徒然小夜

日々の想いを自由気ままに書きつづる
話題は趣味、仕事、人生、いろいろ

三上智恵さん ポイントオブノーリターン

2024-01-27 13:26:52 | 沖縄
2004年  沖合埋め立て案で建設用のやぐらが辺野古の海にどんどん建っていった日
       沿岸案になってV字の滑走路に名護市長が合意した日
       スパッド台船がたくさんのサンゴを踏み潰した日
       オスプレイが配備されてしまった日
2014年夏 辺野古が80隻を超える船に包囲された日
       最初のブロックが海に投入されてしまった日
       護岸工事に着手した日
       日本中から機動隊が来て高江の工事が始まった日
2018.12.19 辺野古への土砂投入が始まった日

埋められていくのは辺野古の海だけではない この国の未来だ

           
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沖縄、再び戰場(いくさば)へ のスピンオフ上映会に行ってきました

2023-05-29 11:39:54 | 沖縄
 知り合いの紹介で寝屋川市駅近くに
三上智恵さん監督の「沖縄、再び戦場(いくさば)へ」を見てきました。
沖縄への自衛隊配備についてはもう何年も前から問題になっていましたが、
事態は静かにしかし、着実に悪い方向へとどんどん進んでいるようです。
ロシアのウクライナへの軍事侵攻により、次は台湾とばかりに
台湾有事と危機感を煽り立てて、軍備補強、戦争への道をひた進む岸田政権。
バックにアメリカがいることは周知の事実であるが、
それにしても酷い。
国策優先とばかりに、市民の声には全く耳を貸さず、
何も知らせないままミサイル配備、シェルターの建設、避難訓練など
戦後の終わりを思わせるような空気。
戦前の始まりではないか。
映画の中で、「もう戦争は始まっている」という発言。
軍隊は住民を守らない。
ミサイル配備のことなど何も言わない説明会。
軍拡競争がだめなんだという発言。
事態は益々悪化の一途を辿っている。
今回の映画も本来は2024年に公開の予定だったのが、
事態はそこまで待てない状況だということで、
すぐにでも日本国民にこの危機的状況を知らせて
国民の声で軍拡を食い止めなければという三上さんの想いが伝わってくる。
日本の国民のみなさん、自分のこととしてこの問題を捉えなければいけないのではないですか?
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お笑い米軍基地2023.4.8 報道特集

2023-04-09 11:25:11 | 沖縄
 TBSの「報道特集」で坂本龍一さんとお笑い米軍基地の特集を放送していた。
お笑い米軍基地は以前から知っていたが、
もう20年も続いているそうだ。
時には異を唱える者からのバッシングなどもあったようだが、
不屈の精神で活動を続けてきたのだという。
一度見てみたい。
本土では受け入れられないのだろうか。
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沖縄文化研究会

2023-03-02 17:30:53 | 沖縄
山岡
永井
新山
安田

前川
伊藤
西田
直川
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ウルトラマンの苦悩 asahi.com 2001.7.4.MY TOWN 沖縄 

2023-01-13 13:04:35 | 沖縄
知人のほとんどは自殺と疑った。それほど自分を追い込んでいた。
ウルトラマンの原作者・金城哲夫さんは、復帰を見守るために沖縄に帰郷した。
だが、「本土と沖縄の懸け橋になる」という夢は砕け、76年、失意のうちに事故でこの世を去った。享年37歳。

