廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

文物と日用品の違い

2018年09月30日 | Jazz LP (Argo)

Sandy Mosse, Ira Shulman, Eddie Baker / Chicago Scene  ( 米 Argo LP 609 )


50年代のアメリカのジャズ・シーンの中心はニューヨークとロサンジェルスだった訳だが、それ以外の地方都市でも多くのミュージシャンが盛んに
演奏していた。 当時はジャズを聴かせるナイト・クラブが全米に無数にあったし、2大都市ではTV・ラジオ放送や映画のサントラなどで
ジャズ・ミュージシャンの重要が多く、彼らはどこにいても仕事はいくらでもあった。 特別な野心に燃える者は2大都市へ行き、
そうでない者は地元を拠点に活動していた。

"Argo" というレーベルはシカゴのチェス・レコードのジャズ部門として始まったわけだが、レーベルのアイデンティティーとして地方都市で
活動する演奏家を大事にして、レコーディングの機会を提供した。 アーマッド・ジャマルにしろラムゼイ・ルイスにしろ、このレーベルが
レコードを作っていなければ幻のピアニストで終わっていたかもしれない。

その流れの一環で、お膝元であるシカゴで地道に活動していた演奏家を集めて作ったのがこのレコードということらしい。ライナーノートには
各メンバーを1人ずつ名前を挙げて丁寧に紹介するなど、愛情のこもった作りになっている。 レーベル・ポリシーの結晶のようなレコードと
言っていい。

ただ、2テナー、トランペットの3管にギターを加えたセプテットの演奏だが、これがおそろしく凡庸な内容だ。冒頭からラストまで同じような
ミドルテンポの演奏が続き、緩急が無くユルくて浅い単調な音楽が続く。 聴き終わった後に思い返してみても、どんな音楽だったのかが
思い出せないくらいだ。各人の演奏はどれもしっかりしていて、立派なプロの演奏ではあるけれど、音楽的な感動は見出せない。

でも、まあレギュラー・グループだったわけではないし、みんなフラッと集まってその場の打ち合わせだけで普段通りに演奏しただけなのだろう。
最初から何か特別な作品を作るためのレコーディングではなかったのだから、こんなものなのかもしれない。

音質もこのレーベルのモノラル録音のごく平均的なレベルで、そういう面でもパッとしない。奥行き感や立体感はなく、残響感も乏しい。
褒められるところは、唯一、ジャケット・デザインだけといっていい。ブルーノートを想わせる、夜の街を表現した意匠は素晴らしい。

当時のシカゴという街の、毎日繰り返されていた風景の1枚を切り取ったらこういう感じだった、ということだったのかもしれない。
アメリカのレコードにはこういう作品がたくさんある。こういう所が欧州やその他の地域のレコードにはない、アメリカ独特の特徴だ。
アメリカ以外の地域の演奏家は常に「新しい作品を創る」という気概を以って取り組んだが、アメリカでは普段着のまま録音されたものが多い。
ジャズという音楽が文物だった人たちと日用品だった人たちの違いがこういうところに現れている。


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変化の流れを愉しむ第一歩

2018年09月29日 | Jazz LP (Riverside)

Lee Morgan / Take Twelve  ( 米 Jazzland JLP 80 )


1961年の夏にジャズ・メッセンジャーズを辞した後の、モーガンの最初のリーダー作がこれになる。 ジャズランドのハウスミュージシャンが受け皿となり、
4つの自作曲を手土産にやってきたモーガンを出迎えている。 

この辺りからリー・モーガンの音楽は渋みが出てきて大人っぽくなってくる。 A面に固められた3曲の自作はすっきりと整理された曲想に憂いの影もかかり、
よく出来ている。 かつてのトランペットの演奏を前面に出すようなやり方ではなく、音楽をじっくりと聴かせようするやり方に変化してきている。

若い頃から途切れることなくレコードを残してきているせいもあるけれど、それでも成長の過程に合わせてその演奏や音楽が変化していく様子がここまで
くっきりと手に取るようにわかる人は珍しい。 表現者としての天才性だけではなく、変化を自ら求めたということもあって、その軌跡を追うことは面白い。
リー・モーガンを聴くというのは、結局のところ、そういう変化の流れを味わうということなのだと思う。 

