工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

日本の鉄道史にもかなり関係があった話

2020年11月12日 | 鉄道・鉄道模型
 前回はアメリカの製鋼所で製造されたレールが日本に輸出されて・・・という話を書きましたが「おいおい、機関車をはじめとした車輛はどうしたんだ」と言われそうですので、そのあたりの話もしてまいりましょう。車輛に比べるとレールの研究をされている方は少ないですし、対象も次々と姿を消しておりますので、前回はあまり日の当たらないところにスポットを当てたというところです。
 車輛の研究に関してはこの世界の大先達の方々もいらっしゃるので、私などが特別なことを書けるわけではありません。そういう意味では誰でも知っている話になりますが、なにとぞご容赦ください。

 明治初期の鉄道開業以降、海外の技術、車輛等の導入から日本の鉄道がスタートしたことは前回も書きました。アメリカ製品はレールだけではなく、機関車をはじめとした車輛が数多く導入されました。特に北海道内の鉄道はアメリカ型が多かったのですが、本州でも英国、ドイツの機関車に混じってアメリカの機関車が活躍しました。鉄道国有化が進む以前のことでしたので、鉄道側もさまざまなメーカーに発注しており、それが形態のバラエティを生むことになりました。
 ボールドウィン、ピッツバーグ、ロジャース、ブルックス、スケネクタディなどのメーカーで生産された蒸気機関車は小型のタンク機関車から、本線用の旅客機、さらには山越えに威力を発揮したマレー式機関車まで多岐に及んでいます。ボールドウィンはフィラデルフィアで長らく生産を行い、後に同じペンシルベニア州内に工場を移設しています。そのものずばりの名称のピッツバーグをはじめ、ブルックスやスケネクタディのようにニューヨーク州に会社を構えているところもありました。東部、中西部がこうした工業の集積地だったことが分かります。
 ボールドウィンの機関車はドームの形に特徴がありました。また他のメーカーでも形式・車輛によっては黒一色ではなく(カラー写真が無いため確証はありませんが)ブルーや緑などに塗装された蒸気機関車が登場しており、鉄道名をローマ字で入れたりしながら全国で活躍することになります。中には原設計がイギリス型の機関車だったB6(2120形)のように量産が進む中でボールドウィンに発注されたものもあり、このグループは2500形とも呼ばれました。B6については日露戦争の軍事輸送のために作られたという面もあり、総勢500輛を超す大所帯でした。
 やがて日本国内でも機関車の製造技術が確立すると、外国からの蒸気機関車の輸入は大正期に入ってからはだいぶ減少しました。大正末期にやってきた8200形(のちのC52)が、本線上を走る「外国型」蒸気の最後になるでしょう。こちらはアルコ・スケネクタディで製造されているのですが、テンダー(炭水車)は日本製ということで、アメリカ型そのものの車体に地味な日本のテンダーがくっついているという感じです。

(模型はマイクロエース製)
パワフルな性能を活かして当初は東海道で、後に山陽本線瀬野~八本松の山越えに使われました。
 また、ちょっと変わったところでは日本統治下の台湾・阿里山森林鉄路のシェイギアード機関車がオハイオ州にあったライマというメーカーのものでした。
 もちろん電気機関車も大正期にウェスチングハウス、GEといった今でもお馴染みのメーカーのものが輸入され、電化の初期に貢献しましたし、電車についてはブリル社の台車はあちこちで使用されました。ブリルもフィラデルフィアに本拠地を置いていたそうで、フィラデルフィアというと大リーグの古豪フィリーズと映画「ロッキー」の舞台というイメージだったのですが、鉄道とのかかわりを再認識しました。ちなみにブリルは明治時代、九州鉄道のために豪華な客車を製造しましたが、これがのちに「或る列車」と呼ばれる編成でした(JR九州がこれにインスパイアされた列車を走らせていますが)。
 その後もアメリカ中西部のメーカーの技術に日本はお世話になっています。現在、ミシガン州に本拠を置くバッド社のステンレスカーの技術は東急車輛の製造した車輛に活かされます。東急7000系にはバッド社のライセンスを示すプレートが車内についていましたし、パイオニア台車もバッドの技術でした。バッド社自身は既に鉄道車輛の製造から撤退しているようですが、日本の鉄道車輛に及ぼした影響という意味では多大なものがあります。
(参考文献 1号機関車からC63まで 片野正巳著 ネコパブリッシング)
 


 

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