気ままに

大船での気ままな生活日誌

鏑木清方の生きた時代

2010-08-24 09:06:29 | Weblog
鎌倉の鎌倉清方記念会で、”鏑木清方の生きた時代”(8月22日が最終日だから昨日で終わりです)を先日、観てきた。明治、大正、昭和の時代に生きた、清方は幾多の戦争の時代を経験している。これら戦争時代に描かれたものを中心に展示されている。

清方は、当然ながら戦争が嫌いで、そうはいっても国の要請があれば、ぎりぎりのところで、妥協している。たとえば、軍国女双六をつくったり、戦艦に飾る絵を描いたりしている。でも、その場合でも勇ましい戦闘の絵ではなく、”蕪”とか”稚児桜”など中性的な男の絵などを描いて、提出している。

前回、ちょっと述べたが、太平洋戦争のときは、茅ヶ崎と、終戦の8月には御殿場に疎開している。そのときのスケッチ画も展示されていて、どちらにも富士山が描かれている。清方の美人画には人物の背景に景色がよく描かれるが、景色だけの絵というのは珍しい。

昭和18年に描かれた、朝鮮の(当時は日本領)名優、崔承喜の下絵もはじめて観た。彼女が帝劇に出演したとき、観にゆき、それをもとに描いている。しかし、未完で終わったとのことだ。大正8年には、中国の京劇の名女形、梅蘭芳が大倉喜八郎により日中友好のために招聘されたときに、自宅に二、三度呼び、スケッチをした。そのスケッチ画がいくつも残されている。

あとは、よく観る作品で、密かに自宅で書かれ、それぞれの時代の平和に戻ったとき表に出されたものであろう。

戦争が、画家に与える影響は大きい。展覧会がよく開かれている現代は、なんだかんだいっても、画家にとっても、我々にも、まだまだ幸せな時代といっていいのだろう。



山百合と虫の音

崔承喜

御殿場からの富士 (スケッチ)

。。。

今日から二泊三日で避暑地であそんできます。”避暑地の出来事”は、明後日以降に報告します。
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避暑館

2010-08-23 21:07:51 | Weblog

これだけの猛暑が続くと、昼間の散歩はどうしても控えるようになる。そうすると、外出先は図書館とか映画館のような冷房の効いたところに足が向かう。今日は、ワイフのお気に入りの茅ヶ崎のイタリアンレストランに一緒に行った。帰りは近くの茅ヶ崎図書館に寄り、涼むつもりだった。”サンデー毎日”で曜日感覚が薄れているので(汗)、月曜休館であることをすっかり忘れていた。

仕方がないので、図書館隣りの高砂緑地の松林の中の日影のベンチにしばらく腰かけた。海風もあり、思いのほか涼しくて気持ちよく過ごせた。周囲の松林をみていて、ふと思い出した。鏑木清方は、戦時中、茅ヶ崎に疎開していたそうだ。松林が多く、とても気に入ったことを彼の著書に書いている。松林を海のようにみたて、その向こうに富士山という構図のスケッチを、先日、清方記念館でみている。当時は、この高砂緑地のように、茅ヶ崎には松林があちこちにあったのだろう。


ワイフは、このまま家に帰るというので、大船で別れ、ぼくは横須賀線に乗り換えて、月曜でもやっている逗子図書館に向かった。おどろいた。平日だというのに、雑誌類を閲覧する席がいっぱいなのだ。ここは席が多いので、こんなことはめったにない。すぐひとつ席が空いて、座れた。クーラーがよく効いていて、つい、こっくりしてしまった(汗)。図書館は絶好の”避暑館”だなと改めて思った。

午後5時頃、大船に戻った。大船は鎌倉市といっても、庶民的な地域なので、パチンコ屋さんが多い(ラーメン屋さんも多いけど)。パチンコ屋さんもクーラーがばっちり効いていて、”海物語”(パチンコ好きだった母さんからよく聞いていたので詳しいのだ;汗)かなんか、うっていれば、好きな人には、ここは最高の”避暑館”だなと思った。きっと、例年よりお客さんが多いのではないだろうか。