ブルーノート1500番台での印象が強いという弊害で、リー・モーガンの音楽の違う側面が聴き逃されているのは残念なことだ。 卓越した演奏力を楽しむのが
最初にくるのはもちろん当たり前のことだが、この人の場合はもう少し音楽的な要素にも楽しみを見出してもいいはず。

このアルバムは派手な演奏を期待して聴くと、おそらくはじけたところがなく地味に感じられてがっかりする。 でも50年代の語法とは決別し、何か違うものを
手に入れようとしている雰囲気を感じることができれば、リー・モーガンという人のことがもっと面白くなる。 この手のアルバムではお決まりのスタンダードを
1曲も入れていないというのにも、ちゃんと意味があるということだ。

このレコードはジャズランドというレーベルにしては珍しくヴィヴィッドでクリアな音で鳴る。 そういうところも、この音楽の良さを引き立ててくれる。


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既に完成されていたワークショップの原石

2018年09月24日 | Jazz LP (Savoy)

Charles Mingus / Jazz Composers Workshop  ( 米 Savoy MG-12059 )


1954年と1955年に行われた2枚の10インチ録音を1956年にカップリングしたアルバムだが、この時点ですでにワークショップを名乗っている。
そして、既にミンガスの音楽が展開されているというのが驚きだ。 ルイ・アームストロングのバンドのベーシストとしてキャリアをスタートさせ、
パーカーと共演し、エリントン・オーケストラを解雇されるという最強の履歴書を書くことができる人だけに許された、唯一無二の音楽。

まるでクラリネットのようなラ・ポータのアルトが躍るアーリー・スイング・ジャズがあるかと思えば、3管が思い思いのフレーズを流しながらピアノが
調性を外れたコードで移ろう無調の曲までが立ち現れて、これが54年の音楽かと絶句する。 55年のセッションになるとそういう傾向は更に顕著になり、
トリスターノの音楽理論も取り込んだかのような傑出したムードで完璧に統一される。 マイルスやロリンズがまだよちよち歩きをしていた頃、既に
ミンガスはこんな音楽をやっていたのだ。 ジャズという音楽のいつコードの決まり事から逸脱してもいいという特性を最初に見抜いたのはこの人だった
のかもしれない。

でもそこには難解さは全くない。 非常に落ち着き払った静かなムードでしっかり統制されている。 まるで、灯りが落ちて闇が降りた深夜の人気のない街の
どこか遠くから反響して聴こえてくるような都会的な音楽だ。 テオ・マセロとジョージ・バロウが操るテナーとバリトンの深いトーンが孤独な影を作りだし、
ウォーリー・シリロのピアノが石畳の街路を宛てもなく彷徨うように響く。

作曲にこだわったミンガスの最初期の作品として、ワークショップの原石というよりは既に完成した音楽が静かに刻まれている。 50年代前半のある時期に
創られた多くのアーティストのアルバムには上述したようなある共通した雰囲気が共有されているものだけれど、このアルバムにもそれがある。
ミンガス独自の音楽ではあるけれど、それは当時のニューヨークの空気をしっかりと吸って時代と間違いなく繋がっていたことを感じることができるのだ。


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魅力を語り尽くせず

2018年09月23日 | Jazz LP (Columbia)

Duke Ellington / Piano In The Foreground  ( 米 Columbia CL 2029 )


ここで演奏されているエリントンの自作は他のレコードでは(おそらく)あまり聴けない珍しいタイトルが並んでいる。 エリントンの場合、その作曲の全貌は
私にはよくわからないし、本当に他の録音がないのかどうかまでは把握しきれない。 だから一連の有名な作品群には含まれず、演奏される機会もほとんどない
であろうこれらの楽曲の素晴らしさを手軽に享受できるこういうレコードは貴重だと思う。 

