廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

ウクライナの作曲家 レインゴリト・グリエール

2022年02月28日 | Classical

Bolishoi Theatre Quartet / Reinhold Moritzevich Gliere String Quartet No.1, 2  ( 露 Melodiya M10-39653 )


ウクライナはリトアニア、ベラルーシと共に地理的にはロシアと東欧の間にあり、元々立ち位置としては微妙なところにあるせいで、
昔から正反対の価値観の狭間で揺れ動く定めにあった。こういう所で生きていくのは本当に大変だろうと思う。先週からこの週末にかけて
ロシアのウクライナ侵攻のニュースを見聞きしているせいで、この地域とジャズという音楽が結びつかず、レコードを聴く気分になれない。

TVニュースに出てくる専門家やネットに記事をまき散らす識者らの解説にどれだけ触れてもことの真相はまったくわからないし、
プーチンの気持ちもまったく理解できない。核とか第3次大戦という言葉を不用意に使う無神経さが不快だし、長い歴史の時間の中での
いざこざの結果としての出来事である以上、昨日今日の付け焼き刃的知識でどうにかなるような話でもないことから自身の無力さを
身に染みて感じて、出かけても気分は一向に晴れない。

ただ、それでもウクライナという国のことを理解しようと思い、この国と音楽はどういう関係なのかと調べてみると、グリエールが
ウクライナの出身だということが遅まきながらわかった。グリエールなら持っているはず、とメロディアのレコード群を探してみると
1枚出てきたので、この週末はウクライナのことを考えながらこればかり聴いていた。

ボリショイ劇場弦楽四重奏団が演奏する弦楽四重奏曲の第1番と2番。グリエールは室内楽もたくさん手掛けたが、実際にそれらを聴ける
レコードは少なく、これは貴重な記録である。グリエールは他の作曲家たちとは違って国外へ逃げることを良しとせず、ロシア革命の時代を
生き抜いた人だからその音楽遍歴は一筋縄ではいかないけれど、残した弦楽四重奏曲はベートーヴェンやロマン派の影響を強く受けた内容で
聴き易い。ボリショイ劇場管弦楽団のメンバーで結成されたこのカルテットもレコードが多くなく、こうして聴けること自体が貴重だ。
そういう奇跡的邂逅としての記録が残っていること自体が驚きだし、国営レーベルであるメロディアがグリエールのレコードを作っていた
ことを考えると、現在のこの状況がより嘆かわしく感じられてくる。



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第18回 ショパン国際ピアノコンクールの様子がリアルタイムで観れるなんて

2021年10月17日 | Classical
今、ちょうど第18回のショパン・コンクールの予選がワルシャワで開かれていて、その様子がネットでほぼリアルタイムに観ることができる。

https://chopin2020.pl/en/

5年に1度開かれるこのピアノ・コンクールはおそらく現存するコンクールの中では最も古く、権威があり、一番有名である。
オリンピックと一緒で、本当は去年開かれるはずだったが、コロナ禍で1年延期となり、今年の開催となっているわけだ。
活字でしか知らなかったこのコンクールが自宅に居ながらリアルに鑑賞することができるなんて、何だか信じられない世の中になったものだ。

このコンクールはその名の通り、ショパンの曲しか弾くことが許されない。コンクールの開催理念が、ショパンの優れた解釈者を発掘する
ことが目的だからだ。ただ如何せん、私はショパンの曲が概ね嫌いだ。こう言うと大抵は驚かれてしまうんだけど、好きになれないんだから
しかたがない。だから、すべての演者の全演奏を聴くのはちょっと辛いものがあったりして、全部を正座して聴いたわけではない。
ところどころをつまみ食いする、という不謹慎極まりない聴き方だった。

ファイナリスト12名の中に反田恭平、小林愛実が残り、これから本選で競い合うことになる。反田恭平はさすがに別格的に上手かったけど、
私は選外となった進藤美優の演奏が良かったと思っていて、彼女が残るといいなと思っていたけど、今回の審査員にはウケなかったらしい。
果たして、この中から未来のポリーニやアルゲリッチは生まれるだろうか。



ミハイル・ヴォスクレセンスキー 20のノクターン               ウラジミール・ソフロニツキー ポロネーズ Op.29、他


ショパンを家で聴こうなんて思わないので基本的にはレコードやCDは買わないのだけど、例外的に「これはちょっといい」と思って
たまに聴くものもこうして少しだがある。これらに共通するのは、ピアニストの個性や力量がいわゆる”ショパン的”なものを大きく
飛び超えていることだ。だから、”ショパン的”なものに拒否反応が起きる私でも聴くことができるのだろう。

尤も、こういう演奏を国際コンクールなんかでやってしまうと、予備の予選で落ちてしまうだろう。審査員に言わせると言語道断、
こういうのはショパンとは言えない、と門前払いになる。だから、「何かショパンのいいレコードを探しているんだけど」なんて
言われた際には、間違ってもこのあたりは推薦できない。そういう人には「名盤100選」お墨付きの綺羅星の如く輝く名盤たちを
お勧めしておくのがよろしいと思う。



