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まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

「粗末にしては、いけません!」

2007年10月09日 | にこにこ
 先日、ある年長児に・・・
  「あなたは、どんな時にお母さんに叱られますか?」
と質問をしたら。
  「はい、ものを粗末にしたときです
という答えが返ってきました。

 私は、とっても久しぶりにすがすがしい気持ちになりました 「すがすがしい」というと、???と思われるかもしれませんね。でも、こういう答えを5,6歳児から聞いたのは、本当に久しぶりだったからです
 「兄弟げんかをした時です」とか「お友達とケンカをした時です」のような答えの場合はさておき、今回のような答えは、家庭生活の中での「躾」の部分ですから、子ども達の答えは「良い、悪い」「正しい、間違っている」という尺度の判断外、です。
 ただ、最近では、躾の類に関する子ども達の答えでは、圧倒的に、「人に迷惑をかけた時です」という場合が多く、「ものを粗末にする」という答えが返ってくることは稀でした
 もちろん、子ども達の答えに、「粗末にしたとき」という答えが返ってこないからと言って、今どきのご家庭が、子ども達に「ものを粗末にしてよい」と教育なさっている、とは思っていません

 辞書で「粗末」という言葉を引いてみると、名詞としては「作りが雑なこと。品質が劣っていること。また、そのさま。」とあり、「粗末にする」と動詞に的に使うと「扱いがおろそかなこと。大切に扱わないこと。また、そのさま」とあります。
 
 それにしても・・・私は、この「粗末にしたとき」に叱られる、と答えた子ども、その家庭が、妙にキラリンと光って見えました
 お母様におたずねすると、その日の朝、その子があまり食べたくないものが食卓に上り、それを残す・・・という一連のことから、このご注意になったのだそうです。
 この子にとって、私の「どんな時にお母さんに叱られますか?」という質問が、まさに叱られたすぐあとで、記憶として新しい、ということで、間髪をいれずにこの答えが返ってきたわけですが、それにしても「粗末にする」といういまどきのご家庭では、あまり使われなくなった言葉を、5歳の子どもが神妙な顔をして語ってくれたことを、私は大変うれしく思いました

 私は、このブログの中で、以前に何度か書いたことがありますが・・・
飽食の時代に生きる近頃の子どもは、食べ物に対して、また、食べられるということに対して「感謝の思い」がほとんどありません
 クラスの中で・・・
  「ねえねえ・・あなた達がいつも食べてるご飯ね。どれだけの時間をかけて、どれほどたくさんの人が、一生懸命になって作られたものだかわかるかな?」という質問をすると、子ども達は総じてキョトンとするものです
 確かに、こんなことは、都会に暮らしていて、スーパーで袋詰めになった2キロや5キロのお米しか見たことのない子ども達に尋ねたところで、実感がないのが当然でしょう。
 最近では、「自分達でお米を作ろう」というような企画で、郊外の田んぼに行って田植えを自ら経験し、秋になると、自分で田植えをした田んぼに再び行き、実った稲穂を刈り取り、脱穀してもらって、自分で作ったお米を食べる・・・というような経験をする子ども達も増えました 何にもも知らず、ご飯が何からできているものなのかを全然知らない、というよりも、それはそれは意味のあることです しかし、やはり、田植えと稲刈りだけでは、「稲作の真似事」にしか過ぎません
 
  空梅雨の空を仰いで、元気のない青い稲を心配そうに眺める毎日・・・
  雑草や害虫から稲を守り、育てる苦労・・・
  刈り取る間際、実った稲穂を見守りながら、近づいてくる台風情報に目を凝らす時間・・・
 本当に、それを生活の糧として、稲作をしている農家の方々のご苦労を、私達大人も、それほど「身近に感じること」もなく、毎日、当たり前のようにご飯をいただいています

