まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

マスコミへの思い

2005年10月29日 | プンプン
 静岡県清水市で、道路に飛び出したネコを避けるためにハンドルを切った運転手が、保育園児に突っ込む…という事故が大きく報道されました。半月ほど前のサレジオ学園前の事故といい、最近、歩行者に車が突っ込み、死傷者が出るという事故が頻発しています。
 さて、その清水市の事故。多くのモーニングショウで取り上げ、それぞれの番組で、コメンテーターと称する人達が、かって勝手にコメントを出していました

 「むー、この保育園児が渡ろうとして、車が途切れるのを待っていたところは、横断歩道だったのですか?」(確かに、真っ当な疑問、質問です)
 「ハイ、この場所は、横断歩道ではありません。」(質問に、短く答える)
 「近辺に、横断歩道はなかったのですか?」(ものすごく真面目に、尋ねる)
 「ハイ、それがあるんですよ。あの、この保育園児達が通う、まさに「その保育園」の真ん前に、横断歩道はあるんです。…どうぞ、このフリップをご覧ください!」(と、保育園の絵の真ん前に、大きく、太く、横断歩道が書かれている。リポーターは、得意げにそれを見せる)
 「あれー?おかしいじゃないですかあ。保育園の真ん前に横断歩道があった!それなのに、どうして保母さん達は、保育園の真ん前にある横断歩道を渡らなかったのでしょうねえ?」(眉間に皺を寄せ、こんな訝しい事はない、という顔をして)
 「そうなんです。どうぞ、もう一度フリップをご覧ください。…確かに横断歩道はあるのですが、ご覧の通り、まずは保育園の真ん前のひとつ目の横断歩道で、小さな道を横切り、次にまた、2つ目の横断歩道を渡ると、やっと、この保育園児が歩いていた道に出るのですね。ですから、園児達の目的地であった美術館側に渡るためには、保育園前の横断歩道を利用するとなると、3回、横断歩道を使って、道を渡らなければならなかったわけです。」(用意されたフリップによれば、保育園は、ちょうど三叉路が交わるようなところに建っていて、横断歩道は、その三叉路に引かれています。園児が歩いていた方向、つまり、三叉路の方向と反対の方向には、今回、事故があった大きな道を横断するための、横断歩道はありませんでした)
 「ということは…つまり、保母さん達は、3度、横断歩道を渡ることは面倒だから、という事で、敢えて危険を犯してまで、横断歩道のないところを、園児に渡らせようとしていた、わけですかあ…むー…それはちょっとねえ…責任感がないというかあ…」(いかにも自分が見識者、文化人、という顔で、常識的な事を胸を張って語る)
 
 何だか、私は見ていて、とってもイヤな気分になりました。
確かに、そのコメンテーターの言うように、保母さん達は、道路交通法という法規の前では、横断歩道を渡るべきだったのかもしれません。もし、これが何らかのかたちで裁判などで争われるようになれば、そこは保母側のウィークポイントとなるでしょう。
 しかし!
36名もの園児です。たとえ細い道とは言え、3度も道路を横断させるなど、至難のわざだと思います。お母様達ならば覚えがおありですね。わが子たった一人の手を引いているだけでも、道を渡るという行為が、どんなに大変であるかを…それを、幼い保育園36人、3度も道を渡る…危険度が増すだけです。当然の判断として、保母さん達は、目的地の美術館前、横断歩道のないところではあるけれど、たった1度だけ、車が途切れるのを待って、園児を横断させようとしたのでしょう。
 コメンテーターだった見識者…一度、36人は無理でも、5人の幼児を連れて、町を歩いてみたらいいのです。知識の豊富さや頭の回転の早さ、偏差値など、何の役にも立たない子供との時間を、五感で経験なされば、ちょっとは静かになるでしょうね
 
 最近、とみに私は思います。報道というものの責任、マスコミというもののあり方、ちょっと娯楽?に走っていないか?と。娯楽という表現があまりに不適切であれば、視聴者、読者の好奇心に照準を合わせ、悲しみという思いも含めた「楽しみ」の提供に走り過ぎていないか?
 電車事故が起これば、黒っぽい服を着ることだけで弔意を表し、実際には犠牲者の友人の声をあさり、時にはその生い立ち等も紹介して、「犠牲者という事実以上のもの」をそこで視聴者に提供する。衆議院選挙、靖国参拝…事実を伝えるだけには留まらず、文化人、教育者、俳優、ありとあらゆる人をコメンテーターとして召集し、あまり事実には関係のない事や、時には的を射ないゲストの意見まで放送する… 新聞でさえ、そういう傾向にあるようです。
 テレビというマスコミが、報道、ニュースも含めて、「テレビ、それはすべてエンターテイメントである!」という考えの元、そっくり色合いを変えるというのでは、それはそれで受け入れられるかもしれません。
 しかし、少なくとも、有識者を意識した新聞が、露骨に「自己主張」をしたり、読者の目を引くための奇をてらった活字を並べる事はあまりに可笑しく、悲しく、恥ずかしい

 10月18日の朝日新聞。新聞週間特集として、「新聞への私の注文」という別刷りがありました。「信頼される報道のために」という副題がついているその中に、ネット掲示板「2ちゃんねる」の管理人、西村博之氏がこんな事を書かれています。「…それでも新聞社が優れているのはファクトを集める能力だと思います…だから、新聞に求めるのはファクトを集める作業に特化してほしいということ」
 私がブルーになった清水市の事故報道は、新聞ではなくテレビではありましたが、私はこの西村氏の意見に、非常に強く賛同しました。事実だけを伝える、それこそが大切な事であり、そこから先は、ひとりひとりが感じ、考える事ではないのか?意見や感想まで、一元化された報道がなされるから、人は自分でものを考えるなくなる…という事も言えないだろうか?と。

 大変飛躍しているように思われるかもしれませんが、ここ数年、子育てにおいても、それことインターネットをフルに活用し、膨大な情報だけを集め、それを鵜呑みにして、自分で物事を考えずに子育てをする親が、飛躍的に増えてきているように思います。情報化時代に溢れる「子供に良いもの、子供に良いこと」ばかりを集め、それをそっくりそのまま実践しようとする…こうすれば、こうなる、これで、こうなる… ちがうんじゃないかなあ?
 子供は、頭ではなく、心、感性で育てるもの。わが子の寝顔を見ながら、何度も泣いて、笑って、腹を立てて、頭を抱えて、地団駄ふんで…それでも果敢に、一生懸命、心をこめて接していくこと。私は、それが子育てだと思っています

 
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