工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

それぞれの、9月2日(つづき)

2023年09月02日 | 日記
 今日、9月2日は昭和20年に日本が降伏文書に調印し、書類上で第二次世界大戦が終結した日です。有名、無名のあの人たちがその日をどのように迎えていたのかを、昨年も書きましたが、今年も想像を交えながら書いてみました。
ケース1 彼は15歳の少年でした。ノースカロライナで生まれ、この戦争の終結と勝利を純粋に喜んでいたのでしょうか。やがて建築を学び、その途上で志願して空軍に入隊、朝鮮戦争当時は日本にもいました。板付か、ジョンソン(入間)か、立川かは分かりませんが、読者のご両親や祖父母、私の両親もこの大柄なアメリカ人とどこかですれ違っていたかもしれません。
ケース2 彼は18歳で兵役に就くと、早速アルデンヌの森に送られ「地獄の最前列」を経験して何とか生き延びました。この時点では既にアメリカに戻っていたのか、それとも、マジックカーペット作戦と呼ばれる帰郷のための列に並んでいたのか・・・。
ケース3 彼は徴兵されてイタリア軍の一員として戦いました。ところが、イタリアの降伏により、彼の部隊はドイツ軍と戦うことになります。一時はドイツの捕虜となるも脱走(!)してヴェネツィア(!!)に逃げ延びました。その昔から、逃げたければヴェネツィアに行け、と言われていましたが、それはここでも変わらなかったようです。ようやく戦争が終わり、ローマで演劇人としてのキャリアの第一歩を刻んだ頃でしょう。
ケース4 演劇の世界に裏方ではありますが身を置いていた彼は、1943年にイギリス空軍に入隊、兵長で終戦を迎えます。パイロットを目指すも叶わず、軍内で慰問で演劇を行う一団のオーディションに合格し、各地を訪問しました。終戦後も欧州大陸にとどまり、本来の演劇・喜劇人として活動を始めるのは1946年になってからだったようです。
ケース5 17歳の彼はロケットに非常な興味を示し、自作のロケットを作って飛ばすような少年でした。より大きなロケットを飛ばそうと火薬の原料を求めて化学肥料会社を訪れて断られた、というエピソードがあるほどです。この時点で彼の視線の先にはパイロット、さらにはまだ見ぬ宇宙があったのでしょうか。
ケース6 彼は第二次大戦中、海軍でアベンジャー雷撃機の銃手などの任に当たっていました。彼と彼の乗機は空母に向かうことになっていましたが、パイロットの体調不良のため、彼らだけ空母の到着が延期となります。その間に配属予定だった空母に日本機の特攻があり、多くの仲間たちを失いました。9月2日をどんな気分で迎えたのでしょうか。
ケース7 ケベック生まれの彼は大学生で空軍に入隊、終戦時は教練担当の軍曹でした。彼は俳優として日本のお茶の間で知られるようになりますが、そこに至るまでオリンピック代表候補のスキー選手、映画会社のスタッフ、スキー場のインストラクターなど、さまざまな経歴を積むことになりました。
ケース8 ニューヨーク、ブロンクス生まれの彼は終戦当時16歳でした。ハイスクールに退屈したのか、それともパレードする兵士たちのように英雄になりたい、と思ったのかは分かりませんが、1年後には高校を中退して海軍に入ります。ブロンクス生まれで歳が少し上のピーターという青年が合衆国商船隊にいて、噂を聞いていたのでしょうか。
ケース9 彼は数日前に17歳の誕生日を迎えたばかりでした。5月の空襲で焼け出され、バラックを建てて住んでいました。9月1日に予科練帰りの幼馴染がどこで入手したのか一升瓶を携えてやってきました。これからの不安を口にしながら呑む酒の味(二人とも未成年ですが、それはご容赦)はいかばかりだったか。やがて寝入った二人でしたが、9月2日の朝、轟音とともに空を埋め尽くすかのような艦載機、飛行艇の姿を見ます。降伏文書調印を前に、上空を航空機で威圧するかのように警戒していたのでしょう。

ケース1 彼はテレビシリーズ「コンバット」で規則違反の常習ではあるものの、ブローニング「BAR」を構えて頼りになるGI・カービーを演じました。彼の名前をジャック・ホーガンと言いますが、本名はリチャード・ローランド・ベンソン・ジュニアです。
ケース2 アルデンヌで帰らぬ人になっていたら、ブルーノート東京のこけら落としに出演することも、晩年にレディ・ガガと共演することも叶わなかったでしょう。今年亡くなったアメリカの歌手、トニー・ベネットです。
ケース3 後にイタリアを代表する名優となるマルチェロ・マストロヤンニです。
ケース4 コメディを中心に活躍し、クルーゾー警部でおなじみ、ピーター・セラーズです。
ケース5 彼は米海軍に進み、ロケットの研究も続けます。宇宙飛行士となり、月に向かっていたところ事故により月に降り立つことはありませんでしたが、その奇跡の生還劇は映画化されています。アポロ13号の船長、ジム・ラベルです。
ケース6 予定通り彼とその乗機が空母バンカー・ヒルに降り立っていたら、特攻に巻き込まれていたかもしれません。「明日に向かって撃て」も「スティング」も生まれなかったでしょう。アメリカの名優、ポール・ニューマンです。
ケース7 テレビシリーズ「コンバット」でフランス語を話すケイジ(日本放送時にはケーリー)を演じていたのはその名前からしてフランス系であるピエール・ジャルベールです。
ケース8 テレビシリーズ「コンバット」のサンダース軍曹こと、ビック・モローです。ドラマでは地方都市出身、と描かれていましたが、実際には大都会ニューヨークの出身、と言った方がしっくりきていました。除隊後に高校に復学、卒業後は大学に進みますが、演劇が彼を捕らえたようでした。なお、同じブロンクス出身のピーターという青年は刑事コロンボを演じたピーター・フォークです。大学卒業後に連邦政府で働いていましたが、やはり演劇が忘れられず、役者の道を選びました。
ケース9 私の亡父です。勤労動員で10代の子供が大人に混じることで酒、たばこ、ギャンブルを覚えることになるなど、そういう意味でも戦争はいいことではない、と言っていました。本人曰く「屈辱の占領時代」では酔った海兵隊員にいきなり殴られた、といった経験もあって、その後の人生にさまざまな影響を与えていたと思います。
最後にもう一人、大戦中はやはりアベンジャーに乗っていて、パイロットだった彼は二度も撃墜されたことがあり、そのたびに味方に助けられています。1945年初頭には帰国しており、名門イエール大学に進みます。この時に撮られたベーブ・ルースとの写真は有名です。この時点では自分が航空母艦の名前になるとは思いもしなかったでしょう。彼の名前はジョージ・H.W.ブッシュで、後の41代アメリカ大統領です。


このGIも、無事に本国に戻って、どんな戦後を生きたのだろう。










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