廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

日本オリジナルの矜持

2015年11月29日 | Jazz LP (70年代)

Ornette Coleman / Paris Concert  ( 日 Trio Records PA-7169,70 )


1971年の夏にパリで行われたコンサートの実況録音のテープを日本のトリオレコードがオーネット本人と販売契約を結んでリリースしたもので、
これがオリジナル。 当時のトリオレコードはこういう自社オリジナル作品を作ることに熱心で、例えばゲルハルト・ヘッツェルらウィーン・
フィルのメンバーを日本に招聘して室内楽の傑作を作るなど、重要な仕事をしていました。

2枚組のダブルジャケットは綺麗なコーティングが施されいてとてもコストをかけた質感の高い仕上がりで、エサ箱の中でもひときわ目立っていた
ので手に入れて聴いてみたのですが、これがあまりに素晴らしい内容で、びっくり。 元々トリオレコードが発売交渉をしていたのは別の演奏テープ
だったのに、発売直前になってオーネットが別の演奏テープを差し替えてこのレコードは作られており、本人としてはこちらの演奏のほうが
好きだったのでしょう。これは正しい選択だったと思います。

ヘイデン、ブラックウェルら常設メンバーにデューイ・レッドマンを加えたカルテットですが、オーネットらしい非常にしなやかで色香漂う演奏。
ライヴでこんな雰囲気を出せるということが驚異的。 多忙な時期の中で行った渡欧演奏だったので特に凝ったことは何もしておらず、普段着の
ままの演奏ですが、これが成熟した大人の音楽になっていて、聴いていた観客が演奏が終わるごとに溜め息を漏らしながら湧き上がるように拍手を
している様子が実に生々しく、その感動がリアルに伝わってきます。

この演奏旅行の後にCBSと契約を結んで傑作 "サイエンス・フィクション" を録音するわけで、その創作活動は充実していたようです。 
デビュー当時から順番に聴いていくとその音楽はいろいろ変化しているのがわかりますが、その中で一貫して変わらないのが独特な質感の
"しなやかさ"。 だから、基本的にどの時期のレコードを聴いても大丈夫だし、長い活動の中で何度もピーク期を持っていますが、特にこの
70年代前半の演奏には強く惹かれるものを感じます。このアルバムが日本オリジナルということは誇らしい。 もっと評価されて然るべき。



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最近の収穫

2015年11月28日 | Jazz CD
今週は久し振りに中古CDで複数枚の収穫がありました。 うまく年末セール用の網から逃れられたようで、こうでなくちゃ面白くない。





■ Joe McPhee / Nation Time  ( 加 Unheard Music Series UMS/ALP201CD )

フリーの嵐が過ぎ去ってエントロピーの増大が誰にも止められなくなった70年代、もはや主流も非主流も無くなり、あらゆる境界線が消えてしまった中で
こういうのは当然のように現れるんだなと納得の内容。 1970年のヴァッサー大学のアフリカ研究センターでのライヴです。

この人はこれまでに60枚以上の作品をリリースしているんだそうで、売れない音楽をやるのも色々大変なんだなと思います。 当然これも自主制作盤で、
廃盤セールに出ればいつも目玉の大物として取り扱われる。 サン・ラーにしても、ブロッツマンにしても、作品の数があまりにも多すぎて、私のような
根性なしのいい加減なリスナーではその全てに耳を通すなんてことはできません。 もしレコードしかなかったらきっとこういうのを聴くことはなかった
だろうと思いますが、今はきちんとCDで復刻してくれるところがあるのでこうして聴くことができるわけで、こういうのは本当にありがたいことです。

元々トランペットを吹いていたのに68年からサックスを始めたそうで、始めて間もない頃の演奏なので当然ここでのサックスは上手くありません。
でも、音楽への情熱があり、他人や社会に向かって叫びたいことがあり、そういうものに突き動かされ、それだけに支えられてなんとかやっていることが
手に取るようにわかります。 音楽としてはあまりに稚拙すぎて、正直語るべきものは何もないような気がします。 でも、当時の黒人社会には全般的に
歴史的に途切れることなく鬱積されたものがやはりあって、人々はいろんな所に集まってはこうして叫んでいたんだなということがこういう記録からわかるし、
そのことを思うとやりきれない気持ちになります。 だから自然と演奏は煽動的になるし、観客も熱狂する。 ここにはもちろんフリージャズというような
高尚なものはまったくなく、アンダーウランドに潜って不気味にうねるブラック・ファンクの激しい鼓動しかありません。 

