響庵通信:JAZZとサムシング

大きな好奇心と、わずかな観察力から、楽しいジャズを紹介します

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続:気になる伝記映画

2016-04-03 | 音楽

マイティ・ファイブ(mighty five)と称せられるソングライターがいる。
 リチャード・ロジャース(詞:ロレンツ・ハート、オスカー・ハマースタインⅡ)
 ジョージ・ガーシュイン(詞:アイラ・ガーシュイン)
 コール・ポーター(作詞作曲)
 アービング・バーリン(作詞作曲)
 ジェローム・カーン(詞:オスカー・ハマースタインⅡ、オットー・ハーバック etc.)
5大作曲家のなかで、正編・続編(?)ともみられる稀な伝記映画がある。
別の制作会社・年度・スタッフ&キャストが撮った、コール・ポーターだ。

 【夜も昼も】 (原題:Night and Day)  
    1946年:米ワーナー・ブラザース (カラー 128mins)        
    劇場公開:51年

    監督:マイケル・カーティス
       音楽:コール・ポーター
       音楽監督:レオ・F・フォーズスタイン

        主な出演者
    ケーリー・グラント(コール・ポーター役)
    アレキシス・スミス(ポーター夫人リンダ役)
        モンティ・ウーリー(本人:教授役)
    ジニー・シムズ(キャロル役)
    ジェーン・ワイマン(グレイシー役)
    カルロス・ラミレス(本人:歌手)
    メアリー・マーティン(本人:歌手)
解説:
[アメリカの音楽家コール・ポータの半生をつづった伝記的映画。
作曲家を夢見ていた青年が、戦争に巻き込まれながらも音楽を捨てず、
やがてミュージカル作曲家として大成する。物語は、音楽家としての歩みと、彼の妻とのロマンスを絡めて描く] (allcinama)
映画データーベースallcinamaを引用したのは、伝記映画が記録や事実に基ずくものではなく、創作や脚色を交えるので、伝記的と的を射た叙述に共感したので…
映画を彩るエピソードを拾ってみよう。

●エール、エリート、エール
1915年、エール大学キャンパスでフットボール応援歌コンテスト。
マスコットのブルドッグ・ダンを先頭に、
胸に白字でYをデザインしたコバルトブルーのセーターに白パンツ、
ポーター率いるグリークラブが登場。
“ブルドッグはほえるんだ/ワオ、ワオ/エール大学の為に…”
エール大学在学中にポーターが作曲したファイトソング♪ブルドッグ、ブルドッグ
〈このシーン前後を詳しく見る…法学部
教授モンティ・ウーリーはフットボールの応援に夢中。
「ハーバードとかいう大学の学生に聴かせたい」と熱弁〉
 
Yは、エール大学正式名イエール(Yale)のイニシアル。
アイビーリーグのハーバード大とエール大は伝統的ライバル関係で、
The Gameと呼ばれているアメフトは世界三大学生競技として人気がある。
参考:世界三大学生競技は、
  ハーバード大対エール大のフットボール

  ケンブリッジ大対オックスフォード大のボートレース
  早大対慶大の野球

エール大学出身者クラブでショーの資金を募るウーリー&ポーター。
リスクが少ない不動産や債券しか出資をしないと渋る資産家に、ウーリーが、
「…これは芸術だ、彼はエールの学生です」
「なら話は別だ」

エール(応援)で始まった映画~エリート(学閥)、締めはエール(大学)。
同窓生たちは、「最後の演
奏にならないか心配だ」
翌日難しい手術のポーターを激励するコンサートを大学の講堂で開催。
2本の杖を突きステージにあがるポーター、拍手、拍手。

●ナイト・アンド・ディ・ファンタジー
ゴージャスな部屋、アンティーク柱時計、外は雨。
“内なる声が僕に語りかける~君…そう君なのだ”
♪As a voice within me keeps repeating …
               you you you
第1次世界大戦、曲想を練っていたポーター中尉が襲撃を受け脚を怪我する。
奇しくも野戦病院で看護師になっていたリンダと再会した。
前途に自信を失うポーターを作曲で立ち直らせようと、ピアノを用意する。
「ナイト・アンド・ディ」作曲のシーンだが、脚色が見事だ。
バースをそのまま【画】にしている。
♪Like the beat beat beat of the Tom Tom/
 映像:野営休憩中にモンゴル出の兵士がトムトムを叩き歌っている。
♪Like the tidk tick tick of the Stately clock/
映像:大きな柱時計がチクタクチクタク、10時にボーンボーン…
♪Like the drip drip drip of the raindrop/
映像:窓ガラスを打つ雨粒。

●煙が身にしみる
ポーター最初のブローウェイ・ミュージカルは、
『まずアメリカを見よ(See America First)』だ。 
初日、幕が上がる、
♪ユー・ドゥ・サムシング・トゥー・ミー
“君といると幸せな気分になる~” 男女大勢の出演者が合唱。
ピンクのドレス:グレイシーが男性ダンサーとアクロバチックにタップを踊る。
と、突然!
数人の男が劇場に走って入り客に耳打ち、
観客が一人・二人と立ち、三人・四人退場する。
「何があったんだ」
街頭では大勢の通行人が号外を取り合っている。
             〔ルシタニア号 撃沈される〕
公演は中止。
「珍しい話だ、オープニングと最終日が同じだなんて」
ポータが無人の客席を振り返って慨嘆。
祝賀会の予定だったレストランに向かう途中、
リンダが高級シガレットケースをプレゼント。
「字が彫ってあるから返品できないわ」
ケースの裏に銘、
   《「まずアメリカを見よ」 その記念に リンダ》
*ルシタニア号事件:
 第1次世界大戦中、イギリス豪華客船ルシタニア号が航行中、
 1915年5月7日ドイツの潜水艦によってアイルランド沖で無警告撃沈され、
 1198人が犠牲になりそのうち128名はアメリカ人で有名人も含まれていた。
 まだ参戦していなかったアメリカで世論が開戦に傾くきっかけになった。
*映画『夜も昼も』のプロットで、事件のせいで初日と千秋楽が同じ日に描かれているけれど、
 ミュージカル『まずアメリカを見よ』の初演は、1916年
 だが2週間で打ち切られているので、成功作ではなかったのは事実。

 2個目は、
リンダがフランスの興行主に有利な条件でプレゼンテーション。
旧知の歌手が唄ってくれたが、客の反応はイマイチ。
「君の詞は難しくて洗練され過ぎてる…アメリカでなら、きっと」断られる。
リンダの出資がバレ、感謝はするがお節介「自分の力でやるよ」とコール。
「力になれないなら、(恋は)終わったみたいね」
別れ際に「受けとって」と新しいシガレットケース。
「字はいらなかったわね」…刻まれたのは
   《愛をこめて リンダ》
*ここで唄われた曲が…微妙,
ポーター最初のブロードウェイ・ヒット『5千万人のフランス人』から
♪アイム・アンラッキー・アト・ギャンブリング(ついてないギャンブル)」

3個目にまつわるシーンもある。
いずれもリンダの心情を無言で語る必須のアクセサリーになった。

ブロードウェイの寵児となりハリウッドに進出したポーターの名曲が続く。
19曲目の♪マイ・ハート・ビロングス・トゥ・ダディは、
『私に任せて(Leave It to Me)』の稽古シーンで、
コーラスガールの中から抜擢したメアリー・マーチンが唄っている。
*メアリー・マーチン:ミュージカルの女王。
実際に1938年のミュージカル『リーブ・イット・トゥ・ミー』で鮮烈デビューした。
ロジャース&ハマースタイン2世の『南太平洋』『サウンド・オブ・ミュージック』ほかに主演している。
なおミュージカル・スター:ジーン・ケリーのブロードウェイ初舞台も『リーブ・イット・トゥ・ミー』だった。

20曲目の♪ビギン・ザ・ビギンも5分を超える絢爛シーン。
農夫姿のカルロスが歌う甘い旋律、
氷上を滑るように踊るゾーリッチ(男性)とムラトバ(女性)。

*カルロス・ラミレス:コロンビア出身テノール歌手。
『姉妹と水兵』『世紀の女王』『錨を上げて』などのミュージカル映画に出演。

乗馬中、事故にあって重傷を負う~療養中も作曲を続ける~
難しい手術を受ける前日のエール大学講堂のフィナーレ!
           リンダは!!!、
                   ◇◇◇

【五線譜のラブレター】 (原題:De-Lovely)
      2004年:米MGM(カラー 125mins)
      劇場公開:2004年

     監督:アーウィン・ウィンクラー
  音楽:コール・ポーター

  主な出演者
  ケビン・クライン(コール・ポーター役)
  アシュレイ・ジャッド(妻リンダ役)
  ジョナサン・プレイス(演出家ガブリエル役)
  ケビン・マクナリー(ジェラルド・マーフィ役)
  サンドラ・ネルソン(サラ・マーフィ役)
  アラン・コーデュナー(モンティ・ウーリー役)
  ピーター・ポリカープ(ルイス・B・メイヤー役)
  キース・アレン(アービング・バーリン役)

解説:
[数々の名作ミュージカルや映画音楽を手掛けた偉大な作曲家コール・ポーターと彼の妻リンダとの不滅の愛を描いたミュージカル・ラブ・ストーリー…] (allcinema)
またallcinemaを引き合いにしたが、
これは続編というより『夜も昼も』で触れていない、両性愛のポーターとそれを認めて結婚したリンダを描いた別伝メロドラマ(音楽と物語という意味の)である。
ちかごろ関心たかまる《LGBT》を理解できる作品であるかもしれない。
年老いたポーターと演出家が回想を軸にして過去と現実が交差する複雑な展開、脚本の妙か日本字幕の巧みさか気の利いたセリフ、監督の悪戯心を解く面白さ…
ポーター・フィルモグラフィーで断トツ最多28曲で構成され、
セリフの中で「歌は下手」と云いながらポーター役:クラインが独唱・合唱15曲も歌い、
ダイアナ・クラールなど本名で出演の歌手が大勢登場する。
最後に信じられない歌声…

