慶応4)年1月3日、伏見上鳥羽の小枝橋で戦端が開かれた。現在の城南宮(京都市伏見区中島鳥羽離宮町)の西方、鴨川にかかる小枝橋のたもとにて、両軍の戦いの幕が切っておろされた。新政府軍の5千に対し、幕府軍は15千であり、かなりの数の開きがあったものの、統率力は前者の方が上回っていた。

 あくる1月4日、幕府軍の戦線は、伏見桃山からは南西側の淀(京都市伏見区淀、現在の京阪本線淀駅の西南方向にある)付近まで後退した。当初は優勢だった幕府軍は劣勢に傾いていった。1月5日には、そもそも幕府軍本営のあった淀城からして、城主(譜代の淀藩・稲葉氏)不在のところ、留守役の家臣たちはこのまま幕府軍に付いてよいものか、新政府軍に付くか、日和見の状態に陥っていた。1月5日、鳥羽と伏見で敗北した旧幕府軍は淀城に入ろうとしたものの、淀藩から入城を拒否されてしまう。それというのも、1月4日には尾張徳川家の徳川慶勝から「中立を守るように」と、また三条実美からの出頭命令も受けていたので、国家老たちは、日和見(ひよりみ)を決め込んだのだ。

   そんな中で1月6日、新政府軍側から皇軍であることを示す「錦の御旗」がひるがえった。そのことにより、日和見だった各藩は雪崩を打つように新政府軍側に恭順していく。かかる情勢が支配的となって幕府軍は敗走、徳川慶喜は城内に立てこもって戦うと諸藩の兵たちを鼓舞したのもつかの間、夜陰に紛れてか自軍を置き去りにし、大阪湾に控あった幕府の戦艦・開陽丸に乗船し、江戸へと逃れた。

 その後のことだが、江戸に帰った元将軍慶喜はどのようにふるまったのであろうか。一説には、こうある。

 「江戸城に帰還した慶喜(よしのぶ)は、抗戦と降伏の間を揺れ動いていた。フランス公使ロッシュは、慶喜に再起を勧告した。また勘定奉行小栗忠順(おぐりただまさ)は、卓抜な作戦計画を立てて慶喜に献策した。すなわち、東海道を海岸沿いに東進中の天皇政府軍を優秀な海軍力で横撃して撹乱し、さらには敵軍を関東平野に誘い入れ、箱根峠を封鎖して袋の鼠にし、包囲殲滅せよとの戦略だった。小栗策が実行されたら、形勢は再逆転したかもしれない。したがって鳥羽・伏見戦後といえども、ただ徳川家が最終的に天下を失うかどうかは未確定だったのである。しかし、いずれも慶喜の容れるところとはならなかった。」(毛利敏彦「幕末維新と佐賀藩―日本西洋化の原点」中公新書、2008)

 ともあれ、慶喜からはもはや確固たる戦意はなく、時の流れにむ身をまかせていくしかなかったのではないか。そのまま謹慎に入り、勝海舟が後の始末を頼まれた形となる。その勝は、征討軍の参謀・西郷吉之助と談判し、無抵抗での江戸開城と引き換えに慶喜の助命を求める。軍に帰った西郷の進言により、幕府側の申し出を受け入れることとし、開城が滞りなく行われた。これに不服の彰義隊が上野に立てこもり新政府軍に抵抗するも、銃火に勝る新政府軍の前に敗退し、江戸幕府の実質的支配がここに終わる。 

 

 さても、作家の大岡昇平(おおおかしょうへい)は、そのエッセイ「母成峠(ぼなりとおげ)の思い出」(「太陽」1977年6月号所収)の中で、この戦争というものへの慨嘆であろうか、それとも挽歌であろうか、こう述べている。

 「私の戊辰戦争への興味は、結局のところ敗れた者への同情、判官びいきから出ている。一方、慶応争間からの薩長の討幕方針には、胸糞が悪くなるような、強権主義、謀略主義がある。それに対する、慶喜のずるかしこい身の処し方も不愉快である。その後の東北諸藩の討伐は、最初からきまっていたといえる。(中略)
 多くの形だけの抵抗、裏切りがでる。あらゆる人間的弱さが露呈する。
 戊辰戦争全体はなんともいえず悲しい。その一語に尽きると思う。」

 

 

(続く)

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