ワッハッハ。大きな体を揺する豪快な笑い。
「オーイ、乗ってかんかねー。」
見知らぬお年寄りを車に乗せる人懐っこさ。
人々の記憶に残るその姿は、南国の空のようにカラッと明るい。
「閉ざされた場所に吹き込む新鮮な風。そんな少年でした。」
54年に上京して玉川学園高等部に入った哲夫を
先輩の山田輝子さんはそう語る。
「当時は、まだ海外にも行けない閉塞した時代。
村の異文化を背負った若者が全国から東京に集まり、
活力を生んだ。未知の沖縄から来たからこそ、異次元のヒーローを生んだと思う。」
玉川学園に在学中、シナリオ作りを学び、
特撮で有名な円谷プロに入った。
「ウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」。
テレビの特撮シリーズは、60年代後半にブームを巻き起こした。
「哲夫が書けば視聴率40%。そんな神話があった。科学の夢を信じられる時代でした。」
沖縄出身で共に「ウルトラ」シリーズを手がけた脚本家の上原正三さんはいう。
高度成長のさなかだった。怪獣は悪の権化ではなく、都市や公害の自然の逆襲を体現していた。
登場人物は時に暴力を否定し、怪獣に同情すら示す。
勧善懲悪を超えた膨らみのある物語の根に、戦争体験が埋め込められていた。
〇心に傷残した戦争
45年3月、南風原(はえばる)の自宅で母は米軍機に撃たれ、左足を切断。
動けぬ母を残し、祖父らは跡取りの哲夫を連れて避難する。
この体験は心に傷を残した。大学時代の先輩、屋良朝輝さんは涙まじりで戦争を語った哲夫を覚えている。
「戦火をくぐって逃げる夜道で聞いた人のうめき。子どもの泣き声。
負傷した母を老いて逃げたことが、何よりもつらかった。と話していた。」
迫る夜の恐怖。
置き去りにされた無力な人々を救いに来るウルトラマンは幼い日に戦場で見た幻かもしれない。
脚光を浴びた日々は短かった。後続番組の視聴率が低迷し、円谷プロでの居場所を失う。
69年春、復帰を沖縄で迎えたいと帰郷した。
哲夫は琉球処分などを主題にした沖縄芝居の脚本を立て続けに書いた。
「ウルトラマンのことは何も話さず、沖縄とは何か、という問題に徹底してこだわった。」
テレビ、ラジオ司会者として哲夫を起用した琉球放送の黒島昭男さんは振り返る。
東京では、おおらかに故郷の風を表現にもちこんだ哲夫も、いざ沖縄に向き合うと、厚い壁にぶつかった。
「兄の世代は、方言を禁じられ、使うと罰として方言札をさてさせられた。
芝居で使う沖縄言葉を十分話せない。それがもどかしかったろう」と
弟の和夫さんは言う。
青春の大半を東京で送ったため、沖縄を揺るがした「政治の季節」の体験も欠落していた。
高校時代からの親友で、報道写真家として沖縄に住み着いた森口割る谷さんが語る。
「そのズレが周囲の誤解を招き、哲夫を追い込んだ」
〇75年海洋博に情熱
自衛隊ヘリに同乗してラジオで放送し、抗議を受けた。
酒の深みにはまった。酔うと時間かまわず知人に長電話をかけた。
「このままで沖縄はどうなる」それが口癖になった。
トラブルを起こし番組から降板した。
最後の情熱をかけたのが、75年の沖縄海洋博だった。
沖縄の文化を世界に発信し、経済復興の起爆剤にする。
その式典を演出する大役だった。
「それが命取りになった。開発か自然保護か。沖縄は二分され、鋭く対立した。
沖縄の良さを発信したいという彼の情熱は板挟みになった」と森口さんはいう。
閉会式に、沖縄のクリ船を海一面に浮かべようとしたが、漁民に断られた。
「国の手先」となじられた。
76年1月の閉会式。海洋博旗と日の丸が下りた後も、哲夫は。県は旗だけは下ろさなかった。
風をはらむ沖縄の旗は自立の象徴だった。
直後、がらんとした会場で森口さんは別人のような哲夫を見た。
ゆがんだ口元。光のない目。幽鬼のようだった。
1ヶ月もたたない日、哲夫は自宅離れ2階で脚を滑らせ、転落死した。急な坂を全力で駆け下りるような晩年。不意に断ち切られた人生は
人々に深い思いを残した。
長女で小学校教師をしている奈里子さんは「父の死以来、思い出は封印した。金城哲夫と父の姿は重ならなかった。」という。
亡父と同じ年になった今は、父の抱えた悩みがよくわかる。中1の長男はウルトラマンの大ファンだ。
「早くなくなって金城哲夫は神話化された。それでも、ずっと、父のままでいてほしかった」

〇募る思い「今こそ」
妹の染織家、上原美智子さんは「もし兄が生涯沖縄に生きたら、ウルトラマンを生むことも、早すぎる死を迎えることもなかった」という。
「兄は沖縄と本土の溝をあぶり出すような生き方をしたのかもしれない」
映画「ナビイの恋」の中江裕司監督は、哲夫の生涯を発掘して資料を集め続けた。
「本土と沖縄の懸け橋になるということは、2つの価値観に引き裂かれることだ。彼はその溝を実感しながら、沖縄の娯楽の楽しさ、
豊かさを発信した。彼がいなかったら、ナビイもなかった」
親しかった作家の大城立裕さんは、「80年代、沖縄では劣等感が吹っ切れ、誇りを持つようになった。哲夫の夢は今なら素直に受け入れられたろう」という。
95年の少女暴行事件以降、復帰直後とは違う「ゆるやかだが深い悲観」が沖縄に立ち込める。基地か経済か。開発か自然か。先が見えない。
その重苦しさに触れた後、大城さんは哲夫を知る人みなが口にする言葉を吐いた。
「こんな時こそ、彼に生きていてほしかった。」(編集委員・外岡秀俊)
画像:大型連休まで、金城哲夫さんの故郷に展示されたウルトラマンティガの像。町おこしに円谷プロから借りた=沖縄県南風原町役場前で、撮影 安富良弘
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6月23日 77回目の「沖縄 慰霊の日」

