○○322『自然と人間の歴史・日本篇』昭和(戦前)の文化(文学、宮沢賢治)

2018-11-22 10:40:26 | Weblog

322『自然と人間の歴史・日本篇』昭和(戦前)の文化(文学、宮沢賢治)

 宮澤賢治(1896~1933)は、農業技術者であり、詩人であり、児童文学・童話の作家であった。生前は「ほぼ無名」とのことで、なかなかに世に作家として出られなかった、不遇の時があった。時代が下るにつれ、国民作家としてのみならず、日本と世界にますます多くの読者を獲得しつつある点で、希有の作家だと言えよう。
 1896年に岩手県の花巻に生まれた。家は、周囲の中では比較的裕福であった。1918年に盛岡高等農林学校卒業してからは、しばらく家業に従事した。その中で、日蓮宗の熱心な信者となり、布教のため上京したりもしている。

文学活動は青年期の早くからで、『どんぐりと山猫』(1921)、『かしはばやしの夜』(同年)など童話数編から書き始める。

それからは、故郷での農業の指導者となって働きながら、油が乗ったように作家活動に取り組んでいく。そう彼は東北の土に親しみ、農民たちの暮らしに心を砕いた技術者でもあった。彼の代表作には、手帳に記されていた稀代の名詩「雨二モ負ケズ」をはじめ、死後になって世に出たものが多い。

そこで「雨二モ負ケズ」から始めると、この詩における「負ケズ」には、特別の意味か込められているような気がしてならない。ありていにいうと、我々が日々身を処すに際して、「勝つ」必要は必ずしもないのではないか。とはいえ、世の中の物事の本質に迫るには、それ相当のエネルギーを費やさなければならない。この詩で設定されている場面は、いずれも極めて厳しい。ゆえに、「全力でもって」を軽んじるつもりはないが、賢治はそれよりも「負けない」ことでの持続性に重点を置いていたのではないだろうか。

もう一つ、『銀河鉄道の夜』は、宇宙旅行にも似た幻想的な話だ。例えば、今では星が多く生まれる場所だと考えられている「石炭袋」について、主人公にこう語らせている。

「「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ」カムパネルラが少しそっちを避けるやうにしながら天の川のひととこを指しました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまひました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいているのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。」(ちくま文庫、「宮沢賢治全集」第7巻「銀河鉄道の夜」)

もう一か所、銀河鉄道に乗って天の川を旅してきた主人公が夢から目覚めるシーンには、こうある。
 「両方から腕(うで)を組んだように赤い腕木をつらねて立っていました。
「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニが斯(こ)う云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座(すわ)っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。ジョバンニはまるで鉄砲丸(てっぽうだま)のように立ちあがりました。

そして誰(たれ)にも聞えないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉(のど)いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。
 ジョバンニは眼をひらきました。もとの丘(おか)の草の中につかれてねむっていたのでした。胸は何だかおかしく熱(ほて)り頬(ほほ)にはつめたい涙がながれていました。
 ジョバンニはばねのようにはね起きました。町はすっかりさっきの通りに下でたくさんの灯を綴(つづ)ってはいましたがその光はなんだかさっきよりは熱したという風でした。そしてたったいま夢(ゆめ)であるいた天の川もやっぱりさっきの通りに白くぼんやりかかりまっ黒な南の地平線の上では殊(こと)にけむったようになってその右には蠍座(さそりざ)の赤い星がうつくしくきらめき、そらぜんたいの位置はそんなに変ってもいないようでした。」

そのモチーフとしては、やはり宇宙空間にまで視野を広げた中での人間の心のあり方なのだろうか。それはともかく、日本はおろか、世界の中でも実に多くの人々が、この青くにじんだ陰影さえ感じられる文章に、人を引きつけてやまない宇宙の神秘を感じさせる。
 1933年に賢治が死んだ時には多くの未発表作品があり、その中からは畢生(ひっせい)の詩『雨ニモ負ケズ』が見つかっており、熱心な在野の法華経信仰者としても、つとに知られる。
 戦前から活躍していた詩人の草野心平は、宮澤のことをこう評している。
 「現在の日本詩壇に天才がいるとしたなら、私は名誉ある「天才」は宮澤賢治だと言ひたい。世界の一流詩人に伍しても彼は断然異常な光を放っている。」(『詩神』(1926年8月号)

(続く)

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○○423『自然と人間の歴史・日本篇』1970年代の文化1(彫刻、絵画、書、版画、マンガ、写真1、絵画の田中一村)

2018-11-22 10:19:38 | Weblog

423『自然と人間の歴史・日本篇』1970年代の文化1(彫刻、絵画、書、版画、マンガ、写真、田中一村)

 田中一村(たなかいっそん、1908~1977)という画家は、その道でなかなかの苦労人であったようだ。栃木県に生まれた。17歳で東京美術学校へ入学する。同級生には、東山魁夷(ひがしやまかいい)がいたという。ところが、田中はこの名門をわずか2か月で退学してしまったというから、驚きだ。教育方針が気に入らなかっただけではなく、体調がすぐれなかったこともあったようだ。