外形的には2曲目の艶めかしく黒光りするベースは凄いし、3曲目のドラムはとても聴き応えがあって耳を奪われるけれど、私は音楽を聴いているという
よりも、ボクシングの試合を観ているような、またはNHK特番で旧いドキュメンタリー・フィルムを観ているような、そういう感覚を覚えるのです。


■ Peter Kowald / Duos ~ Europe - America - Japan  ( FMP CD 21 )

ペーター・コヴァルトがベース片手に欧州、アメリカ、そして日本の怪物たちの元へ出向き、「ひとつ、恃もう!」とデュオで短い曲をさらりと演り、
ゆるりと帰っていったものを集めた作品で、レコード初版は3枚組ボックス(同時にバラ売りもされた)。 

手合わせした19人の顔ぶれは凄いのですが、やはり目を引くのは尺八の松田惺山、琴の沢井忠雄、琵琶の半田淳子ら日本古楽器勢とのコラボ。
この3人との演奏が一番心を打たれる。 別にナショナリズムの血が騒ぐということではないですが、こうして各国の楽器が勢揃いする中で聴いてみると、
日本の楽器とそれを演奏するアーティストというのは素晴らしいものがあるんだなということがよくわかります。 これらの古楽器の柔軟性と
フリージャズへの親和性の高さには目から鱗が落ちるし、日本の古楽って本質的にフリーミュージックなんだなと気付かされます。 
そして、坂田明のここでも変わらない、いつもの素晴らしさ。 同録されているブロッツマンやエヴァン・パーカーらとなんら見劣りしない。

単純ですが、ヴァラエティーの豊かさに感動します。 形式うんぬんではなく、フットワークの軽さとメニューの数の多さにこの音楽が持つ豊かさを
感じるし、奥深さも実感できるのです。 作品のコンセプトの正しさを感じるし、これはちょっとレベルが高いなと思います。

ただし、ディアマンダ・ガラース(女性Vo)の呻き&絶叫とのコラボは怖い。 これはスピーカーから音を出してはとても聴けません。
間違いなく、警察に通報されます。


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リヴァーサイドの弱点

2015年11月23日 | Jazz LP (Riverside)

Wes Montgomery / The Incredible Jazz Guitar Of Wes Montgomery  ( Riverside RLP 12-320 )


リヴァーサイドは1955年から61年にかけて、ニューヨークにある "Reeves Sound Studios" をメインに使って録音していました。
当時、東海岸でも有数のレコーディングスタジオだったこの会社の主要な仕事は日中に行われるラジオのジングルやコマーシャルの録音で夜間は使われて
おらず、そこに目を付けたオリン・キープニューズは交渉の末、夜間に無制限に使用できる長期契約を安い金額で結ぶことができました。

このレーベルが設立されたのは1952年と遅く、既に市場にはブルーノートやプレスティッジのレコードがたくさん出回っており、そんな中でレーベルを
成長させていくためにはいかに安いコストでレコードを作っていくかが最重要課題でした。 また、先行する2強レーベルと契約していたRVGサウンドと
差別化を図る必要もありました。 当時のジャズ・ミュージシャンは夜型の生活で、日中に行われるブルーノートやプレスティッジのレコーディングは
みんな調子が悪い中で行われていたから、夜のクラブでのライヴが終わった後に彼らをスタジオに呼んで演奏させればもっといいレコードが作れる、と
キープニューズは考えた。 そういうこともあって、このスタジオが使われました。

その際の主任エンジニアはジャック・ヒギンズで、このレーベルの代表作と言われるレコードの多くを録音しています。 ただ、この人の録音にはムラが
あって、アルバム毎にサウンドがバラバラ。 あるものはエコー過剰だったり、あるものはデッドでゴツゴツと硬い音だったり、と統一感がまるでない。

更に悪いことに、このレーベルは60年頃を境にこのスタジオ以外の複数のスタジオや録音技師も多用するようになります。 1人のアーティストに
対して複数のエンジニアが絡むことになるので、聴く側にしてみるとそのアーティストの音楽の印象がちぐはぐなものになってしまう。