この写真、偶然、どちらも、”パ”が隠れて、放送禁止用語になってしまった(爆)、まずいことになってしまったが、撮り直しに行くわけにはいかないので、掲載することをお許し願いたい。これで思い出したが、山田洋次監督もこの手をつかって笑わせることが多い。寅さんシリーズの、どなたがマドンナのときか忘れてしまったが、そのときは夕暮れのネオンの”パチンコ”の字が点滅する画面だったが、パの部分だけが故障で消えているのだ(爆)。小津監督も結構、名画といわれている映画の中にも、Hな会話を入れて、くすくす笑いを誘っている。こういう大監督でもやるのだから、今回の掲載もどうぞご容赦していただきたいと思います。ぺこり。

それにしても、この猛暑、いつまで続くのだろうか。”避暑館”に行く日がますます多くなってしまう。
。。。。。

宮里藍ちゃん、おめでとう。米女子ゴルフツアー、岡本綾子さんの記録を抜いて、5回目の優勝。賞金ランキングもトップ。世界ランキングトップ、返り咲き間違いなし。沖縄県、また、うれしいことが続きましたね。
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シャガールとモーツアルト

2010-08-23 10:36:50 | Weblog

小林秀雄の名著”モーツアルト”にこんなくだりがある。モーツアルトの手紙の一節である。”構想は、あたかも奔流のように、実に鮮やかに心のなかに姿をあらわします。しかし、それが何処から来るのか、どうして現れるのか私には判らないし、私とても、これに一緒に触れることはできません・・・美しい夢でもみているように、凡ての発見や構成が、想像のうちに行われるのです。いったん、こうして出来上がってしまうと、もう私は容易に忘れませぬ、という事こそ神様が私に賜った最上の才能でしょう”

芸大美術館で開催されているシャガール展で、生前のシャガール自身が語っている、映像をみることができる。そこで、彼はこう述べている。”絵描きになったときから絵の描き方を忘れてしまった。心の中に湧き上がるものをそのままカンパスに描いているだけだ。神様が自分を通して描かせている”この言葉を聞いたとき、これはモーツアルトと同じだと思ったのだ。

そうゆう目でみると、シャガールの絵は面白い。故郷ロシアを離れ、パリに行き、ユダヤ人だったため、さらにアメリカに亡命する。流浪の人生を送っているのだ。悲しいだけではなく、最愛の妻ベラとの幸福な日々もある。シャガールの絵は、彼自身の人生模様と無縁ではない。そのときどきの心模様が多彩な色彩として、画面を覆わせる。ふいに、故郷、ロシアの(現在のベラルーシ共和国)の教会や田園風景が画面の端に出てきたりする。そして、人の顔も抽象的なときもあれば具象的なときもある、人が逆立ちしてたり、空を飛んでいることもある。ときには頭だけが離れて飛んでいる。

だから、どの絵もそれぞれ、まるでモーツアルトの曲を聞くように、楽しませてくれる。ただどれかひとつといったら、この絵だろうか。米国に亡命してから1944年に急逝し、しばらく絵も描けないほど悲嘆にくれていたが、翌年57歳のとき、再開し、愛妻ベラを偲び、31年に描いた”サーカスの人々”を二分割して、その左画面を描き直した作品”彼女を巡って”だろうか。悲しみがあふれてくるような絵だった。手元に置き、何度も何度も描き直したそうだ。

そして、第5室においては、なんと、モーツアルトとのコラボがみられるのだ。シャガールは舞台美術にも手を染めていて、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場のこけら落としに上演された、モーツアルトの”魔笛”の舞台装置から全出演者の衣装まで、すべて任されたのだ。その衣装デザイン、舞台背景の下絵等が展示されているのだ。モーツアルトとシャガール、ふたつのファンタジックな世界の融合は、すばらしい舞台になったらしい。”魔笛”上演史上に残る、名演目になったとのことだ。それはそうだろう、これ以上の天才によるコラボは空前絶後だろう。ぼくは、ここの展示室に一番長くいた。長椅子があり、その前で、耳を澄まさないと、きこえないくらいの小さな音で、音楽がながれていた。もちろん”魔笛”だ。ぼくは、この音楽を聞きながら、シャガールの衣装をきた俳優さんたちが踊り、歌う姿を想像していた。