 その後は独学で絵画製作を続けたらしい。それにしても、暮らし向きのことは、どのようであったのだろうか、ともあれ、なんとか暮らしをつないでいたらしい。

 そんな田中が1958年(昭和33年)50歳のとき、何を思ったか単身奄美大島に移り住んだ。それからの19年、残りの人生をこの島で過ごした。生活の糧を得るため、大島紬(おおしまつむぎ)の工場で働いたりした。そこでの職種は、「摺り込みの職工」だったというから、器用であったのではないか。この島の生活で創作意欲が増し、画業に励んだという。

 そんな孤高の画家人生を送った田中なのだが、特定の画壇には属さなかった。それもあってか、生前はたいして有名ではなかったらしい。それから、画風がその時々の世の中の画風と相当に変わっていた。

 作品については、奄美の自然を切り取ったものが色々とある。主なものとしては、「初夏の海に赤翡翠(ひすい)」(1962)、「アダンの海辺」(1970)、「熱帯魚三種」(1973)、「不喰芋と蘇鉄(ソテツ)」(制作年不明)など。

 これらのうち「初夏の海に赤翡翠」は、ビロウの葉が垂れ下がっているところに、森の岩があって、そこにアカショウビンという、嘴(くちばし)の大きな、そして赤みを帯びた橙色の鳥が止まっている。なんでも、美しい声で鳴くらしい。

「アダンの海辺」は、海辺に凛と立つアダンという名の植物が描かれている。実際は、単独ではなく、群生しているという。生え方は、マングローブと似ているのではないか。それと、なんだかわからないが強い意思をもっている植物のように感じられる。緑の実と黄色い花がついている。黙っていても、ここは南洋の島らしいのが合点がいく。

 それから「熱帯魚三種」は、画面に横並びで三種類の魚を描いてある。上から順に、アオブダイ、シマタレクチベラ、スジブダイだと聞く。泳いでいるような気配は感じられない。艶(あで)やかに、そして頭部には白い光が当たっている。いずれも頭部が大きい。目から口にかけての模様が波形というか奇抜であって、まるで熱帯魚のようだ。どの魚体も、丸々と太っており、もし生きているとしたら、ゆったり気分でいるのだろうか。

 なお、これは余談だが、沖縄で人々に食されている「イラプチャー」と通称される魚は実はアオブダイではなく、アオブダイについては猛毒を持っている魚であることから、これを観て「うまそうな魚体だ」と決めてかかるのはよくないようだ。

 さらに「不喰芋と蘇鉄(ソテツ)」においては、「クワズイモの右にソテツの雄花、左に雌花をあしらってある。まだあって、下にはハマナタマメの花がかき分けられているという。

 これらに見える植物たちは、亜熱帯ならではの姿で描かれていて、色彩は派手で濃いめであるし、なんだか「どっこい俺様は生きているんだ、早く元の海に戻してくれ」と主張しているかのようである。

 

(続く)

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♦️364の2『自然と人間の歴史・世界篇』物理学(量子力学の誕生、シュレーディンガー方程式)

2018-11-21 22:57:50 | Weblog

3642『自然と人間の歴史・世界篇』物理学(量子力学の誕生、シュレーディンガー方程式)

 
 物理学者のシュレーディンガーは、1926年にシュレーディンガーの波動方程式という、量子力学上の定式化をおこなった。

 これに至るには、1924年に「これまで考えられていた光が粒子の性質を持つならば、それまで粒子と考えられていた電子が波動の性質を持つかもしれない」といった、かのド・ブロイの考えが視野に入っていた。

 ちなみに、ド・ブロイは、光の振動数や波長と、光子のエネルギーや運動量とを結びつけるアインシュタインの関係、具体的には式(光子のエネルギー=プランク定数×光の振動数)及び同式(粒子の運動量=プランク定数/粒子の運動に伴うド・ブロイの物質波の波長)が、ド・ブロイの物質波に対しても成り立つのではないかと考えた。

 そこで、シュレーディンガーの式の意味というところでは、ミクロの世界の解明にどう対処するかであって、「粒子に波動性を組み込む」ことが課題だとされる。具体的には「波動関数の時間の1回微分(位置)は、その波動関数の場所による2回微分(位置→速度→加速度)によって決まる」とされている。

 これにおいては、波動性が必要な限界をプランク定数が決める。これで、主として電子の振る舞いを調べるのだが、この方程式では、複数の電子を含む原子を扱うこともできると考えられている、とのこと。

 ちなみに、量子力学の体系化に貢献したデンマークの物理学者ニールス・ボーアは、この式の発見された意義について、こういう説明を施している。

 「実際には、錯綜した事態を打開する道は、なにはさておき、よりいっそう包括的な量子論を発展させることによって切り開かれねばならなかった。この目標に向けての最初の一歩は、波動と粒子の二重性は、輻射の性質にかぎられるものではなく、物質粒子の振る舞いの説明にも同様に欠かすことはできないという、1925年のド・ブロイによる認識にあった。(中略)

 そしてこの新しい糸口は、シュレーディンガーによって追究され、最大の成功をもたらした(1926)。とりわけ彼は、原子系の定常状態を、ある波動方程式の固有解によって表すことができるということを示したのである。その波動方程式は、もともともはハミルトンによって追究された。力学と光学の問題の形式的な類似性に導かれて、シュレーディンガーが創り上げたものである。」(ニールス・ボーア著、山本義隆編訳「因果性と相補性」岩波文庫、1999、219~220ページ)

(続く)