例えば、ビル・エヴァンスの場合、"ポートレート" はジャック・ヒギンズだけど、"エクスプロレーションズ" はベル・サウンド・スタジオのビル・ストッダード、
ヴァンガードの2枚のライヴ盤はデイヴ・ジョーンズ、という具合に、連続して録られた4つの傑作群として語られるこれらのアルバムも聴いた際の音場感は
実際はバラバラで、どこか居心地の悪さが残ります。 残念なことに、一番内容が優れている "エクスプロレーションズ" の音質が一番こもっていて、
音圧も低く冴えない感じです。

看板アーティストの1人であるウェス・モンゴメリーの場合もちょうどその時期に録音をしたので、 "ダイナミック" や "インクレディブル" はジャック、
"フル・ハウス" はウォーリー・ハイダール、"ボス・ギター" や "ソー・マッチ" はプラザ・サウンドのレイ・フォウラー、という具合です。 で、一番の謎は
代表作と一般的に言われる "インクレディブル" だけがなぜか音質が著しく劣っている、ということです。 録音年月が一番古いというわけでもないのに
こういうことになっていて、訳が分からない。 それ以外の作品はいい音で鳴るので、こちらもどうにも残念です。

後発のマイナーレーベルだったという運の悪さからサウンド作りの面を犠牲にせざるを得なかったために、常に3番手という扱いに甘んじることになった
のは、キープニューズにとっても作品を残したアーティストにとっても気の毒という他はありません。 これは私だけの見解かもしれませんが、契約した
アーティストの顔ぶれや残された作品の質の高さだけでみれは、リヴァーサイドはプレスティッジよりもずっと優れていると思います。 
ただ、こういうサウンド面で一本筋が通っていない半端さが「線が細い」という印象をどうしても残してしまうのです。 ジャズにとってこれは致命的です。

ただ、ウェスの作品やエヴァンスの作品は、そういう面での弱さに負けない内容の凄さで他のレーベルの作品を圧倒しているのは間違いないし、
きちんとそういう評価を受けていることには救われる気持ちです。 レコード芸術はこういう風にアーティストの力だけでは成立しきれないというところが
やっかいで難しい。


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欧州きれい系家元の悲劇

2015年11月22日 | ECM

Richard Beirach / Hubris  ( 西独 ECM 1104 )


"欧州きれい系" を源流まで遡っていくと、たぶんこの辺りに辿り着くのではないでしょうか。 これは私にとっての「嫌いなもの克服シリーズ」の1枚です。

ECMを聴いていく上で避けて通れないのが、このリッチー・バイラーク。 その作品群は、ECMのレーベルポリシーの最も正しい見本の1つです。
だから、私は昔からこの人が苦手でした。 どこがいいのか、さっぱりわからない。 アルバムの途中でいつも再生を止めてしまい、最後まで聴き通した
ことがありませんでしたが、最近のECM狩りで、DUの在庫の中で自分が買いたいと思うものを一通りさらってしまったので、渋々手を出してみました。
それに、今改めて聴くと以前とは違った印象が芽生えるかもしれない。 値段も800円程度だし、外れてもまあいいや、という感じです。

この作品はファンの間では傑作として通っているようで、好意的なレビューがたくさん見られます。 そこに書かれていることはどれもその通りだなと
思うし、人気が高い理由も実際に聴いてみるとよくわかります。 平易でわかりやすくキャッチーなメロデイー、嫌なクセのない素直なタッチ、それに
レコードで聴けばその真価が実感できる、まるで目の前でグランドピアノが鳴っているかのような素晴らしい録音と再生感。 ジャズという音楽に特別な
こだわりが無ければ、誰だってこれは褒めるに決まっている。 そういうクオリティーを持った音楽です。

ただ、私の心は何も動かされませんでした。 誰も知らない深い山奥を歩いていて、偶然透明度の高い清流を見つけて、その綺麗さに驚いてしばらく
見とれてしまう、それと似た驚きと感銘は受けますが、ただそれだけです。 それ自体は素晴らしいことだと思うし、その美しさはそのまま享受すれば
いいことなんだろうし、ECMはまさにそういう音楽を創りたかったんだからレーベルとしては目的通りで、これは100点満点だったんだろうと思います。