 食卓に上る多くの食材・・・
いったい、どのようにして、この食卓にたどり着いたのか?どんな人たちの苦心の上に、私達の食事があるのか? 
 大人も、親も、真剣に考えてみなければ、本当の意味での、心に響く、子どもへの「性根の入った言葉かけ」などできないかもしれません

 クラスのあと、子ども達が持ってきた折り紙を見せてもらうと、私が子どもの頃には想像もできなかったような、美しい折り紙を持っています
 両面に色がある、というようなものは当たり前の時代で、裏表が違う柄だったり、グラデーションだったり・・・
 でも、そんなきれいな折り紙を、案外、子ども達はささっと折るだけで次の折り紙を出し、ひどいときには捨てて帰ってしまいます
 それを見ていると、「何か違う・・・」と感じてしまう私です。古い・・・と笑われてしまいますが、私が子どもの頃は、折り紙一枚も、本当に大切にしました よく、新聞に挟まってくる広告の紙を使って、私の祖母などは折り紙を教えてくれたものです。紙飛行機などは、チラシで作るのが当たり前でした

 ビュッフェスタイルのレストランも、高級な折り紙も、決して悪いものだとは思いません
 たくさん並んだ美味しいお料理は、人の心を豊かにしますし、さまざまなものを知り、食べることは、健康にも大切なことです
 きれいな色の折り紙で折る鶴はやはりきれいですし、明るい色を見ていると、幸せになりますね

 でも
「食べ物を粗末にしてはいけません!」「紙を粗末にしてはいけません!」という注意を、親も、躾の上での慣用句として上っ面だけをすべるように伝えるのではなく、性根の入った注意としてしっかり伝えられるように、そして、それを聞いた子どもも、粗末にすることの罪悪感を、肌で感じられるようになるために、それが「自分達の目の前に届くまでの」ことに思いを馳せる機会が、定期的に必要なのではないか?と思いました
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とらえ方ひとつで!

2007年10月03日 | にこにこ
 この場をおかりして・・・
7月21日、沖縄県伊江島で、トライアスロン競技中、自転車から落車。肋骨3本、恥骨、骨盤臼蓋部骨折をした夫でしたが、おかげさまで、すでに普通生活に戻っております 完全復帰しておりますことをお知らせするとともに、大変ご心配をおかけし、多くのみなさまからお見舞いのお言葉、励ましのお言葉を頂戴したことに、あらためてお礼申し上げます。本当にありがとうございました

 夫は、日頃からランニングやスイムで鍛えた筋力、体力が功を奏し、驚異的な早さで回復しました
 また、事故後に搬送され、1ヶ月間入院した沖縄県名護市の沖縄県立北部病院が、マラソンやトライアスロンという競技に対して非常に明るく、理解が深かったため、骨折や気胸の治療と同時進行で、健康で無傷の筋力を入院することで落としてしまうことなく、むしろ、骨折、安静によって落ちてしまう筋力や体力を補わなければならない、という考え方で、事故後「早い時期から、筋力トレーニング的なリハビリ」をしてくださいました この事も、信じがたいほど早い快復に大きな意味を持ちました

 沖縄のドクターや看護師さん達は、夫が全く動くことができず、ベッドの上だけの生活を余儀なくされていた時期から、常に部屋をのぞいては・・・
 「南坊さん、一日も早く良くなって、沖縄で開かれる競技に参加しましょうねえ
 と、声をかけてくださいました 車椅子や松葉杖で歩けるようになると、売店や食堂の方々まで、
  「ツールドオキナワは、名護であるんですよー。知っていますかあ?」とか・・・ 
  「南坊さん、トライアスロンの復帰戦は、沖縄の大会がいいと思いますよー!」とか・・・盛んに声かけをしてくださいました
 
 これが都会であったなら。
  「南坊さん、もう、年齢だって50歳を過ぎてるんだから、あんまり過酷な趣味は考えもんですよ・・・ 他に、たくさんあるでしょう、危険を伴わないスポーツが。今度の怪我は、そんな警告の意味もあるんですよ、きっと
 というような言葉になったのではないでしょうか・・・(実際、横浜の病院では、これに似たことを、何度言われたことでしょう・・・