●アービング・バーリンとの交友
ベニスにいるポーターをバーリン夫妻が訪れる。
リンダがスランプの夫のために呼び寄せたのだ。
鍵盤を拾い歌詞をつけているポーター、
「迷惑かな」バーリンが声をかける、
「アメリカきっての作曲家が来訪とは、嬉しいな」
「初めて生で聞けたよ、完成したら聴きたい」
スタンダード・ランキングNo.8 
♪What is This Called Love  誕生。
バースからポーターの弾き語り、ワン・
コーラス のあとツー・コーラス目からレマーが歌う、最初の観どころ。
*レマー(男性):本人出演だがロンドン生まれの歌手以上は不明。

ポーターのもとにバーリンから電報がきて、ニューヨークに来るよう推薦。
「自信がない」というポーター、「あなたならできる」リンダ。
ミュージカル『パリ』は、ポーター最初のブロードウェイ・ヒット作になった。
♪Let's Do It (Let's Fall In Love)
時代を戻したモノクロ効果を挟みアラニス・モリセットが唄う。
公演初日、スタンディングオベーション。
「何とか出来たな」ポーター、リンダ「あなたへ」シガレットケースを…裏に、
           “『パリ』恋をしましょう”
*アラニス・モリセット(女性):フランス系カナダ人歌手・俳優。1996年グラミー賞3部門受賞。
〈トラディショナルやニューオリンズを除いてジャズのスタンダード曲で最も古いのは、1911年バーリンの♪アレキサンダーズ・ラグタイム・バンドで、
『パリ』の♪レッツ・ドゥ・イット(1923年)より遥か前、しかもその間にスタンダード入りを10曲も書いている。ポーターにとってバーリンは巨匠だった〉

●♪「ナイト・アンド・ディ」の本籍
リハーサル中の主役が「高音から低音まで音域が広すぎて歌えない」と渋る。
演出席のポーターが飛び出そうとする…隣のモンティ・ウーリーが、こう云った。
「彼は役者だ 歌手じゃない、曲が難しい、アステアに歌わせろ
気を静めたポーターは「恋する気分で一緒に歌おう」と、
ワンフレーズずつ指導する。
『五線譜の~』ウーリー(アラン・コーデュナー)は、ほとんど脇役だが、
ここのセリフは要チェック(*^_^*)
 
♪Night and Dayは、1932年ブロードウェイ・ミュージカル『陽気な離婚(原題:The Gay Divorce)』で
ガイ・ホールデン役のフレッド・アステアの創唱。
34年映画化でもアステアが歌っている。
       
         
【コンチネンタル】(原題:The Gay Divorcee)                                               

     1934年:米RKO(モノクロ 107mins)
        劇場公開:35年

       監督:マーク・サンドリッジ
       主な出演者:
       フレッド・アステア
       ジンジャー・ロジャース

原題がミュージカルの『Gay Divorce(離婚)』から『Gay Divorcee(離婚女性)』に変わる。
離婚しようとしているミミ(ジンジャー・ロジャース)を一目惚れしたガイ(フレッド・アステア)が騒動に巻き込まれ、愛をつかむドタバタ喜劇。
ミュージカル・ナンバーからは♪ナイト・アンド・ディが使われているだけだが、
アステアがバースからエモーショナルに歌って、スタンダード曲中の名曲になった。

●ライオンと道化師
敷地内を数人の記者を従え黒のフレーム眼鏡男が、ポーターに、上から目線で云う。
「おかしな歌はおかしく、小細工はいらん できるか?ン!」
ム!とするが♪Be aClown(ピエロになろう)を歌い、眼鏡男を踊らせる。
男を殴り往復ビンタを張ったり、海賊船長に仕立てるなどコミカルなショー。
*♪Be a Clownは48年の映画『踊る海賊』の主題歌
〈なんてこった!大胆な演出〉
ピーター・ポリカープ演じる眼鏡男は、MGM映画会社創立者の一人で、ハリウッドの最高権威者のルイス・バート・メイヤーだ。
メイヤー氏没後とはいえ、
同じライオンが吼えるマークMGMの『五線譜のラブレター』でこんな【画】!!

●ゲスト女性シンガー
♪Begin the Beguine
シェリル・クロウがブルージーに唄う…伴奏のファゴット、トランペットが優しく悲しい。
♪Just One of Those Things
ダイアナ・クラールの唄が弱音化されるのは残念…ピアノ、ギターがモダン・ジャズだ。
♪Love for Sale
ビビアン・グリーンがゲイのパーティーを耽美に…歌詞と背景が妖しく。
“~恋のスリルを求めるなら~”
♪Ev'ry Time We Say Goodbye
まさに曲名どおりのシーン…純真ナタリー・コールが唄う。

●双・イン・ラブ
ケーリー・グラント、ケビン・クラインのあいだにもう一人ポーターを演じた俳優がいた。
53年のMGM映画『キス・ミー・ケイト』のロン・ランデリ、だがファーストシーンだけの出番。
シェークスピアの『じゃじゃ馬ならし』を翻案した『キス・ミー・ケイト』はポーターのミュージカルで最高のヒットだった。
フィナーレは主題歌「ソーイン・ラブ」
余命を限られたリンダにポーターが主題歌♪So in loveを弾き語る。
“不思議な気持ち でも僕の真実~”
「この曲は僕には歌えん」、リンダ「最後まで私の為に歌って」
二人のシーンと劇場をカットバックしながらポーターがフルコーラス歌う。
〈ジュリアード音楽院卒、1981年トニー賞受賞の実力をクラインが聴かせる〉
リンダが行けなかったニュー・センチュリー劇場公演、
絶賛の中、彼女の代理人からいつもの祝い品を受け取る。
三つの菱形枠にKISS ME KATEの文字がデザインされたシガレットケースだった。
場面は変わり病床。
「私の命はそう長くない」やつれたリンダ。
「パリ時代からの同志だよ、よく生きた」
 ポーターからの言葉とプレゼントが、アメイジング!
〈ここは映画をご覧になる方の楽しみに内緒にしておく〉
10分40秒の余韻に♪エブリタイム・ウイ・セイ・グッバイ…ナタリー・コールが重なる。

ファーストシーンと同じ薄暗がりの部屋、
ポーターが最終曲「イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト」を弾き語る。
“夜の静けさの中で~”
真珠の首飾り黒いドレスのリンダがそっと傍に、
“私があなたを愛するように~” スイートにデュエット。
       ─暗転─
エンド・ロールにサプライズ。
        

        コール・ポーター本人の歌♪ユーア・ザ・トップ。
        “~君は最高 君はコロシアム 君は最高~”

               ─終─

 




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 


 

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気になる伝記映画

2015-09-01 | 音楽

俗に1001(センイチ)と呼ばれるスタンダード・ナンバーの海賊版楽譜集があった。
50年代・60年代、ジャズを演奏する方にとって必携の〈隠れバイブル〉になっていた。
1001は数(ナンバー)かと…(*^_^*)…じゃなくって、いちいち数え切れない多いことを意味しているようだ。

ずばり、『決定版!ジャズ・スタンダード1001』というスイングジャーナル社(1990年刊)から出版されたムック本がある。
こちらはスタンダード曲の名盤ガイドである。
生真面目というか文字通り、1001曲紹介している。
あいにく日本の音楽に「スタンダード」のカテゴリーが無いものだから、
いろいろな解説がなされている。
一番短くスタンダードを定義しているのが、
【スタンダード(standard)生れては消えていくポピュラー・ソングの中で、長いあいだ愛好され、繰り返し歌われ演奏されている曲をいう】(新音楽辞典:音楽之友社)である。
『決定版!ジャズ…』巻頭に、「もともとニューヨークの音楽出版街ティン・パン・アレイで季節にかかわらずスタンダードな売れ行きを示す曲のことをさす」という件(くだり)がある。
ティン・パン・アレイって何だろう?
1890年代後半、ニューヨーク市マンハッタンの一角にブロードウェー・ミュージカルの楽譜を出版する会社が集まっていて、
それぞれ行うパフォーマンスが、まるで鍋釜を叩いているような賑わいだったので、
その区域をTin Pan Alley(錫鍋=スズなべ小路)と呼んでいた…という。

ジョージ・ガーシュインの伝記映画に「ティン・パン・アレイ」が出てくる。

【アメリカ交響楽】(原題:Rhapsody in Blue)
1945年:米ワーナー・ブラザース(モノクロ 139mins)

  劇場公開:47
  監督:アービング・ラッパー
  原作:ソニア・レビーン
  脚本:ハワード・コッホ
  音楽:ジョージ・ガーシュイン
  音楽監督:レオ・F・フォーブスタン


 
主な出演者
 ロバート・アルダ(ジョージ・ガーシュイン役)
  *ピアノはレイ・ターナーが代演
 ハーバート・ラッドレー(兄アイラ・ガーシュイン役)
 ジョーン・レスリー(女性シンガー:ジュリー・アダムス役)
 アレックス・スミス(魅惑の女性画家:クリスティン・ギルバート役)
 チャールズ・コバーン
 (ガーシュインを支援する音楽出版社社長:マックス・ドレフェス役)
 アルバート・バッサーマン(フランク教授役)
 モーリス・カーノフスキー(父ガーシュイン役)
 アル・ジョルスン(人気歌手:本人)
 オスカー・レバント(親友ピアニスト:本人)
 ポール・ホワイトマン(ポピュラー楽団指揮者:本人)
 ジョージ・ホワイト(劇場支配人:本人)
 ヘイゼル・スコット(歌手・ピアニスト:本人)
 アン・ブラウン(オペラ『ポーギーとベス』初演時の「ベス」:本人)
 トム・パトリコラ(コミックダンサー・歌手:本人