それらは演奏時間も短く、まるで一筆書きで描かれた薄墨による水墨画のように簡素で淡く儚いものではあるけれど、楽曲の核心部分がエリントン独自の
優雅なタッチによって示唆されており、曲が終わってもその余韻がいつまでも部屋の中や自分の中に漂っているような感じがある。 エリントンのピアノアルバムは
何枚かあるけれど、そういう静かな感情を喚起させるようなレコードはこれだけかもしれない。

"Fontainebleau Forest" や "A Hundred Dreams Ago" という魅力的なタイトルが付けられた小品はどこまでも抒情的で、こんなにも人間の感情の
ある側面を上手く曲にできるなんて、何と凄いことだろうと思う。 いろんなエピソードを読む限りでは俗っぽいところのある人だったみたいだけど、
こういう曲を聴いていると、そういうのが何だかうまく信じられない。

エリントンの魅力を語り尽くすのは難しい。 それはあまりに巨大で多面的で重層的で、何を語っても、どこに触れても、全然足りないような気分になる。
近寄れば近寄るほど遠ざかっていく蜃気楼のようにそれは永遠に触れることができず、その追いかけっこは果てしなく続く。 それがデューク・エリントンの
魅力なのかもしれない。

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暗黒時代だなんて、誰が言った?(4)

2018年09月22日 | Jazz LP (Jubilee)

Art Blakey and The Jazz Messengers with Sabu / Cu-Bop  ( 米 Jubilee JLP-1049 )


ジャッキー・マクリーンが離脱した穴を一時的に埋めたのは、ジョニー・グリフィンだった。 その時どういうやり取りがあったのかはわからないけれど、
おそらく最初から一時的な応援ということだったのではないだろうか。 そして、立派に大役を果たしている。 そういう背景を考えながらこのレコードを眺めると、
こちらの聴き方も感じ方も当然変わってくる。 

グリフィンもマクリーンと同様、自身の音楽観を曲にしたりアレンジにするタイプではなく、ひたすら演奏一筋の人だったから、そういう時になってようやく
ブレイキーは自身の音楽観を前面に出してくる。 例えば、こうやって秘密兵器であるルイス・"サブー"・マルティネスを連れてくるのである。

コンガやボンゴが入ると言っても、サブー・マルティネスの演奏は例えばルー・ドナルドソンのバックでチャカポコやっているようなあの感じではなく、
もっとシリアスで切れ味が全く違う。 普通のドラムセットでは出し切れないテイストを補完する役割を担っていて、リズムセクションの色彩をもっと何か
意味のあるものにしようとする。 その響きはもっと切実なものを孕んでいるし、もっと遠くまで響こうとする。 この音楽を聴いていると、サブー抜きでは
ちょっと考えられないよな、と思えてくる。 そのくらい、サブーの演奏にはこちらに響く何かがある。

独特の濃い空気感が漂う中、ハードマンとグリフィンの管楽器も存在感のある演奏をして、しっかりと爪痕を残す。 グリフィンのテナーはずっしりとした
重量感があり、音楽の表情がよりシリアスなものになっていく。 まったく物怖じせず、素晴らしい演奏を残している。 ハードマンのトランペットも
難しいフレーズを危なげなくこなしており、素晴らしいと思う。 誰1人落ちこぼれることなく、恰幅のいい大きな音楽が作られていく様は圧巻だ。
こんなに熱を帯びた演奏が刻まれたマイナーレーベルのレコードは珍しい。 これを聴いても、それでもまだ暗黒時代と言うのか、という感じである。 


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暗黒時代だなんて、誰が言った?(3)

2018年09月17日 | Jazz LP (Columbia)

Art Blakey and The Jazz Messengers / Hard Bop  ( 米 Columbia CL-1040 )


メンバーの名前や写真が一切載っておらず、バンド名と "Hard Bop" の文字のみ、という大胆なデザイン。 アメリカのレコード制作の常識ではこういうのは
普通あり得ないことだけど、マクリーンはプレスティッジとの契約関係が残っていて表向きには顔も名前も前面には出せないし、他のメンバーも似たような
状況だったのかもしれない。 ジャズはメンバーが流動的に動くから、契約関係の整理が色々難しかったのだろう。 それがこのアルバムでマクリーンの
快演が聴けるという認知を邪魔している。 