でも、それだけではやはり感動できませんでした。 音質がいいということは音楽を聴く上でとても重要なことで、それは音楽の印象をも左右する。
ただ、それは1番ではない。 どんなに音が良くても、内容そのものに感動が無ければ、音楽を聴く上でそんなものには何の意味もない。
内容が素晴らしいからこそ、音質がいいと一層その音の良さが音楽を引き立てて、有り難く思えるんじゃないでしょうか。

オーディオ愛好家があれこれと苦心の末にセッティングしたオーディオ機器の試聴をする際に音質のいいとされる音盤、例えばコロンビアのSAXとか
EMI-HMVのASDとかデッカのSXLを使うけれど、私ならそういう音盤ではなく、内容が最高なのに音質がイマイチのレコード、例えばウェス・モンゴメリー
のインクレディブル~とかビル・エヴァンスのエクスプロレーションズとかを使うでしょう。 そういう最高の音楽が聴けるレコードが今までより少しでも
いい音で鳴ってくれたら、初めて苦労した/投資した甲斐があったと思える。 音質向上の目的というのは、本来そういうものだと思います。 

最近になって、リッチー・バイラークがこうした一連のECMへの録音が元々不本意なもので、それでもノルマを十分こなしたんだから、後は自分のやりたい
音楽をやらせてくれとアイヒャーに訴えて嫌われたという後日談を知りました。 なるほど、だからこの人のECM作品はつまらないんだな、ということに
納得できたのですが、じゃあ、その後に自身の代表作や傑作が生まれたのかというと、そんなことは特になかったんじゃないかと思います。
案外、アイヒャーの目は間違ってなかったんじゃないでしょうか。 そうだとしたら、何とも皮肉な話です。


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今週の拾い物、迷惑なお客のこと、など

2015年11月21日 | Jazz LP (Europe)

Albert Bover Trio / Bilbon Bizi-Bizian // Live in Bilbao  ( Moskito Records MR-002 )


DU新宿ジャズ館の1Fではマンスリーでバイヤーズ・セレクトという企画をやっていて、これが痒い所に手が届く感じの内容でなかなか面白いのですが、
今回のラインナップの中にこのアルバムがありました。

バルセロナ出身の若いピアニストで目立たないけれども着実に作品をリリースしているそうで、ピアノトリオ愛好家には知られた存在なのかもしれません。
スペインのアリアーガ音楽院でのライヴ演奏ですが、とても落ち着いて深い趣きのある演奏で、ぐっときました。 自身のオリジナル2曲、
ジョビンの"Luiza"、メキシコのピアニスト Consuelo Vazquez の作品、という通好みの好プログラムです。 

ベースとドラムが静かなサポートに徹する中、ボベルは端正で節度のある、それでいて深いタメの効いたセンスのいいピアノを弾いていきます。
ライヴだからといって派手な演奏をすることもなく、丁寧に観客に聴かせようとしているのがとてもいい。 
バップ臭くもなく、欧州きれい系でもなく、自分のスタイルのある人です。 特に、ジョビンとヴァスケスの曲が素晴らしく、感心しました。 
飽きずに長く聴けそうな良い作品で、きっとこの人はいいピアニストになるでしょう。

アナログとCDのセット販売で、こういう形式のものは初めて買いますが、これは便利でいいなと思いました。 レコードはフラットエッジの重量盤で
丁寧な仕上がりになっていて好感度アップ。 音は過剰なイコライジングを排した自然な録音で、十分だと思います。


このアルバムを買う前に3Fで中古CDを物色していたのですが、そこではた迷惑なお客(オヤジ)がいました。 
「DUさんは、一般的な名盤の未開封の新品CDをいくらくらいで買い取りしてくれるの?」とデカい声で店員に向かって喋りだしました。
「内容にも依るんですが、そうですねえ、ちょっと現物を見ないと正確には・・・」と若い店員さんが控えめに答えると、
「いやいや、大体の相場を聞いてるんだよ、例えばさあ、カインド・オブ・ブルーなんかの何度も再発されているようなヤツの未開封だよ」とますます
大きな声で畳みかけます。
若い店員さんも対処に困りながらもその後何回かのやり取りの後、「まあ、500円とか、それくらいかもしれません」と言うと、「ああ、それくらいなのね」
と言って、そのオヤジは出て行きました。 若い2人の店員さんはお互いに顔を見合わせて苦笑いしながらも、悪態をつくこともなく(偉いね)、
中断していた棚出しの作業に戻りました。 昔のアルバイトには態度の悪いのがいたけど、今の店員さんはよく教育されているのか、みんなとても接客
態度が良くて、見ていて感心します。