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ガチ中のガチ

2021年07月19日 | Classical



意表を突いたクラシックのレコード本だけど、私は面白く読んだ。ただ、これからクラシックを聴こうかという人は、ここに載っている
アルバムを買うのは一旦止めておく方がいい。ここに載っているのは何十年もクラシックを聴いてきて、世に言う名演・名盤は一通り聴いて、
その次の次の次くらいに聴くものが大半で、つまり、ガチ中のガチだからである。

本人は高価な稀少盤の知識は持ち合わせていない、と書いているけど、これはおそらく違うだろう。ジャズのレコードを漁るのと同じ
スタイルでレコードを探していれば、否が応でもそういう知識は身に着く。でも、ただでさえ妬み・やっかみを買いやすい立場にいるのに、
稀少盤やら高額盤やらを見せびらかせば総スカンを喰うことは火を見るより明らかだから、そういうものはここでは徹底的に排除されている。

つまり、そういう知識が無ければ逆にここまで完璧に痕跡を消し去ることは不可能なのだ。これはまるで完全犯罪をやり遂げる天才犯罪者並みの
仕事だと言っていい。本当なら好きなレコードを全部開陳して、思う存分語りたいことを語りたいはずなのに、なかなかそうもいかないという
本人の難しい立場を反映したギリギリの内容だったのだと思う。世界的大ベストセラー作家になるのも、良し悪しである。

そういう大人の事情が透けて見えながらも、それでも私には面白い内容だった。私自身はクラシックに関しては今ではもう特定のジャンル
(室内楽とピアノ曲)しか聴かないから、家にあるレコードがこの本に出てくることはあまりなかったけど、それでも何枚かはヒットしていて、
そういうのは素直にうれしいものだ。





しかしなあ、ゲザ・アンダが好き、というのもある意味、来るところまで来ている。そんな人はそうそういないはずだ。
ただ、このシューベルトは記載にもあるように、悪くない。シューベルトのソナタが今ほど評価されていなかった時代なのに
正面切って録音しただけあって、得も言われぬ意志の力を感じる。






まるでベートーヴェンのようなシューベルトで、演奏の質感としては異例なものだけど、私もゼルキンの不器用さには
いつも心を惹かれて、同じように心情的に肩入れしてしまう。






本に掲載されているのはアメリカ・ウエストミンスター盤だけど、こちらはフランス・コンセルテウム盤。
古い録音だけど端正な演奏で、さすがは "ウィーン三羽烏" 。






以前、何かのエッセイでもこの盤を取り上げていたので、余程のお気に入りなんだろう。
グールドがこうして録音したおかげで、その後は間奏集のアルバムがたくさんリリースされるようになった。






本に載っているのは第3版くらいの廉価盤で、こちらはフランスのデュクレテ・トムソン盤。ウエストミンスター社はフランスでの
発売をデュクレテ・トムソン社に委託していた。ハスキルはこの第20番を2回録音しているけど、私はこちらの方がずっと好き。



この本は、村上春樹ファン、クラシック音楽ファン、レコード・マニア、の3種類の人間を満足させる稀有な本なのである。
個人的にはもっとディープでコアな内容を読みたいけど、いずれまたどこかでそういう機会もあるだろうから、今後に期待したい。



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クラシックにおけるルディ・ヴァン・ゲルダー

2021年06月06日 | Classical

Maria Tipo / W.A. Mozart Piano Concert No.21, K.467, No.25, K.503  ( 米 Vox PL 10.060 )


ルディ・ヴァン・ゲルダーは、クラシックのレコードでもマスタリングの仕事をしている。私の知っている限りではVox社のレコードだけで、
それも数は少なく、ごく一部のタイトルだけで仕事をしたようだ。それらの音源はすべてヨーロッパでの録音で、それをアメリカへ持ち帰って
きて、ヴァン・ゲルダーにマスタリングを依頼したらしい。ただやっかいなのが、RVG刻印があっても全部が全部RVGらしい音かと言えば、
そうではない。まったく冴えないものもあって、玉石混淆なのはジャズと同じだ。

マリア・ティーポのこのレコードは英国盤やフランス盤もあるが、このアメリカ盤だけがRVGで、音が全然違う。
音圧高く、ピアノの音もオケの音も艶やかでクッキリとしていて、聴いていて圧倒される。他の国のプレスは平均的なVoxレーベルの
モノラルサウンドで、その違いは明白だ。録音、製造共にはっきりしないが、50年代後半頃だろうと思う。

興味の焦点になるのはもちろんピアノだが、ジャズの世界でモノラル音源のピアノに彼が施していた音とはまるで別物。
古い録音にもかかわらず、ピアノの音はクリアで明るく、きらきらと輝いている。とてもヴァン・ゲルダーのマスタリングとは思えない。
楽器の音作りの考え方がまったく違う。

