工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

読書で誰かの人生を知る・・・坂本龍一さんの自伝

2023年10月10日 | 日記
 レースだ旅だといろいろ書きましたが、夏前に複数の方の「自伝」を読んでおりました。紹介が遅くなりましたし、既にお読みになった方もいらっしゃるかと思いますが、ちょっとおつきあいください。
「音楽は自由にする」(新潮文庫) 「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」(新潮社) 坂本龍一著
 「音楽は~」はもともと新潮社の「ENZINE」誌のために生い立ちから2008年頃までの活動について、同誌の編集者の鈴木正文氏のインタビューに基づいて構成されたものです。いろいろなミュージシャンの自伝というのを読んだことがありますが、これを読んで思ったのは当たり前のことでありますが「教授」は一日でできたわけではなく、幼少時から音楽と向き合う中で形作られたものであったことが分かります。子供の頃からピアノだけでなく、作曲を学ぶというのは普通の家庭の子供ではまずできないでしょうし、本人もある理由でバッハの曲が好きだった、とか少年期にはドビュッシーの生まれ変わりだと思っていたあたりは「普通の子」では無いわけです。エンニオ・モリコーネにしても「教授」にしてもバッハを敬愛していますね。西洋音楽を体系立てて学ぶとやはり「音楽の父」の偉大さがわかるものなのでしょうか。仕事人間でもあり、厳しかったという父親との思い出も綴られていて、父の影響もある、と本人は語っていますが、母親の取り仕切る食卓の会話で子供は育つ、というローマ人の格言ではありませんが、帽子デザイナーだった母親の影響もあったのだろうなとも思います。
 都立新宿高校時代に学生運動に明け暮れたというくだりは、聞き手の鈴木氏も学生運動経験者のためか、本人の舌も滑らかになっている感がしました。都立高校の中では大学生につられるように始まった学生運動の結果として制服廃止とか、そういった要求を通したところもあり、私の母校も新宿高校ほどのオツムの出来ではありませんが、大先輩たちがいっちょ前に制服を廃止していました(余談ですが新宿高校も私の母校も後になって「お洒落な制服が欲しい」という生徒の意見が出て、制服が復活しています)。
 東京藝大進学後の話も興味深く、音楽だけでなく美術の学生たち、そこから派生して演劇など外の世界と交流を深めていたというのも、後の活動に影響を与えていたと思いますし、大学院まで進むものの「日雇い労働者的に」スタジオミュージシャンやライブハウスでの仕事をしていたということで、このあたりは村上「ボンタ」秀一氏の「自暴自伝」でも触れられていますが、YMO結成前夜のにこの人はこんなことをしていたのか、という感じで読みました。
 私がYMOと出会ったのは小学生の頃で、音楽もルックスも今でいう「クール」な人たちに見え、今まで見たことがないし聞いたことがない、という印象を持ちました。3人それぞれのバックグラウンドを知るのは、だいぶ経ってからですし、海外での売り込みも含め、レコード会社の戦略などもあったわけですが、その頃はそんなことは知る由もないので、ただただ未来的なサウンドと機械に囲まれて演奏しているかっこいいお兄さんたちをテレビで観ていたわけです。この3人は生い立ちも全く違うわけですが、中野生まれ世田谷育ちの坂本氏が、都心生まれ、育ちの他の二人に対して抱くコンプレックスも、同じ23区といっても地域で差(これはカラーの違い、と言った方が良いでしょう)があるわけで、ちょっと共感できるところでもあります。
 また、一度「散開」したYMOが90年代に「再生」したのも本人たちの意にそわない形でのものだったようで、見ているこちらも「なんだか楽しそうじゃないな」と思えたのはそういうことだったのかと思いました。もっとも、2000年代の再結成は当人たちの「機が熟した」ものであったようです。
 俳優としての活動、思想家との対談、映画音楽など、さまざまな活動をしていくわけですが、音楽を古典から現代まで体系立てて学んでいくうちに、音楽以外の分野も吸収していったことが、現代思想に関わる人たちとの対話が成立した理由ではないかという分析はなかなか興味深かったですし、出演を持ちかけられた「戦場のメリークリスマス」については、オファーの返事に「作曲もやらせてください」と大島渚監督に談判したとか「ラストエンペラー」についてはベルトルッチ監督の「無茶ぶり」に振りまわされてのものだったとは知りませんでした。
 後年、ニューヨークに活動の拠点を移しますが、同時多発テロの折に感じた恐怖と言うのは当事者でないと分からないでしょうし、現場証人の記録としても読むことができました。また、環境保護、反戦といった活動についても本人なりの思いがあってのことで、もともと音楽にも、他のことにもこの人はとても「熱い」部分があって、その発露ではないかとも思います。