 都会では、50歳を過ぎる年齢になれば、スポーツどころではなく、メタボリックシンドロームを危惧する人達がほとんどです。
「スポーツは健康に良い」とはわかりつつ、ジョギング程度なら理解の範疇。しかし、毎週末、必ず20キロくらいは走るトレーニングをしたり、時間を見つけてはささっと1キロ泳いだり、苦手といいつつも自転車の練習をする・・・・そんな夫は、「変わり者」の目で見られます
 今回の怪我は、まさに変人が、勝手に沖縄まで行き、海を満喫するでもなく、仲間とトライアスロン そして、勝手に転んで、骨折、入院・・・ ああ、バカだなあ・・・ってところ、です・・・

 じつは、私も不思議に、夫の事故のあと、すぐに思ったことは「ほら、こんなことになってしまって・・・もう、絶対にこんな危険なスポーツは止めてもらおう」ではありませんでした。
 もちろん、転倒して肋骨骨折、という程度のケガではなく、大きな骨の骨折でしたし、骨盤の中でも「臼蓋部」という、足の骨を支える部分の骨折で、歩行に大きな影響のある部分 全治3ヶ月、と言われ、ICUに緊急入院した時には、「これはとんでもないことになった」と思いました。
 事故後2,3日は、状態の急変もありえるから、と言われていて、多くのことを考える余裕もありませんでした

 けれど、次第にさまざまな数値も安定し、あとは時間の流れを待つのみ・・・ となってきた時には、私はひたすら、夫がまた、お仲間との大好きなトライアスロンに復帰し、息子との沖縄でのダイビングを楽しめるように、一日も早く、快復を と願い、「自転車をやめる」ことなど、考えもしませんでした
 むしろ、この事故を教訓に、自分の筋力や体力を過信せず、一層、適切なトレーニングに励めるよう、また、身近な仲間も、あらためて自転車の危険性を再確認できるまたとないチャンスとなるよう、願いました

 「人間万事、塞翁が馬」と言います。
 私は、まさにそう思います

 自分に降りかかったことを、どのように受け止めるか?受け入れるか?というのは、とても重要なことです。
 受け止め方によって、前進することもできれば、足踏みをしたり、時には後退してしまうこともある・・・

 今回の夫の快復には、沖縄の土壌が大きく関係しています
 あの「ゆいまーる、いちゃりばちょーでー」のあたたかい心を持った沖縄の人達の、「前向きな捉え方」「前向きな言葉かけ」が、1500キロ離れた横浜と名護を5往復することを余儀なくされた私の心を明るく、ハッピーにしてくれました 「旅行だったら、とうの昔に帰ってしまっていたところ。住人でもなく、旅行者でもない、この摩訶不思議な立場で、たーくさんの『沖縄』を感じよう」という意欲を持たせてくれました

 そして、「僕は、なんてバカなことをしたんだろう・・・ 多くの人に迷惑をかけて・・・」と、怪我の痛さの何倍も、精神的に落ち込み、どん底の暗い気持ちを抱えた夫の心を「骨折だけ、これだけで済んでよかったんだ」と気持ちの切り替えをさせ、せっせとリハビリに励む鋭気を与えてくれました

 私達だって、物事の捉え方で、「沖縄の人」のようになれるのです。
私はあらためて、自分自身のために、これからの人生、気持ちの持ち方を自分で上手くコントロールし、後退も足踏みもせず、常に「前に進む」ことをモットーにしていきたい、心からそう考えています