(ちらしから)








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上野は今日も猛暑だった

2010-08-22 22:12:00 | Weblog
今朝、歌謡曲の記事をのせたので、夕方のも、やっぱりタイトルくらい歌謡曲に因んだものにしようと考えた。歌謡曲に詳しい人なら、ピンとくると思うけど、元歌は”長崎は今日も雨だった”なのだ(汗)。”ああ上野駅”という手もあったんだけど、これでは、話題が上野駅構内に限定されてしまい、1000円床屋が猛暑で空いていたとか、行きつけの、おいしい立ち食いそば屋さんが閉店してしまったとか、それくらいしか、書けないので却下したのだ。

今日は上野の芸大美術館にシャガール展を観に行ったのだけれど、それはのちほど報告するとして、公園内の”猛暑風景”をつづってみたい。

芸大美術館に向かう途中、公園内には結構、彫刻とか銅像がある。ぼくは石にも心があると信じているから(笑)、石の彫刻でも、きっと、口には出さないけど、この暑さには相当、参っているのではないかと思っている。

この彫刻は日傘を差していて、涼しそうだった。この彫刻家も、石にも心があると、雨や日差しをさえぎるために、傘をさしてあげてるのだろう。きっと末は、偉い彫刻家になるだろう。


この彫刻は”ただそこにある”という題名がついているように、もう悟りを開いている。だから、信長の焼討ちにあった、塩山・恵林寺の快川紹喜の辞世の言葉”心頭滅却すれば火もまた涼し”の心境だろう。

これは彫刻でないけれど、シャガールのポスター絵だが、”目には目を、歯には歯を”と真っ赤な太陽にまけないくらい、華やかな色で対抗していた。攻撃は最大の防御なのだ。ぼくも暑い時には、まけずに歩くのだ(汗)。

東博にも寄ってきたが、ここは、冷房がよく効いていて、みな仏像さんも涼しげな顔をしていた。 このあたり目に見ゆるものは皆涼し(芭蕉)

ただ火焔縄文土器だけは、自ら炎をあげ、暑苦しそうだった。  

常設展を観て、上野駅の帰り道、野口英世像に出会った。暑さにめげず、実験をしていた。さすが黄熱病の権威、熱中病なんかこわくない。

国立西洋美術館のカレーの市民は、西日にあたり、暑そうだった。暑いときには、かえってカレーライスがいいかもしれない。

考える人は日陰で、ゆっくり考えるふりをして、うとうと居眠りしていた。

猛暑に頭にきて、ヘラクレスの弓矢の先は西日だった。それだけは止めて。天照大神が天の岩戸に御隠れしてしまったら、世の中、なにもかも真っ暗闇でござんす。♪何から何まで真っ暗闇よ 筋の通らぬことばかり 右を向いても左を見ても 馬鹿と阿呆(あほう)の絡み合い どこに男の夢がある♪ たしかに。また歌謡曲になってしもうた。



上野駅に着いたら、むかしの美女が和服姿で涼やかだった。
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思い出のメロディー”歌がある明日がある”

2010-08-22 09:40:05 | Weblog
今頃、毎年放映される”思い出のメロディー”は、歌謡曲好きなぼくとしては、はずせない番組だ。今は暮れの紅白より、よっぽどいいと思っている。今回も2時間半に渡り、約40曲近くが歌われたが、知らない歌がひとつもない。ああ、昭和の歌はいいなと、つくづく思う。

はじめは、出演者全員の合唱による”いつでも夢を”。”歌がある明日がある”のテーマに相応しい歌でスタート。この曲は小百合ちゃんのヒット曲でもあるし、ぼくの最も好きな歌のひとつだ。小百合ちゃんは出演しなかったが、この歌をデュエットした、歌手生活50周年を迎えた橋幸夫が登場したときに、小百合ちゃんからお祝いのメッセージが届いた。そしてデビュー曲の”潮来笠”が歌われた。