メジャー・レーベルらしくスタンダードも織り交ぜた明るい内容で、マクリーンの数少ない有名作 "Little Melonae" もあり、3枚の中では一番聴きやすい。
ファットなトーンがしっかりと捉えられていて、彼のアルトを堪能できる。 この時の録音でこのアルバムに収めきれなかったものが別のアルバムの片面に
収められている。

こうしてせっかく録音は順調に進んでいたのに、マクリーンはドラッグの不法所持でキャバレーカードを取り上げられてしまい、バンドから離脱することに
なってしまう。 その穴埋めをジョニー・グリフィンが応急処置的に務めたのちに、ジャズメッセンジャーズはベニー・ゴルソンを迎えて大きく躍進することになる。
高名なこのバンドには常時レコーディングやコンサートのオファーがあったので、その気になればいくらでも活躍できるチャンスがあった。 にもかかわらず、
それを活かし切れなかったジャッキー・マクリーンは自業自得とは言え、その力量を考えるとただただ勿体ないことをしたと思う。

この時の2人は音楽をトータルプロデュースする能力には欠けていたけれど、演奏一筋で来ただけあって、アルバムはどれも聴き応えがある。 もう少し長く
活動していれば有能なプロデューサーがいるレーベルでレコーディングする機会もあっただろうし、そうすれば後世に残る傑作が残せたはずで、そういう予感が
あるだけに残念だった。 ミュージシャンは音楽のことだけ考えていればそれでいい、ということでは決してないということなんだろう。


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暗黒時代だなんて、誰が言った?(2)

2018年09月16日 | Jazz LP (Elektra)

Art Blakey and The Jazz Messengers / A Midnight Session  ( 米 Elektra EKL-120 )


エレクトラ・レコードと言えばドアーズやジュディ・コリンズしか思い浮かばないけど、ジャズもほんの少しだがある。 フォークのレーベルとしてスタートしたが、
50年代後半は事業拡大の一環として間口を広げた時期で、ジャズメッセンジャーズなら一定のセールスが見込めるということで選ばれたのかもしれない。
ただ、ジャズの世界ではまったく認知されていないレーベルなので、このアルバムも人々の視野にはまったく入ってこない。 不幸は続くのである。

この時期のメンバーには曲を書ける人がいなかったので、メンバー外の楽曲を持ってこなければならなかったが、このセッションではなぜかレイ・ドレイパーの
作った楽曲が多く取り上げられている。 当時16歳だったドレイパーはまだアマチュア・バンドだった The Jazz Disciples に在籍していて、バードランドなどに
出演して注目を集めていた "時の人" だったらしく、いわば青田買いした選曲だったようだ。

そういう楽曲をビル・ハードマンが先頭で全体をリードし、ジャッキー・マクリーンが後追いでなめらかで伸びやかなトーンで吹いているのが印象に残る。
ドレイパーの楽曲はテーマ部に哀愁味があり、マクリーンが吹いていることもあって、"Cool Struttin'" の "Blue Minor" のような切ない印象が残る。
ピアノの Sam Dockery もベースの Spanky DeBrest も有名ではないけれど手堅い演奏で全体を下支えしていて、このバンドの纏まりはとてもしっかりしている。

このアルバムのブレイキーの演奏を聴いていると、フロアタムを重点的に使っていることが改めてよくわかる。 これでドラムの重量感を出していて、それが
バンド全体のサウンドの重量感にも繋がっている。 フロントの音域が高いので、ブレイキーのドラムとのコントラストが鮮やかだ。
骨太で剛性感の高いサウンドでジャズをしっかりと聴かせるバンドとして、再認識されていいはずの内容である。


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暗黒時代だなんて、誰が言った?