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♦️333『自然と人間の歴史・世界篇』メキシコの独立(1521~1862)

2018-11-21 21:02:53 | Weblog

333『自然と人間の歴史・世界篇』メキシコの独立(1521~1862)

 1521年、エルナン・コルテスの率いるスペインの軍隊がアステカ王国を征服したことで、スペインによるメキシコの植民地支配が始まる。

 1808年9月15日、メキシコ植民地の独立を警戒するスペイン人たちがクーデターを起こし、メキシコにおける主権の一端を担おうとするヌエバ・エスパニャ副王イトゥリガライをとらえてスペイン本国に送り返すとともに、クリオーヨよりなる市会中の過激な意見の者たちを投獄する。

 これに対し、クリオーヨの中から、きたる1810年10月を期して蜂起する計画が立てられる。これが伝わるや、官憲は9月13日に首謀者を逮捕した。すると、その反体制派グループのメンバーで、メキシコ市から200キロメートルほど離れた村のイタルゴ神父が、16日教会の鐘を打ち鳴らし、集まった群衆に味演説を行った。

   その内容だが、スペイン官憲の独立派民衆に対する弾圧を激しく非難し、人々に蜂起を訴えるものだった。はたして、彼らは直ぐに行動を起こし、当時最大の鉱山町であったグァナファトに向かって行進し始めた。

   イタルゴに率いられた群衆の数は、グァナファトに着いた9月23日には、2万人以上に膨れ上がっており、農民に対する人頭税の廃止、奴隷制の廃止、不当に奪われた農民の土地の返還などを叫んだ。

   しかし、総勢がさらに増え、彼らがメキシコ市に迫った時には、クリオーリョたちはこれ以上の反乱を望まなくなっており、武装した群衆の隊列はスペインの官憲と軍の攻撃を受け、撃破された。イタルゴ神父とクリオーヨの協力者たちは、アメリカに逃れて態勢を立て直そうとしたものの途中で捕らえられ、その年の夏署名された。これが、メキシコでの独立戦争の開始とされている。
 こうしたイタルゴらの行動は、長らく植民地に甘んじてきたメキシコ人民の心に大いなる覚醒をもたらしたであろう。イタルゴの訴えた中にはスペインからの独立は明確ではなかったが、後継のホセ・モレーロスは、スペインからの独立と共和制を掲げるも、戦闘に敗れ、同年12月に銃殺される。

   おりしも本国では、フランスのナポレオンの脅威が去って、1812年憲法が廃止され、絶対主義王制が開始されたものの、これに対し1820年に軍隊の反乱がおこり、憲法が復活される。これに触発されたメキシコ駐在のスペイン人たちは、軍隊指揮官のアグスティン・デ・イトゥルビデを先頭に、むしろ自分たち支配層の特権を守るためにメキシコを穏健な形で独立に導くのがよいと考えた。

   そして迎えた1821年秋、彼らは、新しくスペイン本国からメキシコに赴任した軍事総督オドノフとコルトバで会談し、「メキシコ帝国」の独立を認めさせた。その体制としては、アグスチン・イトルビデ将軍が中心となって、帝政が敷かれる。続いての1824年には、帝政から共和制への移行があった。
 1862年に、フランスがメキシコを占領する。皇帝には、ナポレオン3世の親戚であるオーストリア大公マクミシリアンが就任する。そのときの軍事侵略の正当化の理由が奮っていた。いわく、「1821年のメキシコ独立以降の年月にたまりたまった未払いの債務が支払われていない」というのであった。

(続く)

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♦️109の1の6『自然と人間の歴史・世界篇』無線電信の発明(1895)

2018-11-19 21:53:08 | Weblog

109の1の6『自然と人間の歴史・世界篇』無線電信の発明(1895)

 

 20世紀前夜、電気や磁気が空間を伝わることを、イギリスのマイケル・ファラデーや、イギリスのジェームズ・マクスウェルらが予言し、理論化していた。

 その後、ドイツのハインリヒ・ヘルツは、実験によって電波が空間を伝わることを発見していた。 

 イタリアのグリエルモ・マルコーニ(1874~1937)は、この電波が空間を伝わるというヘルツの結果を知り、これを利用して離れた場所での通信に応用することを考えた。まずは1895年、1700メートルほどの距離での無線通信実験に成功した。それからは、次第に通信距離を伸ばしていく。同時に、「マルコーニ無線株式会社」を設立、おもに船舶との交信を目指して実用化研究を進めていく。

 そして迎えた1901年12月12日、マルコーニはカナダのニューファンドランド島にいて、約2700キロメートル離れた対岸のイギリスのコーンウォール地方ポルデューからの信号音が到達するのを待っていた。やかて迎えた昼過ぎ、「かすかにではあるが、間違いなく「ピッピッピッ」という音が聞こえた」(ジョン・ケアリー編・仙名紀訳「歴史の目撃者」朝日新聞社、1997)という。

(続く)

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♦️521『自然と人間の歴史・世界篇』真空管からトランジスタへ

2018-11-19 20:46:18 | Weblog

521『自然と人間の歴史・世界篇真空管からトランジスタへ 

 1936年、ウィリアム・ショックリーは、アメリカのベル電話研究所に請われてはいる。1947年12月23日、そのベル電話研究所のウォルター・ブラッテンは、増幅器となりそうな物質を特定しようという実験の途中で偶然、結晶の増幅作用を発見する。