「ぼくは~」は「音楽は~」以降の日々をつづったもので、がん患者としての日々や本人の死生観も含めて書かれています。既に「世界的な音楽家」ですから、世界のあちこちで演奏をしていますし、世界各国からオファーがあれば(特にそれが若い人たちのものからならばなおさら)断らずに受けている姿が見てとれます。とても大病を患ったとは思えないくらいの精力的な活動ぶりです。また、現代美術でいうところの「もの派」を音楽で表現することに晩年は力を入れていたそうですが、日本で発表するよりアジアの他の国での機会が増えたというあたりは、日本がそれだけ元気がなく、支援したり会場を用意してくれる企業や劇場が無い、ということでもあり、バブル期のなんでもありな「文化へのお金の使い方」を記憶している身としては、この国の変わりようというものを感じるわけです。
 また、自作の曲への想いなども綴られており「戦場のメリークリスマス」が代表曲のように言われるのは抵抗があったようですし(それを超えるものを作りたい、という意思もあるでしょうし)、1999年に空前のヒットとなった「エナジー・フロー」についても「音楽は~」の中で「5分くらいで作った曲がどうしてあれだけ売れたか分からない」と語っているのが印象的です。「エナジー・フロー」については、近田春夫氏が週刊文春のCD評「考えるヒット」の中で「教授なんだから手癖の範囲で仕事しちゃ云々」と書いていて、作曲者本人もこれは否定していないようですが・・・。
 多種多様な活動の一つとして、私が印象に残っていたのはEテレで放送した「スコラ 音楽の学校」という若者向けの音楽系の教養番組で、さまざまなジャンルの音楽とその歴史や特色をワークショップも含めて解き明かしていく内容でした。レベルもそれなりに高いものではありましたが、楽譜が読めない私でも楽しめまして、受信料はこういう番組のためにあってもいいじゃないかという気にさせられました。本人は相当な苦労だったというようなことを述べており、製作サイドとの衝突もあったようでした。
 「ぼくは~」については遺族の了解のもと、亡くなるまでの最後の日々についても本人のメモなどが記載されています。明治神宮外苑の再開発に対する意見表明をされていますが、あれは最後の日々に力を振り絞ってのものだったことが分かります。
 ひとりの患者としての視点も含めて書いていますので「ぼくは~」の方が内容としては重いわけですが、両方の著書で本人の想いの軌跡や創作への熱意などが伝わってきました。東京藝大では全国で500人くらいしか聞き手がいないような曲を、実験室で白衣を着て作っている感覚だったそうですが、それに飽き足らずさまざまな世界とふれあい、自分の目指す音だったり、表現だったりを極めていった人の声と言うのは、やはり重みがあります。私の拙い記述ではこれらの本の魅力は伝えきれていないと思いますが、メディアで紋切り型に取り上げられた氏の姿ではない本人の声を聞きたい、知りたいという方に、特にお勧めしたいです。
 そうそう、私と「教授」の接点がありました。私がヴェネツィアで25年来の知己となる印刷工房があるのですが「教授」もそこの顧客であったようです。有名人ご来店をことさら大きく取り上げない方なので、他の方から聞いて「へえ」となったわけですが、そういえば工房に「千のナイフ」のCDがあったことを思い出しました。