50周年を越えるベテランの歌手も何人もいて、いまだ現役なのはうれしかった。82歳になったという三浦洸一は”落葉しぐれ”、ペギー葉山は”学生時代”そして、初代コロンビアローズは”東京のバスガー”。この番組の常連、二葉百合子は来年3月引退の予定なので、この番組は最後の出演となる。”岸壁の母”、浪曲家出身だけに歌の合間のセリフが決まっている。歌い終え、目に涙があふれそうになっていて、ぼくも目頭があつくなった。

20年振り、NHK出演という久保浩の出演も嬉しかった。魅惑のロマンティックボイスといわれた、吉田正の門下生だ。たしかぼくと同い年だ。”霧の中の少女”をしみじみ聞いた。千賀かおりの”真夜中のギター”。この歌も好きだった。昭和44年の歌だ、まさにぼくの青春時代。あの娘(こ)をつい思い出してしまったよ(大汗)。

途中、植村直己さんと共に、日本人エベレスト初登頂に成功された松浦さんが出演、当時の話をしてくれた。アタック隊として選ばれたふたりが、頂上を目前にしたとき、お互いにおまえが先にと譲り合った話には感動した。結局、ふたり一諸に足をかけたとのことだ。シェルパーをはじめ多数の援護隊によりなしえた偉業だが、松浦さんが歌集をつくり、キャンプでよく歌ったという。一番人気の歌は、”若者たち”だったという。♪君の行く道は 果てしなく遠いだのになぜ 歯をくいしばり君は行くのか そんなにしてまで♪登山隊にぴったりの歌詞ではないか。布施明と早稲田大学グリークラブが歌ってくれた。この歌はぼくら世代の、応援歌でもあった。

いずみたくコーナーでも、いい歌が目白押しだった。九ちゃんの”見上げてごらん夜の星を”。ここでは、司会をしていた”ゲゲゲの女房”の松下奈緒さんがピアノ演奏してくれた。うちの女房が彼女、音大でピアノをやっていたのよ、と教えてくれた。ますます好きになった(汗)。恋の季節(今陽子)、太陽がくれた季節、夜明けのスキャット(由紀さおり)、ふれあい(中村正俊)、そして”ゲゲゲの鬼太郎”(熊倉一夫)もいずみたく作曲だった。♪ゲ、ゲ、ゲゲゲのゲー昼はのんびりお散歩だ 楽しいな楽しいな おばけにゃ会社も仕事もなんにもない ゲ、ゲ、ゲゲゲのゲー♪ (大汗)

”戦争を知らない子供たち”(杉田二郎)は大阪万博のテーマ曲だったそうだ。万博公園からの中継だった。太陽の塔がみつめていた。アダモの出演にはびっくりした。一時病気されたがお元気なお姿をみせてくれた。大の日本好きで、通算すると滞在期間は3年間になるということだ。名曲、サン・トワ・マミー(岩谷時子訳詞)と”雪が降る”(安井かずみ作詞)を歌ってくれた。そして、いよいよ、名残おしいが、終盤に。川口松太郎も好きだった(ぼくも大好き)、八代亜紀の”舟歌”、森進一の”襟裳岬”と、そして、エンディングは、全員合唱で、NHKの歌番組”ステージ101”で生まれたヒット曲”涙を越えて”。

こんないい歌がいっぱいの時代に、生きて幸せな一生だった。まだ、こんなこと言うのは早いけど。


















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おめでとう 興南高、春夏連覇

2010-08-21 16:53:34 | Weblog

どちらにも勝させてやりたい決勝戦だった。わが神奈川県民としては、松坂大輔を擁した横浜高校以来の、9年ぶりの優勝をかなえせてあげたかったし、一方、基地問題でいらいら続きだった沖縄県民にも、夏の大会初優勝で、それも春夏連覇という快挙で喜ばせてもあげたかった。

13対1と、思わぬ大差での、東海相模の敗戦だったが、この猛暑の中、一二三投手、連投につぐ、連投で、疲れがピークに達していたのだろう。よくここまで、頑張ってくれた。準優勝、神奈川県勢としては久しぶりのことではないか。泣くな、東海相模、よくやったとほめてやりたい。

