♦️502『自然と人間の歴史・世界篇』西サハラ

2018-11-03 22:07:26 | Weblog

502『自然と人間の歴史・世界篇』西サハラ

 西サヘルは、主に、モロッコの南西、モーリタリアの北方にある、大西洋に面し細長い地域である。周辺階位式は屈指の漁場であり、また内陸部で鉱物資源にも恵まれる。

この辺りは1884年にスペインの植民地になった。それまで遊牧民らが暮らしていたところに、当時の欧州列強によるアフリカ分割が行われた訳だ。

 そのまま時代は第二次世界大戦を潜り抜けていく。情勢が動いたのは1975年、スペインが撤退して、モロッコ領(1956年にフランスから独立)とモーリタリア領とに分割することが決定となる。

ところが、これに反発する勢力があった。翌1976年になると、政治状況がガラッと変わり、ポリサリオ戦線が「サハラ・アラブ民主共和国」の独立を宣言する。東隣のアルジェリアの支援を受けて、この二つの国に対抗していく。

続いての1979年、モーリタリアが西サハラ地域の領有を放棄すると言明する。ところが、そこにモロッコが進駐し、同戦線と戦闘が激化していく。そのモロッコの作戦の一つに、西サハラ地域の主要部分を制圧しつつ、同戦線が実効支配する内陸の砂漠地地帯の間に防御線「砂の壁」を築く。その完成後は、住民の往来を遮断した形だ。同共和国は亡命政府となっていく。

 それから10年余りが経過しての1991年、国連の仲介でモロッコとポリサリオ戦線が停戦にいたる。この地域の帰属を問う住民投票を予定だった筈。だが、投票者の資格などをめぐって双方の折り合いがつかず、住民投票は実現していない。

 そして世紀が代わっての2007年、モロッコが自治権の付与案を国連に提出する。これは、モロッコの主権下で西サハラ地域に自治権を付与しようとするもので、亡命政府を国としては認めない立場だ。国連安保理は両者に交渉に入るよう求める決議を採択したものの、2017年9月現在まで進展していないという。

 かかる時期までに亡命政府の承認をしているのは、アルジェリアや南アフリカなど数十か国で、欧米諸国や日本などは承認していない。住民の数ははっきりしていない。2017年9月時点での亡命政府によると、「地域内に推定で約10万人。アルジェリア西部の難民キャンプに17万~20万人ほど暮らすとしている」(朝日新聞、2017年9月14日付け)と紹介されているところだ。

 


(続く)

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♦️684『自然と人間の歴史・世界篇』チェルノプイリ原発事故(ソ連、1986)

2018-11-03 10:02:44 | Weblog

684『自然と人間の歴史・世界篇』チェルノプイリ原発事故(ソ連、1986)

 ソ連の原発で大規模な事故が起こったのは、1986年4月26日午前1時23分のことであった。チェルノブイリ原発の4号機が爆発したという。建屋の火災も起きて、大量の放射性物質が広く飛散してしまった。27日には、現場からほど近い北欧でこの爆発のものと思われる放射性物質が検出されたというニュースが流れた。

ところが、ソ連がこれを発表したのは、28日午後9時の夜になってからだった。「原子炉の一つが損傷した」というものだった。続いて30日、ソ連は、爆発で「放射性物質が漏洩し、2人が死亡」と報道した。

 それからまた相当な時間が経過しての5月14日、ソ連共産党のゴルバチョフ書記長が、事故後初めての演説で「最悪の事態は過ぎた」と述べた。

 では、どのような原発事故であったか。それは、通常の運転中での事故ではなく、実験中のことであった。給水量を減らし制御棒を複数取り出した数秒後に、出力が100倍にも達したのだという。こうなると、制御は難しい。溶けたウラン原料が冷却水に触れて水蒸気爆発を起こした。

 そればかりでなく、燃料を包む合金の管が過熱されて大量の蒸気が発生、そのことで化学反応を起こし、できた水素がこれまた爆発したのだという。これらのため、原子炉の炉心は、溶融した。爆発により、たくさんの放射性物質が周囲にばらまかれたのはいうまでもない。

 こうして、構造上の欠陥や作業員の人為ミスなどが重なってこの事故が起きたと考えられている。

 この原発事故だが、ソ連は秘密主義をもって事故の詳細を明らかにするのを拒んだという。原発を推進していた各国の政府、首脳、それに関連する国際機関も大同小異にて、あれはソ連でのことであって云々、ということで、自分たちの方に疑問や非難の矛先が向いてくるのを極力避けようとしたのであった。