2022-06-23 16:13:13 | 沖縄
 77回目の「沖縄慰霊の日」
3年振りに本土からの列席者。
直近の慰霊の日は安部が出席したのかな?
2018年、翁長知事が出席した慰霊祭には安部も列席。
ものすごい視線で安部を睨みつけていた。
2019年は玉城知事、安部の出席だ。
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今日は沖縄本土復帰50年の日

2022-05-15 22:42:52 | 沖縄
1972年5月15日。僕は高校一年生。
当時のこのことに関する記憶はない。
1968年の小笠原の本土復帰は切手で記憶がある。
あれから50年が経ったわけだ。
50年が経ったという事実があるだけで、
沖縄の人たちにとっては
別に節目でもなんでもないのではないか。
沖縄の人たちにとっての節目は
たとえば基地関係の仕事に従事していた人たちの
仕事も補償した上で、
県内の米軍基地が全てなくなった日ということになるのではないか。
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連載 沖縄 ヤマト世(ユー)29年 2001.7.4

2022-01-15 08:38:36 | 沖縄
3.「ウルトラマン」の苦悩
 知人の多くは自殺と疑った。それほど自分を追い込んでいた。ウルトラマンの原作者・金城哲夫さんは
復帰を見守るため沖縄に帰郷した。だが、「本土と沖縄の懸け橋になる」という夢は砕け、76年、失意のうちに
事故でこの世を去った。享年37歳。
ワッハッハ。大きな体を揺する豪快な笑い。
「オーイ、乗ってかんかねー。」見知らぬお年寄りを車に乗せる人懐っこさ。人々の記憶に残るその姿は、南国の空のようにカラッと明るい。

「閉ざされた場所に吹き込む新鮮な風景。そんな少年でした。」54年に上京して玉川学園高等部に入った哲夫を先輩の山田輝子さんはそう語る。

「当時は、まだ海外にも行けない閉塞した時代。村の異文化を背負った若者が全国から東京に集まり、活力を生んだ。未知の沖縄から来たからこそ、
異次元のヒーローを生んだと思う。」

玉川大学に在学中、シナリオ作りを学び、特撮で有名な円谷プロに入った。「ウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」。
テレビの特撮シリーズは、60年代後半にブームを巻き起こした。

「哲夫が書けば視聴率40%。そんな神話があった。科学の夢を信じられる時代でした。」沖縄出身で共に「ウルトラ」シリーズを手がけた
脚本家の上原正三さんはいう。

 高度成長のさなかだった。怪獣は悪の権化ではなく、都市や公害への自然の逆襲を体現していた。登場人物は時に暴力を否定し、
怪獣に同情すら示す。勧善懲悪を超えた膨らみのある物語の根に、戦争体験が埋め込まれていた。

 〇こころに傷残した戦争
45年3月、南風原(はえばる)の自宅で母は米軍機に撃たれ、左足
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標的の島 風かたか 再び

2021-05-25 13:06:56 | 沖縄
 UNEXTで視聴できることがわかり、劇場に見に行った「標的の島 風かたか」を再び見る。
辺野古に土砂が投入されようとする時期だったので、反対運動も正念場だった。
僕もその頃、何度か辺野古、高江に足を運んだ。
「標的の島 風かたか」を改めて見る。
特に石垣島、宮古島への自衛隊配備に関する場面がもうその頃飛び出していた。
今、問題になっている宮古島の自衛隊による用地買収に絡む贈収賄事件と絡む。
その頃から牧場とゴルフ場の案があったようだ。
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つくし

2019-08-04 15:22:14 | 沖縄
 8月2日(金)に約10カ月ぶりにつくしに行きました。
その間に「そのひぐらし」さんが解散してしまい、ちょっと寂しかったけれど、
もりうさんが元気そうに現れました。
実はもりうさんが来ることは知らなかったのですが、第一金曜日だから
誰かがライブをやるのだろうというくらいのつもりでした。
以前は吉永ファミリーが演奏してました。
ということなので、もりうさんが登場した時はちょっと安心しました。
この業界で食べていくのはなかなか大変なんだろうなと思います。
 あんまーも元気にしてはりました。
実は「つくし」はこの地域の沖縄文化のある意味ではセンターのような存在だったのですね。
沖縄かりゆし会というグループがあるのです。
エイサーの中心でもあるみたいだし。これからもがんばってほしいものです。
1998年7月19日に大阪城野外音楽堂に美ら島ちゅらら島心(しまぐくる)を見に行った時の
パンフレットが出てきて、その中につくしの広告も出ていてびっくりしました。
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