それにしても、興南の島袋投手、たいしたものだった。変化球主体で強力打線の東海相模を見事に抑えた。MVPがあれば、間違いなく君だろう。

。。。

我が家の決勝戦は、準々決勝で対戦した、東海相模対熊本代表の九州学院だった。ワイフは熊本出身なのだ。このときは、東海相模が10対3で大勝し、神奈川県出身のぼくの勝ちだった。不思議なもので、ぼくが茨城県民のときは常総学園が強く、よく応援していたが、その頃は、あまり神奈川県勢やぼくの生まれ育った故郷、東京の代表高の応援には力が入らなかった。やっぱり住めば都で(たとえが変かな)、今、住んでいるところが一番、愛着があるのかもしれない。だから、今、茨城県代表がどの高校だったかさえ覚えてません。









 
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川喜多映画記念館 ”映画の中の戦争と平和展”

2010-08-21 11:35:44 | Weblog

粋な黒塀の旧川喜多邸が、この4月に、”鎌倉市川喜多映画記念館”生まれ変わり、すでに二度ほど足を運んでいる。開館記念として、川喜多夫妻が輸入した名画が連日、上映され、ぼくらは”第三の男”を観てきた。展示室にも懐かしいポスターやスチール写真が飾られ、楽しませてもらえる。

昨日は、香川京子のトーク付き、”ひめゆりの塔”を観たいと、訪ねたがチケットが売り切れ、残念だった。でも展示室では、”平和を祈る・映画の中の戦争と平和”のテーマで、戦争に関連した映画の紹介がされていて、しんみり、みさせてもらった。

”ヨーロッパの二つの大戦と女性たち、そして子供たち”のコーナーでは、ぼくがリアルタイムで観た映画は、ほとんどないが、名画ばかりなので、のちにテレビなどで観たものもいくつか含まれてる。洋画好きの人なら、きっと、ほとんど知っている映画だと思う。

ぼくも観た、ソフィア・ローレン主演の”ひまわり”。イタリアからソ連まで探し求めていった夫は新しい妻と生活していた、悲しい物語だった。ポスターのソフィア・ローレンのうつくしいこと(汗)。”第三の男”にも出ていた、アリダ・ヴァリ主演の”かくも長き不在”、そして、”戦争と貞操”。

イングリッド・バーグマンの”カサブランカ”と”哀愁”のスチール写真も。

カトリーヌ・ドヌーヴの”終電車”、”女猫”、”地下水道”、”アンネの日記”、”ふたりの女”そして”武器よさらば”の当時そのままのポスターも数々。戦争に関連した名画はずいぶん多いのだと改めて思う。

井上ひさしコーナーもあった。もちろん”父と暮らせば”である。自筆の脚本や宮沢りえの着用した衣装も展示されている。当時のことを考え、ワンピースもブラウスも和服の仕立て直しだそうだ。よくみると確かに着物の柄のようだった。次回の上映(8月31日~9月5日)は、この映画ということなので、前売りで買っておこう。

そして、現在上映中の”ひめゆりの塔”コーナー。ぼくも沖縄旅行したとき、ひめゆりの塔も遺骨がみつかった壕にも参拝した。映画では津島恵子と香川京子が主演し、今井正監督だった。ここでは、そのポスター、スチール写真のほか、脚本家、水木洋子直筆の綿密な取材ノート、構想メモが展示されている。

今日の”ゲゲゲの女房”でも、水木しげるが、激戦地ラバウルの仲間たちのことを思い出しながら、涙ながらに戦記物を描いている姿が映しだされていた。戦争はむごいものだ。
。。。

旧川喜多邸。ここが現在の記念館になっている。

旧川喜多邸別邸。来客の接待に使用したようだ。東京にあった和辻哲郎の旧居を敷地内に移築した。和辻哲郎といえば、”古寺巡礼”。奈良のお寺や仏像さんを最初に紹介した本だ。もちろん、持っています。先日、三井記念美術館で奈良の仏像さんを観てから、読み返しています。お墓は東慶寺にあります。

現在も旧和辻邸は残っています。

石燈籠も残っています。

巨木桜も残っています。写真は、満開の来春までお待ちください。待ちきれない人は、ぼくのブログ、今年の4月10日をみてください。
・・・
今日は地元神奈川、東海大相模と沖縄、興南の決勝戦。見逃せない。どちらも勝たせてあげたいですね。引き分けで両校優勝って、ないのだろうか。
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一日放浪記