それでも、クラシックの世界ではヴァン・ゲルダーなんて誰も有難がらない。理由は簡単で、その音がこのジャンルの音楽には
あまりマッチしないからだ。このレコードも音質としては素晴らしいが、これがモーツァルトの音楽にフィットしているかと言えば、
ちょっと違うよな、ということになる。ピアノ協奏曲の世界でモーツァルトを超える楽曲を書いた作曲家は結局現れなかったが、
この天上の音楽を表現するにあたってヴァン・ゲルダーのサウンドは適切かと言えば、まあ、違うのである。

レコードにしてもCDにしてもストリーミングにしても音がいい方がいいに決まっているが、じゃあ音が良ければ何でもいいのかと言うと
そうではないだろう。結局のところ、その結果として音楽がどう聴こえるかなのであって、それを下支えする要素として音質が最重要事項
ということだ。いくらヴァン・ゲルダーがエンジニアとして最高峰の1つだったとしても、モーツァルトの音楽への理解が足りなければ、
それはミスマッチなレコードになってしまう。ジャケットデザインを手掛けるデザイナーにしてもそうだが、音楽に仕事で携わる以上は
やはりその音楽への理解や愛情は欠かせないのだろうと思う。



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箱物は面倒臭い

2021年03月28日 | Classical
レコードにしてもCDにしてもそうだが、箱物は面倒臭い。盤を取り出しにくいし、保管するにも場所を取る。
枚数が多くて、内容量も多いから、途中で飽きて最後まで聴かずに投げ出してしまうこともある。

そんな感じだから、大体はほとんど聴かれていなくて、盤質はきれいなものが多い。それに反比例して、保護用のビニールなどが
非定型サイズに対応できず、箱の外観は擦れていたり汚れて傷んでいるものがほとんど。箱物あるあるである。

ジャズは箱物は少ないので、そういう面での苦労はあまりないが、クラシックは厄介だ。オペラのように作品が長大なものが多いし、
「全集」としてまとめることが多いから、箱物を避けて通ることは難しい。




タチアナ・ニコラーエワのショスタコーヴィチ、24の前奏曲とフーガ。彼女は初演者且つ史上初の全曲録音者で、生涯に3度も録音しているが、
これはその第1回目の全集録音で4枚組。まあ、4枚くらいならまだ問題なく聴き通せる。そもそもこの楽曲は偏愛しているし。





同じくニコラーエワのバッハのパルティータ全集、6枚組。パルティータはその作品の性格上、全曲聴いて初めてその価値が理解できるので、
当然こういう全集ものとしてリリースされる。ただ1度に全曲聴こうとするとさすがに途中で飽きるので、いつも小分けにして聴く。





マリア・グリンベルクのベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集、13枚組。ロシアの録音史上初めて作られたベートーヴェンの全集で、
演奏も最高に素晴らしいので何も問題ないのだが、13枚を一気に聴くなど不可能。長いスパンをかけて、ボチボチ聴くのが当たり前。





ギルバート・シュフターのシューベルトのピアノ曲全集で15枚組。ここまでくるともはや百科事典で、こんなものを買ってわざわざ聴くのは
相当物好きな変わり者だけだろう。かく言う私もまだ5合目を超えたあたりで、こちらもボチボチと聴いている。


これらのレコードはすべて箱から出して、白ジャケに入れて簡単に取り出せるようにしてある。年代物の箱は触ると今にも崩壊して
しまいそうなので、空箱の状態でラックの中で静かに保管されている。こうしておけば億劫になることなく、気軽に聴くことができる。

こんなことが楽しいのだが、一般的には理解しては貰えない。だから、普段は誰にもこんな話はしない。
こうしてコソコソとブログに書いて、同好の士にだけ「うんうん」とうなずいてもらえればそれでいいのである。


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グレン・グールドの原風景

2021年03月14日 | Classical

Rosalyn Tureck / Goldberg Variations  ( 米 Allegro ALG 3033 )


グレン・グールドが影響を受けた唯一のピアニストが、このロザリン・テューレック。グールドは若い頃はホロヴィッツに憧れて
あの正確無比なテクニックを身につけるべく練習に励んだが、バッハの演奏はこのテューレックをお手本にして発展させた。

テューレックは録音が少なく、公式録音はバッハしか残していないし、アメリカのピアニストということもあって、ドイツを中心とする
ヨーロッパが本場であるクシックの世界では亜流扱いで誰も見向きすらしない存在だったが、グールドが唯一影響を受けたことを公言したことで、
後年になって見直されることになった。そのせいで晩年になって録音をせがまれて残した演奏もあるが、さすがに衰えを感じさせる内容で、
聴いていて痛々しい。