それに比べて、ジャズの店舗には態度やマナーの悪いオヤジがとても多い、と感じます。 他のジャンルのお店にもよく顔を出すのですが、それらと
比較すると、特にジャズのレコードやCDを漁っているオヤジの態度の悪さは群を抜いているように感じます。 当然、ジャンルごとにお客の年齢層は
違って、クラシック館のレコードを漁っているのは老人が9割を占めてるし、ロックは中年、ソウル、クラブ系は若者です。 でも、彼らは総じて
礼節をわきまえていて、互いに譲り合うし、店員に横柄な態度を示す人もあまりいません。 勿論そちらにも変な人はいるんでしょうが、ジャズ館では
そういう客を割とよく見ます。

こちらは物色している時は色々と考え事をしているのに、こういう手合いがいると思考が邪魔されて、本当に迷惑です。 特に探していた盤を見つけて、
かなり慎重に内容のチェックをしている最中にこういうのが現れると、本当にぶん殴りたくなります。 気分も悪くなるし、もう最悪です。
やっぱり、中古漁りは静かに落ち着いてやりたいものです。 自分もそういう迷惑なオヤジにならないよう、気を付けなくちゃ。


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2重のパラドックス

2015年11月15日 | Jazz LP (Riverside)

Bill Evans / Portrait In Jazz  ( Riverside RLP 12-315 )


1956年にリヴァーサイドと契約してから発表した最初の2作では平凡なピアノを弾いていたにも関わらず(但し、実演は素晴らしかったらしい)、
マイルスのバンドに加わったあたりからクラシカル・ピアノの技法を演奏の中に持ち込むようになって、ビル・エヴァンスは「ビル・エヴァンス」になった。

58年にマイルスのグループでコロンビアに録音した "On Green Dolphin Street" の中でレガートを多用したイントロを弾いてみせて、ジャズだって
こういう風に弾いてもいいんだ、ということを証明したわけですが、これは黒人グループの中に1人だけぽつんと混ざってしまった白人というハンデを
逆手に取った開き直りであり、小さな反抗だったんだろうと思います。 どうだ、君らはこんな風には演奏できないだろう、という感じです。 
でも、これがマイルスにとっても、エヴァンス自身にとってもブレイクスルーになった。 この時の経験を発展させて、マイルスは "Kind Of Blue" を作り、
エヴァンスはこのアルバムを作りました。

ピアノを習う人は誰でも最初はクラシックから入ります。 そして時間が経ってジャズを志すようになるとクラシックのマナーは捨てて、ジャズの技法を
新たに習得することになる。 だから、ピアニストやピアノを習ったことのある人からみれば、エヴァンスがやったことは特に珍しいことではないし、
革新的なことでもなく、どちらかと言えば時間を遡って子供の頃に戻ったような退行感や既視感だったり、それは禁じ手だろうという戸惑いがある。 
でも、ピアノを触ったことがない人にはそういう感覚はなくて、ジャズピアノと言えばガーランドやケリーのような演奏だという先入観があるから、
エヴァンスの演奏は非常に新鮮なものに映る。 これがビル・エヴァンスのピアノに特有のパラドックスだと思います。

ただ、エヴァンスが圧倒的に優れていたのは、そういうビートとは無縁のクラシカルピアノ感と併行して誰にも真似できないような際立ったリズム感が
あったことで、それらを極めて自然にミックスして両立させているところに本当の凄さがある。 

更にブロックコードを使った絶妙な後乗りのタイム感でスタンダードの原メロディーを崩して変奏曲的に再構成してみせる、というかつての大バッハが
好んだ作曲技法までジャズに持ち込んだことです。 ジャズの世界でこれを最初にやったのはチャーリー・パーカーですが、パーカーの場合はどちらかと
言えば無意識的に「できてしまった」という感じで、明確に意識して多用したのはエヴァンスが初めてです。