〈気になるエピソード:1〉 ある出会い
ジョージは、ティン・パン・アレイのレミック楽譜出版社に歌曲宣伝ピアノ弾きとして働いている。
ずらり並んだブースは鍋釜の騒ぎ、
ピアノ弾き、女性コーラス・トリオ、ピアノとアコ―ディオン・デュオ…
ジョージは男タップ・ダンサーの伴奏。
もっとノリがいい曲をリクエストされ、「ほとんどの曲は弾いたが…」とジョージ、
客は帰ろうとする。
「待って、これはどうだ」自作の曲を演奏、「気に入ったよ、これ貰うよ」
まだ出版されていないので社長に了解を求めるが、
「君はレミック社の曲を弾いてればいい、出版はしない」と、ケンもホロホロ。
帰る客と入れ替わりに来た女性の歌声が素晴らしいので、
「僕の曲をやってみよう」と一枚の楽譜をわたす。
熱心に唄い方を教えていると、音を聞きつけた社長が、
「やめろと言ったはずだ、これ以上許さんぞ」
「僕もウンザリだ」×「そうか、だったら君はクビだ」

◆女性は歌手志望のジュリー・アダムス、
 後にジョージが彼女のために書いた「ス・ワンダフル」などでスターになり、
 いつしか彼を想うようになる。
◆曲は20歳のとき作曲した「スワニー」

〈気になるエピソード:2) アル・ジョルスン「スワニー」を歌う&歌う
ジョージは手書きの譜面を持って、
ハームス音楽出版社のマックス・ドレフェス氏を訪れる。
社長は♪スワニーをハミングし、
「流行とは違うが、いいテンポだ」と興味を示し、
「先ずは弾いてみてくれ」
メロディー途中で劇場の楽屋に電話。
「これは何だ、弾いているのは誰だ」…黒塗りメーキャップ中のアル・ジョルスン
「ガーシュイン」…マックス
「初めて聞く名だ…悪くないぞ…譜面を送ってくれ、ヒットさせてみせる」
                     *
冬の園(ウインター・ガーデン)劇場でミュージカル『シンバッド』に出演のジョルスン。
ステージ下手(しもて=観客席からみて右側)のソデで、
マックスとジョージが緊張な面持ち。
「評価がくだる時だ」…マックス
大勢のダンサー、華麗なシーン。
ジョルスン♪スワニーをバースから歌いコーラスへ、
巧みな指笛をはさみ、リフレーン。
         拍手─拍手─拍手
ソデに戻ったジョルスン「あんな曲をもっと書いてくれ」

アルの伝記映画もある。
【ジョルスン物語】(原題:The Jolson Story)
1946年:米コロムビア(カラー 128mins)

  劇場公開:50年
  監督:アルフレッド・E・グリーン
  音楽:ジョージ・ガーシュイン

 主な出演者
 ラリー・パークス(アル・ジョルスン役)
 イブリン・キース(ジュリー・ベンソン役:ジョルスンの妻)
 ウイリアム・デマレスト(スティーブ・マーチン役:旅芸人)
 ビル・グッドウィン(トム・ブラウン役:劇場支配人)
 ルドウイッグ・ドナス(カントル・ヨルセン役:ジョルスンの父)

美しい歌声を持つ少年エイサ・ヨルセンは、 
ボードビリアンのスティーブ・マーチンと各地を旅芸する。
人気も成長も上がってきたあるとき[声変わり]で喉がつまり、
とっさに指笛[小鳥のさえずり]で後を続けた。
歌えなくなって落ち込むエイサに「あの指笛は見事だった、1~2年でもっといい声になる」、
スティーブはアル・ジョルスンと改名させ天才芸の指笛を売り物にする。
声に自信を取り戻したアルはステージで歌いたくて訴えるが、
取り合ってくれない。
そんなとき、競馬で大儲けしたミンストレル芸人の一人が泥酔状態で、
舞台に穴が空きそうになる。
アルは、一計を案じ顔に墨を塗りステージで一曲歌う。
スティーブにはバレたが、
客席にいたオスカー・ハマースタイン(エドウィン・マクスウェル)は芸人の新曲と勘違いし、ブロードウエー出演契約を申し出る。
芸人は、何のことやらサッパリ?
ハマースタインと一緒にいた興行主は、耳元に消しそこなったドーランに気づき、アルと直接交渉する「君は来週からうちの舞台に出てほしい」
ただ、興行主が採用するのはアル独りと知ったステイーブは「またとないチャンスだ」と身を引きアルを送り出す。
*古いミンストレル・ショーが衰退してもニューヨークや大都市では、大勢のダンサーを擁したブラック・フェイスのパフォーマーが人気になっていた。
アルは黒塗り8人メンバーからカルテット、デュオと一座の中心に抜擢されるにつれて、
いつも同じ歌を繰り返すことに不満を持つ。
アップテンポでリズム感ある曲を歌いたいと申し出る。
「ミンストレルには50年の歴史がある、伝統こそ誇りだ」と問題にされない。
ニューオーリンズ公演のとき、自由時間にジャズを聴き惚れ、出番に遅れてしまう。
興行主は「君は永遠に不満のようだな…辞めたほうがいい」
半年後、思いがけないオファーが来た。
あの泥酔芸人トム・バロンが、ブロードウエーのウインター・がーデン(冬の園)劇場代表になっていて、
「お前のお蔭だよ、初日が3週間後なんだ、よかったら出演しないか」
主演ギャビー・デスリーズ『ベラ・ビオレッタ』初日、舞台は時間が押し、あわや、
アルの歌がカットされそうになる。
進行担当の制止を振り切り、ジョークで満場の耳目を丸抱え、
「マイ・マミー」をブラック・フェイスで歌った…
観客、総スタンディングオベーション。
ギャビー・デスリーズとアル・ジョルスンの2枚看板は、
記録的な大ヒットになった。
ブロードウエーで数々の成功を収めたアルは、ボードビルの師匠だったスティーブをマネージャーに招きトムと三人四脚で20世紀を代表するエンターテイナーになった。
アルはかねてからの理想である[観客の顔を見、客席に入って歌う]ために花道を企画。
トム「そんな物作ったら100席は減る」
アル「だが2倍のロングランだ」

数十人の男女ダンサーをバックに、♪スワニー
花道の中央で華麗な指笛。
    L★I☆S★T☆E★N  
  …スワニー・ハウ・アイ・ラブ・ユー、ハウ・アイ・ラブ・ユー、
    マイ・デァ・オールド・スワニー…
★ラリー・パークが歌う曲は総べて☆ジョルスンが歌っているのだ★

【Show by Show スタンリー・グリーン著:青井陽治訳】(ヤマハ出版)
というブロードウエー・ミュージカルのエンサイクロペディアみたいな本がある。
『シンバッド/SINBAD』
作曲:シグムンド・ロンバーグ他、作詞:ハロルド・アタリッジ他
ニューヨーク公演:ウインター・ガーデン劇場
出演:アル・ジョルスン他
1918年2月14日開幕 388回
解説を抜粋・要約すると─
[…アル・ジョルスンのエンタテインメントは、どれも豪華なショーで大勢の出演者がいたが、内容的にはワンマン・ショーだった…
いつものように黒塗りのジョルスンは何度も芝居をストップさせて、
「アバロン」やジョージ・ガーシュインの最初のヒット曲となった「スワニー」などお得意のミュージカル・ナンバーを披露した]

【想い出のジョージ・ガーシュイン】というドキュメンタリー・ビデオがある。
ガーシュインの生涯を、写真・映像などでつづり、1989年にBBC・TVが制作した。
妹で歌手のフランシス、作曲・指揮者:レナード・バーンスタイン、伝記作家:エドワード・ヤブウォニスキ、リンダ・ロシュタット(女性歌手)、シモーヌ・シモン(女優)、ケイ・スウィフト(ガーシュインと最も親しかった女流作曲家)などの回想も挿入されている。
“当時「ヒンダスタン」という曲が大流行してたので、我々もワンステップの曲を作ろうということになった”と、
アービング・シーザーが興味あるエピソードを語り出した。
*「二人でお茶を」の作詞者シーザーがまだ無名の若者だった頃─
“「スワニー」が生まれた、ものの10分でね、〈Ten Minutes !Ten Minutes !と強調〉
私が歌詞を書いてくそばから彼がメロディーをつけて行った
 
*下線のあたりは♪スワニーのバースをハミング

下線で思い出した─
【アメリカ交響楽】(原題:Rhapsody in Blue)を紹介したさい、
劇場公開:47年と、47に印をつけたわけは、
まだ終戦1年7か月後の…昭和22年に…ビックリ。
[
この年、三月二十五日から東京・有楽町のロードショウ劇場スバル座で、ロバート・アルトマン、アレクシス・スミスが主演したジョージ・ガーシュインの伝記映画「アメリカ交響楽」(1945年)が全階指定席で上映された。ポール・ホワイトマン楽団が演奏する「ラプソディー・イン・ブルー」、アル・ジョルスンがうたう「スワニー」など、がーシュインの名曲に彩られた映画だった](映画音楽ヒット主題曲の変遷/浅井英雄著:誠文堂新光社)より。

〈気になるエピソード:3〉 ラプソディー・イン・ブルー
*シーンの背景となる音楽界のあらまし
ブロードウエーの劇場主:ジョージ・ホワイトが、
制作年別にプロデュースしたレビュー『ジョージ・ホワイトのスキャンダルズ』(1919年から21年間で13作)に、20年から24年までの5年間、ジョージ・がーシュインが作曲を担当している。
演奏はポール・ホワイトマン・オーケストラ。