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中秋の名月

2007年09月26日 | にこにこ
 昨日は中秋の名月。
澄んだ秋の空に、まあるい美しいお月様が出ていました 科学的に言えば、本当の満月は明日なのだそうですが、まあ、そんなかたいことは言わず・・・昨夜は素敵な満月でした
 昔、学生の頃、何気ない雑談で、「太陽と月、あなたはどっちが好き?」みたいなことがあって、私はひたすら「私は、断然、太陽やね 何が何でも好きなのは太陽」と答えたことを妙に覚えています
 似たような記憶ですが、やはり大学時代、イギリスの作家の作品を使い、英国の植物についての授業でを受けた後、感想のレポートを提出しなければならないことがありました
 この時も私は、「もし私が花ならば、楚々と咲く野の花ではなく、手をかけて育てられる、美しい庭園に咲く立派なバラでありたい」と書きましたねえ・・・
 いやいや、若かったのでしょう 苦労知らず、若気の至り、でしょうか

 昨夜のあの静かに光るお月様を見て、「ああ・・・凛とした、この美しいお月様・・・豊かな月明かりとなって照らす・・・私は、あんなお月様のような人になりたい、かな・・・」と、心の底から思ったものでした。私も、成長したのでしょうか

 さて、その中秋の名月。
生徒の一人のお母様から、こんなメールをいただきました。
  「本当にきれいなお月様でしたね。帰り道、あのうっとりするほどきれいなお月様を見て、なぜだかうちの子は、手を合わせていました。」
 私はね、とても感動しました 確かに、あの昨夜のお月様には、思わず「手を合わせたくなる」ような崇高さ、がありましたね

 人は太古の昔から、太陽や月、星、そして雨、風、雪などの自然の現象に、人智の及ばぬ力、決してあらがうことのできない絶対的な力を感じ、畏敬の念を持って相対してきたのでしょう

 すすきとお団子でお月見を楽しみました というご家庭もたくさんありました。
 特にここ数年、首都圏ではなかなか明けない梅雨のため、七夕の星空を眺めることができなかったことを思えば、昨日の「中秋の名月」は、本当に久しぶりに暦の行事を堪能できる素敵な夜だったかもしれません

 そんな思いの中、とても興味深いお知らせもありました
きれいなお月様を見て、思わず天体望遠鏡をセットし、親子でお月様を見ました、というメール。
 思わず「おー」そうですねえ、そうそう、そういう見方、感じ方もあったのだな、と、あらためて唸りました

 じつは、私は天体好きで、大人になってからも、何度も一人でプラネタリウムを見に行ったものです
 子どもの頃、両親と一緒にテントの前で見た涸沢や剣沢の満点の星空
 大学時代、テキサスの大平原やロッキーの山中から見上げ、たーくさんの人工衛星を見つけた星空
 主人の駐在時、何度も家族で訪れたインドネシアの孤島で水平線まで広がる降るような星空
 みんなみんな、本当にすばらしい星空でした・・・
 いつか、ハワイ島マウナケア山頂にある、すばる天文台に行ってみたいなあ・・・そんな夢を持っています。

 そう言えば・・・無知な私は、高3の選択授業で「天文学入門」という授業をとり、たった1回で止めた苦い思い出があります
 「天文学・・・」見たとたんに私はときめき、説明も読まずにすぐに飛びつき、受講を申し込みをしました そして、勇んで1回目の授業に出席。それが「地学」という超理系の学問であることも知らず
 そこにいた医学部や数学科志望の優秀な生徒達の白い目にさらされ・・・ もちろん、1時間目からついていけずに断念。
 お星様好きの、夢見る夢子ちゃんでは、とうてい、ついていける代物ではなかったのですねえ

 もう10年以上前のことですが。
小学校2年生?3年生?になった卒業生が、教室にフラリと立ち寄ってくれたことがありました その子は、カトリックの女子校に進学し、とても楽しく学校生活を送り、有意義な毎日を過ごしているようでした。
 ところが・・・その日、その子は私に「1枚のテスト」を机の上に出して、訴えました。
 「先生、私ね、この答え、間違ってないと思うの・・・でも、×もらっちゃった 先生になんで×なんですか?って聞いたら、ちょっと笑って、もう一度教科書を見てみなさいって言われたの。でも・・・私、やっぱり間違ってないと思う・・・

