9月1日は大正12年に関東大震災から100年ということで、メディア等でもとり上げられています。都市型の甚大な災害ということで、後世にさまざまな教訓を残していることはここに書くまでもないでしょう。私が大人になるまでは「震災」と言えば関東大震災のことでしたし、当時を知る人たちもまだ健在でした。
このブログが乗り物を題材にしていますので、それに因んだことを書いてまいりますが、有名なところでは横須賀で巡洋戦艦から航空母艦として建造されるはずだった「天城」が地震で損傷を受けて建造を諦め、実艦標的となる予定だった「加賀」が代わりに空母となって「赤城」とともに主力空母の座に就いたことは皆様もよくご存じのことと思います。
また、イギリスから輸入され、横浜で陸揚げ途上で被災して使えなくなった鉄道省(国有鉄道)の6000形(のちのED51)については、後にイギリスから新品が送られています。当時は電気機関車も米英から輸入していた時代で、小さなD型機ばかりでした。
さきほど「当時を知る人たちも健在」と書きましたが、私の祖父母がまさにそうでした。特に父方の祖母は震源と言われているところからさほど離れていないところで被災しましたが「大きな揺れが二回来た」と語っており、大震災を引き起こしたのは「双子の地震」だったというのを裏付けるような話です。
祖父は務めていた海軍省の建物の中で被災しましたが、他の建物の屋根瓦がザーッと落ちたのを見たり、通行人が立っていられないほどの揺れで何かにつかまろうとして、近くの柳の木につかまったところ、木ごとゆらゆらと揺れていて、本人は必死の思いだったでしょうが、祖父から見ると滑稽に映ったようです。
改めてウィキペディアなどで本震以降の余震の様子を見ますと、東京湾、千葉県南方沖、東方沖といったところを震源として、それなりの大きさの余震もあったようです。東日本大震災の3月11日も、何度も余震があって、東北からだいぶ離れた東京の私にとっても「生きた心地がしない」と思ったものです。あの9月1日は、祖父が帰宅すると家は無事で、曾祖父らが家の周囲の警戒を兼ねて不寝番をしたそうですが、祖父は「ばかばかしい」とそれを横目に酒を飲んで寝入ってしまったそうで、とても安眠などできなかったと思うのですが、さすがとしか言いようがありません。ちなみに東日本大震災の日は私も深夜に帰宅しましたが、まだ断片的にしか入ってこない被害の報道に胸を痛め、とても「酒を飲んで寝る」などという芸当はできませんでした。
平成以降、二度の大震災がありましたので様相は変わりましたが、かつては9月1日と言えば新学期であり「防災の日」として地震に対応した訓練が行われということで「いつか来るであろう」東海地震のための訓練も長いこと行われてきました。東海地震の場合は予知ができるという前提でのことらしいですが、他のエリアで大災害をもたらす大地震が幾度も起きているのを見ると、素人の意見ではありますが予知というのは無理な話なのでは、というのと東海地震のための予算で他に防げる震災があったのではないか、と少々厳しい見方をしてしまうのです。
東京では明治以降、大きな地震が幾度かありましたし、水害、戦災と「リセット」されるくらいの大きな出来事に見舞われています。さきの祖母もその100年近い生涯の中で、水害、スペイン風邪、震災、戦争とその前半生で大変な思いをしています。そして、この祖父母らが無事に生き延びてきたから、私の両親がいて、私がいるわけです。何はともあれ、ご先祖様の強運に感謝であります。
さて、やはり震災、戦争を生き延びた私の母方の祖母の知恵を一つ。関東大震災以降、寝る前に必ずやかんに水を一杯にしておくようになたったいいます。ついでに我が家では電気ポットにも水を一杯にしておきますが。こうすることで、水道、電気が止まっても少しは水も確保できます。ペットボトルで長期保存の水を用意することも有効ですが、今日からできる「防災対策」ではあります。
このブログが乗り物を題材にしていますので、それに因んだことを書いてまいりますが、有名なところでは横須賀で巡洋戦艦から航空母艦として建造されるはずだった「天城」が地震で損傷を受けて建造を諦め、実艦標的となる予定だった「加賀」が代わりに空母となって「赤城」とともに主力空母の座に就いたことは皆様もよくご存じのことと思います。
また、イギリスから輸入され、横浜で陸揚げ途上で被災して使えなくなった鉄道省(国有鉄道)の6000形(のちのED51)については、後にイギリスから新品が送られています。当時は電気機関車も米英から輸入していた時代で、小さなD型機ばかりでした。
さきほど「当時を知る人たちも健在」と書きましたが、私の祖父母がまさにそうでした。特に父方の祖母は震源と言われているところからさほど離れていないところで被災しましたが「大きな揺れが二回来た」と語っており、大震災を引き起こしたのは「双子の地震」だったというのを裏付けるような話です。
祖父は務めていた海軍省の建物の中で被災しましたが、他の建物の屋根瓦がザーッと落ちたのを見たり、通行人が立っていられないほどの揺れで何かにつかまろうとして、近くの柳の木につかまったところ、木ごとゆらゆらと揺れていて、本人は必死の思いだったでしょうが、祖父から見ると滑稽に映ったようです。
改めてウィキペディアなどで本震以降の余震の様子を見ますと、東京湾、千葉県南方沖、東方沖といったところを震源として、それなりの大きさの余震もあったようです。東日本大震災の3月11日も、何度も余震があって、東北からだいぶ離れた東京の私にとっても「生きた心地がしない」と思ったものです。あの9月1日は、祖父が帰宅すると家は無事で、曾祖父らが家の周囲の警戒を兼ねて不寝番をしたそうですが、祖父は「ばかばかしい」とそれを横目に酒を飲んで寝入ってしまったそうで、とても安眠などできなかったと思うのですが、さすがとしか言いようがありません。ちなみに東日本大震災の日は私も深夜に帰宅しましたが、まだ断片的にしか入ってこない被害の報道に胸を痛め、とても「酒を飲んで寝る」などという芸当はできませんでした。
平成以降、二度の大震災がありましたので様相は変わりましたが、かつては9月1日と言えば新学期であり「防災の日」として地震に対応した訓練が行われということで「いつか来るであろう」東海地震のための訓練も長いこと行われてきました。東海地震の場合は予知ができるという前提でのことらしいですが、他のエリアで大災害をもたらす大地震が幾度も起きているのを見ると、素人の意見ではありますが予知というのは無理な話なのでは、というのと東海地震のための予算で他に防げる震災があったのではないか、と少々厳しい見方をしてしまうのです。
東京では明治以降、大きな地震が幾度かありましたし、水害、戦災と「リセット」されるくらいの大きな出来事に見舞われています。さきの祖母もその100年近い生涯の中で、水害、スペイン風邪、震災、戦争とその前半生で大変な思いをしています。そして、この祖父母らが無事に生き延びてきたから、私の両親がいて、私がいるわけです。何はともあれ、ご先祖様の強運に感謝であります。
さて、やはり震災、戦争を生き延びた私の母方の祖母の知恵を一つ。関東大震災以降、寝る前に必ずやかんに水を一杯にしておくようになたったいいます。ついでに我が家では電気ポットにも水を一杯にしておきますが。こうすることで、水道、電気が止まっても少しは水も確保できます。ペットボトルで長期保存の水を用意することも有効ですが、今日からできる「防災対策」ではあります。