ゴルトベルク変奏曲は各楽章を繰り返して演奏するのが一応正しいスタイルだが、グールドが繰り返しを省略して演奏したので、
その後は省略するスタイルの方が主流となり、大抵はレコード1枚に収まるようになった。でも、グールドの原点であるテューレックは
繰り返すスタイルで、このレコードは2枚組で箱に入れられている。録音は1947年とも1952年とも言われてるが、どちらが正しいのかは
よくわからない。彼女は1958年に英国HMVへ2度目の録音をしており、一般的にはそちらが彼女の演奏の代名詞になっているけれど、
レコードとしてはこちらの方がはるかに稀少だ。

彼女の演奏の特徴は聴けばすぐわかる通り、その異様なテンポの遅さにある。曲としての外形を崩すことを厭わず、語りかけるかのような
演奏に終始する。とても正当な解釈とは言えず、あまり相手にされなかったのは当然と言えば当然だが、グールドはここにこの曲の真髄を見た。
デビュー時の第1回目の演奏は流れるようなレガートで速いスピードで演奏したものの、最後の第2回目の録音は明らかにこのテューレックを
下敷きにしている。随所にまるでグールドによってコピーされたかのような、彼そっくりの演奏が出てくる。
この古いレコードの中には、謎めいたグレン・グールドという天才の原風景が残されているのがわかる。

このレコードはLP初期のアメリカでの製造なのでオートチェンジャー仕様になっていて、A面の裏がD面、B面の裏がC面という、
聴くには甚だ迷惑な作りになっているし、箱物だから取り扱いも厄介で、且つそもそも演奏が長いからすべてを聴くのに時間がかかる。
この面倒臭さを我慢してでもこういう古いレコードを敢えて聴くのだから、レコードマニアというのはやはり変わった生き物なのだ。


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寄り道としてのシューベルト(4)

2021年02月20日 | Classical

Zhu Xiao-Mei / F. Schubert Piano Sonata No.23 D.960, L. V. Beethoven Piano Sonata No.32 Op.111  ( オーストリア Mirare MIR 157 )


シュ・シャオメイは日本ではバッハ弾きという程度の認知しかされていないだろうが、こうやってシューベルトやベートーヴェンも録音している。
どちらもそれぞれの生涯最後のピアノ・ソナタを取り上げた、いわばコンセプト・アルバム。シューベルトは第23番という表記になっているが、
一般には第21番ということになっているD.960のことである。先にも述べた通り、シューベルトの作品は現在もまだ研究中なのだ。

1949年に上海で生まれた彼女は文化革命時代の抑圧された生活から逃れるために欧州へ渡り、以降はフランスを中心にして活動している。
もう70歳を過ぎているのでリタイアしているだろうが、セーヌ川の畔にあるコンセルヴァトワール・ド・パリで長年教鞭を取っていた。

クラシックのピアニストは、コンサート・ピアニストとして世界を股にかけて飛び回るタイプと、音楽院で教師をしながらたまに請われて
コンサートを開いたり録音をしたりするタイプに分かれる。前者は人に聴かせるための派手なピアノを弾くし、後者は内面を見つめるような
演奏をする人が多い。彼女の演奏もアーティキュレーションは控え目で、作曲家や自身の内面を掘り下げていく。

シューベルトの曲を演奏して聴かせるということよりは、この曲を通して自分の想いを吐露しているかのような演奏で、それがいい塩梅で
バランスされている。こういう雰囲気でこの曲が弾かれた例はあまりなく、そこにこの演奏の価値がある。シューベルトのピアノ・ソナタを
覚えようとして聴くと上手くは馴染めないかもしれない。この曲を十分熟知した人が聴いて、その素晴らしさが身に染みるような演奏で、
そういう意味では聴く人を選ぶ作品かもしれない。

彼女のバッハもそういうタイプの演奏で、いわゆるバッハの雰囲気は希薄。そういうのを期待すると、肩透かしを喰らうだろう。
彼女は聴き手をかなりふるいにかけて落とし、何とか残った人だけに向けて語りかけてくる。



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寄り道としてのシューベルト(3)

2021年02月16日 | Classical

Maria-Joao Pires / F. Schubert Piano Sonata Nr.21 D.960  ( 仏 Erato NUM 75262 )


D.960はこのアルバムが発表された当時は第11番と表記されているが、現在では第21番ということになっている。

シューベルトの作品は生前楽譜が発売された(つまり正式発表された)作品があまり多くなく、彼の死後にロベルト・シューマンを始め、
数多くの研究家たちが彼の遺稿の山を掘り起こして、埃を払い、内容を検証して正式な作品として順番にリリースするという異例の作業が
続けられているため、タイトル番号が変わることがある。特にピアノ曲は、まだ正式な取り扱いをどうするかが決まっていない曲が
たくさん残っているのだ。

マリア・ジョアン・ピリスのこの録音は言及されることが皆無のアルバムだが、演奏の素晴らしさといい、録音の良さといい、この楽曲を
聴く上での決定盤の1つと言っていい。彼女はまずはモーツァルト弾きのイメージが強く、なかなかこの辺りまでは手が届かないのだろう。