 当時は、まだ1年生も2年生も「生活科」という授業ではなく、「理科」「社会」と2教科に分かれていた時代ですが、それは明らかに「理科」のテストでした。
 彼女が指さした問題はこんな問題でした
 「蒔いた種が芽を出し、大きく育っていくために必要なものは何ですか?あなたの思いつくものを3つ答えなさい。」
 その子が書いた答えは、「太陽」「水」「神様の恵み」・・・

 私は、その子がとてもかわいそうになりました。そして何となく、私のところに、そのことを訴えにやってきたことを、とてもうれしく思いました

 その日、私は、こんなふうに話したのでした。
 「まどか先生はね、あなたの答えは間違ってはいないと思うわよ でも、きっとあなたの先生は、もっと違う答えも、あなたに思い出して欲しいな、と思われたのだと思うな!
 もしね、このテストの問題が、「種」の問題じゃなくて、こんな問題だったら、あなたはどんなふうに答えるのかしら?
  『あなたが、毎日、おいしいご飯を食べるためには、何が必要ですか?』という問題だったとしたら・・・
  『病気になった時、怪我をした時、あなたに必要なものは何ですか?』という問題だったとしたら・・・」

 その子は、ちょっと考えてから、「お野菜とかお肉・・・おなべ、フライパン・・・それから、ママ」と答えてくれました
 そして、次の質問には「お医者さん、病院、看護婦さん・・・お薬・・・かな」と答えてくれました。
 私は、「その通りね」と答えた上で、こう付け足しました。

  「でも、「神様の恵み」も必要じゃないかしら?」
 すると、ちょっと考えてから、笑顔で「うん、そうだね」と答えてくれたのでした。

  「まどか先生が思うのは・・・神様のお恵み、というものはね、「何がいりますか?何が必要でしょう?」とたずねられた時、必ずいる、大事なものだと思うのよ。でも、きっと、いつも「一番最後の一つ」の答え、なんだと思うんだなあ だから、これからは、「一番最後の一つ」よりも、違うことを先に考えて、思い出せばいいと思うわよ 学校の先生が、教科書を見てごらん、とおっしゃったのも、「一番最後の一つ」ではない、別の大事な答えが、きちんと教科書には書かれてあるから、それを思い出して欲しんですよ、とあなたに言いたかったんだと思うのよ。どうかしら?」と話しました。
 そこ子は、にこにこと何度も振り返り、手を振って、帰っていきました。まさに、この子がこんなふうに素敵なお嬢さんとして育っているのは、お父様やお母様の愛情と、「神様や仏様?人智の及ばない大きな力?」そういうものがプラスされて今日があるに違いない、私はそう思いました

 私は、昨夜、「お月様に思わず手を合わせた子ども」と「天体望遠鏡で満月を見た子ども」と、どちらの子どもの姿をも思い浮かべ、とても豊かな気持ちになりました。
 そして、思わず、昔々の、この女の子との大切な時間を思い出したのでした

 私が、21世紀を生きる子ども達に願うこと。
  科学を探究し、より多くの「新しいこと、正確なこと、正しいこと」を知ろうとする意欲ある目を持つこと。
  大自然や、長い長い年月をかけて人が作ってきたさまざまな伝統に向かうとき、頭(こうべ)を垂れ、畏敬の念を持って相対する心を持つこと。
です。
 そのどちらも持って欲しい、と心から願っています
なぜなら、そのどちらかが足りないと、きっとアンバランスな精神、豊かさや潤いに欠ける殺伐とした精神しか育っていかない、と思うのです。

 お月様には、うさぎもいて、かぐや姫もいて、そして1969年以降は、アームストロング船長と、オルドリン飛行士の足跡もあるのですね 私が好きで眺めるお月様は、そんなところ、です
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優しい言葉、満面の笑顔