2018年09月15日 | Jazz LP (Pacific Jazz / World Pacific)

Art Blakey and The Jazz Messengers / Ritual  ( 米 Pacific Jazz M-402 )


ジャズメッセンジャーズにジャッキー・マクリーンがいた時期があることを認識している人はあまりいないんじゃないだろうか。 そして、その相方のトランペッターが
誰だったかをそらで言える人はもっと少ないだろう。 そういうのは、この時期が「ジャズメッセンジャーズの暗黒時代」と陰口を叩かれることがあることでもわかる。
おそらく、この時期を代表する有名作がない(例えば、"Moanin'"のような)ことからそういう言われ方をするのだろう。 
でも、暗黒時代だなんて、果たしてそれは本当のことなんだろうか。

ジャズメッセンジャーズというのは面白いバンドで、メンバーが変わる度に音楽がコロコロ変わった。 つまり、アート・ブレイキーはネームヴァリューという
インフラだけを提供して、後はメンバーの好きなように演奏させた。 バンド・オーナーとしてバンド内での生活態度は律したが、演奏する音楽そのものには
口出しをしなかった。 だから、在籍メンバーが入れ替わる毎に音楽の内容がガラリと変わった。 ホレス・シルヴァーの音楽を演奏し、ベニー・ゴルソンの音楽を
演奏し、そしてウェイン・ショーターの音楽を演奏した。 勿論、その時期ごとにそれぞれ代表作を残していった。

マクリーンとビル・ハードマンがフロントを張ったこの時期にもアルバムはそれなりに数は残っている。 そしてそれらをちゃんと聴いていくと、決して
暗黒時代なんかじゃないことがわかってくるのだ。


Pacific Jazz レーベルから出されたこのアルバムは、実際はニューヨークのコロンビア社のスタジオで録音されている。 パシフィック・ジャズが抱えていた
当代一の人気者のチェット・ベイカーのレコードをコロンビアのジョージ・アヴァキャンが自社で作りたかったために、コロンビアが当時抱えていたブレイキーと
交換留学生としてクロス・レコーディングしたのだ。 そのためだろう、珍しいエンジ色の特殊なレーベルを使っている(エンジ色はコロンビア・カラーだった)。

コロンビア録音なので、非常に音がいい。 マクリーンのアルトやハードマンのトランペットの音がナチュラルでキラキラと輝いている。 まずはこの音の良さに
殺られる。 マクリーンやハードマンには作曲能力がないからブルース形式のハードバップに終始していて地味な内容だけど、演奏は纏まりがよく、非常にいい。
これだけ質の高い演奏なのに評価されていないというのはどうにも解せない。 結局のところ、誰もきちんと聴いていないということなんだろう。

ブルースだけでは単調だと思ったのだろう、ブレイキーが黒人音楽のルーツとアイデンティティをナレーションとして語り、アフロ・ドラムのソロを1曲入れている。
このアルバムはこの人の音楽へのこだわりが力強く込められた、人知れず埋もれている傑作だと思う。





ジャケットの裏面にはレコーディング風景のスナップショットが並んでいる。 これがなかなかカッコいい。

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一足先に秋の気配

2018年09月09日 | Jazz LP (Impuise!)

Zoot Sims / Waiting Game  ( 米 Impulse AS-9131 )


1966年11月のロンドンで録音されたこのアルバムは、秋のどこまでも透き通った蒼い空の雰囲気や空気感が詰まった傑作だ。 いつまでたっても蒸し暑い東京に
秋はいつやって来るのかわからないから、このアルバムをかけて一足先に家の中を秋色に染めている。

ゲイリー・マクファーランドの編曲を使って中規模の弦楽オ-ケストラをバックにズートがスタンダードをゆったりと吹く、大人のバラードアルバムだ。
オーケストラは控えめで趣味が良く、さすがは英国オケだ思わせる。 マクファーランドのスコアも素直で柔らかく、音楽の情感を静かに演出している。
ズートの円熟味はピークを迎えており、安易なムード音楽に堕することなく、深みのある哀感と上質さに溢れている。 手慣れたスタンダードだけではなく
マクファーランド作のバラードも混ぜられていて、これが陳腐な雰囲気に堕ちることから救っている。