「音楽は自由にする」というタイトルはナチスドイツの強制収容所のスローガン「労働は自由にする」から着想を得たようです。

 
 
 
 

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F1 日本GP 2023 こぼれ話その2

2023年10月07日 | 旅のあれこれ
 日本GP、こぼれ話のつづきです。
6  あなたの推しは誰?
F1の場合、老若男女ファンが訪れており、それぞれ誰かの熱心なファンだったりしています。ただ、日本の場合は全員に惜しみなく拍手が送られるのがいいところです。私の場合長年、チームとしてフェラーリを応援していますのでフェラーリの二人のドライバーを応援しています。

アストンマーチンのエース、40代のアロンソも気になります。

(写真右・No.14)
また、ハースの二人、マグヌッセンとヒュルケンベルグのいぶし銀二人も好きです。

それから、アルファロメオもその名前を聞くと、たとえそれが昔のグランプリチームと連続性が無くても、そこまでの長い歴史とつながっているチームとして見てしまいます。


7 軽トラで大暴れ!?
 鈴鹿入りする前には、レッドブル、アルファタウリのドライバー達が都内で軽トラックを使ったゲームなどに挑戦し、その様子が動画でアップされています。
 車庫入れしたり、大きな玉をぶつけて巨大なボウリングのピンを倒したり、崩れないように段ボール箱を積んで走ったりと楽しそうです。車庫入れとか段ボールを崩さないように走るなんて、もしかしたらホンダパワーの大先輩、中嶋悟が得意なのでは?実兄が経営するガソリンスタンドを手伝っていたアマチュア時代に、トラックの荷台に配達のドラム缶を乗せ、ドラム缶が倒れないように車をコントロールしていたと言いますから「えっ、そういうのもできないの?」とか言いながら涼しい顔で荷物を運んでそうです。

8 レジェンドも現役も、トークショーは大盛況
 走行セッションの合間など、これまでも関係者のトークショーは行われていて、グランドスタンド裏のGPスクエアという広場に特設ステージを作り、そこを会場としています。今年は現役組も昼間などにトークショーがあり、いつもなら土曜予選後の前夜祭で登場することが多いのですが、一生懸命待ち続けた方が何人もの現役組を近くで見ることができたようです。トークショーの模様はスタンドの大型ビジョンに映し出されたりもするので、座席で楽しむこともできました。

こちらはレジェンド、左から中嶋、片山右京、佐藤琢磨の三人です。30年前の鈴鹿、右京は走らないティレル・ヤマハを走らせていて、足元のカメラで130Rでアクセルを完全に踏み込んでいない(マシンの出来が悪くて踏み込めていない)様子が映っており、ゲスト解説の長谷見昌弘から「あそこは全開だよ」と言われて気の毒だったなあと思いました。

9 紙のプログラム、危うし!?
 F1開催後に主に来場者を対象としたアンケートが鈴鹿サーキットのサイトに用意されており、いろいろ回答を入力していたところ、場内で販売されているプログラムについて、紙のプログラムの存続を問うような設問がありました。
 何より来場記念になりますし、読み物はセッションの合間に読んだりします。鈴鹿まである程度の数のレースを消化していますので、これまでのハイライトなども掲載されており、シーズンを思い返すきっかけを作ってくれます。
 シンガポールGPでは紙のプログラムが無かった、という話が伝わってきており、なんでもデジタル化というのも、と思ってしまいます。ペーパーレスは仕事だけで十分な感もあります。確かにスマホ一台あればドライバーのプロフィールからイベントスケジュールまで分かってしまいますが、私は古い世代の人間なので、紙で確認したい派なのです。また、コロナ前は地図、タイムテーブル、カーNo、ヘルメットのデザイン、おすすめのお土産がコンパクトにまとめられたガイドマップが無料で配られていて、こちらも便利でした。そういえばレッドブルが各GPに合わせて冊子を作って、レッドブルと一緒に売ってましたね。
 紙のプログラムは、これからも続くんですよね?