2007年08月29日 | にこにこ
「なんでこちらの人たちは、顔が怒っているのだろう・・・?沖縄の方々は、見知らぬ人にも必ず笑顔からはじまりますよね?私を含めて都会の人は、知らない人には笑顔はみせませんね・・・いつからこんなに警戒心が強くなったのか?それとも無愛想になったのか?・・・自分自身を正すのにも、本当に沖縄は良いきっかけになりました。
昨日も娘と近くまでお買い物に行きましたが、ほんの2,3時間の間に、子どもを大声で怒鳴る親に2組、大声でケンカする夫婦、おじいちゃんを大声で怒鳴る娘・・・今日はどうなっているの?と思うくらいに、イライラしている人達に遭遇しました。
このところの暑さで、人が皆、苛立っていることは何となく私も理解できますが、本当にこの頃はなんだか変ですね。全体的に・・・。」

 夏休みに沖縄に家族旅行に行かれて、先日私がブログに登場していただいたママからのメールです あまりに、このママの感性が印象に残ったので、また、ブログにそのままで書かせていただきました

 主人が、後ろ髪を引かれる思いで、心身共に癒された沖縄の病院を退院し、こちらの病院にリハビリのために再入院した、というメールを私がお送りしました。そこに「こちらの病院では、ドクターも、看護師さんも、患者さえもみんな忙しそうで、硬くてぴりぴりした空気が流れている・・・」と表現した、そのお返事にいただいたメールです。

 道を尋ねられて、親切に教えようとしたとたん拉致され、殺害されて山中に埋められてしまう・・・ そんな卑劣で残忍なことが起こる時代です。
世の中の母親達が、愛するわが子に・・・
  「知らない人に声をかけられても、決して答えてはいけないわよ。怖い人かもしれないのだから ニコニコしたり、口をきいたりしては絶対にいけません
と教えることを、決してまちがっている、とは言えないでしょう

 私は、電車の中や町中で、お制服姿の小学生達がいると、とても気になり、ついつい様子に見入ってしまいます 何を話しているのかしら?何をしているのかしら?と・・・
 相手が気づくと、必ず私はその子達ににっこりと微笑みかけてしまいます
 すると、10人中5人の子ども達が、私の顔をキッと怖い顔をして見つめ返します
 そして、残りの半分は、とても困ったような顔をして、目を逸らします 決して誰1人として、微笑み返す子はいませんねえ・・・
 さすがに電車通学をする子ども達。お父様やお母様の教えは徹底し、子ども達もしっかりとそれを守っているようです
 私は、そのことにあらためて感心するとともに、そんな殺伐とした時代になってしまったことを、あらためて実感し、とても悲しい気持ちになるのです

 まどか先生の笑顔が好きです・・・いつも、笑顔のまどか先生に癒されます・・・ そんなふうに言っていただけることが、私の何よりの喜びです。
 そして、そんなふうに言っていただける時、私に笑顔を与えてくれた父や母に心から感謝します
 けれど、そんな私の笑顔は、電車の中の子ども達からは何より一番拒絶しなければならないもの、怖いもの、として拒否されてしまうのです・・・そんな時代なんですねえ

 でもね、やっぱり、それでも私は思うのです
どんなに時代がかわっても、ご家庭では「笑顔」を大切になさっていますか?お母様は、愛するわが子に、満面の笑顔を見せてあげていますか?
 
 ご家庭の中にあたたかい笑顔があれば、きっと子ども達には自然に「笑顔」が身に付くでしょう

 昔、キャビンアテンダントの笑顔は、みえみえの作り笑顔で、あまり嬉しいものではない、などと言われた時代がありました
 確かに、世界中のさまざまの航空会社の飛行機に乗ってみると、日本の航空会社のキャビンアテンダントほど、あまり満面の笑顔、というものを見せません。