このアルバムはステレオ盤で聴かなきゃいけない。 音質がとても良くて、バックのオーケストレーションが部屋全体に大きく拡がり、その中をズートの
テナーが悠々と流れて行く音場感が最高に素晴らしい。 RVGは制作に絡んでいないけれど、それが却ってよかったのだと思う。

紐付きは敬遠されるのか、あまり人気のない作品のようだけど、私にはその方が好都合だ。 一人静かにこの音楽にいつまでも浸っていたい。


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ヒップホップに学ぶ

2018年09月07日 | Jazz CD




8月に一番たくさん聴いた音楽はたぶんヒップホップだった。 暑すぎる日々で何も考える気になれず、頭の中をカラッポにするにはうってつけの音楽だった。

ロバート・グラスパーなんかを聴いただけで「私、現代ジャズのことがわかってます」的態度をとるのって、そういうのはどうなのよ? という違和感が常々あって、
今まで手を出してこなかったヒップホップをいい加減本腰入れて聴く必要があるな、と思うようになったのが最近のこと。 

私がこの音楽のことを認識するようになったのは学生時代に観ていた「ベストヒットUSA」にRun DMCがチャートインするようになった頃だった。 その時は
「何なんだ、この頭の悪そうな連中は」と眉を顰めて無視を決め込んでいた。 私の周りの友達たちも皆同様の反応で、変な世の中になってきたねえ、と
溜め息をついたものだ。 ちょうどこの頃を境にアメリカのポップチャートが面白くなくなってきたこともあり、番組も観なくなった。


それから30年が経ち、ようやく聴いてみようという気になるのだから、自分のアンテナの感度の悪さにホトホト呆れてしまう。 どこから手を付ければいいのか
さっぱりわからないから "HIP HOP 名盤" で検索してみると、こういうのがズラッと出てきて、きちんと解説も付いている。 有難いことだ。
一応このあたりは過去の名盤だそうで、この世界では金字塔ということになっているらしい。

薄々気付いてはいたけど、こうやってちゃんと聴いてみるとわかることが色々ある。 当時のヒップホップは、歌(というか、リリック?)とバックの演奏が
まるでグラスに入れられた水と油のようにきれいに2層に分離している。 バックの演奏は奇妙に冷めた感じの安定したリズムを打ち続けていて、これだけ聴くと
ひと昔前に流行ったユーロビートなんかを思い出させるところがあったりする。 そして、そういう層の上にもう一つ別の層があって、そこでリリックが
ラジオのDJ的に語られていく。 ヒップホップはそういう元々あった色んなものが姿を変えて創り上げられているのかもしれない。

どれを聴いても同じようにしか聴こえないという先入観は間違っていて、やはりアルバム毎に雰囲気が違うという当たり前のことにも気付かされる。
この中ではやはりビースティー・ボーイズだけが異質だった。 黒人音楽とは根本的に違う感じで、発声の仕方といい、リズムのノリといい、ここまで違うのか、
というのは驚きだった。 一応ヒップホップという扱いらしいけど、どちらかというとハード・コア・メタルなんかの方が近いのかな?





そして現代ヒップホップの最高峰であろう、ケンドリック・ラマーも押さえておく。 これを聴くと、上記のアルバム群が "ヒップホップ・クラシックス"
なんだなあということが実感できる。 それくらい音楽的には進んでいるのが素人目にもはっきりとわかるのだ。

この人の音楽は以前の2クラスター構造みたいなものが解消されていて、音楽的にすべてのものが統合されて進んでいる。 ヒップホップが登場する以前の
ポピュラー音楽へと先祖返りしているようなところがあって、そういう意味では私なんかには従来のヒップホップには無い肌触りが心地良い。


まだいい音楽だなという感覚は全然湧いてこないけれど、それでもジャズミュージシャンがこの音楽に接触しようとするのは当然だよな、ということは
よくわかるようになった。 グラスパーの "ブラック・レディオ" シリーズは本当によく出来ている、と改めて思う。 それはジャズの側から見ただけでは
わからないことなんじゃないか、という直感は間違っていなかったということなんだろう。


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深夜に探さなくてもいいような場所に

2018年09月02日 | Jazz LP

Julian Dash / A Portrait Of Julian Dash  ( 米 Master Jazz Recordings MJR 8106 )