 1948年、ショックリーは、ブラッテン、バーディンというベル電話研究所のふたりの協力者とともに、最初のトランジスタを発明した。それは、デルマニウムの結晶の小片にホイスカー電極とよばれる細い金属の針を2本極めて接近させた位置に立てただけのものだった。ところがこの結晶は、真空管と同じように弱い電流を強くする増幅作用を持っていた。

 ただし、ショックに弱い。そこで彼らは、さらに努力を続ける。1950年には、この結晶を針をたてない形に作り変え、エミッタ、ベース、コレクタという三つの領域がこの同じ結晶の中に含まれるようにした。ちなみに、今日ではシリコン、ゲルマニウムなど、トランジスタに使われる結晶のことを総括して「半導体」と呼ぶ。

 こうして発明されたトランジスタは、それまでの真空管より効率性において大いに優れている。なぜかというと、真空管を使った電子回路を動かすには、フィラメントを電熱する、そのことでかかるフィラメントの中から真空中に出てくる、その、出てきた電子の流れをコントロールして増幅現象を起こすことが必要であり、そのためにはたくさんの電力を必要とするからだ。

(続く)

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□145『岡山の今昔』瀬戸大橋線沿線1(児島~下津井)

2018-11-18 21:15:31 | Weblog

145『岡山(美作・備前・備中)の今昔』瀬戸大橋線沿線1(児島~下津井)

   児島駅を出発して市街をしばらく走ると、列車は鷲羽山(わしゅうざん、倉敷市)トンネルに入る。
 鷲羽山は、瀬戸内でも有数の景勝地とされる。児島半島の南端付近、備讃瀬戸に乗り出すような地形の先端にある。標高133メートルの山が、海面から屹立している。山姿が類稀である。両翼を広げ大空を羽ばたいている鷲に見えるとことから、江戸時代中頃に誰彼となくこの名が付けられた。

 ごつごつした岩石肌の露わな山頂の「錘秀峰」からは、180度ある程の広角度で見晴らしがよい。ここから見下ろす風景は、文豪・徳富蘇峰により「内海の秀麗ここに集まる」と絶賛された。

 それというのも、かかる山の全体が、1930年(昭和5年)に「下津井鷲羽山」として国指定名勝に指定、さらに1934年(昭和9年)には、この地区を含む瀬戸内海一帯が日本最初の国立公園「瀬戸内海国立公園」に指定された。
 この辺り、霞がかっていない日には、瀬戸内海に浮かぶ釜島、櫃石島、六口島、松島、与島、本島、広島、豊島などの島々が眼下に広がって見えた筈だ。そして、それらの向こうには、四国の山々まで見渡たせたであろうか、あれは小学校の遠足時であったろうか、その時の記憶をたぐり寄せてみるのだが。

 もちろん、瀬戸大橋(児島・坂出ルート、瀬戸中央自動車道・JR本四備讃線⦆はなかった。それでもバスで鷲羽山に上る時、下るとき、あれは水島の工業地帯の海沿いの尖端部あたりであったのかもしれない。その時のきらきらした白いタンクや、赤白まだらな煙突群などをちりばめた光景が、あれから半世紀余が過ぎた今でも、ほとんど色褪せることなく脳裏に焼き付いて離れていない。
 このあたりの海は、古代、近世から明治の中期位までは、瀬戸内地域の天然の良港として栄えたことで知られる。向かって左、東側には田之浦(たのうら、倉敷市)が、向かって右の西側には下津井(しもつい、倉敷市)の港町である。

 後者の下津井は、東隣の田之浦と結んで、備前を通る西海航路の起点となっていた。江戸中期以降は北前船が盛んに寄港して交易していた。萩野家などの多数の問屋の蔵が建ち並んでいた。当時の遊山や金比羅参りへの中継地にもなっていて、当時四国へ向かう旅人の多くはここから讃岐へ渡っていたらしい。

 かのドイツ人医師のケンペルも、1691年(元禄4年)に長崎から瀬戸内海を経由して畿内そして江戸へ向かうおり、海上から下津井港を描いた、その絵を『江戸参加府記』に掲載している。

顧みれば、1640年(寛永17年)には、牛窓にもあった幕府の異国船遠見番所が下津井に出来た。1660年(万治3年)になると、さらに在番所が設けられたことで、海上警備や出入りの船の監視・取締まりが強化されていった。

 さらに、参勤交代にここを通る西国大名や将軍の代代わりにやってくる朝鮮使節団の接待の場所としても、あれやこれやで便宜であったらしい。さらには、漁港としてもなかなか羽振りが良かったようで、『下津井節』なる漁歌に、こうある。
 「1.下津井港はヨー、入りよて出よてヨー、まとも巻きてよ、よぎりよてヨー、トコハーイ トノエー、ナノエーソーレソレ。
 2.下津井港に、錨を入れりゃ、街の行灯(あんど)の灯(ひ)が招くよ(以下、略)」
 念のため、これに出てくる「まとも巻きてよ」とは、追い風をまともに受けて船が走ること、また「よぎりよてヨー」とは、向かい風に向かって船がジグザグに進んでいく様をいう。

