185『自然と人間の歴史・日本篇』島原の乱(1637~1638)
島原の乱とは、農民らの一揆というよりは、その規模などにおいて、当時の日本における一個の「内乱」というべきだろう。その勃発の時は1637年12月11日(寛永14年10月24日)、島原の地有馬村の住民がまず蜂起した。10日遅れて、天草でも一揆が始まった。主な背景には、この地が作物の栽培には適さない上に、年来の不作、領主の悪政などがかさなったものとされる。
この機に乗じたのが、天草大矢野に住んでいた、関が原の戦いで西軍に属し敗れた小西家の旧臣益田甚兵衛なるものが中心となり、浪人などを糾合していく。その子、四郎時貞(しろうときさだ)、その霊名はジェロニモと称する少年を頭に推戴し、敢然と藩政、ひいてはキリシタン弾圧を押し進める幕府に敵対の旗を立てた。そしてこの地の農民、漁民などに結束して戦うように宣伝し、武装を構える。
すなわち、出発の時から、早々農漁民一揆を宗教一揆の形に組み立てた。これで、「生き残れるかなあ」という暗澹たる気分に晒されていた自分たちの未来を一転、支配者に戦いを挑むことで自らの運命を切り開こうとしたものだ、といえよう。
現地での苦戦に、幕府軍が組織され、12月5日に江戸を出発した。12月26日に着いて、九州の諸侯とともに戦いを進める。総勢12万4千人というから、おどろきだ。海からは、オランダからの大砲などを借りて攻めるが、効果は上がらず。外国に援助を頼るのはよくないという怨嗟も聞かれるため、途中で取りやめとなる。
それからの幕府軍は、敵の兵糧の尽きるのを待つ作戦に切り替え、これが効果をあらわしていく。そして迎えた1638年3月11、12日の総攻撃で、さしもの堅固な守りも突破され、勝敗がつく。老幼男女を問わず、生き残った者は皆殺しにされたという。この戦いで、当時のカネで39万8千両が費やされたという。
幕府は、これを機に、対キリシタンの政策を厳しく進めていくことになる、また、諸藩はそれに倣って以後、苛烈なキリシタン対策を強いられていく。
(続く)
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