♦️364の2『自然と人間の歴史・世界篇』物理学(量子力学の誕生、シュレーディンガー方程式)

2018-11-21 22:57:50 | Weblog

3642『自然と人間の歴史・世界篇』物理学(量子力学の誕生、シュレーディンガー方程式)

 
 物理学者のシュレーディンガーは、1926年にシュレーディンガーの波動方程式という、量子力学上の定式化をおこなった。

 これに至るには、1924年に「これまで考えられていた光が粒子の性質を持つならば、それまで粒子と考えられていた電子が波動の性質を持つかもしれない」といった、かのド・ブロイの考えが視野に入っていた。

 ちなみに、ド・ブロイは、光の振動数や波長と、光子のエネルギーや運動量とを結びつけるアインシュタインの関係、具体的には式(光子のエネルギー=プランク定数×光の振動数)及び同式(粒子の運動量=プランク定数/粒子の運動に伴うド・ブロイの物質波の波長)が、ド・ブロイの物質波に対しても成り立つのではないかと考えた。

 そこで、シュレーディンガーの式の意味というところでは、ミクロの世界の解明にどう対処するかであって、「粒子に波動性を組み込む」ことが課題だとされる。具体的には「波動関数の時間の1回微分(位置)は、その波動関数の場所による2回微分(位置→速度→加速度)によって決まる」とされている。

 これにおいては、波動性が必要な限界をプランク定数が決める。これで、主として電子の振る舞いを調べるのだが、この方程式では、複数の電子を含む原子を扱うこともできると考えられている、とのこと。

 ちなみに、量子力学の体系化に貢献したデンマークの物理学者ニールス・ボーアは、この式の発見された意義について、こういう説明を施している。

 「実際には、錯綜した事態を打開する道は、なにはさておき、よりいっそう包括的な量子論を発展させることによって切り開かれねばならなかった。この目標に向けての最初の一歩は、波動と粒子の二重性は、輻射の性質にかぎられるものではなく、物質粒子の振る舞いの説明にも同様に欠かすことはできないという、1925年のド・ブロイによる認識にあった。(中略)

 そしてこの新しい糸口は、シュレーディンガーによって追究され、最大の成功をもたらした(1926)。とりわけ彼は、原子系の定常状態を、ある波動方程式の固有解によって表すことができるということを示したのである。その波動方程式は、もともともはハミルトンによって追究された。力学と光学の問題の形式的な類似性に導かれて、シュレーディンガーが創り上げたものである。」(ニールス・ボーア著、山本義隆編訳「因果性と相補性」岩波文庫、1999、219~220ページ)

(続く)

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♦️333『自然と人間の歴史・世界篇』メキシコの独立(1521~1862)

2018-11-21 21:02:53 | Weblog

333『自然と人間の歴史・世界篇』メキシコの独立(1521~1862)

 1521年、エルナン・コルテスの率いるスペインの軍隊がアステカ王国を征服したことで、スペインによるメキシコの植民地支配が始まる。

 1808年9月15日、メキシコ植民地の独立を警戒するスペイン人たちがクーデターを起こし、メキシコにおける主権の一端を担おうとするヌエバ・エスパニャ副王イトゥリガライをとらえてスペイン本国に送り返すとともに、クリオーヨよりなる市会中の過激な意見の者たちを投獄する。

 これに対し、クリオーヨの中から、きたる1810年10月を期して蜂起する計画が立てられる。これが伝わるや、官憲は9月13日に首謀者を逮捕した。すると、その反体制派グループのメンバーで、メキシコ市から200キロメートルほど離れた村のイタルゴ神父が、16日教会の鐘を打ち鳴らし、集まった群衆に味演説を行った。

   その内容だが、スペイン官憲の独立派民衆に対する弾圧を激しく非難し、人々に蜂起を訴えるものだった。はたして、彼らは直ぐに行動を起こし、当時最大の鉱山町であったグァナファトに向かって行進し始めた。

   イタルゴに率いられた群衆の数は、グァナファトに着いた9月23日には、2万人以上に膨れ上がっており、農民に対する人頭税の廃止、奴隷制の廃止、不当に奪われた農民の土地の返還などを叫んだ。

   しかし、総勢がさらに増え、彼らがメキシコ市に迫った時には、クリオーリョたちはこれ以上の反乱を望まなくなっており、武装した群衆の隊列はスペインの官憲と軍の攻撃を受け、撃破された。イタルゴ神父とクリオーヨの協力者たちは、アメリカに逃れて態勢を立て直そうとしたものの途中で捕らえられ、その年の夏署名された。これが、メキシコでの独立戦争の開始とされている。
 こうしたイタルゴらの行動は、長らく植民地に甘んじてきたメキシコ人民の心に大いなる覚醒をもたらしたであろう。イタルゴの訴えた中にはスペインからの独立は明確ではなかったが、後継のホセ・モレーロスは、スペインからの独立と共和制を掲げるも、戦闘に敗れ、同年12月に銃殺される。

   おりしも本国では、フランスのナポレオンの脅威が去って、1812年憲法が廃止され、絶対主義王制が開始されたものの、これに対し1820年に軍隊の反乱がおこり、憲法が復活される。これに触発されたメキシコ駐在のスペイン人たちは、軍隊指揮官のアグスティン・デ・イトゥルビデを先頭に、むしろ自分たち支配層の特権を守るためにメキシコを穏健な形で独立に導くのがよいと考えた。

   そして迎えた1821年秋、彼らは、新しくスペイン本国からメキシコに赴任した軍事総督オドノフとコルトバで会談し、「メキシコ帝国」の独立を認めさせた。その体制としては、アグスチン・イトルビデ将軍が中心となって、帝政が敷かれる。続いての1824年には、帝政から共和制への移行があった。
 1862年に、フランスがメキシコを占領する。皇帝には、ナポレオン3世の親戚であるオーストリア大公マクミシリアンが就任する。そのときの軍事侵略の正当化の理由が奮っていた。いわく、「1821年のメキシコ独立以降の年月にたまりたまった未払いの債務が支払われていない」というのであった。

(続く)

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