深い森の中を流れる冷たく透き通った清流のような演奏で、それでいて表現としての充足度も極まっており、この楽曲に秘められた魅力の
すべてを享受することができる。技術的にも極めて高い次元で安定していて、聴いていて引っ掛かる所が何もない。
ペダルの使い方が上手く、音の響きが素晴らしい。フォルテも耳障りなところはなく、その音が濁らず美しい。

死の2ヵ月前に書かれた生涯最後のピアノ・ソナタとして、彼の万感の想いが込められているのがよくわかる演奏だ。
楽想に枯れたところはなく、ますますみずみずしい。ここで作品が途切れてしまったことが本当に残念に思える。
ピリスは自身の姿を前面に押し出して芸術家を主張することなく、作曲家の実像とその楽想を最大限の力を込めて見せている。
だから、聴き手は純粋にシューベルトの音楽に身を任せることができる。

好きな楽曲が見つかり、順番に聴き進めていく中で素晴らしい演奏に出会ったり、高名な演奏家の演奏に満足出来なかったり、と
一喜一憂することが楽しく、音楽を聴く歓びを体験することができる。



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寄り道としのシューベルト(2)

2021年02月13日 | Classical

Paul Lewis / F. Schubert Piano Sonatas  ( 仏 Harmonia Mundi )


ブレンデルに師事したポール・ルイスは、当然のようにシューベルトを録音している。ブレンデルが残したシューベルトの録音は
現代の金字塔と言われているが、私はイマイチのめり込めない。そこに感じる不満のすべてを解消してくれるのがポール・ルイスで、
私がシューベルトのピアノ曲を聴くことができるようになったのは、この人のおかげだ。以降、数多くの演奏を聴いてきたが、
未だにこの人の演奏を超えるものは見つからない。

そして、彼のおかげでシューベルト最後の作品であるピアノ・ソナタ第21番 D.960 の魅力に憑りつかれることになった。
この曲は技術的難易度は高くないが本当に上手く演奏するのは難しく、これまでに有名/無名を問わず多くのピアニストが挑戦してきたが、
成功していると思える演奏はさほど多くない。

ポール・ルイスの演奏は本当に自然で柔らかく、多くのピアニストたちが陥ってしまう不自然なアゴーギクやディナーミクは皆無。
聴いている間は、まるでヒースの丘に立って風に身を任せているような感じだ。そして、弱音が何と美しいことか。
完全に音楽をコントロールできていて、その間の取り方は魔法のようだ。

この曲は第1楽章のみが素晴らしく、以降の楽章は出来が悪いと言われることがあるけれど、この人が弾けばどの楽章も聴き惚れてしまう。
グールドとは違うタイプだが、音楽の支配の仕方、フレーズのすべてを歌わせる力量、打鍵の完璧さには同じ天才を感じる。
譜面に書かれた1音たりとも粗末に扱わないこの意志の強さなどはグールドそっくりだ。そして、そういうコントロールを施したのが
他の何物でもなく、シューベルトだったというところに驚きがある。グールドはシューベルトを評価せず、録音を残さなかった。

まだ、録音していない曲はたくさんに凝っているので、今後を楽しみにしたい。そう思わせてくれる、数少ないピアニストなのだ。


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寄り道としてのシューベルト(1)

2021年02月10日 | Classical



この2ヵ月ほどはジャズはほとんど聴くことなく、代わりにシューベルトのピアノ曲ばかり聴いていた。
なぜかはよくわからない。とにかくそれ以外に興味が持てなかったのだ。毎日、朝から晩まで、部屋の中で流していた。
数えてみたら、その数は30枚を超えている。

クラシックを聴くようになったのは大学4年の頃からだが、以降、割りと長い間、シューベルトのピアノ曲が苦手だった。
こういう人は結構多くて、ピアノ曲しか聴かないというクラシックファンの中にも、実はシューベルトはほとんど聴かない、
という人がたくさんいる。シューベルトのピアノ曲というのは、そういう音楽なのだ。

シューベルトは31歳という若さで亡くなった。13歳の頃から作曲を始めた早熟だったが、それでも18年という作曲期間は短すぎた。
その中で協奏曲を除くすべての形式で音楽を書いたが、最後まで仕上げ切れず、未完成のままとなったものが多い。
学校の音楽室の壁に肖像画が掛けられるような作曲家の中ではこれは異例のことだ。「もともとが楽曲を完成される能力に欠けていたのだ」
なんて言う人もいるけれど、私はきっと書き上げるにはあまりに時間が足りなかっただけだろうと思っている。

ピアノ曲で言えば、「ピアノ・ソナタ」というタイトルではない曲がやたらと多い。つまり、ソナタ形式をとっていないものが
多いということで、ここでも「構成感の明確な曲を書くことが苦手だった」などと陰口を叩かれたりする。
聴いた印象がアドリブ的というか、取り留めのない印象から「即興曲」というタイトルを付けられたりする。