24年版『ジョージ・ホワイトのスキャンダルズ』の1幕「Blue Monday」(暗い月曜日)は「まともじゃない」と評論家から酷評を受けた。
「いい出来だと思うよ、だが、観客は理解できない」というフランク教授は慰めてくれた。
ホワイトマンは「観客にブルースをわからせればいい」
ジョージ「暗い月曜日を?」
*このジョージは劇場支配人のジョージ・ホワイトのほう、ジョージ・ガーシュインと紛らわしく、ホワイトマンとホワイトも間違えやすい
ホワイトマン「いや違う、コンサート用のジャズの新曲だ」
内心落ち込んでいたジョージ(ガーシュイン)の眼が輝く。
「交響曲か…やろう…ブルーなテーマのジャズのリズム」
               *
雪が舞う寒い夜、エオリアン・ホールの前でジョージとレバントが落ち着かなく立っている。
客を乗せたタクシーが次々に着く。
レバント「ダムラシュだ…、ラフマニノフだ…ヤシャだ…あれはカーンだ」
クラシック界の巨匠の名をジョージに告げる。
*下線を引いた人名は、ウォルター・ダムラシュ、ヤシャ・ハイフェッツ、オットー・カーン
「もう聞きたくない」…ジョージ。
唇を震わせて楽屋に戻ってきたホワイトマン「外の気温は?」
レバント「0度だ」
「観客はマイナス10度だ」…ホワイトマン。
〈ホール内の雰囲気は外気より冷たい〉
「君次第だな…行こう」ホワイトマンがジョージを促す。
               ♪
ジョージ、ピアノの椅子に…
客席の父、母、アイラ、真剣な面差し…
ホワイトマン、タクトを振りおろす♪♪♪

ドキュメンタリー・ビデオに、
“「スキャンダルズ」用に書いた「ブルー・マンデイ」は、オペラの形式をとりながら数々の斬新な技法を用いた新感覚の作品であり、結果は全くの不評だったが、指揮者のホワイトマンは賛辞を寄せ、改めてジャズを用いた曲を依頼する。
時代の声はジャズ。
従来の大衆音楽に多様性な色彩を与え、クラシック界でもストラビンスキー、サティ、ミヨーらがジャズの洗礼を受けている。
ジョージは2台のピアノのためジャズ風ラプソディーを書き上げる。
ホワイトマン楽団のファーディ・グロフェがオーケストラ用に編曲し、1924年2月12日、ニューヨークのエオリアン・ホールで歴史的な演奏会が開かれた。
飽きるほど延々とプログラムは進行し、演目の終わりにジョージがピアノについた。
冒頭のクラリネット・ソロに会場は静まり返る”のナレーションがある。

       1984年:ロサンゼルス・オリンピック開会式のシーン…
            84台のグランドピアノによる演奏に
            度肝を抜かされたのを、思い出す。

                   ─終─

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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続々ジャズ音故知新:オスカー・ピーターソン

2015-06-03 | 音楽

J.A.T.P.滞在記事が『スヰングジャーナル』に載っている。
1947年創刊『スヰングジャーナル』(全20ページ:定価20円)の1953年12月号は、
38ページ:90円になって発行されていた。
増ページに対し誌代が高いような印象だけれども、そのうち9ページがJATP関連記事で占められて、
表紙もジーン・クルーパと並んで微笑むジョージ・川口である。


[わが国でジャズのコンサートが漸く最高潮に達して来た時機と合致してJATPが来演した…]で始まる
野川香文氏の『J.A.T.P滞日の10日間』によると、
来演の影響で日比谷、共立、日劇などの入場者が減り主催者側は軒並み欠損していた、らしい。
(*日比谷=日比谷公会堂、共立=千代田区一ツ橋にある共立女子大学の講堂で規模・設備に乏しかった戦後音楽関係のメッカになっていた)
1953年はルンバの王様:ザビア・クガー、黒人コーラス:デルタ・リズム・ボーイズが来日し、年末にはサッチモが予定されていて〈お小使い〉を倹約しなくてはならない。
いつでも聴ける国内ミュージシャンが〈とばっちり〉を受けた構図だ。
渡辺弘とスターダ・スターズ・シンフォニック・オーケストラの日比谷公会堂は税込200円、共立講堂のトップ・ジャズ・コンサート(ブルーコーツ、キューバン・ボーイズほか)が250円という広告があった。
200円~250円は、かなりの負担だったと思う。
JATPのチケットがいくらだったか記述がないけれど、〈入り〉はそれほどでもなかったようだ。

同号に、この年度から読者投票に加え批評家によるポール・ウインナーを設定したD.B(ダウン・ビート誌)を、牧芳雄氏が解説する特集があり、
そのなかにピーターソンに係わる論評がある。
[今度J.A.T.P.の来演で私が最も感銘を深くしたのはピータースンとカーター(注:ベニー・カーター)だが、正直なところ私は今日彼のナマを聴く迄オスカーを過小評価していた事を恥じるものである…中略…リズムの力強さと云い、指使いの正確無比と云い、フレーズを作る感覚と云い非の打ちどころがない…成程彼がバッド・ポウエル以上に置かれても、これは当然のことだろう。そしてアート・テイタムというヴェテランがたった三点の差でオスカーに従っているのは流石である…](カナ表記は原文ののまま)
牧さんの分析は部門別順位に触れていないが、批評家と読者では人気に違いがある。
批評家:①オスカー・ピーターソン(53票)②アート・テイタム(50票)③エロール・ガーナー(40票)…バッド・パウエルはデイブ・ブルーベックと4位タイ(20票)
読者:①オスカー・ピーターソン(1136票)②デイブ・ブルーベック(613票)③バッド・パウエル(586票)…⑤エロール・ガーナー⑥アート・テイタム。

日米ジャズ評論家が注目したピーターソンとテイタムについて、こんなエピソードがある。
[10代のピーターソンが女の子を集めてはジャズらしいものを弾いていたとき、何も言わずに見ていた父が自惚れをたしなめるため、
“お前に聴かせようと買ってきた”と、レコードをかけた。
アート・テイタムの「タイガー・ラグ」だった。
最初は連弾かと思ったが一人で弾いていると知って大ショック。
一か月以上、ピアノに近寄れなくなってしまった]

初めて尊敬するテイタムに会ったのは、20代中ごろ。
完璧主義者というイメージから想像できないけれど、
〈おふざけ〉得意なピーターソンのアクションを4コマ漫画風にまとめると、
1.ワシントンのルイス・アンド・アレックス・クラブで演奏していたとき、
「見ろ!オスカー・ペティフォードがいるぜ」と相棒のレイ・ブラウンをからかった。
(注:ペティフォードはD.B誌評論家投票でブラウンより上位のベース奏者)
「彼がなんだってんだい」…むきになるブラウン。
2.ピーターソンがアート・テイタムをネタに、しっぺ返しを食う。
「テイタムが来てるぞ!」とブラウンが脅かす。
「それがどうした!」…冗談にテイタムのフレーズを真似する。
 (何度もそんな言い合いを続け)
3.ある晩、「エアメイル・スペシャル」を弾いているとき、
「アートが来ている!」
「駄目、駄目!」…その手に乗らず…恰好までそっくりに弾きまくる。
「違うんだってば!本当に来てるんだ、バー・カウンターを見ろよ」
4.振り向くと…□?■?↓×↑…居た。
「ン!」ビビッて曲は…オ・シ・マ・イ。
続きは『ザ・グレイト・ジャズ・ピアニスト/レン・ライオンズ著:塩川由美訳』(音楽之友社)を引用する。
Q:そのクラブの仕事は、それっきりですか?
A:アートは演奏しろと言ってくれたけど、“とんでもない、どうぞ忘れてください”
そしたら、ブルースを1コーラスしか弾けない男の話をしてくれた。
もっと弾いてくれと言われれば、同じコーラスを何遍も繰り返し弾いた。
男は自分のやれることを全て聞かせてくれたのだ。
そこで僕はピアノに向かって「ティー・フォー・トゥー」を2コーラス弾いたんだ。
それが、僕のやれる全てだった。
次にアートが弾いたけど、聴いて参ってしまった。
Q:その後、テイタムとは何度か会ったんですか?
A:ずいぶん親しくなっても恐怖症が残って、彼がいると弾けなくなっちゃうんだ。
“オレがいるとやりにくいんだったら、遠慮するよ。きみには演奏して貰いたいからな”
しばらく経って、L.A.のどこかで演奏していたとき、客席から“明るくやれ、オスカー・ピーターソン!”と、声が聞こえたんだ。
アートの声と分かっても気にならなかった。
乗り越えられたんだよ。

Q:あなたデビューさせたのは誰ですか?そして、手始めに何をやりましたか?
A:JATPのノーマン・グランツで、皮切りは49年のカーネギー・ホールでのコンサートだった。
ノーマンが最初に僕の演奏を耳にしたのは、RCAのレコードだったが、
ノーマンは全然気に入らなかった感じだった。
(注:47年12月15日、カナダで録音したピーターソン・オリジナル「オスカーズ・ブギ」ほか)
2回目、プロモーションでモントリオールに来ていたノーマンが帰るため空港に向かっていたタクシーのなかでラジオ放送を聞いたんだ。
レコードだと思った彼は、ピーターソンの生中継だと知り引き返すよう頼んだ。
(注:『ジャズ・オット』のインタビュー集で、その時の演奏はもちろんブギ・ウギではなくもっとメロディックな曲だったとピーターソンが答えている)
Q:全てはそのタクシーのおかげというわけですね。
A:そこから全てが始まった。

このエピソードには《オチ》がある。
「なんというレコードかね」
「レコードじゃありません。“アルバータ・ラウンジからの中継です”」
「直ぐ車をそこに引き返すんだ」
三十一歳の新進プロモーターと二十四歳の黒人ピアニストの劇的な出会いであった。
あとになってピーターソンはラウンジから降りてきたスエード靴を見て、ノーマン・グランツであることがわかった、と語った
『油井正一のジャズ名盤物語:FM選書』(共同通信社)より。

「マイ・リトル・スエード・シューズ」というスタンダード・ナンバーがある。
チャーリー・パーカーがスエード靴を愛用していたノーマン・グランツに捧げた曲として知られている。
      Chalie Parker and His South cf the Border Orchestra

