退職してから、家族からものを減らすように言われている。
自分でも減らそうという気持ちはあるのだが、
仮にもその時その時に自分が欲しい、必要だと思ったものを
手に入れたわけだから、まったく不要なものはないのです。
かといって、それをすべて死ぬまで持ち続けると残されたものは
たまったものじゃないというのも理解できる。
ということで、どうすべきかを模索しているというのが、
今の僕の状態なわけです。
考えてみると、今まで家にたまっているものは収集したままというものも結構多い。
たとえば書籍。その時に読みたいから手に入れたものにちがいないのだが、
読まないまま歳月が過ぎ、今に至っている。
それから新聞の切り抜き、テーマに沿った雑誌。(ビートルズ、山、など)
何のために集めているのかを考えなければならない。
勉強から研究に進化すべきなのだ。
研究とは学んだことを基礎にして、新しい何かを生み出す作業。
沖縄の記事を集めて、それを分析して、今後のために役立てる。
それがなければ、収集したものの意味はあるとは言えない。
これまでがインプットの時代だとすれば、
これからはそれを解釈、分析して、
少なくとも自分なりの意見創出に役立てるべきだろう。
これは死ぬまで続く。がんばれ、僕。
自分でも減らそうという気持ちはあるのだが、
仮にもその時その時に自分が欲しい、必要だと思ったものを
手に入れたわけだから、まったく不要なものはないのです。
かといって、それをすべて死ぬまで持ち続けると残されたものは
たまったものじゃないというのも理解できる。
ということで、どうすべきかを模索しているというのが、
今の僕の状態なわけです。
考えてみると、今まで家にたまっているものは収集したままというものも結構多い。
たとえば書籍。その時に読みたいから手に入れたものにちがいないのだが、
読まないまま歳月が過ぎ、今に至っている。
それから新聞の切り抜き、テーマに沿った雑誌。(ビートルズ、山、など)
何のために集めているのかを考えなければならない。
勉強から研究に進化すべきなのだ。
研究とは学んだことを基礎にして、新しい何かを生み出す作業。
沖縄の記事を集めて、それを分析して、今後のために役立てる。
それがなければ、収集したものの意味はあるとは言えない。
これまでがインプットの時代だとすれば、
これからはそれを解釈、分析して、
少なくとも自分なりの意見創出に役立てるべきだろう。
これは死ぬまで続く。がんばれ、僕。