尊敬してやまなかったベートーヴェンの葬儀の際に、棺桶の一角を持って歩いたという世代で、ちょうど時代の節目に生きた人だった。
だから、必ずしも構成感ありきの音楽でなければならない、という感覚からは一歩抜け出していたんじゃないだろうか。

大昔は「歌曲王」と言われて美メロ作曲家の代表、みたいな扱いだったけど、最近は「死を予感させる美しさ」なんていう論調が
定説化しつつある。映画「アマデウス」の影響もあったのか、モーツァルトやシューベルトのような短命だった作曲家の場合、
その作品の美しさと死を結びつける感覚が大衆化・一般化した。でも、これはちょっと安直すぎるんじゃないか、という気がする。

そんな風に、シューベルトのピアノ曲の正体は何か、を考えるといつも迷宮を彷徨うことになるわけだが、しばらく遠ざかっていた
これらの音楽をまた急に聴きたくなったのは、これまたなぜだろうと考えてみても、こちらについてもよくわからない。
わからないのだけれど、それはあまりに突然やってきて、その波に訳も分からず飲み込まれてしまっている。

聴いていてもどこに辿り着くのかさっぱりわからないこれらのピアノ曲の前では、アドリブ一発のジャズという音楽ですら、
実はあらかじめ決められた予定調和の世界の物語だった、と思えてくる。

そんなわけで、ちょっとシューベルトのピアノ曲へ寄り道してみよう。


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冬の寒い朝の過ごし方

2021年01月19日 | Classical

Yevgeni Svetlanov / Sergei V. Rachmaninov Piano Pieces  ( 露 Melodiya C10-15595 )


朝は大体5時頃に起きる。在宅勤務になってそろそろ1年になろうとしていて、もう目覚ましをかけることはないけど、勝手に目が覚める。
今はこの時間はまだ外は真っ暗で、6時を過ぎる頃になるとゆっくりと空が白み始める。

たっぷりと時間があるのでレコードを3枚分くらい聴くけれど、この時間帯にジャズは耳障りなので、大抵は静かなピアノ音楽を聴く。
元々、ジャズとクラシックを聴く比率は10対1くらいなのだけど、毎年冬のこの時期になると、この比率は逆転する。冷たい空気の中では
なぜかクラシックの方が聴きたくなるのだ。理由はよくわからない。

寝起きのぼーっとしている頭にモーツァルトやベートーヴェンはうまく入ってこないので、バッハやスカルラッティのようなバロックか、
もしくはシューベルト以降の作曲家のものがメインになる。

スヴェトラーノフが弾くラフマニノフのピアノ曲集もこの時間帯によく合う音楽だ。大指揮者として名を成したこの人も、
元々はピアノ弾きとして音楽を始めたわけで、大成した後も気が向いたらこうしてピアニストとしての仕事もしていた。
指揮者になろうという人は音楽を大局的に眺める傾向が強いから、その演奏も普通のピアニストの演奏とは雰囲気がガラリと変わってくる。
不思議なものだ。

ラフマニノフ自身が歴史に名を刻むような大ヴィルトゥオーゾだったから、書いたピアノ曲も技術的難易度が高いものが多かったが、
ここでは静かで憂いに満ちた楽曲だけが選ばれていて、それらをスヴェトラが物憂げに弾いている。これが他の誰も出せないような
ある種の独特な雰囲気となっていて、素晴らしい。

「ヴォーカリーズ」や「エレジー 作品3-1」のような、ラフマニノフにしか書けない美しく儚いメロディーを聴きながら、
暗い空が徐々に明るくなっていく様をぼんやりと見つめているのが、毎朝の決まり事のような日々が続いている。



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コロナは生誕250周年を台無しにしたか

2020年12月31日 | Classical

Wihelm Frutwangler / L.V.Beethoven Ⅸ Sinfonie D-moll, Op.125  ( 独 Electrola WALP 1286 / 87 )


2020年はベートーヴェンの生誕250周年ということで当初は世界中で様々な催しが企画されていたが、コロナ禍の影響で軒並み中止となり、
さほど盛り上がることなく終わろとしている。まさかこんなことになろうとは誰も思っていなかったわけで、残念なことだ。
ただ、クラシック音楽に親しい者にしてみれば、わざわざそんなイヴェントを持ち出さなくても日々ベートヴェンには接しているわけで、
催し物があろうがなかろうがあまり関係はない。気が向いたらお気に入りの演奏を持ち出してきては、ボソボソと聴くわけである。

年末になると自然と第九を聴く回数が増えるというのもどうなのよ、と思いつつも、やはり聴いてしまうのは、大抵はレコード2枚組という
面倒臭さから普段あまり手にすることがないことへの懺悔にも似た気持ちからかもしれない。

第九と言えば「バイロイトのフルトヴェングラー」ということになるわけだが、現代においては昔ほどの御威光はないらしい。
昔はそれこそ「神」として崇め奉られたこの演奏も、近年の多様な価値観の隆盛の中で相対化が大きく進み、以前のようなイヤらしい
神格化ではなく、もっとナチュラルに評価されるようになってきているみたいで、これはいいことだと思っている。