(左は筆者所蔵の1987年日本GPのプログラム。数年前に入手しました。これだけでブログ1回分書けそうです)

10 お土産あれこれ
 家族に、自分用に、職場にと、お土産の売り場もたくさんありました。観客は多かったと聞きますが、売り上げはどうだったのでしょう。昨年よりもお店は空いていたようにも感じます。私はいつもサーキット内の「ぐるめぷらざ」というお店で三重の特産品(お酒、海産物のつくだ煮、お菓子)を買い、名古屋でも和菓子を買ったりしています。食べ物で言うと名古屋ではこのところ流行りの「ぴよりん」のバウムクーヘンがあって、こちらも買いました。東京までの「ぴよりんチャレンジ」は難しそうですからね。そして今年はサーキット内の「ガレージR」というキッズ向けのお店が一番お世話になったと思います。豚児と家人用にホンダの懐かしい乗用車や軽トラなどが柔らかいタッチで描かれたTシャツを買いました。また3歳以上向けとありましたので、ブラーゴの廉価版F1マシンのうち、豚児が好きなメルセデスを買いました。プラ製のようですが、昔のオニクスあたりのダイキャストと遜色ないです。さっそく走らせたり(よく走ります)目の高さの場所に置いて眺めたりと気に入ったようです。モデルとなった昨シーズンのメルセデスは特徴的な「ゼロポッド」というスタイルで登場するも、不振を極めており、ラッセルが1勝を挙げたのみでした。そのラッセルのマシンを買いました。うちにも昔、ヤードレイカラーのマクラーレンのミニカーがあって、F1を本格的に見るようになった大学生の頃、このマシンのことを改めて調べたっけ。豚児もそのうち、このマシンの実物のことを調べたりするのかなあ。資料と写真なら、お父さんがたくさん持っているよ。

11 のぼり持ち去り事件に関する私見
 サーキット内などにたくさん立ててあったドライバーの写真、名前などが印刷された「のぼり」が決勝レース後にあらかた取られてしまった、という事件がありました。SNSなどでは「〇〇人が盗った」とか「いや日本人もいたぞ」と騒然となり、レースの結果は流さないくせに地上波のニュースでも採り上げられた、などと言われています。こういったのぼりは昨年からありましたが、昨年は盗難(というか略奪ですよね)といった話は聞かなかったように思います。個人的な意見ではありますが、他人のもの、しかも多くの方の目に触れるためにそこにあったものを勝手に持ち去ったわけですから、これは立派な犯罪です。ファンを名乗る資格も、サーキットに入ることもしないでほしいと思うのです。まずかった(と個人的に思う)のは鈴鹿サーキットの対応で、当初「どうせ廃棄するものだから」と、ともすれば盗難を容認するような発言をしていたことで、後に「厳正に対処する」と言い直していましたが、来春はどうなるでしょうか。
 また、ニュースでファンと呼べないような人間の悪行ばかりが伝えられていますが、サーキットに集まったファンの99.9%は、そういうことをしない人たちです。特に日本のファンは熱心で推しのためならファッションなどあらゆる要素でアピールするけど礼儀正しいと海外メディアが毎年採り上げるほど評判になっています。このところ増えた海外のお客さんの中には、そういったファンを見るのも楽しみ、という方もいるでしょう。ドライバーらの「入り待ち、出待ち」で踏まれた、転んだ、といったトラブルは聞きますが、ほとんどは善良な方々です。どうか、そんなファンの「熱量」も正しく伝えてほしいものです。
 コロナ明けで観光地で狼藉を働く、みたいな話は伝えられていて、ローマのコロッセオに名前を彫っただの、トレビの泉に飛び込んだだの、ヴェネツィアの水上タクシーでケツ出して「出禁」を言い渡されただのと、本来旅行してはいけない輩まで観光地を訪れたりしていますので、そういうのと同類かなとも思います。
 どうしても持って帰りたい、という方にはこんな方法はどうでしょうか。月曜日もサーキットは開いていますし、F1のチケットで遊園地も含めて入れます。以前は先着順で前日の表彰式の写真を配ったりしていましたから、それと同じで月曜の来場者で希望者に抽選でのぼりをプレゼントしてみてはどうでしょう。熱心なファンにプレゼントするという意味でも、効果があると思うのですが。
 また、のぼりを盗んだ中に外国人がいた、という話が聞こえてきたり、禁煙のところで外国人がタバコを吸っていた話も聞きました。確かにいつもの年より外国人が多かったように感じます。肌の色も話される言葉もさまざまでした。不案内が理由でトラブルになってしまってもつまらないので、個人的には海外からのファン向けに英語をはじめ、各国語の案内や注意表記がもっと必要かなと思いました。円安で物価も安く、さらに安全で料理も美味しいということで、日本は「訪れたい国」だそうですが、もちろんそれぞれの国の「ルール」があって、それはサーキットとて同じです(円高だった10年以上前に鈴鹿に来ていた外国人のファンで、変なことをする人はいなかったし、あの厳しい時代に観戦していたという意味でも彼らを尊敬しています)。
 どうでもいい個人的な希望ですが、もし「のぼり」を用意するなら、鈴鹿を彩ったレジェンド(セナとかプロストじゃなくてアルヌーとかタルクィーニとかグルイヤールとか)も混ぜておいたらどうでしょう・・・。