金曜日の夜、仕事帰りに新宿で拾った安レコ。 このレコードのことは知っていたけれど、現物を見るのはこれが初めてで、ちょっと驚いた。

1916年生まれで10代からプロとして活動してきたベテランで、54歳の時に初めて作った唯一のリーダー作だ。 1970年5月に録音されたステレオプレスだが、
手に持った感触はその10年前に作られたような手触りがする。 まるでもっと前に作られるべきレコードだった、とでも言わんばかりに。 

タイトルが物語るように、世間にその名を知られることなく地道に活動してきたベテランを紹介するために作られたアルバムで、ピアノ・トリオにギターが加わり、
ワンホーンで古いスタンダードを演奏している。 ウラニアの "Accent On Tenor"シリーズにちょっと雰囲気が似ているけれど、それよりはもっとモダンに
寄っていて、グッと落ち着いた内容になっている。 まあ、とにかくシブい。

深みのある太くて重くクセのない音色でゆったりと吹く様はドン・バイアスを思わせる。 アップテンポの曲でも終始落ち着いたプレイでうるさいところがなく、
バラード・アルバムを聴いたような印象が残る。 A面の "Willow Weep For Me"、B面の "Don't Blame Me" がディープなバラードになっているせいかもしれない。

聴き所はそんな感じで、それ以上もそれ以下もない。 長い一週間が終わり、夜の深い時間に酒を飲みながら聴けば気持ちよく眠りにつけそうな音楽。
60年頃を思わせる雰囲気の音質もとてもいい。 レコードラックの取り出しやすいところに置いておこうと思う。 夜中にゴソゴソと探さなくてもいいように。


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おそらく唯一のジャズ・アルバム

2018年09月01日 | Jazz LP

Lonnie Liston Smith / Make Someone Happy  ( 米 Doctor Jazz FW 40612 )


ロニー・リストン・スミスが活躍したのは70年代。 時節柄、純ジャズではやっていけなかったこともあってか、いわゆるフュージョン/レア・グルーヴ系で
気を吐いていた。 アルバムはたくさんあり、フライング・ダッチマンやコロンビアの諸作は其の筋では鉄板の評価になっている。 私もそのほとんどを
聴いているけど、一番好きなのはRCA Victorの "Live!" 。 これはもう最高の内容で、これを聴いてると嫌なことなんてすべて忘れてしまう。
でも、これらの作品はレコードでは1枚も持っていない。 こういう音楽は外に持っていくべき音楽であって、家の中でじめっと聴く気にはなれないから。

その路線で成功したお陰で80年代に入っても基本的には流れは変わらずにアルバムリリースは続くけれど、なぜかポツンとアコースティック・ピアノの
トリオ形式でスタンダード集を1枚残している。 レコードオタクのジャズおやじとしては、当然これが安レコ買いの対象となる。

これを聴けばわかる通り、この人は過去の巨匠たちの影響がどこにもない。 誰にも似ていない、みずみずしいジャズ・ピアノを弾いてる。 フレーズも
今まで聴いたことがないようなものばかりで、まったく新しい語法でジャズのスタンダードをやっているのがとても新鮮だ。 年代的に断層があったせいかも
しれないし、これまでのキャリアの中で身についたものなのかもしれない。 いずれにしても、これだけのピアノ・トリオ作品が作れるのであれば、もっと
ジャズのアルバムを作ればよかったのにと残念に思う。 

まあ、そういうのを作ったところで大して売れるわけでもないから、本人的には別に面白くもないのかもしれないけど、レア・グルーヴ系の作品で顕著だった
センスの良さを想うと、それがジャズに活かされなかったのはジャズの世界の側から見れば何とも勿体ないことだった。 彼も時代の流れに押し流されて、
上手くそれを乗り切ったとは言え、ジャズの世界(そういうジャンル分けには意味がないことは承知の上で)には十分な足跡が残らなかったわけで、
そのせいでジャズ愛好家の視界にこの人の姿が入ってこないのが如何にも残念だと思うのだ。

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