「この演奏はバイロイトの本番公演のものではなく、当日の本番直前に行われた通しリハーサルの演奏だ」と噛み付いた神をも恐れぬ
日本の団体がいて、その後、この演奏は真贋論争に巻き込まれた。当のHMVが公式声明を出さないものだから、結局のところ、何が本当か
わからないまま時間が経過し、このことがこの演奏への狂信的な崇拝気分に水を差したことも影響しているのかもしれない。

バイロイト祝祭劇場の音響は録音には向かない、とフルトヴェングラーが録音の申し入れを断ったために、この録音は非公式に行われ、
レコードもフルトヴェングラーの死後に発売された。そのせいでこういう事態を招いたわけだが、この演奏に只ならぬ異様な雰囲気が
あるのは事実で、ここから受ける音楽的感動は本物である。だから、真贋がわからないのならそのことを最重視しよう、というのが
現在の定説となっており、この論争は意外と常識的な着地を見せている。私もそれでいいと思っている。

2020年はベートヴェン生誕250周年の年として記憶されることはなくなってしまったが、新型コロナはベートヴェンの生誕を祝おうという
人々の気分を果たしてダメにしただろうか。私はそうは思わない。こうしてレコードを聴く限り、彼の音楽は不滅である。
コロナは私たちからいろんなものを奪い、そして強制したが、音楽を祝福したいという気持ちまでダメにすることはなかった。
このレコードを聴けば、音楽があれば私たちはいつだってタフになれる、ということを確認することができるのである。



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聴き比べをすることの意味

2020年12月10日 | Classical
音楽を聴く際、聴き比べをすることがよくあるが、人はなぜそんな手間のかかることをするのだろう?

聴き比べをすることが基本姿勢となるのは、まずはクラシックだ。このジャンルは作曲家が書いたある1つの曲を
演奏家たちが寄ってたかって演奏することになるから、どれが自分にとっての最高の演奏か、ということが
最優先事項に自然となる。

自分でオリジナル曲を書いて、それを披露して、後世に残る名曲として認められたもののみが楽曲として生き残ったのが
現在認知されているクラシックの名曲群だ。この特殊性が、他のジャンルとは決定的に違う。
それ以外の無数の楽曲は誰からも演奏されず、忘れ去られて、存在することすら認められない。
階級社会の中で生まれ育った音楽の宿命で、厳しい世界だ。

クラシック音楽における聴き比べというのは、例えば、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」(昔は「ゴールドベルグ」
と言っていたけど、近年はこういう表記で統一されている)を例に挙げると、こういう感じになる。





グールドの第1回目の録音。コロンビア盤よりメロディア盤の方が音が数段いい、という噂が一部で囁かれているが、
実際に聴き比べてみると、そんなのは大嘘だということがわかって失笑する。
彼はバッハだけの枠をも遥かに超えて、クラシック音楽全体の演奏史観を根底からひっくり返してしまった。
グールドの子供たちは、今や指揮者、ヴァイオリン、チェロの他、あらゆる領域に数多く存在する。




グールドの第2回目の、そして最後の録音。左はドイツ初版、右は数年前にリマスタされたEU盤。
オリジナルが一番音がいい、という鉄則がクラシックには当てはまらない。また、この録音はレコードより
CDの方が音がいい。テクノロジーの進化に比較的忠実なのがクラシックの特徴。おそらく、資金の投じ方が
他のジャンルとは違うのだろう。そのため、レコードよりCDの方がマーケット規模は大きい。




もちろん、グールドだけがいい演奏を残したわけではない。他にもいい演奏はいくらでもある。




少なく見積もってもこの3倍以上の演奏を聴いているけど、繰り返し聴くに値すると思うもののみを手元に
残している。まだ聴いていないものも当然あるので、これからもボチボチと聴いていく。


こんなのは全然少ない方で、交響曲なんかこの何倍もの種類がある。だから、クラシック愛好家は音盤を数千枚持っている
という人がざらにいるわけだ。微に入り細に入り聴き比べをして、自分のお気に入りの演奏がどれかを模索している。

そして、それらの演奏に点数をつけて、ランキング形式にするのが好きらしい。各人が思い思いに順位付けをしている。
でも、これがびっくりするくらい、自分の認識とは合わないのだ。好き嫌いというのはこうも人によって違うのか、
ということを思い知らされる。


一方、ジャズの聴き比べはというと、クラシックの場合とは様相が異なる。"Round Midnight" の演奏に関して、
セロニアス・モンクとマイルス・デイヴィスの演奏に点数を付けて、どちらがいい演奏か、という議論には決してならない。

ジャズの場合は「マイルス・デイヴィスのアルバムの中ではどれが一番好きか」だったり、「レコードとCDでは音はどう違うか」
だったり、同じレコードでも「オリジナル盤と再発盤はどう違うか」を聴き比べるということが主になってくる。
そもそもの音楽の成り立ち方が違うのだから、聴き比べの内容そのものが違ってくるのは当然だ。