パーカーほど〈好き・嫌い・解る・判らない〉アレルギーで迷うアルバムはない。
多くの識者ご推薦ダイアル、サボイ盤をさしおいて申し訳ないけれど、
音質もよく、見た目も整然なバーブ盤から耳慣れるとよい。
グランツのバーブ30センチLPレコードは、MGV-8000から始まる。
そして、8010まで11連作がパーカーのアルバムだ。
  MGV-8000 The Charie Parker Story #1
             8001 The Charie Parker Story #2
             8002 The Charie Parker Story #3
             8003 Night And Day
             8004 April in Paris
             8005 Now's The Time
             8006 Bird And Diz
             8007 Charlie Parker Plays Cole Porter
             8008 Fiesta
             8009 Jazz Perennial
             8010 Swedish Schnapps
(*パーカーが苦手な方でもこの中の1枚はお持ちではないだろうか)
『Fiesta(MGV-8008)』は、
レギュラー・カルテット/クインテットにボンゴ、コンガを加えた51年と52年の2セッション全12曲を録音順にまとめた異色のフィエスタ(お祭り)アルバムである。
どうもラテン・パーカッションの入ったジャズを軽視し過ぎる傾向は残念だが、
ここは、サービス精神旺盛なパーカーの色と光が眩しい演奏を聴いていただきたい。
「ティコ・ティコ」「ラ・クカラッチャ」「エストレリータ」の名曲ほか、コール・ポーターの「ビギン・ザ・ビギン」やスタンダード曲「ホワイ・ドゥ・アイ・ラブ・ユー」など…
51年のセッションで1曲目に録音された「マイ・リトル・スエード・シューズ」は、LP(=CD)の最後12曲目に収められている。
グランツを敬愛して真っ先に演奏したのだろう、
そして、アルバムの締めに置いたグランツも、慎ましい。
なお、録音曲数最多のピーターソンに、
♪「マイ・リトル・スエード・シューズ」のレコーディングはない…(*^。^*)

1944年に旗揚げしたJ.A.T.P.は毎年アメリカ国内、カナダなど57年までに18回巡演。
その後も10年間断続的にツアーし、
52年春からヨーロッパにも定期的に訪れた。
しかしアルバムとして残っているのは(編集盤も含め)僅かで、現在は入手困難な状況にある。
最高メンバーを集めた絶品ステージを聴くチャンスが殆ど無いことが、J.A.T.P.を不人気にしている一因かもしれない。
グランツ艦隊(クレフ、ノーグラン、バーブ、パブロ盤)の日本母港ポリドール・レコードは、83年(昭和58年)が最強だった。
箱入り3LP『40年代のJ.A.T.P.』『50年代のJ.A.T.P.』『J.A.T.P.イン・トーキョー』
2LP『J.A.T.P.コレクション』
『J.A.T.P.イン・ストックホルム ’55』『クシュ/J.A.T.P.イン・ヨーロッパ』『J.A.T.P.アット・モントゥルー ’75』『J.A.T.P.アット・ザ・サンタ・モニカ・シビック ’72』
の陣容。
ただ、83年はレコード文化の改新(アナログ→デジタル)直前に当たり、翌84年からジャズ・レコード・カタログにCDが登場。
初年LP>CD比率が85年には拮抗、86年遂に逆転されている。
CD時代になって総べてのLPが復刻されないのは致し方ないとしても、
1944年7月2日の記念すべき第1回、パーカー参加の46年、52年:ピーターソン・カルテットが加わったカーネギー・ホール・セッションなど、
常に聴きたいと思はないか?

知人のS氏は、長い間『JATP・イン・ヨーロッパ』を探されていた。
原盤は、1960年11月21日、ディジー・ガレスピー、キャノンボール・アダレイ、J.J.ジョンソン、スタン・ゲッツ、コールマン・ホーキンスなど17名のスターによる、
スエーデン・ストックホルムのコンサートハウスで催された正味2時間50分に及ぶ18曲のライブ。
アメリカ・バーブ4連番(V-8539,40,41,42)でリリースされた。
ポリドール・ジャズ・レコード・カタログに載っている『クシュ/……』は『JATP・イン・ヨーロッパ
 V-8542に相当する。

♪クシュ(Kusu)
ガレスピーのオリジナル。
18曲中一番長い演奏。
初出がこの『イン・ヨーロッパ』で、60年代盛んに録音されている。
英文ライナーノーツには曲名由来が記述されていないけれど…
レオ・ライトのフルートが新しい一日の夜明けを、続いてガレスピーはミュートで祈りを捧げ、多忙な日常が始まる。
ハイ・ノート・ガレスピー、かってない激昂のゲッツ、あやしいほど平然なジョンソン、
陽が落ち再びミュートが感謝を唱える。
強く弱くアート・デイビス(b)チャック・ランプキン(ds)はナイルの波音…だろうか。
紀元前、北アフリカで繁栄した[クシュ王国]をイメージする起承転結の演奏だ。
ポリドールが『クシュ/……』1枚だけ発売したのも、うなずける。

一意専心、S氏が手を尽くし見付けたのが埋蔵盤復活の、
『J.A.T.P.Complete Live In Stockholm /Novenber 21,1960』である。

苦労した以上の〈祝福〉もあった。
Solar Records(Made in EU)という初耳レーベルが、
オリジナル:バーブLP4枚を連番通りCD3枚ボックスに収め、余裕トラックにボーナス曲を追加して2011年に発売した。
LPからCDに移行するさい〈おまけ〉みたいに別テイクやお蔵入りした演奏を付けた〈そんじょそこら〉にあるボーナスとはわけが違うのだ。
『スヰングジャーナル』(1957年7月号)に[JATPヨーロッパへ]という小さな記事があった。 
“ノーマン・グランツのJATPが欧州に飛び、4月20日のストックホルムを初演奏として、スカンジナヴィア、パリー、チューリッヒ、ドイツ、イタリー、アムステルダム、ブラッセルと演奏をつづける。今回のJATPはいつもより小さい編成で、エラ・フィッツジェラルドを看板に、オスカー・ピーターソン・トリオ、ジョー・ジョーンズ、ロイ・エルドリッジ、ヴァイオリンのスタッフ・スミスの面々である。”
もっとも詳しいFini-Rigazioのピーターソン・ディスコグラフィーに、スエーデンのTaxというレーベルでエラの珍しいジャケット写真が掲載されている。

1957年に渡欧した際の、ディスコグラフィーに未発行とされ・演奏者所属レコード会社のアルバム・リストにも載っていない〈微妙な存在〉のLPである。
主なミュージシャンがバーブ専属のためローカルに流通した〈幻の盤〉だったのかもしれない。
現物を見てないけど、A面が4月28日のピーターソンでB面は29日のエラのステージと思われる。
A:オスカー・ピーターソン(p)ハーブ・エリス(g)レイ・ブラウン(b)ジョー・ジョーンズ(ds)ロイ・エリドリッジ(tp)スタッフ・スミス(vln)
グランツの采配が冴えている。
先発:エルドリッジの3D。
♪「アンディサイテッド」…ミュート・トランペットで高音連発のエキサイト。
♪「エンブレイサブル・ユー」…オープン・トランペットのスイート・バラード。
♪「スクール・デイズ」…8ビートでポピュラー・ソングを歌う
中継ぎ:ジョー・ジョーンズの独り舞台(このコンサートで一番長い演奏)
♪「レスター・リープス・イン」…シンバルを叩かず太鼓に徹した繊細テクの6分17秒ドラム・ソロ。
抑え:ピーターソンのバイオリン初共演。
♪「ムーンライト・イン・バーモント」…忍び寄るピアノに4弦ボーイング、ピチカートが続く。
♪「ビューグル・コール・ラブ」…ビバ・ニューオリンズ・ジャズ。
この6曲がボーナスの実態なのだ。

ピーターソンは数多くの作曲家作品集を発表している。
コール・ポーター、アービング・バーリン、ジョージ・ガーシュイン、デューク・エリントン、ジェローム・カーン、リチャード・ロジャース、など十大作曲家(ここだけの修辞)の名曲が聴ける。
ピーターソン・トリオは1950年代=ピアノ・ギター・ベース、60年代=ピアノ・ベース・ドラムスのフォーマットに分かれている。
厄介なのは、これらのスタンダード・ナンバーを両方のレギュラー・トリオで残しているのだ。
年代を逆に説明すると、
6年間、三位一体だったハーブ・エリス(g)が脱退するという痛手を受け、ピーターソンは替わりを探したけれど彼以上のパートナーが見つからず、
新たなアプローチでドラマーを加入させることになった。
ニュー・トリオはワン・ポイントのジーン・ギャメイジ(『マイ・フェア・レディ』の(ds)を経て、
1959年春からエド・シグペンが座るザ・トリオが、ピーターソン名盤群の核になったのである。
 
結成したばかりのザ・トリオ:ピーターソン(p)レイ・ブラウン(b)エド・シグペン(ds)で、
十大作曲家それぞれ12曲入った『ソング・ブック』(バーブ盤)がある。
メルル・ショア(Merle Shore)のファンタスチックなイラストでミニ画廊が出来そうなジャケットである。

    

このシリーズを黙視(黙聴?)する解説書が多いようだが、
1959年夏、シカゴ『ロンドン・ハウス』に4週間出演中、昼スタジオで6日間に120曲以上の録音を果たしたピーターソンの挑戦が聴き取れる。
ブラウンの役割、シグペンの立場を確立したメモリアル・セッションだと思う。

カレンダーを50年代頭に戻すと、既にギター・トリオで『オスカー・ピーターソン・プレイズ』(クレフ盤)10枚の吹き込みがあった。
初めの1年はギターをバーニー・ケッセル、1953年からハーブ・エリスが前述のザ・トリオ誕生まで務めている。
特にエリスが在籍した5年間は、
ピーターソンが“私一人じゃなくグループで作りたい音を見つけたのは、このグループが最初だった”と語っているほど、それまでピアノ中心だったサウンドが三人対等の刺激で演奏するようになった彼の存在が、大きい。
それなのに筆者は、
見るだけでも価値を上げるディビッド・ストーン・マーティン(David Stone Martin)の《
背を向け左手を鍵盤に激しくタッチしている》イラストを色違いで統一したLPを、
お目にかかったことが、無い。

    

同じ時期の『ノーマン・グランツ・ジャム・セッション』シリーズは一部の輸入盤・国内盤は見かけても、
これは背を向けっぱなしだった。
ピーターソン・ギター・トリオ時代(1951~58)のケッセル、エリスをまとまって聴けるチャンスを隠匿する理由は、何だ?