このアルバムの冒頭に置かれた "Come Rain or Come Shine" の変奏の見事さは筆舌に尽くしがたいものがあります。 そして、黒人以上じゃないかと
思わせるリズム感の凄さ。 このアルバムは全9曲中7曲がスタンダードで、それらの全てにこの変奏形式が用いられています。
だから、たった2曲しかないエヴァンスのオリジナル曲がその美しいメロディーのおかげでわかりやすいスタンダードのように聴こえて、残りの7曲は少し
抽象度の高い初めて聴く曲のような印象が残るという逆転現象が起きていて、このアルバムに仕掛けられたそういう2重のパラドックスみたいなものが
この作品を非常に特異なものにしていると思います。


現代のピアノトリオの作品には "エヴァンス派" という冠がつくものが相変わらず幅を利かせているのではないかと思いますが、それらの中に
こういう意味合いを持つものがどれだけ存在するのでしょう。 ブルース臭がなく、ペダルの踏み過ぎで残響過剰で、レガートなフレーズしか弾けない
白人のアルバムは、これからも相変わらずそう呼ばれ続けるのでしょうか。


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克服への第1歩

2015年11月14日 | ECM

Bobo Stenson / Underwear  ( 西独 ECM 1012 ST )


この10年間くらい、ボボ・ステンソンのピアノが嫌いでずっと避けてきました。 その時に聴いた "エヴァンス系ピアノ" というポップが貼られた何枚かの
リーダー作がとてもつまらなくて、非常にがっかりしたからです。 陰鬱なピアノの音、停滞して流れが澱み、どんよりと溜まった汚れた水のようなその
音楽に嫌悪感すら覚えました。 それ以来、絶対に手に取らなかったのですが、どうも嫌いなミュージシャンを嫌いなままにしておくのはいけない気がして、
靴の中に入り込んだ小石のようにいつもどこかで気になっていた。 ところが、これを聴いてみて、それまでの凝り固まった嫌悪感が少し揺すぶられて、
隙間ができてゆるむのを感じるようになりました。 

1971年5月にオスロのスタジオで録音されていますが、下火になって消えかかっていたフリーの次の一手をどうするかを皆が模索していた難しい時期らしい
かなり手が込んで想いがこもった音楽になっていることを感じます。 表題も「表からは見えないもの」という意味で付けられているんだろうから、
こちらもそういうところを汲み取らなきゃいけないんだろうと思います。

近年の録音に見られる "エヴァンス派" と安易に呼ばせてしまうようなものとは違い、非常に意志の込められた音を出していて、こちらに訴えかけてくる
ものがあります。 特に1曲目の3人が一体となって疾走する躍動感は素晴らしい。 また、スローな曲も優し気に弾くのではなく、強いタッチでくっきりと
音を鳴らしているのもとても好ましい。 フリー調の演奏も入っていて、全編に聴き処が用意されていて飽きません。 全体に漂う硬質で研ぎ澄まされた
雰囲気が後年のスティーヴ・キューンの "Remembering Tomorrow" によく似ていて、あの作品が好きならこのアンダーウェアも気に入ると思います。

この人はいつ頃からこういう所が無くなっていったのかわかりませんが、白人ピアニストが聴き手から「ビル・エヴァンス」の名前を持ち出されるように
なったらもう終わりなんだなということを改めて実感します。 それはエヴァンスが個性がなくつまらないという意味ではもちろんなく、私も含めて多くの
人から愛されているこの巨匠の再来を常に待ち望んでいる大衆にアーティストが迎合するその瞬間がダメなのだ、ということです。

苦手なものを克服したり、それと和解するのは心情的に難しいことですが、このアルバムは私には少なくともそのとっかかりになりそうな作品でした。


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デックス・ミーツ・ミケルボルグ

2015年11月08日 | Jazz LP (Steeplechase)

Dexter Gordon & Orchestra Arranged and Conducted by Palle Mikkelborg / More Than You Know  (Steeplechase SCS-1030 )


きりっと冷たい空気が漂うのは何もECMだけの専売特許ではありません。 もう一つの北欧の雄、スティープルチェイスにもそういう作品があります。
欧州に拠点を移したデックスをフォローして支え続けたのもこのレーベルでした。 アメリカのジャズミュージシャンが渡欧した場合、大抵はその後の
様子がわからなくなってしまうものですが、この大物はさすがにそうはならなかった。 ライヴ活動をきちんと追いかけて録音し続けたし、こういう
入念に準備されたスタジオ録音も用意されたところを見ると、その待遇は破格のものだったようです。

