工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

読書で誰かの人生を知る・・・坂本龍一さんの自伝

2023年10月10日 | 日記
 レースだ旅だといろいろ書きましたが、夏前に複数の方の「自伝」を読んでおりました。紹介が遅くなりましたし、既にお読みになった方もいらっしゃるかと思いますが、ちょっとおつきあいください。
「音楽は自由にする」(新潮文庫) 「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」(新潮社) 坂本龍一著
 「音楽は~」はもともと新潮社の「ENZINE」誌のために生い立ちから2008年頃までの活動について、同誌の編集者の鈴木正文氏のインタビューに基づいて構成されたものです。いろいろなミュージシャンの自伝というのを読んだことがありますが、これを読んで思ったのは当たり前のことでありますが「教授」は一日でできたわけではなく、幼少時から音楽と向き合う中で形作られたものであったことが分かります。子供の頃からピアノだけでなく、作曲を学ぶというのは普通の家庭の子供ではまずできないでしょうし、本人もある理由でバッハの曲が好きだった、とか少年期にはドビュッシーの生まれ変わりだと思っていたあたりは「普通の子」では無いわけです。エンニオ・モリコーネにしても「教授」にしてもバッハを敬愛していますね。西洋音楽を体系立てて学ぶとやはり「音楽の父」の偉大さがわかるものなのでしょうか。仕事人間でもあり、厳しかったという父親との思い出も綴られていて、父の影響もある、と本人は語っていますが、母親の取り仕切る食卓の会話で子供は育つ、というローマ人の格言ではありませんが、帽子デザイナーだった母親の影響もあったのだろうなとも思います。
 都立新宿高校時代に学生運動に明け暮れたというくだりは、聞き手の鈴木氏も学生運動経験者のためか、本人の舌も滑らかになっている感がしました。都立高校の中では大学生につられるように始まった学生運動の結果として制服廃止とか、そういった要求を通したところもあり、私の母校も新宿高校ほどのオツムの出来ではありませんが、大先輩たちがいっちょ前に制服を廃止していました(余談ですが新宿高校も私の母校も後になって「お洒落な制服が欲しい」という生徒の意見が出て、制服が復活しています)。
 東京藝大進学後の話も興味深く、音楽だけでなく美術の学生たち、そこから派生して演劇など外の世界と交流を深めていたというのも、後の活動に影響を与えていたと思いますし、大学院まで進むものの「日雇い労働者的に」スタジオミュージシャンやライブハウスでの仕事をしていたということで、このあたりは村上「ボンタ」秀一氏の「自暴自伝」でも触れられていますが、YMO結成前夜のにこの人はこんなことをしていたのか、という感じで読みました。
 私がYMOと出会ったのは小学生の頃で、音楽もルックスも今でいう「クール」な人たちに見え、今まで見たことがないし聞いたことがない、という印象を持ちました。3人それぞれのバックグラウンドを知るのは、だいぶ経ってからですし、海外での売り込みも含め、レコード会社の戦略などもあったわけですが、その頃はそんなことは知る由もないので、ただただ未来的なサウンドと機械に囲まれて演奏しているかっこいいお兄さんたちをテレビで観ていたわけです。この3人は生い立ちも全く違うわけですが、中野生まれ世田谷育ちの坂本氏が、都心生まれ、育ちの他の二人に対して抱くコンプレックスも、同じ23区といっても地域で差(これはカラーの違い、と言った方が良いでしょう)があるわけで、ちょっと共感できるところでもあります。
 また、一度「散開」したYMOが90年代に「再生」したのも本人たちの意にそわない形でのものだったようで、見ているこちらも「なんだか楽しそうじゃないな」と思えたのはそういうことだったのかと思いました。もっとも、2000年代の再結成は当人たちの「機が熟した」ものであったようです。
 俳優としての活動、思想家との対談、映画音楽など、さまざまな活動をしていくわけですが、音楽を古典から現代まで体系立てて学んでいくうちに、音楽以外の分野も吸収していったことが、現代思想に関わる人たちとの対話が成立した理由ではないかという分析はなかなか興味深かったですし、出演を持ちかけられた「戦場のメリークリスマス」については、オファーの返事に「作曲もやらせてください」と大島渚監督に談判したとか「ラストエンペラー」についてはベルトルッチ監督の「無茶ぶり」に振りまわされてのものだったとは知りませんでした。
 後年、ニューヨークに活動の拠点を移しますが、同時多発テロの折に感じた恐怖と言うのは当事者でないと分からないでしょうし、現場証人の記録としても読むことができました。また、環境保護、反戦といった活動についても本人なりの思いがあってのことで、もともと音楽にも、他のことにもこの人はとても「熱い」部分があって、その発露ではないかとも思います。

