○○306の2『自然と人間の歴史・日本篇』明治から大正へ(文学、芥川龍之介)

2018-11-25 19:32:41 | Weblog

306の2『自然と人間の歴史・日本篇』明治から大正へ(文学、芥川龍之介)

 芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ、1892~1927)は、若くして達者な物語構成力を身につけていた。作家活動は東京大学の学生時代から既に始まっており、よくある文壇デュー前の下積み時代などはないと言って良い。最終作の「河童ーある阿呆の一生」までの作品はいずれも短編に属する。中学校の国語の教科書にも、よく出て来るものが、多い。    

 

その特徴は着眼点にあり、ぐいぐいと引っ張られる。双方から放たれた矢が寸分の狂い無くぶつかり合う、あるいは、地獄から脱出するための一本綱に数珠つなぎに人がぶら下がる様などは、現実にはあり得ないことだ。

それはそうなのだが、読者はそのことを心に刻むべくして刻む。言うなれば、彼の小説には、研ぎ澄まされたストーリーがあって、それが暫し読む者の脳裏を魅了するというか、要するに独占してしまう。そんな彼にして、「侏儒の言葉」という名の評論があり、文学とは少し離れたテーマについての、多くは断片的な文章の集まりとなっている。その「序」には、こうある。
 「「侏儒の言葉」は必(かならず)しもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々窺(うかが)わせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓草(つるくさ)、しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない。」
 これらからすると、本人としては世間体を気にせず、自由な気持ちでペンを走らせてみたのかもしれない。気軽に論じてみたからご覧あれ、ということなのだろうか。それにしては、なかなかに本質を突くような社会批評が幾つもあり、その中から幾つか紹介しておこう。
 「日本人。我我日本人の二千年来君に忠に親に孝だったと思うのは猿田彦命(さるたひこのみこと)もコスメ・ティックをつけていたと思うのと同じことである。もうそろそろありのままの歴史的事実に徹して見ようではないか?」
 「我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我我は殆ど損害の外に、何の恩恵にも浴していない。」
 「軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであらう?」
 「小児。軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振りを喜んだり、所謂光栄を好んだりするのは今更此処に云う必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺戮(さつりく)を何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。殊に小児と似ているのは喇叭(らっぱ)や軍歌に皷舞されれば、何の為に戦うかも問わず、欣然(きんぜん)と敵に当ることである。
 この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅(ひおどし)の鎧(よろい)や鍬形(くわがた)の兜(かぶと)は成人の趣味にかなった者ではない。勲章もーわたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」
 「倭寇。倭寇(わこう)は我我日本人も優に列強に伍(ご)するに足る能力のあることを示したものである。我我は盗賊、殺戮(さつりく)、姦淫(かんいん)等においても、決して「黄金の島」を探しに来た西班牙人(スペインじん)、葡萄牙人(ポルトガルじん)、和蘭人(オランダじん)、英吉利人(イギリスじん)等に劣らなかった。」
 これらのうち、一際風変わりな書きぶりで、日本人全体への提言らしきものが見えている気がするのが、日本の古代史をもじった、やや風変わりな「日本人」考なのである。ここに「猿田彦命」(サルタヒコノミコト)とあるのは、伝説上の女神アマテラスの孫を天孫降臨の地に案内する役を務めた忠臣にして、これもアマテラス同様に実在の人物ではなく、「訓紀」(「日本書記」及び「古事記」)が想像でつくり出した人物神に他ならない。
『古事記』にはその風貌を記述した場面はなく、『日本書紀』神代下にそれが次の如く特異なものであったと記されている。
 「一神有り。天の八達之衢に居り。其の鼻の長さ七咫。背の長さ七尺余。七尋と言うべし。且つ、口・尻明耀。眼は八咫鏡の如くにして、てりかがやけること、赤酸醤に似れり。」(『日本書紀』神代下の第九段一書第一)
 これが(初出)発表されたのは1925年(大正14年)のことで、あの治安維持法の制定・施行と同じ年だ。川端俊英・同朋大学教授によれば、「「皇祖皇宗」ライの真理のごとく唱える教育勅語の「我カ臣民克(よ)ク忠ニ克ク孝行ニ」を、歴史的事実を歪めるものとして茶化しているのである」(川端俊英「大正期の文学に現れた人間観(8)ー芥川龍之介「侏儒の言葉」の世界」:岡山問題研究所「問題ー調査と研究」2000年12月、第149号)とのこと。
 今ひとつ、「軍人は小児に近いものである」と述べているのは、いかにも曖昧さに安住しない性癖のあった芥川らしい。こちらが(初出)発表されたのは1923年(大正12年)のことであった。これより前の1916年(大正5年)12月から2年4か月にわたり、芥川は横須賀海軍機関学校で幹部候補生に教鞭(英語)をとっていて、そこでの経験から来るのであろうか。そうであるなら、現場を何かしら観察した上での断定と見なせることに留意したい。そして、最後の「わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」との問いかけは、今日においてもなお続けられている叙勲の浅ましさ、人間不平等の「臣民思想」に根ざしたものだということを、それぞれ白日の下に明らかにしているのではないだろうか。
 そんな稀代の才能に恵まれた龍之介なのだが、生きるために必要な意欲がだんだんに伴わなくなっていったようであり、自殺してしまう。どうやら、天は彼に大成する時間を与えなかったようだが、とりわけ思想家としての発展がみられなかったのは誠に惜しい。


(続く)

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