 でも、この夏、私は主人が入院していた沖縄と横浜を往復するために、頻繁に飛行機を利用した時、JALのみなさんの笑顔に本当に救われました
 チェックインカウンターでの笑顔、ラウンジでの笑顔、機内に入った時に見る笑顔、毛布をもらう時の笑顔、コーヒーを渡してくれる時の笑顔、お気を付けて、いってらっしゃいませ、と声をかけてくれる時の笑顔・・・
 もしそれが、職業上、訓練の上にできあがった笑顔であったとしても、「にこりともしない、怖い顔」の数倍、数十倍、人の心を癒しますよね

 優しく穏やかな言葉遣い、人を和ませる笑顔・・・
これは、人が人として存在する上での「最も基本になるもの」ではないか、とまで痛いほど思った夏でした。

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リハビリ室にて・・・

2007年08月24日 | にこにこ
 すっかりご心配をおかけしました我が家の主人
今週のはじめに沖縄の病院を退院し、今は横浜の病院にリハビリ入院をいたしました
 おかげさまで、日頃から鍛えた筋力が威力を発揮し、今は松葉づえを使って、歩けるようにまで回復。たくさんのエールを、ありがとうございました 日常生活に復帰するのは、あともうしばらくかかりそうですが、リハビリ室での「筋トレ」は順調に進んでいます 

 ある日の、名護のリハビリ室でのこと。
自由の利かない右側の手、足を左側で支え、黙々と平行バーを握って前に進もうとしている男性。
 理学療法士の先生が、「もっとゆっくりでいいよー」「そうそう、その調子で右手を先に前に持っていって・・・」と、そのつど適切な指示を出し、男性を励まします
 主人の話によれば、その男性は沖縄を旅行中、脳梗塞で緊急入院をなさったのだ、ということでした。 
 初めてその方がリハビリ室に来られた時には、全く立てるような状態ではなく、それでも理学療法士の先生が教える小さな動きの運動を繰り返し、 自室に戻っていかれていた、ということでした。
 その日から1週間、その方は確かに自分の足で立ち、ゆっくりゆっくりではありますが前に進むようになっていました

 私は、あまりじろじろと見てはいけないと思いつつも、その男性の真剣な取り組みの様子から、目を逸らせることができませんでした。
 車いすを押しているのは奥様のようです。言葉の少ないご主人に、奥様は一生懸命笑顔で話し、車椅子を押してリハビリ室を出て行かれます

 リハビリテーションという、地道な努力を必要とする世界。
あの男性のがんばり、それを見守り、サポートする奥様・・・今まで私の知らなかった世界です。

 興味を持ってリハビリ室の中の様子をじっくりと観察をしていますと・・・本当にいろんなタイプの人がいるものです
 もちろん、さっきの男性のように、一生懸命にリハビリの取り組んでいる人もいれば、どんなに理学療法士の方が励まし、事細かによりやりやすい、効率の良い方法を教えても、ああだこうだと言い訳ばかりして、決して動こうとしない患者さんもいます
 「~~だから、○○なようにしましょうね ○○は難しくて、なかなか簡単ではないので、ついつい△△にしてしまう人は多いけれど、△△では全く意味がないからねえ。必ず、○○のようにしましょうねえ
 そう何度も注意をされても、平気で△△を続け、ご満悦の顔をしている人もいます
 私はそんな様子を見ながら、ふっと「子どもたち」を見ているような気持ちがしたのでした

 「○○しましょう」と、少々「がんばり」を必要とする課題を与えたとき、ほんの一瞬、顔をこわばらせても、すぐに気を取り直すように「はい」と返事をして、さっさと取りかかる子ども・・・意外と少ないものです
 大きな声で私に聞こえるように、「できないかもしれない・・・やったことないから、できないかもしれない・・・」と、必死にアピールをする子。
 この子は、うまくいかながったときの予防線を張っているのですね
 ほんの少しだけやって、ちょっと苦手だとわかるやいなや手を止め、「がんばったよ 全部はできなかったけど、ぼくは(わたしは)すごくがんばった」と自分のがんばりをアピールする子。
 取りかかったとたん、自分にはかなり困難だとわかり、涙をいっぱいためて手を止める子供
 まわりの様子を全然気にせず、ひたすら陽気に、鼻歌交じりに取り組む子 etc.etc.