先のディノ・サルージの作品でも素晴らしい演奏を残したパレ・ミケルボルグがアレンジャーというもう1つの顔でデックスを支えたこの作品は、後期の
デックスの代表作。 総勢20名を超えるオーケストラ編成のスコアを書いて指揮することに専念し、トランぺッターの席はアラン・ボッチンスキーや
ベニー・ベイリーに譲っています。 ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロという弦楽器やハープ、オーボエを前面に押し出した独特のオーケストレーションは
優雅で落ち着いた雰囲気を作りだしていて、その中からまるで浮かび上がってくるようにテナーの音が鳴る。 この感じが堪りません。

愛らしいワルツであるデックスが作曲した "Tivoli" が雄大な大曲となってそびえ立つ様は圧巻だし、"More Than You Know" では朗々と歌うテナーが
大オーケストラをゆったりと引っ張って進んでいくようで、こんなことができるのはこの人だけなんじゃないでしょうか。

1975年の2月に録音された本作はその時の冷たい空気も同時に封じ込められたかのようで、そういうところもこの音楽の一部になっているかのよう。
そういうことを感じることができる作品が一体他にどれだけあるだろうか、と考えてみると、この作品の重みは更に増すように思えるし、デックスは
渡欧して本当によかったんだな、と改めてうれしい気持ちになります。


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タンゴからの逃走

2015年11月07日 | ECM

Dino Saluzzi / Once Upon A Time, Far Away in The South  ( 西独 ECM 1309 )


ECMでの録音の第2作目にあたるこの作品は、トランペット、ベース、ドラムスを加えたカルテット構成で、1985年ドイツのルートヴィヒスブルグ録音。
どこまでも深く、静かに澄んだ音楽が粛々と進んでいきます。 

サルージのECMアルバムは作品ごとに楽器の構成を変えていて、そこには必ずその作品のキーになる楽器がありますが、ここではパレ・ミケルボルグの
トランペット/フリューゲルホーンがそれになっている。 コペンハーゲン出身で才能豊かな人なのにあまり目立たない人ですが、Danish Radio Jazz
Groupの主要メンバーだった人で、サヒブ・シバブのOktav盤にも当然参加しているし、マイルス晩年の力作 "Aura" ではプロデューサーを務めています。
ここでは全編でマイルスばりのミュート・トランペットや霧の煙るようなフルリューゲルホーンを吹いており、これが最高に素晴らしい。
チャーリー・ヘイデンのベースも重い低音域に音を集めて硬めに鳴らしており、サウンド効果を熟慮しながら音楽全体を底支えしています。

アルゼンチン出身のバンドネオン奏者、というだけでいつも判で押したようにピアソラの名前が引き合いに出されて何とも気の毒なことですが、
そういう諸々のことから脱出したかったのかもしれません。 ここではタンゴの影はどこにもなく、ECMのコンセプトど真ん中の音楽を披露しています。
まるでタンゴからできるだけ遠くまで逃走しようとしているかのような、そういう切なさすら漂っている気がします。

ヘイデン作の秀逸なバラード "Silence" をバンドネオンのソロでやっていますが、私がこの曲の最高の演奏だと思っているペトルチアーニの演奏にも
負けないくらい切ない雰囲気が出ており、素晴らしい。 このアルバムは傑作だと思います。


ただ、ECMに残された作品のどれもが手放しで素晴らしいということではなく、中にはちょっとピンと来ないものもあるのですが、上記に負けない傑作は
やっぱりこれです。



DinoSaluzzi, Anja Lechner / Ojos Negros  ( 独 ECM 1991 )


アニア・レヒナーのチェロとのデュオ作品。 アニアはロザムンデ弦楽四重奏団のチェロ奏者で、生粋のクラシック音楽のチェロ奏者です。
ロザムンデ四重奏団自体は現代の若い団体でまだまだこれからの成熟が必要な感じなのですが、この作品でのアニアのチェロは何とも伸びやかで深い音が
素晴らしく、やはりクラシック音楽の演奏家らしく次元のまったく違う技術力の高さでこちらを圧倒します。 