でも、どちらにも共通して言えることは、聴き比べは面白いということだろう。結局のところ、それは未知なるものを
知りたいという欲求が原点になっているし、より良い音楽を聴きたいという渇望に支えられている。

聴き比べをする中で音楽的な感性は研ぎ澄まされ、見識も深まっていく。そして、一番好きな演奏を探していくということは、
つまるところ「自分とは何か」を探すことである。だから、聴き比べをするのはいいことなのだ。


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ドビュッシーは古い録音で

2020年11月14日 | Classical

Alfred Cortot / Debussy ~ Preludes  ( 仏 LVSM FALP 360 )


いつもより遅い時間に起きて、ターンテーブルにレコードを載せて聴き始めるが、どうもステレオ盤の音が冴えない。
いつもの大きく拡がる音場感が出てこない。理由はわからないが、今日はステレオ系統は機嫌が悪いらしい。
何だよ、一体、とブツブツ言いながらも何枚か試してみるが、どれもイマイチ。
こういう日は諦めるに限る。ご機嫌を取ったりもしない。近づかないのが一番いい。

しかたがないので、古いモノラル盤に切り替える。こちらは問題なく、いつも通りの音色が出てくる。
コルトーが弾くドビュッシーの前奏曲。

コルトーは昭和の時代、おそらく日本で最も人気のあったピアニストだろう。でも、現代の耳で聴けば、その演奏はガタガタと
言わざるを得ない。大家の芸風、という言えばまあそうなんだけど、若い頃の演奏はSP初期の劣悪な音でしか聴けないから、
こういう晩年の演奏が聴く対象とならざるを得ないが、もはや大芸術家としての不動の地位もあり、昔から誰も文句など言わず、
ありがたく拝聴されてきた。

そんな訳で私はコルトーを熱心に聴くことはないのだけれど、このドビュッシーだけは例外。
抽象芸術の先駆者であるドビュッシーの曖昧なピアノ曲を、私はこのコルトーの古い演奏を聴いた時に初めて、そういうことだったのか、
と思うことができた。それまでは現代のピアニストたちが高音質な環境で録音してきたディスクをいろいろ聴いたが、
音楽の輪郭がまったく掴めず、その良さがさっぱりわからなかった。

ところが、このコルトーの演奏を聴いた時に目から鱗が落ちた。初めてドビュッシーの前奏曲が本当の意味で理解できた気がした。
楽譜に記された音符の連なりが初めて見えた。

それ以来、ドビュッシーやラヴェルに関しては、初めての曲を聴く時は古い演奏をまず聴くところから始めた。
そうやって、私は近代フランス楽派の音楽を覚えてきて、今に至る。

このコルトーの古いレコードは、私にドビュッシーを最初に教えてくれた、思い入れのある1枚。
忘れた頃に取り出してきて聴くと、何かを想い出させてくれる。


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R.I.P. 近藤等則

2020年10月21日 | Classical

Lev Nikolayevich Oborin / P.I.Tchaikovsky "Four Seasons"  ( 露 Melodiya D-4101 )


近藤等則が亡くなったことをネットのニュースで知った。ものすごく驚いてしまい、動揺すら覚えた。今年は身近な人を含めて、
大勢の人の訃報を聞いたけれど、やはり日本人で、TVなどで楽しそうに話しをしている姿を昔から観ていただけに、海外の人が亡くなった
時と比べると親近感のようなものが元々違うから、動揺してしまうのだろう。うちからさほど遠くはない登戸に住んでいたということも
個人的な親近感にも繋がっていた。

こういう場合、本人のアルバムを以って追悼するのが正しいわけだけど、今は手許にそういうアルバムがない。何年か前にピット・インで
ブロッツマンの音を目の前で全身に浴びた時から、こういうパワー・ミュージックをレコードやCDで聴くことへの限界感や苛立ちを感じる
ようになり、その手の媒体からすっかりと遠ざかってしまっている。ライヴじゃなきゃダメだよ、なんてうそぶく気にはなれないけれど、
なぜか聴く気になれない心境が続いている。何枚か持っていたアルバムやブロッツマン名義のものも、今はmp3音源しかない。

訃報を聞いて以来、チャイコフスキーの "舟歌" が頭から付いて離れない。あの物悲しいメロディーがずっと鳴り響いて止まない。
レフ・オボーリンの弾く "舟歌" の寂寥感が、今の自分の心境に相応しい。リヒテルやギレリスのようなパワー・ヒッターが高く評価された
ロシアでは、オボーリンのようなピアノはあまり陽が当たらなかった。そういう姿が近藤等則の姿にダブる。今は、このメロディーが
葬送の音楽として私の耳には聴こえている。

R.I.P. 近藤等則。でも、これからもあなたの音楽は聴くのだから。


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