10月10日追記。「のぼり」の写真なんて撮ってなかったと思い込んでいましたが、1枚だけあったので追加しました。

12 ミツバチは鈴鹿がお好き
 ラストは重くない話をしましょう。昨年引退したチャンピオン、セバスチャン・ベッテルが来日、生物多様性のシンボルとも言われるミツバチの巣箱を設置したと伝えられています。2コーナーも「ミツバチ・コーナー」と呼んでいました。鈴鹿もいろいろな動物がやってくるらしく、コースをカニ(!)が横断していたとか、現役時代の中嶋悟がテストをしていてヘビをタイヤで踏んだとか、いろいろな話が聞こえてきます。
実は鈴鹿サーキットと併設の遊園地ではミツバチとかたつむりがシンボル的に使われています。ミツバチをかたどった「ぶんぶんばち」やかたつむり型の「でんでんむし」という乗り物が長年親しまれ、遊園地の改修で一度は姿を消したものの、復活した経緯がありました。ベッテルの活動は鈴鹿が皮切りらしいですが、ちょうどよい場所でスタートさせた感があります。
遊園地の内外で見かけるオブジェ。決勝の後、これを見ながらサーキットを後にするときは、ああ、あと1年後だなと寂しく思うのです。


と思ったら来年は196日後ですよ。3月末に東京でフォーミュラeがあって、翌週は鈴鹿です。年度初め早々、自分がグランプリモードになっているのかな。


10月10日に写真を追加しました
 
 

 
 









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F1日本GP 2023 こぼれ話 その1

2023年10月05日 | 旅のあれこれ
 日本GPの話を何回かに分けて書きましたが、書ききれないことやレース周辺の話なども書きましょう。
1  暑い、熱い・・・
 今年の日本GP、とにかく暑さが半端なかったです。初日の金曜は蒸し暑さ、土日は乾燥していましたが肌に刺すような暑さでした。以前も9月にF1はありましたが、その時に比べても相当な暑さで、今年の高温ぶりを象徴していました。金曜はあの手この手で水分補給しました。こちらの凍らせたジュースはパンや菓子でおなじみのドミニク・ドゥーセさんのお店のものです。