 さて、本線に戻ろう。この鷲羽山トンネルを抜けると、いよいよ瀬戸大橋の始まりとなる。橋の構成は、6つの橋と4つの高架橋で本州と四国とを結ぶ。自動車道を通っての場合、橋を通って観光客が立ち寄れるのは、パーキングエリア(休憩所など)と観光施設が設置されている与島(よしま)とのことだ。

(続く)

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□144『岡山の今昔』瀬戸大橋線沿線1(岡山~児島)

2018-11-18 21:10:59 | Weblog

144『岡山(美作・備前・備中)の今昔』瀬戸大橋線沿線1(岡山~児島)

 瀬戸大橋線は、岡山を出発して南に下り、1988年(昭和63年)4月10日に開通した瀬戸大橋を通って、瀬戸内海の5つの島(櫃石島(ひついじま)、岩黒島、羽佐島、与島及び三ツ子島で、すべてが香川県に属する)を跨ぐようにして、四国の終着駅・高松までを結ぶ。道路・鉄道併用橋としては世界最長を誇る。

 この道路橋は、瀬戸中央自動車道と呼ばれる。鉄道の停車駅は16駅があって、各駅停車もある。この線の名称の由来は、JR四国とJR西日本の共通愛称で、正式には岡山県側から宇野線、本四備讃線、予讃線の3線を辿4人って行く。児島駅以北はJR西日本の管轄下にある。
 さて、旅を急ぐ人もおられるかもしれない。そんな時は、岡山駅~高松駅を結ぶ快速「マリンライナー」に乗ると便利だ。岡山を出た列車は高架を抜け、山陽本線を乗り越え、さらに新幹線をくぐって進む。JR線大元(おおもと)、宇野線備前西市(びぜんにしいち)、宇野線妹尾(せのお)、宇野線備中箕島(びっちゅうみしま)、宇野線早島(はやしま)、宇野線久々原( くぐはら)、宇野線茶屋町(ちゃやまち)と行く。
 岡山駅~茶屋町駅は宇野線として走り、植松駅の少し手前で宇野線と分かれる。それから、宇野線植松(うえまつ)、木見(きみ)、上の町(かみのちょう)、それから児島(こじま)と行く。途中の植松・木見・上の町の各駅は、いずれも無人の高架駅。

(続く)

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♦️411の2『自然と人間の歴史・世界篇』マンハッタン計画

2018-11-18 10:19:28 | Weblog

411の2『自然と人間の歴史・世界篇』マンハッタン計画

 そして迎えた1942年6月、アメリカのフランクリン・ルーズヴェルト大統領は、原爆製造計画であるマンハッタン計画(1942~46)に着手した。核兵器開発が最終的にマンハッタン計画として発足したのは1942年8月13日の事であった。マンハッタン計画にはカナダも関わっていた。このマンハッタン計画に深くかかわったアメリカの財閥としては、ロスチャイルド家が有名だ。

ウランの調達は、アフリカのベルギー領コンゴ、カナダのグレートベア鉱山、アメリカのコロラド州カルノー鉱山で行われたようである。その3か所ともロスチャイルドの支配下にある鉱山でした。おまけに、マンハッタン計画の監督を務めたのが、ロスチャイルド一族でハンブローズ銀行のチャールズ・ジョスリン・ハンブローであったと言われ、一財閥としては相当の入れ込みであったことになるだろう。
 ともあれ、アメリカ陸軍直轄のマンハッタン工兵地区を中心に開発されることとなった。開発は、オッペンハイマーらの手によって進められた。ヨーロッパから亡命してきたフェルミ(ユダヤ系イタリア人)、ボーア(デンマーク人)、シラード(ハンガリー人)などの物理学者が協力した。

この政府によって組織された計画に動員された人々は総勢約12万人、その中でもダウケミカル社、デュポン社、ロッキード社、ダグラス社などの軍需産業やシカゴ大学、カリフォルニア大学、ロスアラモス研究所など多くの大学・研究機関が参加・協力したのだという。
 原爆製造には、1942年から46年の間に約18億ドルが投じられた。爆弾には、ウランとプルトニウムの2種類の製造が目指された。プルトニウム原料については、1941年の1月、グレン・シーボルグとカリフォルニア大学の物理学者で構成される彼のチームが、バークレーのサイクロトンで1グラムの100万分の1より小さいネプツニウムの中に新しい原子の痕跡を確認したところであった。
 開発は、秘密裏に進められた。協力企業には、箝口令(かんこうれい)が敷かれた(例えば、デュポンのホームページに同社にとっての経緯が掲載されている)。1945年7月に爆弾製造が完成する。その爆弾には、2種類があり、その一つはウラニウムを爆薬による誘導で二方向から合体させることで爆発させる「ガン式」(山田克哉「核兵器のしくみ」講談社新書、2004)である。今ひとつは、プルトニウムを複雑な仕掛けで爆発させるもので、「インプロージョン式プルトニウム爆弾」(同)と呼ばれる。
 ところが、4月にルーズベルト大統領が脳溢血で急死したことで、副大統領職から突然トップに就任したのが、ハリー・トルーマンであった。そして7月の連合国首脳会議であるポツダム会談のときに、トルーマン大統領はこの原子爆弾の完成、その実用化の報告を受けたのではないか、と伝わる。