 この事故にあっては、特に汚染がひどい30キロメートル圏などが居住禁止となった。消火に当たった消防士や作業員、甲状腺がんを発症した住民など約60人が死亡したという。

その後のことでは、1994年10月、ウクライナ政府が同原発の段階的な閉鎖を表明する。今世紀に入っての2000年12月には、運転を手死していた1、2号機に続き、3号機も運転が停止された。2005年には、国連が「事故すでに約60人が死亡し、被ばくによる将来的な死者は訳4000人」とする推定を発表する。

さらに2016年の事故30年にして、読売新聞がこの場所を取材して、同原発の今をこう伝えている。

 「チェルノブイリ原発4号機を覆うためのシェルターは、巨大なかまぼこ形で、高さ110メートル、幅260メートル、奥行き150メートル。完成予定は何度も延期され、今は来年の夏頃を目指している。

 作業に時間がかかる大きな原因の一つは、厳しい寒さだ。冬場は最高気温が0度を下回る日が多い。この日は氷点下10度で雪が降る中、シェルター側壁を取り付けていたが、

10分も外にいると防寒着の中の手足に感覚がなくなってくる。

シェルターの総工費は15憶ユーロ(約2000憶円)で、日本も一部を拠出している。放射性物質の飛散を防ぐだけでなく、内側にクレーンを取り付け、建屋の解体などに使う計画だ。

しかし、廃炉の具体的な工程はない。同原発国際情報部によると、コンクリートなどと共に固まって残る核燃料の総量は1300トン。同原発安全部門のアレクサンドル・ノビコフ副技師長(51)は「固まった燃料は硬く、少量の分析試料を取り出すのも難しい」と話す。」(読売新聞、2016年1月31日付け)

 

(続く)

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♦️629『自然と人間の歴史・世界篇』ホンジュラス(1960年代~)

2018-11-03 09:04:24 | Weblog

629『自然と人間の歴史・世界篇』ホンジュラス(1960年代~)

 2018年11月の今、ホンジュラスから出発したアメリカへの移民を目指す人々の集団がメキシコ国境に近いところまで来ているという。その人々のつくる行列は、あくまで長い。メキシコにとっては、さしあたり、国内を通過するだけということなのかもしれない。しかし、彼らの最終目的地であるアメリカは受け入れないと表明しており、どこかで立ち往生するのは見えている、そうなると難民化するのではないか、ということらしい。

 これらの人々の多くは、チュニジアでの生活の苦しさや治安の悪さなどから逃れたいと、確かな展望のないままアメリカに移住を目指しているとのことであり、この問題、これからの紆余曲折が予想される。

 このホンジュラスだが、1821年に、それまでスペイン領であったが、グアテマラ総監領として独立を達成した。ついでメキシコ帝国の一州に組み入れられた。それも続かず、1923年には中央アメリカ連邦の一国となる。けれども、国内では連邦派と中央集権派とが争って1938年に連邦制が崩壊し、双方対立のまま独立の共和国になる。

 とはいえ、当時のホンジュラスの人々による真の意味での統治が敷かれたわけではない。その後もアメリカとイギリスとが、この国の利権をめぐって衝突を繰り返し、1959年にイギリスがチュニジアに占領地を返却することで退き、かわりにアメリカが同国に最大の影響力を行使できる立場となる。

この土地、アメリカにとっては「裏庭」の一部であって、当地の温暖な気候を利用したバナナ栽培を行い、その輸送用の道路や鉄道を建設し、ほぼ実質支配に支配する。1902年には、ユナイテッド・フルーツ社が、1905年にはスタンダード・フルーツ社がバナナ栽培に加わり、チュニジア経済は、「骨の髄まで」アメリカに握られていく。

1957年にモラレスが大統領に就任し、鉄道の部分的国有化、労働法制定、土地改革の準備に乗り出す。キューバとは、1961年にはキューバと国交を断っている。ところが、同政権は1961年に軍部によるクーデターで倒れ、政権を握った軍部のアレリャノが1965年に大統領職をもぎ取る。その後も国内の政治模様は色々変わっても、ほぼ親米政権であることは大して動いていない。

 

(続く)

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