 もちろん、生まれ持った人柄があります。
ご両親が努力家であれば、やはりその因子を受け継ぐ子どもが生まれるでしょうし、努力嫌いの行き当たりばったり・・・という因子をもらえば、そういう子どもとして生まれるでしょう。
 しかし、私はやはり、人が何かに取り組む姿勢、挑戦する姿勢には、生来の因子による人柄ばかりではなく、「幼いころからの育てら方」「育った家庭環境」(もっと成長すれば、学校環境も関係してきます)に大きく左右されると思っています

 たとえば・・・
  わが子が「できない」ことに直面したとき、できなかったというその結果にこだわり、「あー、できないんだあ。できると思ったのになあ、そっかあ、なんでできないんだろうねえ、残念だなあ・・・」というような、ぼやき型のご両親。
  わが子に「できない、わからないことがある」という現実を受け入れたくない、何でも一番!とにかく優秀!というのが好きなご両親。

 こういう2タイプの下に育つ子どもは、きっと、親に「できない、わからない」という事実を知られたくない、できないことで落胆させたくない、上手にできてほめられたい、というような気持ちが強く働き、表面上でも、つじつま合わせでも、できるように見せよう!!と思うようになるでしょう。

  わが子の苦手を見つけたとき、本当はそのことにショックを受けてかなり凹んでしまったけれど、そういう様子は教育的見地から、子どもに感じさせてはいけない、と考えるご両親の場合。こういう両親は、異常なほど「がんばった、という過程」をほめちぎり、できなかった結果から、ご自身達が目を背けたいがあまりに、結果は云々しません。

 当然、この両親のもとに育つ子どもは、結果が悪かった場合には、その結果を真摯に受け止め、どうしようかと考えるよりも、とにかく、自分はがんばったんだ、必死に取り組んだんだ、という姿勢に評価を得ようとします

 これはほんの一例ですが、やはり、親の関わり方、接し方は、その子の成長に大きな影響を与えることは否めません

 名護の病院のリハビリ室。
一人、チャーミングなおじいちゃんがいました
何かの術後でリハビリをしている方なのですが、どんなに理学療法士の先生が叱咤激励しても、すぐに指示されたリハビリを途中でやめてしまいます
 車椅子に「あー」と言って座り、そして、手で頭をくりくりとかいて、「がんばったー」と自分を褒めるように大きな声で言って、奥様や孫たちに手や肩を揉ませるのです

 「○○さん、そんな1周だけで止めていたら、ちっともリハビリ進まないねえ。もうちょっと頑張れるようになっているさあ。さあ、しっかりやりましょうねえ
と声をかけられても、頭をくりくりかくばかり・・・

 その様子、私は子どもでよく見ます
何でも途中で投げ出しても、ママにハグをしてもらい、「○○ちゃん、よくがんばったわねえ、すごいすごい!ママはびっくりしちゃったわー」などとほめられて、ご満悦になる・・・ 困ったちゃん親子の姿、と同じです。
 まあ、おじいちゃんは数十年、人生の荒波を乗り越えてきたのですから、百歩譲って「頭くりくり」は許されるよな、と思いますが、子どもの場合は訳が違いますよねえ

 がんばることは、本当に価値のあることです 結果ばかりを求めるのは、絶対に違う
 でも、結果を求めない、というのも、やはり違うでしょう
 親は、がんばる姿勢を評価しながらも、良い結果が出せるようにリードすべきですし、良い結果をだそうというガッツ、意気込み、心意気を、子ども自身に持たせるような、有効な言葉かけをそのつど考えるべきでしょう

 それにしても・・・あの頭くりくりおじいちゃん、今日も名護でがんばっているかな?

 

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