 一般には、彼は、その就任からわずか3週間後に広島・長崎に投下することを決定するにいたったとされるのだが、確かなところはわからない。もしくは、そのトルーマンが市街地への原爆投下を承認した事実が見つかっていないのを根拠に、軍の「暴走」で市街地への投下が行われたという説(例えば、2016年8月6日放送のNHK「NHKスペシャル、決断なき原爆投下」)も提出されている。

(続く)

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♦️411の1『自然と人間の歴史・世界篇』「原子爆弾」と「原子力発電」の可能性

2018-11-18 10:18:02 | Weblog

411の1『自然と人間の歴史・世界篇』「原子爆弾」と「原子力発電」の可能性

 1938年、物理学者のハーンは、共同研究者のユダヤ人のマイトナーは中性子をウランに衝突させると、二つのバリウム原子ができるのを見つけた。ハーンはドイツにいて、マイトナーは亡命先のストックホルムにいた。二人は、この実験結果の意味するところを、「ウラン原子核がほぼ半分に割れたためである」と考えた。

 1939年、物理学者のイレーヌとジョリオは、ウランに中性子を当てたところ、その核分裂反応の過程で中性子が複数発生することを測定した。これにより、核分裂反応が連続して起こる可能性を発見した。

 1941年春、カリフォルニア大学バークレイ校で、グレン・シーボーグらが核物質の実験を繰り返していた。彼らは、原子炉中でウラン238が中性子を吸収しベータ崩壊して生産されるものだが、彼らは中性子照射したウラン中に生成するこのプルトニウムの分離に成功し、さらにそれがウランと同様に核分裂を起こすことを確認した。

 また1942年の同じアメリカにおいて、物理学者のフェルミらは、黒煙のブロックを積み上げた中にウランを入れ、核分裂の連鎖反応を起こすことに成功した。その際、出力を制御することが目指され、「中性子吸収材のカドミウムから作られた制御棒を用いて、出力を制御」(京極一樹「こんなにわかってきた素粒子の世界」技術評論社、2008)したという。

このプルトニウムは質量数239で、放射性(アルファ線)があり、半減期2万4110年であり、これを規定量以上に用いることにより原子爆弾・水素爆弾・原子炉の燃料となるものだ。

ここに半減期というのは、放射性物質としての放射性元素や放射性同位元素が崩壊して別の元素に変化するとき、元の元素の半分の量が崩壊するのにかかる時間をいう。もっとも、「崩壊は、少しずつゆっくりと発生します。半減期の2倍の期間が過ぎても崩壊がすべて終わるのではなく、半分の半分が完了するので、合計して3/4の崩壊が完了します」(京極、前掲書)ということだ。
 ところで、中性子が他のウラン235の原子核に当たるためには一定の体積中にある程度以上のウラン235が存在しなければならない。当たり続ける=連鎖反応が起こる量を臨界量という。原子力発電所では臨界量を越えていて、中性子の量をコントロールするのを通じて連鎖反応を抑えることで安全を保っている。

しかし、2011年3月の福島原発事故のような不測の事態が起こったときにはその連鎖反応を抑えられなくなる。原爆とかは、はじめから爆発させて、核分裂の連鎖反応を抑えることを意図していないわけだから、爆発のエネルギー(E=M×C×C)が外部に暴力的な被害をもたらすことになる。
 ここで、爆発のエネルギー式(E=M×C×C)は、アインシュタインによって発見された。この式が意味するのは、核爆発によって失われるエネルギー分だけ質量のほんの少しが減少するということです。このあたりのわかりやすい、しかも系統だった説明は、矢野健太郎「数学への招待」(新潮文庫)の中でも試みられている。

(続く)

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♦️360の2『自然と人間の歴史・世界篇』物理化学(原子の構造の発見)

2018-11-17 22:09:37 | Weblog

360の2『自然と人間の歴史・世界篇』物理化学(原子の構造の発見)

 

 1911年、ラザフォードは、続いてガイガー、マースデンと協力して、アルファ線を原資にぶつける散乱実験を繰り返す。そして原子核というべきもののあることを確信した。それ以前の頭で考えたモデルを参考に、原子核の大きさを探る。

 薄い銅箔にラジウムからのアルファ線を当て、その実験データから銅の原子核の大きさを推定すると、1.8×10のマイナス14乗メートルより小さいと出た。これは、原子の大きさの約5千分の1以下だという。

 ラザフォードはなおも前進する。1919年には、「ウィルソン霧箱」と呼ばれる装置を使って実験を行い、発生した粒子が、原子を構成する電子とは異なるもう一つの粒子として「陽子」と名付ける。言い換えると、この実験で、窒素の原子核にヘリウムの原子核を衝突させて酸素の原子核を作り出し、その結果として陽子がはじき出されるのを観測した。

 おりしも、キュリー夫人の娘夫妻イレーヌとジョリオは、アルファ線をベリリウムという金属に当てると透過力の大きい別の放射線が出てくることを発見していた。しかし、その物質が何であるかまでは、理解していなかった。

 これらに触発されたチャドウィクは、このアルファ線を色々な物質に衝突させる実験を行い、何かの粒子がはじき出されるのを発見した。この放射線が、陽子と同じ質量をもつ傍ら、電荷を持たない中性の粒子ということで「中性子」と名付ける。

 こうして、原子核は陽子と中性子によって構成されている、と考えられるようになっていく。

(続く)