 金曜日は自販機の飲み物も早々に無くなったとかで、土日はあらかじめ名古屋で買ったお茶のペットボトルを持ち込みました。
 金曜は暑さに少々まいってしまい、夕食はホテル近くの店で親子丼を食べました。名古屋コーチン使用ということで少々贅沢ではありますが、食べながら「うんうん、こういうシンプルな味でいいんだよ」と心の中で呟いていました(って井之頭五郎かよ)。昔は味噌カツだ、ひつまぶしだと名古屋名物をいろいろ試したものですが、今は大人しくなりましたし、食後はスイーツまで行かなきゃ、だったのが最近ではコンビニのカットフルーツで果物を摂取したいとなっており、年を取ったというのもありますが、健康的なものです。
2 アクセスは何が便利なの?
 サーキットまでのアクセスは毎回考えさせられます。往復名古屋⇔鈴鹿サーキット稲生で、特急の指定席となれば楽ですが、特に帰りは指定席が取れないため、行きはともかく帰りの手段を考えながらとなります。昨年はサーキット発名古屋行きの高速パスを使いましたが、高速に乗るまで時間がかかり、それがストレスだったりしました。
 皆様SNS等でお勧めのアクセスを紹介したり、当日の混雑状況を上げているので参考になります。今年は土日については名古屋から津まで近鉄で、津からサーキットの往復でバスツアーに入りました。結論から言うとバスの乗車時間もそれほど長くなく、帰りは渋滞もありましたがストレスにならない程度でした。特に日曜は予想以上に早かったし。また、金曜帰りの平田町経由も金曜日の時点ではF1関連の方は少ない印象でした。さすがに土日はだいぶ混んだと聞いていますが、電車が30分ヘッドで発着しており、道中立っていくことを厭わなければこの方法もありです。伊勢鉄道も金曜からスタッフを確保して混雑対策をしていたと聞いています。以前のようにJRが波動輸送の客車や気動車を総動員、ということができないため本数は限られますがサーキットが駅から近いということでは魅力でしょう。
 近鉄の白子からのシャトルバスも朝のうちは空いていたようです。帰りは2時間待ち、なんていう話も聞こえていました。交通手段の選択はギャンブルなところもありますが、自分の予定と懐具合で決めたいところです。
 ちなみに近鉄の「ひのとり」は以前も書きましたがとても素晴らしく、やはりバスツアーに合わせて津まで乗った方が「とても快適で1時間弱の乗車がもったいないくらい」と話しているのが聞こえました。アーバンライナーもビジネス特急として素晴らしいほか、かつてのスナックカー12200も特急として必要なものは揃っている車輌でしたが「ひのとり」に関しては近鉄がフラッグシップトレインとして考えているのがわかるように思います。



3 ニッポンダイスキ!?
 日本グランプリを走ったドライバー達ですが、何人かが特別なカラーリングを用意したヘルメットで出走していました。アストンマーチンのアロンソは墨で描いたような寺社仏閣と日の丸をイメージした柄が目を引いていました。ルイス・ハミルトンは何とイラストレーターの空山基氏とコラボしたヘルメットを用意しました。シルバークロームで同氏のイラストの世界観が凝縮されており、バイザーのところに蛍光イエローがさしてあるというのも斬新です。もともとハミルトンが空山氏の大ファンで、ハミルトンがお願いして実現したそうです。空山氏のアトリエをハミルトンが訪れたときの様子も本人のSNSに出ていましたが、憧れの人に会った嬉しさがにじみ出ているような感じで、こんなところに「人間・ルイス」が見え隠れしたように思います。
 また、エステバン・オコンは「筑波(サーキット)でドリフトしたい」と記者会見で話したそうで、独特の車文化が世界に知られているというのも興味深いです。
 お忍びで(?)国技館を訪問したジョージ・ラッセルは熱海富士と記念撮影をしてNHKの中継に映ったものの「海外からのお客様」としてスルーされてしまったようで、私服でサングラスじゃ分からないですよね。