「ぼくは~」は「音楽は~」以降の日々をつづったもので、がん患者としての日々や本人の死生観も含めて書かれています。既に「世界的な音楽家」ですから、世界のあちこちで演奏をしていますし、世界各国からオファーがあれば(特にそれが若い人たちのものからならばなおさら)断らずに受けている姿が見てとれます。とても大病を患ったとは思えないくらいの精力的な活動ぶりです。また、現代美術でいうところの「もの派」を音楽で表現することに晩年は力を入れていたそうですが、日本で発表するよりアジアの他の国での機会が増えたというあたりは、日本がそれだけ元気がなく、支援したり会場を用意してくれる企業や劇場が無い、ということでもあり、バブル期のなんでもありな「文化へのお金の使い方」を記憶している身としては、この国の変わりようというものを感じるわけです。
 また、自作の曲への想いなども綴られており「戦場のメリークリスマス」が代表曲のように言われるのは抵抗があったようですし(それを超えるものを作りたい、という意思もあるでしょうし)、1999年に空前のヒットとなった「エナジー・フロー」についても「音楽は~」の中で「5分くらいで作った曲がどうしてあれだけ売れたか分からない」と語っているのが印象的です。「エナジー・フロー」については、近田春夫氏が週刊文春のCD評「考えるヒット」の中で「教授なんだから手癖の範囲で仕事しちゃ云々」と書いていて、作曲者本人もこれは否定していないようですが・・・。
 多種多様な活動の一つとして、私が印象に残っていたのはEテレで放送した「スコラ 音楽の学校」という若者向けの音楽系の教養番組で、さまざまなジャンルの音楽とその歴史や特色をワークショップも含めて解き明かしていく内容でした。レベルもそれなりに高いものではありましたが、楽譜が読めない私でも楽しめまして、受信料はこういう番組のためにあってもいいじゃないかという気にさせられました。本人は相当な苦労だったというようなことを述べており、製作サイドとの衝突もあったようでした。
 「ぼくは~」については遺族の了解のもと、亡くなるまでの最後の日々についても本人のメモなどが記載されています。明治神宮外苑の再開発に対する意見表明をされていますが、あれは最後の日々に力を振り絞ってのものだったことが分かります。
 ひとりの患者としての視点も含めて書いていますので「ぼくは~」の方が内容としては重いわけですが、両方の著書で本人の想いの軌跡や創作への熱意などが伝わってきました。東京藝大では全国で500人くらいしか聞き手がいないような曲を、実験室で白衣を着て作っている感覚だったそうですが、それに飽き足らずさまざまな世界とふれあい、自分の目指す音だったり、表現だったりを極めていった人の声と言うのは、やはり重みがあります。私の拙い記述ではこれらの本の魅力は伝えきれていないと思いますが、メディアで紋切り型に取り上げられた氏の姿ではない本人の声を聞きたい、知りたいという方に、特にお勧めしたいです。
 そうそう、私と「教授」の接点がありました。私がヴェネツィアで25年来の知己となる印刷工房があるのですが「教授」もそこの顧客であったようです。有名人ご来店をことさら大きく取り上げない方なので、他の方から聞いて「へえ」となったわけですが、そういえば工房に「千のナイフ」のCDがあったことを思い出しました。

「音楽は自由にする」というタイトルはナチスドイツの強制収容所のスローガン「労働は自由にする」から着想を得たようです。

 
 
 
 

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