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♦️360の1『自然と人間の歴史・世界篇』物理化学(放射性物質の発見、レントゲン、ベクレル、キュリー夫妻、ラザフォードなど)

2018-11-17 22:07:15 | Weblog

360の1『自然と人間の歴史・世界篇』物理化学(放射性物質の発見、レントゲン、ベクレル、キュリー夫妻、ラザフォードなど)

  1895年には、レントゲンが正体不明の放射線を発見し、「X線」と名付ける。そのきっかけは、彼がクルックス管という今日でいう蛍光管を用意して高電圧をかけたところ、偶然そばに置いてあった蛍光物質を塗った紙が光りだしたではないか。

 この管の両極には白金が使われていた。それなので、陰極から出た電子が陽極の白金の原子に衝突、そのことで電子がはじき出され、これによって電子のエネルギー準位間の遷移という現象が起きた。そして、白金に特有の電磁波が生じた。

 このレントゲンの発見は、さっそく科学者たちの興味と探求心を刺激していく。1896年にレントゲンの論文に触発されたベクレルは、ウラン化合物に光を当てても放射線が出てくるのではないかと考えた。写真乾板を黒い紙で包み、太陽光に晒していた。

変化が認められなかったことから、そのまま引出しにしまっておいた。それでも、数日後にこれを取り出してみると、写真乾板が黒く感光していた。まさに、ウラン自体が放射線を出していたのである。

 これに続いて、物理学者アンリ・ベクレルは、写真乾板をウラン鉱サンプルにさらすと、光を当てて居なくても感光するのを発見した。1896年に、彼はそのことをフランス科学アカデミーに発表した。

 また、キュリー夫妻も、精力的にこの方面での研究を進めていく。マリー・キュリーが見つけたのは、トリウム、ポロニウム(1898年7月に発表)、ラジウム(1898年12月に発表)などといった放射性物質であって、彼女はそれらが持つ能力のことを「放射能」と名付けた。しかし、マリーら4人のキュリー一家はあまりの実験の継続のため放射能に被ばく、ために放射病を避けることができなかった。想像するに、これに至るには、さぞかし、そこはかとない苦労の連続であったのだろう。

 そして迎えた1898年、ラザフォードは、ウランから2種類の放射線が出ていることを発見した。アルファ線とベータ線と名付けた。前者はヘリウム原子核(プラス)、後者は電子(マイナス)。1900年には、ヴィラールが、X線に似た放射線を発見し、ラザフォードによりガンマ線(電磁波・電荷なし)と名付けた。

 

(続く)

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♦️434の4『自然と人間の歴史・世界篇』チェ・ゲバラ

2018-11-17 08:49:05 | Weblog

 434の4『自然と人間の歴史・世界篇』チェ・ゲバラ

 チェ・ゲバラ(エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ、1928~1967)は、南アメリカの統一をめざした革命家、政治家であった。そのきさくさと類まれな人民奉仕の精神で、今なお世界に広く知られる。アルゼンチンに生まれた。青年期から南米各地をまわり、そこかしこでの貧困や病気、圧政と不平等に苦しむ人々を目の当たりにした。

 やがて政治的な行動に打って出る。キューバにおいては、1952年に軍事クーデターによってフルヘンシオ・バティスタが政権に復帰していた。彼は、それまでの政権同様に親米政策をとる。アメリカからの援助をうけつつ国民の自由と生活を抑圧することで独裁体制の強化を進めていた。

 これに対して、ゲバラはフィデル・カストロとラウル・カストロの兄弟とともに武装闘争を起こす。1959年1月にバチスタ政権を打倒した。新しい国造りの過程で、ゲバラは大いに働いた。

 やがて彼は、カストロにしばしの別れを告げ、1966年ボリビアに赴く。当地の革命を支援するためであった。1684年にボリビアで成立した、バリエントスの率いる軍事評議会は、先のボリビア革命での農地改革、福祉政策の大方については継承した。しかし、労働者階級には冷淡であった。この新たな軍事政権は1966年の大統領選挙において、新興鉱山主湊や官僚層の支持も受け、バリエントスが大統領になる。

 統治に潜入したゲバラは、南アフリカ大陸の大革命の根拠地とするべく、ELM(ボリビア民族解放軍)を組織し、ボリビア政府に対抗する。政権は、

ゲバラらELMと鉱山労働者の連携を阻むため、カタビ鉱山の労働者を吸収して多数の交付を虐殺するなどして、戦う。アメリカが、このバリエントス政権を強力に後押ししていた。農民層は土地改革で保守的立場を強めており、ELMの味方ではなくなっていた。

 そうこうしてELMのゲリラ活動は封じ込まれていき、ついに壊滅され、ゲバラは銃殺された。

 

(続く)

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♦️434の3『自然と人間の歴史・世界篇』ボリビア革命(1952)

2018-11-17 07:01:54 | Weblog

434の3『自然と人間の歴史・世界篇』ボリビア革命(1952)

  1952年4月、ラパスその他の諸都市での労働者を含む武装蜂起があり、それまでの軍事政権が崩壊した。これより前の1951年の大統領選挙では、亡命中のMNR(民族革命運動)のパス・エステンソロが出馬、当選した。ところが軍部は、選挙の無効を叫んで政権を奪い、MNRを非合法化した。これに対し、4月9日にMNRは武装蜂起し、鉱山労働者や民衆を民兵として組織し、軍と警察を管理下におく。