4 決勝日のセキュリティチェック
 決勝日にセキュリティチェックがあることは初日の時点で知らされており、昨年の鈴鹿訪問で味をしめた総理が再訪するのかとか、久々にやんごとなき方が訪問されるのではなどいろいろな噂もありましたが、単にチェックだけでVIPの訪問はありませんでした。私のリュックは2室構造のため、上と下の両方を開けるように言われました。下側に雨具を入れてあるだけなので、何の問題もなく通過できました。一説には欧州のサーキットなどで発煙筒が焚かれたりするのでそれを防ぐためとか、人がたくさん集まるところ故、安全対策も大事になってきますが・・・。ちなみにイタリア・モンツァでは持ち込み禁止の物品の中にチェーンソー(!)があるとTVで言っていました。モンツァは緑豊かな国立公園内にあり、木の幹や枝を切って即席の観覧席を作られても困る、ということなのでしょうか。

5 屋台の料理は高い?安い?
 物価高の昨今、サーキットで買う料理も値段はさまざまといったところです。昔ほどたくさんは食べませんし、価格的には野球場とさほど変わらないところもありました。食事は1食1000円でなるべく抑えましたが、軽く2000円くらいいっちゃう弁当もあったようです。私は飲みませんでしたがお酒は缶ビールが500円ということで、他のお酒もそれくらいから、というところが多かったと思います。表彰台で使われるスパークリングワインはコップ一杯でもっと高かったですが。野球場でも生ビール1杯が800円、900円と言っているご時世ですから、極めて高いという訳ではないようです。今年の場合は暑さもありましたので、食べ物は火を通してあっても買ったら早めに食べるとか、衛生面で気を使ったように思います。
 
つらつらと書いてまいりましたがまだ書き足りないので、続きます。なぜか一般のニュースネタになってしまった件のことも書きたいですから。

 
 

 
 

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明らかになったサステナ車両

2023年10月03日 | 鉄道・鉄道模型
 西武鉄道が「サステナ車両」という名称で大手私鉄から中古車輛の譲渡を受けるという話は以前このブログでも書きましたが、東急9000系と小田急8000形が西武にやってくる形式であることが明らかになりました。
 東急9000、東急にとってはインバーター初期の形式であり、デビューしたのは私が高校生の頃ですから、30年以上経っています(西武に来るのがどれくらいの車齢なのかは不明ですが)。インバータ特有の音と車端部の取ってつけたようなボックスシートが特徴で、デビュー当初は「今度の電車は変な音がするね」とみんな言っていたものです。ステンレス車体のため、帯の色などで「お化粧」していたわけですが、西武では6000系や20000系同様、青い帯を巻いて走るのでしょうか。入線早々から「10年前からこの塗装ですけど、何か?」という感じで妙にはまっているかもしれません。
 東急の9000は「サステナ車両」の候補という感じがしましたが、小田急8000は驚きました。サステナ車両の当初の定義ではステンレス車を想定していたと思いますので、銀色の車輌でない通勤車ということと、小田急の通勤車輛が他社に譲渡というのがそもそもこれまで聞かなかった感がありました。そもそも20m車体の通勤車輛がどこかに譲渡というのが珍しいですからね(小田急1800形が秩父鉄道に譲渡、というのがありましたが)。私はこの80年代らしい外観の通勤車が好きですが、先輩の9000形に比べると大人しいスタイルですし、この車輛が好き、という人にあまり出会ったことがありません。「偉大な平凡」も大切なことなのですが・・・。
 小田急8000については塗装はどうするのでしょうか。アイボリーに西武の青帯では芸がなさすぎです。せっかくだから黄色く塗って、昔の101系のように窓回りをベージュという組み合わせはどうでしょうか。えっ、自分でGMキットを組んで塗ってみたら?
 
 さて、これらの車輌ですが、池袋線、新宿線などの本線系ではなく、支線の「黄色い電車」の置き換えが主な目的となりそうです。また、先日も乗車しました秩父線の4000系の置き換えも予定されており、そうなりますと2扉、ボックスシート車から4扉、ロングシート車ということで、サービスの後退にも映ってしまいますが、民鉄にしてもJRにしても昔ならクロスシート、ボックスシート車が担当していた近郊路線、ローカル路線もロングシート車が入るようになっていますので、時代の流れのようです。

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