S氏発見のソーラーは、やはり〈そんじょそこら〉のレコード会社ではない。
有りそうで無かった[2イン1]CD…同じコンポーザーの『ソング・ブック』『プレイズ』シリーズをカプリングしていた。
両シリーズは収録曲がほぼ同数で重複しているのも多いので、よくある別テイクを比べるのと全然違う。
ただ、アービング・バーリン、リチャード・ロジャース、ハリー・ウォーレン&ビンセント・ユーマンス、ジミー・マクヒューしかないのが、不満だ。
ジョージ・ガーシュイン・2イン1は、他のEUR盤がある。
ジャケット・デザインは『ソング・ブック』だが、20曲以上のCDを探したら、
《しめた!》
2イン1 だよ!
そうはいっても、レコード店(CDショップというべきかも)は、あまりにも無残…
《棚にあるものだけ》

        “詳しくはウエブでどうぞにゃ困っちゃう”
            (毎日新聞脳トレ川柳句)       おわり

 

【付録】
ピーターソンとバイオリンのコラボレーション
◆ステファン・グラッペリ
出会いはパリだった。
1973年、ジョージ・ムラーツ(b)に代わり重用したデンマーク出身ニールス・ヘニング・エルステッド・ぺデルセン、パリに定住していたケニー・クラーク(ds)のメンバーで『ジ・オスカー・ピーターソン─ステファン・グラッペリ・カルテットvol.1&2』を録音した。
第2次世界大戦前からフランス・ホット・クラブ五重奏団で広く知られているジャズ・バイオリンの第1人者グラッペリはこの年65歳。
いつものウイットに富んだピーターソンもパリ生まれパリ育ちのエスプリに押されっぱなし。
原盤は、America-6129,6131(フランスのレコード会社)
2005年、「ジャズ・イン・パリ」というシリーズでジャケット・デザインを心象のパリ風景に改めCD化した。
ますますピーターソンから遠ざかった気がしたが…現在それも廃盤。
◆イツァーク・パールマン
イスラエル出身、20世紀最も偉大なバイオリニストの一人と称せられるパールマンと71歳になったピーターソンの『サイド・バイ・サイド(日本語副題:我が心のジョージア)』(テラーク:1994年録音)がある。
ピーターソン(p)パールマン(vln)ハーブ・エリス(g)レイ・ブラウン(b)グラディ・テイト(ds)
クラシックがすり寄ったのではなくジャズが媚びたものでもない。
パールマンの【艶】にピーターソンが【光彩】を放った最晩年の代表作である。

            
    枯葉                  わが心のジョージア
◆ユーディ・メニューイン
ユダヤ系アメリカ人で英国に帰化して貴族の称号を授与されたバイオリン、ビオラ奏者。
1980年英国BBC・TV『ワーズ・アンド・ミュージック』出演記録がある。
            

 

  

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続ジャズ音故知新:オスカー・ピーターソン

2015-03-12 | 音楽

オスカー・ピーターソンは、1953年(昭和28年)11月、JATPの一員として初来日した。
昭和28年といえば既に第2次世界大戦終結から8年も過ぎているのだけれど、
まだ激変の世相だった。

「戦争も大変でしたが、戦後ですよ。
5年以上は続いたと思います。
日本全体が貧乏で飢餓状態でした。
甘い物が欲しいと思うと歯磨き粉をなめたり、夢に見るのはいつも大福だったり、
バナナを食べることができるなら死んでもいいと思いました」(仲代達矢:談)…毎日新聞夕刊(平成27年1月13日)より。
とうてい信じられないだろうが、かなり食糧事情が良くなってもバナナは、縁のない高級果物だった。
一生に一度、5~6本に小分けされていない半円形に広がる塊ごと胡坐(あぐら)に乗せ、食べまくってみたい…と少年時代を思い出し、
ぐ~んと、仲代さんを身近に感じた。

昭和28年。
NHKテレビが2月に本放送開始、8月には民放のトップをきって日本テレビも開局した。
テレビ受像機はべらぼうに高価で、NHKに都内で受信契約したのは僅か660件あまりだった。人々は盛り場に設置された日本テレビ専用の街頭テレビを見上げ首を痛くしながら、プロレス、ボクシングなどを観戦するしかなかった。
で、庶民の娯楽はもっぱらラジオ。
“忘却とは忘れ去ることなり…”2字熟語を訓読みに講釈した?ナレーションのNHKラジオ・ドラマ『君の名は』が、このころ、毎週木曜日の夜8時台は銭湯の女湯がガラすきになる社会現象にもなった。
大賞イベントは、まだ、なかったが、
「八頭身美人」「お今晩わ」「家庭の事情」などが流行語になった。

みなさんは、軽音楽という言葉をご存知でしょうか。
[軽音楽 light music]…現在では、ポピュラー・ミュージックという言葉のほうが一般的である。クラシック音楽のように芸術性を重要視せず、聴きやすい、大衆的な音楽といった意味。ジャズ、ロック、ポップスなど](音楽単語解説集/リットーミュジック:1982年刊)
ここではアンダーライン部分の是非は、さておいて、「ジャズ、ロック、ポップスなど」の解説には少し補足しておきたいと思う。

正から昭和10年代のダンスホールを中心に沢山のジャズ・バンドが活躍していた。
日華事変が始まり、太平洋戦争に拡大するなか【ジャズ】は、
敵性音楽とみなされ【軽音楽】に変えられてしまった。
軍歌以外の曲をかけるときは、蓄音機(ゼンマイ動力のSPレコード専用)に布団を被せ音が漏れないようにして聞く、まるで隠れ切支丹。
不可解なことに日米戦最中、ドイツの楽団が演奏していれば、パス。
昭和20年8月15日以後の大中小改革のうち、軽音楽解放が、どれほど嬉しかったことか!
ラジオでAFRS放送(進駐軍向け…後のFEN)を、こっそり聴いた…親にはバレていたかも。
2本立て映画にワクワクし、
まるで次週上映予告編という鎖につながれた無期囚人。

1947年に創刊された『スヰングジャーナル』(ジャズ専門の音楽雑誌)の巻頭は、
[わが國のSwing Music とDance は今始めて公然と自由に研究出來る時が來た…後略…]という發刊の辭がある。
因みに、創刊号はB5判・20ページ・定価20円・表紙ビング・クロスビー。
 【蛇足の注】スイングの表記〈イ〉が〈ヰ〉であったり〈国〉〈来〉〈発〉〈辞〉などが旧字体のところが、“文化”遺産かも。
創刊号と第2号に付いていた[ダンスとスヰング・ミュージック]のサブ・タイトルどおり数年の間、ダンスに関した記事が多く載っている。
これは、戦時中雌伏していたミュージシャン達が、早くも東京、大阪など大都会のダンスホール、キャバレーや米軍用ホテル、キャンプなどで活動していたことの実証だろう。

                        

                     創刊号                                          第2号         

 また、戦前刊行されていた雑誌『ダンスと音楽』も1949年に復活。
ダンス・バンドの消息ほかジャズ・レコード紹介でも『スヰングジャーナル』を凌駕していた。
映画も終戦翌年から日本映画をはるかに上回る洋画が公開されている。
圧倒的にアメリカ映画だった。
映画の主題曲がラジオから奔流のように流れ…
東京エリアで1954年までに民放ラジオ局が出揃い沢山の音楽番組が生まれている。
NHKは“軽音楽”というタイトルが多く、民放局は“**アワー”の冠で競った。

初めてのジャズ洗礼が「ブギウギ」で、日本の流行歌も追従した。
社交ダンス・競技ダンスが盛んになりスイング・ジャズ、ブルースが好まれ、
ドリス・デイ、ナット・キング・コールなどボーカル・シングルがヒット…
カントリーウエスタンも人気があった。
しかし、軽音楽といえば、
ジャズより映画音楽、ハワイアン、タンゴ、シャンソン、中南米音楽などを指し、
ポピュラー音楽や、ジャズがポピュラー音楽の主役になるのは、
少し後になってからである。

『JAZZ歴史・スタイル事典』(別冊スイングジャーナル)の1953年ページを開くと、
◇バップ時代最後の饗宴マッセイ・ホール・コンサート開催(5月)
◇ファンキー・ジャズの原点「オパス・デ・ファンク」 誕生!〈10月)
◇BIG 4 DEBUT!ビッグ・フォー結成、日本一の人気バンドになる(5月)
◇ピーターソン、ギターにハーブ・エリス迎える(9月)
◇JATP初来日!〈11月)
◇“ジャズ大使”サッチモも初!来日12月)のレイアウトである
“軽音楽”全盛の時期に、
JATPとサッチモ(ルイ・アームストロング)が来日して、どんな“衝撃”を受けたのだろうか?
それこそJATPはジャズ界の〈黒船騒ぎ〉だったに違いない(筆者の独断)ものの、
チャーリー・シェイバース(tp)フリップ・フィリップス(ts)ビル・ハリス(tb)を知っていた人がどのくらい居たのだろうか?
昭和ひとけた世代以前生まれで、ウディ・ハーマン、ベニー・グッドマン、トミー・ドーシー・バンドがお好き方?かな~。
いきなりダウン・ビート誌ピアノ部門でポール・ウイナーになったオスカー・ピーターソン(p)にしても、カナダからスカウトされてまだ数年しか経っていない。