ディノ・サルージの音楽の魅力に参ってしまう人は大抵これを聴いてそうなるのですが、私も同様でした。 2人とも元々いた世界からは離れて自由に
なった解放感に溢れていて、自身の持つ音楽的技量を最高に発揮しながら素晴らしく緻密で濃厚な新しい音楽を作りだしています。 傑作です。



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大人のため音楽

2015年11月03日 | ECM

Jan Garbarek / StAR  ( 独 ECM 1444 )


ガルバレク、ヴィトゥス、アースキン、の3人構成での作品ですが、このピアノレスというところがとても良くて、まさに「引き算の美学」。 
大きく空いた空間の中で、ヴィトゥスの饒舌さやアースキンの手数の多さが自由に踊りますが、どちらも控えめで趣味のいい演奏で、特にアースキンは
ヴィトゥスの様々なフレーズに対してとても反応が良く、パワードラムの人だとばかり思っていたのにこんなに繊細な表現もできるとは思いませんでした。
この2人の相性は好ましく、素晴らしい。

2人に自由に演奏をさせながら、ガルバレクは大きく翼を広げて空を舞う鷲のように、音楽全体を覆い尽くすように非常に抑制の効いたサックスを響かせる。 
たった3人なのに、ここに表出される空間やスケールの大きさは一体何なんだろう。

3人ともフリーやフュージョンの洗礼をきちんと受けながらも早々と抜け出して自分の音楽を見つけることができた人たちで、ここでもかつてはそういう
音楽をやっていたという片鱗はいろんな所に出てきます。 でも、そういう文法はもうとっくに卒業して随分身軽になったよ、という歓びのようなものを
感じます。

そういう意味でも、これは成熟した大人の音楽だと思います。 何にも縛られず、誰の真似でもない、自分たちにしかできない音楽を堂々とやっている。
自立して、地にしっかりと足が着いた内容です。 1991年の録音ですが、その当時にもし聴いていたとしても、私にはこの良さはきっと感じ取れなかった
だろうと思います。 聴く側にも成長が必要なんだな、と最近よく思います。 そうすることで、音楽というのはもっと広く深くなっていく。
レコード音楽のいいところはそういうところかもしれません。 聴く側の自分がようやく演奏者に追いつくことができた、と感じることがあります。

余談ながら、録音も抜群にいい。 ECMが目指した理想の音場があります。



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稀少ではなくなっても

2015年11月01日 | Jazz LP

The Aaron Bell Trio / Three Swinging Bells  ( Herald HLP 0100 )


昔はジャズ批評誌54号に掲載されたことで幻の銘盤扱いされて結構な値段がついたこのレコードも、現在はミドルクラスの中の更に下位扱いになっていて、
その値段の安さに驚かされます。 内容を考えれば今の価格のほうがもちろん妥当なんだけれど、こういう落差を見ると、現在の当時とは桁違いな流通量が
かつての稀少盤を稀少では無くしてしまい、また新たな別の稀少盤を作りだしているんだな、と時間の流れみたいなものを改めて実感させられる。

アーロン・ベル名義になってはいるものの、内容はチャーリー・ベイトマンのピアノが主役のピアノトリオの演奏。 そのピアノのアレンジがかなり
仰々しくて俗っぽく、エロール・ガーナーを思わせるようところもある、ショウビズを多分に意識したエンターテイメント性の高いジャズ・ミュージック
という感じになっています。 

私はマイナーピアノの世界には疎くて、このベイトマンという人のことをよくわかっておらず、普段からこういうスタイルなのか、それともこの盤に限った
話なのかは定かではありませんが、演奏は堂に入っており、技術的にはなかなか達者です。 だからマイナーレーベルのマイナートリオにも関わらず、
聴き終えた後にはそれなりに満腹感が残ります。 録音も古めかしさはありながらも残響感豊かで音圧も高めです。

マイナー盤はその内容を厳しく断じるような聴き方をするのはお門違いで、そこにあるものをそのまま受け取ればいい訳です。 昔なら手に入れることが
叶わなかったようなものがこうして普通に手に入るんだから、ありがたく拝聴すればいい。 ジャケットのつくりがベツレヘムのものとそっくりだから、
きっと同じ業者が作ったんだろうなあ、とかそういうどうでもいいようなことがわかるのも、今の時代でこそのありがたみなのかもしれません。


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