三国流転 立志編 第1話 運命の血戦
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淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)の物語は、
唐の2代皇帝・李世民(イセミン)が高句麗に侵攻して、
遼東地方(ヨドン:遼寧省)安市城(アンシソン)を攻撃するところから始まる。
安市城を攻め落とせない李世民(イセミン)は、城の城壁と同じくらいの高さの土山(トサン)を
築き場内に攻め入ろうとするが、土山(トサン)完成間近に、淵蓋蘇文に土山を奪われてしまう。
その後、土山攻防戦で、右目をヤンマチュウ将軍(安市城城主)の射た矢で右目を負傷。
3ヶ月の攻防戦の末に、食料が無くなり、冬が間近ということで撤退する場面で第1話終了。
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高句麗(コグリョ)の権力者ヨン・テジョの息子として生まれたヨンゲソムンは、
ある予言のために山奥にかくまわれ、両親を知らずに育つ。
7歳になったゲソムンは、叔父ヨン・テスの刺客に命を狙われ新羅へ逃亡を図るが、
途中で襲われ深手を負う。
父から贈られた高句麗の国鳥・三足烏(サンゾクカラス)の首飾りに守られ一命を取り留めたゲソムンは、
新羅(シルラ)の地方太守キム・ソヒョンの使用人となる。
☆キム・ソヒョン(キム・ユシンの父):新羅・万弩郡(マンノ)の官庁
中原を統一した帝国・隋と、
隋に屈することを拒む高句麗との度重なる戦争が激化するなか、
青年へと成長したヨンゲソムンの運命も大きく変わろうとしていた。
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檀紀2978年
西暦645年 高句麗 ポジャン王の治世
唐の初代皇帝 李世民(イセミン)は高句麗に侵攻
千里長城を皮切りに次々と城を急落させ、安市城(アンシソン)へと攻め入った。
(新城(シンソン)は落とせなかった)
安市城の城主はヤンマンチュン、全指揮を執っていたのは大莫離支(テマンニジ)淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)
高句麗(コグリョ)は70年間、隋と4回、唐と8回戦争を繰り返していた。
この安市城の戦いは、聖君と名高いイ・セミン率いる唐との第1次高句麗・唐戦争での一戦であった。
中原(チュウオン)を制したイ・セミンは唐建国に貢献した
これまでの戦争では全戦全勝
天が生んだ将軍と称されていた。(天策上将軍:テンサクジョウショウグン)
しかし安市城陥落には、すでに3ヶ月も手こずっていた。
☆高句麗(コグリョ)の千里長城:
高句麗は唐に対抗する為に631年から扶余城から卑沙城、
渤海にかけて千里長城の築造を始めた。
高句麗は遼東(ヨドン)地方に、防御のために千里の長城を築きます。
石で築いたこの長城は631年に着工し16年かかって完成する。
この千里の長城の工事を監督したのが淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)でした。
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随と唐
7世紀初頭の中国は隋が統一国家を実現していたが、
第2代煬帝(ヨウタイ)の内政上の失政と外征の失敗のために各地に反乱がおき、大混乱に陥った。
翌618年(隋義寧2年、唐武徳元年)に江南にいた煬帝が殺害され、
李淵(イエン)は恭帝から禅譲を受けて即位(高祖)、唐を建国した。
☆李淵(リエン):李世民(イセミン)の父
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李世民(イセミン)
建国の時点では、依然として中国の各地に隋末に挙兵した群雄が多く残っていたが、
それを高祖の次子李世民が討ち滅ぼしていった。
勲功を立てた李世民は、626年にクーデターを起こすと
高祖の長男で皇太子の李建成を殺した(玄武門の変)。
高祖はその後退位して、李世民が第2代の皇帝(太宗)となる。
太宗(たいそう)は、唐朝の第2代皇帝(在位:626年9月4日 - 649年7月10日)。
兄の李建成を殺害し皇帝に即位した。唐王朝の基礎を固める善政を行い、
中国史上最高の名君の一人と称えられる。
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朝は晴れて、天気予報は外れたと思っていたら、
9時過ぎてから急に雲が出てきた。
どうなっているのだ今日の天気は?
今朝も寒い。
朝ごはん食べてくつろいでいます。
洗濯物を干してくれました。
午前中はパン屋に行ってきました。
私は、ピザパンとコーヒー。
まりちゃんは、チョコレートクリスマス型のパンとコーヒーにしました。
ララガーデンでカップ麺食べて帰宅。
午後は昼寝してました。
寒くて乾燥しているので体が痒いです。
晩ごはんは、おでんとちらし寿司にしました。
9時過ぎてから急に雲が出てきた。
どうなっているのだ今日の天気は?
今朝も寒い。
朝ごはん食べてくつろいでいます。
洗濯物を干してくれました。
午前中はパン屋に行ってきました。
私は、ピザパンとコーヒー。
まりちゃんは、チョコレートクリスマス型のパンとコーヒーにしました。
ララガーデンでカップ麺食べて帰宅。
午後は昼寝してました。
寒くて乾燥しているので体が痒いです。
晩ごはんは、おでんとちらし寿司にしました。