ここからが本題──
“ミナサン コンバンワ コノタビ ハジメテ JATPガ ミナサンノトコロニ マイレマシタ…”
ノーマン・グランツの日本語MCで始まるCDがある。
『J.A.T.P.イン・トーキョー~ライブ・アット・ザ・ニチゲキ1953』(パブロ・ライブ)
J.A.T.P.初来日を録音した正に〈ジャズ開化〉盤である。
ミュージシャンの専属関係とかあって、箱入り仕様LP3枚組で発売されたのは、18年後の1971年だった。
2枚ディスクのCD化はさらに17年後、そして現在…まさかの廃盤中。

  《お立合い!聴いてビックリ音故知新の玉手箱だよ》
J.A.T.P.というのは…昭和29年1月、つまり初来日直後に刊行された音楽書『ジャズ・タンゴ・シャンソン/婦人画報社』にちゃんと記述されていて、ビックリ。
解説のジャズ河野隆次・服部龍太郎、タンゴ高橋忠雄、シャンソン松本太郎氏のお名前を懐かしいと思はれる方は軽音楽世代。
[J.A.T.P. Jazz At The Philharmonic
1944年ジャズ評論家のノーマン・グランツが、彼のお気に入りメムバァをあつめて、ロス・アンゼルスのフィルハァモニイ公会堂で、ジャム・セッションを行った。これが大へんに当たり、この企画が流行されることになったが、このフィルハァモニイ公会堂は、それまでクラシカル音楽のみに開放されていた公会堂で、ジャズ演奏はそのときが初めてであったところから、フィルハァモニイ公会堂におけるジャズ─ジャズ・アット・ザ・フィルハァモニック─をとって、グランツ企画のタイトルとしたのであった。このジャム・セッションはコンサート・ジャズの流行と共に非常な人気を呼び、アメリカ各地はもとより、遠く欧州、日本までも足をのばしている。](河野隆次)

グランツは、50年代に入って自己のレコード会社グランツ・レコード(後、クレフ~ノーグラン~バーブ)を、1973年にはパブロ・レコードを設立して、マネージメントしているエラ・フィッツジェラルド、オスカー・ピーターソンはじめ多くのプレーヤーのために沢山のアルバムをプロデユースした。
『J.A.T.P.イン・トーキョー』第1部の1曲目は、
「トーキョー・ブルース」(作曲:R.エルドリッジ、B.カーター、F.フィリップス、O.ピーターソン、H.エリス、J.C.ハード)、なに?それって
初出LPでは「トーキョー・ブルース」ではなく、
「ジャム・セッション・ブルース」のタイトルだった。
つまり、即興的な曲で、演奏するほうも鑑賞するほうも、ハジメテ。
  (LPとCDでは他にも曲名が変更されている)
ピーターソンとJ.C.ハード(ds)が、劇場中の耳と目をひとまとめにしてノーマン・グランツ・ショウの幕が上がった。
ルールの知識がなくっても、5時間を超える競技に目が離せないスポーツがある。
贔屓の大学が気になってテレビから離れられない…箱根駅伝だ。
ジャム・セッションの醍醐味も同じようだ。
交通機動隊員:ピーターソン、ハードに先導され第1走者:フリップ・フィリップス(ts)…すいすいスグ、
チャーリー・シェイバース(tp)~ウィリー・スミス(as)~ビル・ハリス(tb)と襷をつなげ、
リズム・セクションは沿道の大応援団。
ベン・ウエブスター(ts)…ゆうゆうスイング、
ベニー・カーター(as)…伴走車ハードが、ピーターソンが、声をかける。
クイック・クイック:ロイ・エルドリッジ(tp)は区間賞の快走、
ゴールで待ち受けるフロント、リズム・セクションと大合奏。
優勝タイム:25分13秒。
2曲目「コットン・テイル」
♪コットン・テイルの初出は、1940年5月4日録音のデューク・エリントン&フェイマス・オーケストラで、フィーチャリング:ベン・ウエブスターだった。
ピアノのイントロからテーマを受け、ウエブスターの艶麗なソロと流麗なフィリップスのテナー・バトル、ハリスの華麗な間奏、エルドリッジvsシェイバースのチェイス・ラリー、
壮麗なエキジビション・マッチである。
3曲目はバラード・メドレーの絶品ア・ラ・カルト。
♪1「ニアネス・オブ・ユー」:メランコリック・ハリス(tb)
♪2「サムワン・トゥ・ウォッチ・オーバー・ミー」:ロマンチック・ウエブスター(ts)
♪3「フラミンゴ」:センチメンタル・カーター(as) 
♪4「アイ・サレンダー・ディア」:ブライトリー・エルドリッジ(tp)
♪5「スゥイート・アンド・ラブリー」:ブルージー・フィリップス(ts)
♪6「スターダスト」:ファンタスチック・スミス(as)
冒頭で2度拍手がある…
ラジオで盛んに放送されていたし、
直前にライオネル・ハンプトン不朽の名盤『スターダスト』(デッカ)が発売され、周知の曲。
 
          

♪7「エンブレイサブル・ユー」:ドリーミー・シェイバース
4曲目「アップ」(作曲:R.エルドリッジ、B.カーター、F.フィリップス、J.C.ハード
また下線付きの曲。
♪アップは初出LPで「J.C.ハード・ドラム・ソロ」のタイトルであった。
詳しいFini-Rigazio(イタリア版)ディスコグラフィーには「J.C.ハード・ブルース」になっている。
ドラム・ソロ~リードとリズム・セクションのイントロから、ハードの4分20秒七変化ソロ。
途中、3回も拍手を貰って第1部が終了する。

第2部は、セレクト・コンボの競演。
Ⅰオスカー・ピーターソン・トリオ
  ピーターソン(p)ハーブ・エリス(g)レイ・ブラウン(b)
5曲中、2曲目の「テンダリー」はピーターソンが生涯で最も多くアルバムに残したナンバーであり、アメリカでのデビュー盤『テンダリー』(バーブMGV-2046)では、ブラウンとデュオ。
注目の曲は、2枚目CDトップ、ピーターソンのオリジナル「スシ・ブルース」である。
これも、LPで単に「ブルース」というクレジット。
前述のディスコグラフィーは、丁寧に「ブルース・フォア・トリオ(スシ・ブルース)」。
アップ・テンポでピーターソン~エリス~ブラウンの粋なソロ!
タイヤ・メーカー・グルメ本の《星》より、
《輝》く…ってもんさ。
 【蛇足の注】
面白いことに4回実存する「スシ・ブルース」が、総べてライブ。
東京:簡易保険ホール(1987年2月28日)のピーターソン・コンサートDVDで、
極上の《握り寿司》が観られる。
ピーターソン(p)ジョー・パス(g)デビッド・ヤング(b)マーテイン・ドリュー(ds)のビッグ・フォー。
ずっと曲名紹介なしで進行してきたけれど、11曲目「イフ・ユー・オンリー・ニュー」が終わり立ち上がって深々とお辞儀し、椅子に坐り直すと、
右手にマイクを持ち左手で演奏しながら、
この曲だけ、「…スシ」と。
曲の後半、ピーターソンとパスのチェイスは《カラミ》が、きき過ぎる。
興味のある方はYou Tubeでどうぞ!
Ⅱジーン・クルーパ・トリオ
 ベニー・カーター(as)ピーターソン(p)ジーン・クルーパ(ds)
クルーパ・トリオの特徴は管楽器奏者とピアノ、ドラムスである。
ピーターソンには初めての編成だがこのメンバーで「インディアナ」「サボイでストンプ」が共演済だった。
既にベニー・グッドマン・バンドのスターであった44歳のクルーパ、
映画音楽に実績がある46歳:カーターをサポートするピーターソンは…多少気を遣ってもピーターソンはピーターソンである…27歳。
圧巻は「サボイでストンプ」
テーマのあと4分超ドラム・ソロ、4回も拍手・指笛の大声援。
ちょっと猫背に構えスティックを廻したり・上に突き上げたり、ハデ・ハデ・パフォーマンスに、
満場が歓喜したのでは(*^。^*)
このコンサートが〈ジャズ黒船騒ぎ〉だったに違いないと思う、もう一つは、
エラの来日だった。
戦後の軽音楽界は「センチメンタル・ジャーニー(1947年)」「アゲイン(48年)」「ブロードウェイの子守唄、トゥ・ヤング(52年)」のドリス・デイが女王に君臨してきた。
52年は女性歌手の当たり年…
ドリス・デイ「二人でお茶を」ほか、
「火の接吻/ジョージア・ギブスン」「セ・シ・ボン/アーサー・キッド」「テネシー・ワルツ/パティ・ペイジ」と、
「ハウ・ハイ・ザ・ムーン/エラ・フィッツジェラルド」などがヒット・チャートを賑わしている。
53年度ダウン・ビート誌批評家・読者人気投票1位…のエラが、
ジャズ・シンンガーの先鋒としてお目見えし、
しかも、初めて驚愕・究極のスキャット唱法を披露したのだから。
奇しくも、翌12月にはスキャット創始者のルイ・アームストロングが、来日した。
Ⅲエラ・フィッツジェラルド&カルテット
  フィッツジェラルド(vo)レイモンド・チュニア(p)ハーブ・エリス(g)レイ・ブラウン(b)J.C.ハード(ds)
“ツギハ…サイコウノ ウタイテ デス ドウゾ エラフィッツジェラルド”
拍手で迎えられた♪「オン・ザ・サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート」…イントロと同時に手拍子、1曲目から熱い…
続いて♪「ボデイ・アンド・ソウル」(スタンダード・ナンバー1位)は、涼しげなバラード…場内カロリーが一変する。
野川香文氏のレポートに
[フィッツジェラルドは、舞台のソデで椅子にもたれてトリオをききながら、自分の唄う曲をきめて、チュニアに話したが、ステイジに出ると、これが急に変更され、予定より数が減ったり増えたりした…]
CDはF.Oで終わりF.Iで始まる部分が2か所あるので、
3回の録音分から〈精選エラ〉の9曲というわけだ。
1曲ブルース(♪3)をはさみ、
エラ18番♪4「レディ・ビー・グッド」の渦潮スキャットは、拍手が間に合わない。
♪5エリントン・ナンバーのバラードがプログラムに緩急の妙をつけ、
♪6「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」
原詩(1940年ベニー・グッドマン・オーケストラ演奏、ヘレン・フォレスト歌でヒット)どおりミディアム・テンポで唄ったエラが奇想天外なフェイク(くずしかた)で、
満場を圧倒している。
アドリブ歌詞に次いでスキャットに入っても…直ぐに拍手できないほどの奇襲だった。
1947年9月、カーネギー・ホールで15ピース(5tp、2tb、2as、2ts、1bs、3rhythm)を従えて創唱した「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」(未発売)は、
30回を超えるセッションの殆どが、ライブである。
何時ごろのライブでドッキリ・スキャットになったか、
ひょっとして日劇からって?わけ、ないよね。
筆者の未熟を晒すようだが…スキャットは、毎瞬時即興だと思っていた。
ところが、
代表盤である『エラ・イン・ベルリン』(1960年バーブ)
『エラ・アット。モントゥルー』(1975年パブロ・ライブ)
を聴くと、
エラの光速シンキングは、日劇盤がベースになって、アドリブ歌詞の省略・順不同、引用フレーズが微妙に違うだけの、異母姉妹のスキャットではないか!