2010-08-20 18:59:25 | Weblog
今日は、猛暑が和らぎ、比較的過ごしやすい一日だった。こんな日は朝から活動する。玄関を出てから、大船駅に向かう間に、今日の放浪はどういうコースにしようかと考える。そうだ、確か川喜多映画記念館で、映画”ひめゆりの塔”が上映され、それに出演された香川京子さんが来館し、講演する日だ、と、はたと気がついた。たしか午後からだが、午前10時開館と同時にチケットを買わないと、売り切れてしまうと、急いだ。9時半に到着したが、掲示板をみてびっくり。どうも販売方法を変えていて、前売りもするようになり、すでに完売だった。

で、すでに開館している、近くの鏑木清方記念館に入った。”清方の生きた時代”というテーマで、時節柄、戦争に関連させての展覧会だった。ちょうど、学芸員の研修生が、グループに説明しているところで、それに紛れ込み、解説を聞いた。ちょっとモラルの欠けるおばさん達で、勝手な行動をしたり、大声で話したり、困ったオバタリアン達だった(爆)。清方美人さんも苦笑していたことだろう。そこに、30分ほどいて、また川喜多映画記念館に戻った。展示室だけもと、ポスターやスチール写真等、見学した。こちらも、戦争に関連した映画のものだった。ソフィア・ローレンの”ひまわり”のポスターもあった。これらの展覧会については、そのうち、別途、報告します。

(鏑木清方記念館)

(川喜多映画記念館)

そして、八幡さまの前のお蕎麦屋さんで田舎そばを食べ、境内の鎌倉国宝館に入った。”仏像入門/ミホトケをヒモトケ”展だった。だじゃれが好きなぼくだから、”ミホトケをヒモトケ”にひっかってしまったのだ。なかなか、いい企画で、夏休みの子供たち用に解説してあり、ぼくにはぴったりだった(汗)。お昼頃から雲が切れて、日がさしてきて暑くなってきたので、冷房の効いた館内は天国だった。仏像さんに囲まれて、長椅子でうつらうつらしてしまった、まさに天国だった(汗)。

外に出て、境内で巣をつくっているミツバチ君の様子や、倒木大銀杏の様子を観察した。ミツバチ君は相変わらず、元気な姿をみせてくれた。大銀杏の根元からの若枝は、これまでの猛暑がこたえている感じで、少し元気がなかった。昨日なら俳句の日(8/19)なので、”やせ銀杏 負けるな 一茶ここにあり”と俳句で応援してあげたけど、8/20は”やつれの日”なので、この猛暑じゃ、誰もやつれていて当たり前だから、応援してあげなかった。




それから、小町通りを歩いて、鎌倉駅西口に出て、虚子のお孫さんが通った御成小学校の横を通り、鎌倉中央図書館に行った。そこでは神奈川県の民話集を読んだ。とくにお化けの関係を拾い読みした。ゲゲゲの影響かな。身体が冷えてきたので、今度は江ノ電に乗って、極楽寺に行った。あそこの、サルスベリがすごいのだ。ちょうど見頃になっていたし、門前のピンク色の芙蓉もだいぶ咲いてきた。




そして、ここまでくればと、成就院に行った。紫陽花のときはすごい人出だったけど、今は閑散としている。紫陽花の代わりに、玉紫陽花が一本咲いていた。紫陽花坂の向こうの由比ヶ浜は、海水浴客でにぎわっていた。境内の、パワースポット、縁結び不動明王は、6月には長蛇の列だったが、誰もいなかったので、お参りしてきた。縁結びはお願いしてこなかった(爆)。ヨン様もこの不動明王の写真を撮ったそうだ。本堂前に、ヨン様がきたときの、ある雑誌の記事が貼られていて知ったのだ。







約2万歩の放浪の一日だった。ブログ記事のネタも三つほどできたし(汗)、有意義な一日だった。でも香川京子さんに会えなかったのは残念だった。素敵なお姉さんだったなあ。もういくつになったのだろうか。
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もみじマークのどこがいけないの?

