気ままに

大船での気ままな生活日誌

三国志展を振り返る

2019-10-07 10:25:43 | Weblog

もう終わってしまったが、東博で夏の間、開かれていた”三国志展”のことを記事にしていないのに気づいた。三国志については、有名場面のいくつかを知っている程度で、小説や漫画、また人形劇でも通して読んだり、見たりしことはなかった。だから、この展覧会で、その歴史を知ることができて良かったと思う。

この展覧会では撮影可能で、つい、ぱちぱち撮ってしまったが、そのいくつかをここに残しておこうと思う。

三国志の時代とは。後漢の献帝が魏に帝位を譲った220年から280年までの魏、呉、蜀の三国が争覇した時代。

三国志”は陳寿が記した史書。それに対して”三国志演義”は、史書を基に明代に作られた小説。これには、説話本や雑劇からの逸話も含まれている。

三国の親玉。曹操(魏)、劉備(蜀)、孫権(呉)。

劉備に仕えた関羽。(関羽像、明時代制作)

三顧の礼により劉備に仕えた諸葛亮(孔明 )。

関羽と張飛像(清時代制作)。一時、恩返しのため曹操の元に居た関羽が主君、劉備の元に帰る途中、寝返ったと勘違いした張飛が斬りつけようとする。のちに誤解が溶け、謝る。

後漢時代の出土品が結構、見もの。墳墓に副葬された儀仗俑。

五層穀倉楼(後漢)

四層穀倉楼(後漢)

あっと驚く矢の部屋。”三国志演義”では孫権軍に来ていた諸葛孔明は、曹操軍との水上戦に備え、10万本の矢の調達を依頼された。諸葛孔明は30隻の船を借り受け、幕と草で囲い、わずかな兵士で、夜半、奇襲と見せかけ、曹操軍に近づき、太鼓をたたき、声を上げた。曹操軍から無数の矢が船に飛んできた。船団は大量の矢を捕獲し、自陣に戻った。なお、この場面は、三国志正史では、少し、違った記述である(笑)。

本展のハイライト。2009年に発見された曹操の墳墓、高陵。天下統一の志を果たさず、建安25年(220年)、ついに最期の時を迎えた。三国志演義では悪玉に描かれているが、人材登用には出自よりも才能を優先させ、文学を愛好するなどの一面も。また、葬儀についても、質素にせよ、埋葬は、遺体を包むのは平服でよい、金銀財宝を墓の中に収めるな、など指示していたようだ。

高陵の模型。

実際の高陵の写真。

出土品

副葬品目を刻んだ板。その中の一つに”魏武王”(曹操のこと)の三文字が。これが曹操の墳墓の決め手となった。

白磁。これまで白磁は6世紀後半(隋)の頃からといわれていたが、この発見により大幅に遡ることになる。

あとは、はしょって(笑)、”世界一短い三国志”。”晋が呉を平らげ、天下太平となった”の文字。

晋平吾天下

太平

とても為になった展覧会でした。

それでは、みなさん、今日も一日、お元気で。今週は”学問の秋”。ノーベル賞ウイークですね。二つはほしい!ニコニコ。

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