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気ままに

大船での気ままな生活日誌

モンパルナスの女王キキ

2012-06-24 11:04:24 | Weblog
先日観た映画、”ミッドナイトパリ”は1920年代のパリが主たる舞台だった。そこでの主人公は、ピカソの愛人で、モディリアーニも愛した(マリオン・コティヤール演ずる)アドリアナだった。アドリアナは実在の人物だったのか、気になって調べてみた。ピカソは何人も愛人がいたが、アドリアナの名はどこを探しても出てこない。一方、ピカソがパリに出て最初に付き合ったのはフェルナンド・オリヴィエであることが知られている。また、彼女がイケメンのモディリアーニに魅かれていたことも事実のようだ。このことから、彼女が”アドリアナ”のモデルであった可能性が高いのではないか、と考えた。

さて、1920年代のパリのモンパルナスには、映画のアドリアナ以上に、芸術家たちに囲まれ、”モンパルナスの女王”と呼ばれた女性がいる。先月の”美の饗宴”で紹介されていた、藤田嗣治の”寝室の裸婦キキ”のモデルになったキキである。

最近キキの伝記(キキ/モンパルナスの恋人 ルー・モルガール著、北代美知子訳)を読んでみた。1901年にブルゴーニュの私生児として生まれ、12歳でパリに出る。画家のモデルなどをして暮らしていたが、彼女を有名にしたのが、藤田嗣治だった。ふたりの出会いが面白いので紹介する。

その日本人の画家はドランブル街5番地で昔の厩舎を改造したガレージをアトリエに使っていた。ワタシ、ツグハル、フジタ、帝国陸軍ノ将軍ノムスコ、と自己紹介した。でもみんなはフー・フー(お調子もの、浮かれもの)と呼ぶ。前髪はおでこに下がり、耳には金の輪をつけ、平たい鼻に丸い眼鏡をのせている。

その日はキキはいたずらっぽく振る舞い、モデルでありながら自分がフジタの肖像を描いてしまう。それをカフェ”ル・ドーム”で金持ちのアメリカ人に売ってしまう。翌日、フジタは復讐のため、こんどはキキをおとなしくさせ、寝室のキキを描いた。極細の筆で黒地のクレトン更紗の上に、陰影をつけずに描いた。この裸婦像が出展したサロン・ドートンヌで大評判となり、その日のうちに8千フランで売れた。それ以来、ふたりはモンパルナスの有名人となったのだ。フジタ、36歳のときである。

その後、有名人キキは、ポーランド人の画家、キスリングをはじめとする、”エコール・ド・パリ”とよばれる時代の外国から集まってきた画家たちのモデルとなった。さらに、米国人マン・レイとの出会い。写真のモデルに来た、裸のキキをみて、まるでアングルの”泉”(ルーブルにある)のようだとつぶやき、ぼーとしたマン・レイ。写真の出来栄えも、アングルの”トルコの浴場”のような雰囲気が出ていた。キキもこんな美しい自分をみたことはないとつぶやく。そしてフォールインラブ。愛人関係は8、9年つづいた。マン・レイの映画に出演したり、シャンソンを歌ったり、正真正銘のモンパルナスの女王になったのであった。

しかし、晩年はさびしい生活を送ることになり、52歳で亡くなる。病院を出発した葬列は、墓地への道を通らず、モンパルナスへ向かい。キキが愛した場所、それぞれの前でちょっとづつ立ち止まった。それぞれがキキの人生のひとつのエピソードだった。ル・ドーム、ラ・クーポール、ル・セレクト・・・モンパルナス中の人々が葬列を送った。葬儀を終え、帰り道、仲間がラ・クーポールに集まった。フジタがつぶやいた。”もう二度と再びモンパルナスに戻ってくることはないだろう”。で、この伝記は終わる。

アーネスト・ヘミングウエイの言葉 ”決してレディだったことのない女王”


藤田嗣治の”寝室の裸婦キキ” フジタもキキも有名にした名画。パリ近代美術館にある。


マン・レイの”黒と白” キキがモデル


マン・レイの”アングルのバイオリン”キキがモデル


以下、ぼくの巴里旅行の写真から。

ヴァヴァン交差点前の地下鉄の駅


ラ・ロトンド ヴァヴァン交差点にあるカフェ、キキが良く出入りしたカフェ


ラ・クーポール


ル・ドーム




猫のいる自画像 (藤田嗣治)猫の顔もなかなか面白いです。


参考(笑) アングルの”泉”

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