2010-08-20 06:47:45 | Weblog


70歳以上の高齢者ドライバーの車の表示の”もみじマーク”が、このたび”クローバーマーク”に変わるのだという。ぼくは”もみじマーク”はとてもシンプルで、初心者用の”若葉マーク”に対応している、とてもいいデザインだと思う。なぜ、変えるのか、理解できない。

”枯れ葉のようだ”と不評だったという。誰がそんなことを言ったのだろうか。ぼくの回りでそんなこと言っている人はひとりもいない。70歳以上の人を対象にアンケートでもとったのだろうか、でもそんな話も聞いたことがない。

人それぞれだから、中には”枯葉のようで、厭だ”と思う人が多少いるかとも思うけど、多数派でないことは確かだ。その証拠に、新聞記事によると新デザインに寄せられた意見はたった1400件だという。きっと”枯れ葉のようだ”と考えている人は1億人のうち1500人程度だろう。

想像するに、1)大新聞のあほ記者が、今日はネタがないな、隣りの爺ちゃんが文句言っていたから(あるいは二、三投書があったから)、おおげさに書いておこう、と記事にした。2)その記事をみて、警察庁のあほ官僚が、おれの手柄にしようと、会議で提案し、変更することに決めた。こんな程度のことで決まっていったのだろう。

そのうち、四葉のクローバも、”苦労婆”とは年寄りをバカにしているとか、四葉は死場のことか、そんなに高齢者をあの世に追いだしたいのかと、投書がくるだろう。

さようなら、もみじマーク。一事が万事で、こんな程度のばかげた”改革”が最近、多いですね。
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”借り暮らしのアリエッティ”でさようなら

2010-08-19 10:38:50 | Weblog


この月末で閉館する映画館”フジサワ中央”のお別れに、三鷹のジブリ工房制作の”借り暮らしのアリエッティ”をふたりで観に行った。お別れに相応しい、いい映画だった。

宮崎駿の企画、脚本で、米林宏昌監督の100分ほどのアニメ作品である。一寸法師くらいの小人族の三人家族が郊外の一軒家の床下に、”家”を構えている。ときどき、床上の人間家族の、角砂糖や食料品をちょっとだけ、借りて暮らしている(借り暮らし)。小人家族の掟は”人間にみられてはいけない”だった。ところが、ある日、小人の少女アリエッティは、心臓病で療養中の少年、翔に見られてしまう。

そこから物語ははじまり、少年はやさしく、少女に接するのだが、憎たらしい(笑)お手伝いのハル(声;樹木希林)にも見つかり、小人家族は引っ越ししなければならなくなる。別の小人の操縦するヤカンの船で家族が川を渡ろうとするとき、淡い恋心を抱いていた少年が、はあはあしながら、彼女の名を叫びながら、追いかけてくる。少女は船から飛び出し、少年のもとにかけつける。そして、お別れに、彼女のヘアーバンドを少年に贈る。少年はこれは、ぼくの心臓にと、悲しい別れをする。ほろりとさせるラストシーンだった。

アリエッティがとても可愛いく、また少年の澄んだ目も印象的だったし、何よりも背景の景色がていねいに描かれ、さすがジブリ工房だと思った。

宮崎駿の企画、脚本ということだし、この映画で、いいたいことは、人間どもよ、いい加減にしろよということだ、と思う。好き勝手放題して、地球環境を荒らし、絶滅危惧種を急増させているホモ・サピエンス。いや、動植物だけではない、少数民族のクニに入り込み、文化や環境をめちゃめちゃにしている某大国。逃げ出して行った小人族と重なるではないか。さらに時代を遡れば、我が国だってそうだったし、欧米諸国の新大陸発見以来の、土着民族に対する横暴な振る舞い、もっと遡れば、小型原人ホモ・フロレンシスの滅亡、ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)の滅亡にもホモ・サピエンスがかかわった可能性が強い。

とても、うつくしい映像と、ほのぼのとしたヒトの少年と小人族の少女の愛、そして、いろいろ考えさせてくれた映画であった。


。。。

さようなら、フジサワ中央
















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