 そして迎えた1952年4月17日、MNR(民族革命運動)のパス・エステンソロが大統領(1952~1956)になる。新政府は、 三大スズ鉱山の国有化、普通選挙法の制定、土地改革それに旧軍隊の解体の四大改革に取り組む。これを「ボリビア革命」という。とはいえ、財政赤字や未曾有のインフレといった経済的な困難が目立っていく。

 続いては、1956年の大統領選挙でバスト並ぶMNR巨頭のエルナン・シレス・スアノが当選する。この時期になると、難局を切抜けるためにはアメリカ合衆国政府やIMF(国際通貨基金) との決裂を避けていく。アメリカは、MNRを反共の防波堤と位置づけ「52~60年に1憶50万ドルが供与され、ボリビアはラテン・アメリカにおける米国援助の最大受け入れ国となった」(増田義郎編「ラテン・アメリカ史2」山川出版社、2000)という。

 政権は、パティーニョ、オスチルド、ホシルト及びアラマヨという三大錫財閥と大土地所有者層が中心となって経済を支配する体制を変え、ボリビアに民主主義を根付かせようとした。三大錫財閥は有償で国有化され、ボリビア鉱山公社が管理することになった。土地改革では、大土地所有をとりあげ、貧農らに分配した。また、経済政策で石油開発、道路建設、頭部の開発をめざす。

 しかし、1950年代末には政権内の不統一が目立ってくる。待遇改善を求め労働者のデモが相次ぐ中、第二次パス政権(1960~1964)は、対米融和政策をさらに進める。一方、パス政権は労働者に対し賃金凍結、解雇、組合運動の制限、鉱山の労働者共同管理の廃止などを実施した。 

 1964年に発足した第三次パス政権においては、アメリカの援助で近代化された軍に協力を求めるにいたる。そこでバリエントス・イ・オルトゥニョ将軍らの軍はいったん政府に協力するも、MNRのさらなる内部不統一もある中で、1964年 11月には態度を翻して無血クーデターでパス・エステンソロを追放した。これにより、ほぼ12年間続いたパス・エステンソロ政権は崩壊し、軍事政権が復活した。

(続く)

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♦️638『自然と人間の歴史・世界篇』コロンビア(1538~)

2018-11-16 09:54:17 | Weblog

638『自然と人間の歴史・世界篇』コロンビア(1538~)

 コロンビアでは、1538年にヒメネス・デ・ケサダが、当時チャド族のいた土地に植民都市を建設した。以後、38金鉱山などの事業を展開していく。1718年には、スペインはボゴタに副王を置き、いまのコロンビア、エクアドル、ベネズエラ、パナマを合わせたヌエバ・グラナダ副王領を統治する。

 1810年7月には、その副王をボゴタのクリオーリョたちが追放し、独立を宣言する。スペインとの戦いがあっての1819年8月には、植民地解放軍がボゴタに入場する。そして迎えた1821年、グラン・コロンビアとして独立を果たす。

しかし、この共和国は1830年に解体し、エクアドルとベネズエラがそれぞれ分離し、独立していく。今のコロンビアはヌエバ・グラナダ共和国として落ち着く。

   1857年には、グラナダ連邦共和国に、1863年にはコロンビア合衆国と国名を変更していく。そして迎えた1866年、ようやく現行憲法のもととなる憲法が制定され、コロンビア共和国の国名となる。

 1880年には、ラファエル・ヌニェスが自由党穏健派と保守党の支持をとりつけ、大統領になる。この時期、コーヒー栽培が飛躍的に増大し、輸出が好調であった。1886年憲法においては、「コロンビア共和国宣言」を出し、それまでの連邦制から中央集権制へと変わった。

 そして迎えた1903年11月3日には、パナマが分離独立していく。これには前史があり、1899年から1902年の間に、保守党政権と自由主義者との内戦があり、「千日戦争」と言われ、10万人以上の死者が出た。保守党政権はなんとかこれを鎮静化させたものの、1903年新たな問題が現出した。

 というのは、千日戦争がパナマに波及したとき、政府はアメリカ軍に援助を要請したのだが、これがパナマ地区に運河をかける話の発端となった。いったんアメリカとの間で運河蛍雪についてのヘイ・エラン協定が政府間で結ばれる。しかし、コロンビア議会上院がその批准を拒否した。すると、パナマ地区で不満が増し、アメリカからの支援のもとにコロンビアを見限るのである。

 1929年の世界恐慌では、コロンビア経済を支えるコーヒーなどの一次産品の輸出が激減し、経済が傾く。1934年から1946年まで、自由党政権下で国内産業の保護や労働者の権利の保障といった自由主義政策が進む。

 しかし、1946年の選挙で保守党が政権を奪還すると、反動政治が始まる。1948年には、自由党の政治家ガイタンが暗殺されたのを契機に、ボゴタ暴動がおこり、以後10年間にわたり、ラ・ビオレンシア(暴力の時代)が続く。

 1953年には、ロハス軍事政権が発足し、57年まで強権政治が続く。1958年になって、自由・保守党の国民戦線協定が成り、これが1974年まで続く。1991年には、新憲法が成立する。

(続く)

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