       
 エラ・イン・ベルリン          エラ・アット・モントゥルー
 【蛇足の注】
*『日劇』『ベルリン』『モントゥルー』3枚ともグランツ制作。
*ヘレン・フォレスト(1917.4.12-99.7.11)は、アーティ・ショー、ベニー・グッドマン、ハリー・ジェイムスのビッグ・バンドで人気歌手。1942年ダウン・ビート誌読者人気投票女性シンガー第1位。男性1位はフランク・シナトラ。
*You Tubeに、トミー・フラナガン(p)とデュオでスキャットなしのクリスタル・エラ「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」あり…おそらく70年代初めころの映像。
♪7「マイ・ファニー・バレンタイン」(スタンダード・ナンバー6位)がフェード・イン。
スイートなピアノにハグされたエラが情趣こめて唄うバラード…硬から軟。
コンサートの〈うまみ〉が醸成される。
♪8「スムース・セイリン」(作曲:アーネット・コブ)
失礼な表現かもしれないが…この曲は、
スタンダード・ナンバー961位にランキングされている。
原曲に歌詞はない…が、
エラは楽しい“のり”で1曲まるごとスキャット・シンギング。
独自に“エラ語”歌詞をつけたともいえる。
コブは過小評価されアルバムも少ない。
同じテキサス州出身バディ・テイトとのサックス・バトルは、
ワイルド・ブロウ&ブロウを繰り広げている。
♪9「フリム・フラム・ソース」(作曲:レッド・エバンス作詞:ジョー・リカルデル)
1945年のナット・キング・コール・トリオ(キャピトルSP盤)が初出。
エラは原詩の途中から唄いだし短いスキャットをはさみ、ナット・コール盤で間奏する部分からサッチモの声色(ものまね)で残りの歌詞をうたい&スキャット…年の離れた妹のようだ(実妹ベアトリスさんは歌手だったかどうか知りませんけど)、
ラストは、昨年夏(1952年)大ヒットしたサッチモの「ツー・ツー・タンゴ」「火の接吻」(デッカ)を笑ってサービス。
この曲、1964年のデッカ盤で彼と共演していた。
先にサッチモ、続いてエラがうたい、間奏ボブ・ハガート・オーケストラ、最後はトランペット・ソロ。
サッチモ、エラの絡みはなくスタンダードな構成だった。
 【蛇足の注】
「ツー・ツー・タンゴ」(原題「Takes Two To Tango」)
「火の接吻」(原題「Kiss of Fire」)はアルゼンチン・タンゴ「エル・チョクロ」(作曲:アンヘル・ビジョルド作詞:エンリケ・サントス・ディセポロ)にレスター・アレン、ロバート・ヒルが英詩をつけた。
 *「エル・チョクロ」はスペイン語で「トウモロコシ」の意。

フィナーレは、
“一*一*”の「パーディド」で…R。
「パーディド」はプエルトリコ:ベガバハ出身のバルブ・トロンボーン奏者ファン・ティゾールがデューク・エリントン・バンドに在籍していた1941年暮に作曲、翌52年1月21日、エリントン・フェイマス・オーケストラで録音され、エリントンのレパートリーになった。
♪9「パーディド」
ピーターソンの弾く(はじく)イントロを静かに唄い継いだあと…エラ語を炸裂する…
スキャットの大詰め、「カム・オン・ベン!~カム・オン・ベン・ブロウ!」とベン・ウエブスターをマイクに呼ぶ、
ウエブスターは気品音を響かせ疾走するSLだ…
追いかけるフィリップ・フィリップスがオープンカーのアクセルを踏む。
グランツ・ショウは、
J.A.T.P.オール・スターズ全員合奏で終わる。

草稿中、クラーク・テリーの訃報に接した。
テリーが一番長く在籍していたデューク・エリントン・オーケストラで、
「パーディド」にフィーチャーされたアルバムがある。
『公爵演奏会』(ドクタージャズ:キング)
1957年6月、オールスター・ロード・バンドがペンシルバニア州キャロルタウンで録音したライブ盤である。

テーマのあと、直ぐテリーのリップ・コントロール良い陽気なフレーズ…
 リーダーを除く平均41歳の中で3番目の若さを謳歌(おうか)…
 直立不動・一点凝視・端正姿勢が、眼に浮かぶ。

セッション・メンバー15人全員は既に他界している。
クラーク・テリーも2月21日、逝った。
94本の灯(と mo しbi)が眩しい。             終

                          




 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ジャズ音故知新:オスカー・ピーターソン

2014-09-22 | 音楽

『ザ・レア・1971・トリオ・セッション/オスカー・ピーターソン』(SSJ・XQAM-1634)というCDがリリースされた。
タイトルに偽りなく〈ザ・レア〉である。

最も精緻なオスカー・ピーターソンのディスコグラフィー[JAZZDISCO.org]によると、
20歳(1945)~71歳(1996)までに297盤を残している。
凄い数に驚く一方で、感覚的にはそんなもんじゃあない…と思っていた。
297のうち四割強がリーダー盤でその半分近くがピアノ・トリオである。
筆者の〈ジャズ事始め〉は、ピアノ、ベース、ドラムスのトリオからであった。
ピアノ・トリオ入門といっても、ビル・エバンス、レッド・ガーランド、ケニー・ドリュー、ボビー・ティモンズ、ウイントン・ケリー、キース・ジャレット…だったり、ラムゼイ・ルイスでも、人によって入り口は様々。
ジャズに関して浮気性というか好奇心というか、専用の入り口を持たずアチコチ入ったり出たりの結果、ワンホーン・カルテット、三管編成、ビッグ・バンド、ボーカルのパラダイスにたどりついていった。

初期のピーターソン・トリオはピアノ、ベース、ギターの編成だった。
物の本(その方面の事が書いてある)によると、この編成は1943年暮のナット・キング・コールが発端。
しかし45年秋にはエロール・ガーナー(p)のトリオでベース、ドラムスの作品があり(もっと以前に存在するかもしれない)、50年代にはガーナ・スタイルが主流になっていた。
にもかかわらず、ピーターソンは58年の『マイ・フェア・レディ』を発表するまでナット・コール・フォーマットにこだわっている。
【蛇足の注】
『マイ・フェア・レディ』(バーブ:1958.11.18録音)は、ピーターソンのアメリカ・デビュー盤からの盟友レイ・ブラウン(b)とジーン・ギャミッジ(ds:名盤『ジス・イズ・パット・モラン』のドラマーだが経歴不詳)のピアノ・トリオ。

半年後、パリで録音した『フランク・シナトラの肖像』(バーブ)からレイ・ブラウン、エド・シグペン(ds)の黄金ピアノ・トリオ時代が始まった。
なぜ『A Jazz Portrait Of Frank Sinatra(フランク・シナトラの肖像)』というピーターソン・アルバム中で唯一トリビュートなタイトルにしたのだろう。
妙中俊哉さんは、
[フランク・シナトラは熱心なピーターソンのファンで、50年代から60年代前半、彼がカリフォルニアに来るたび、ビバリーヒルズの自宅に招きデュエットしていた…]ので、シナトラ愛唱曲集が生まれたのだろうと、
『ジャズ批評』誌に寄せられている。
作曲家ソング・ブック・シリーズ9連作:全108曲を、二日間で収録という前代未聞の快挙もあるピーターソン・ブラウン・シグペンの三位一体“ザ・トリオ”は、
〈不変無欠〉のまま『プリーズ・リクエスト/We Get Requests}』(1964)でバーブ時代終わるけれど、
6年間で22作品は数字以上の長さ、多さを感じる。
 *65年まで他レーベルでの録音あり

65年シグペン退団後、
レーベル移籍もあり、後継ドラマー、ベース&ドラムスやベース&ギターの組み換え、バイブまたはギター・カルテット、MPS盤の顔、モントルー・ジャズ・フェス連作、パブロ・ライブ・シリーズなど、ピーターソン・ユニットは〈縦横無尽〉の活動期に入る。

               『オスカー・ピーターソン/ザ・レア・1971・トリオ・セッション』
                        ジャズ・レジェンド・イン・ヨーロッパ Vol.6

    

    1.Stella by Starlight            パーソネル
    2.Let's Fall in Love    オスカー・ピーターソン(p)
    3.I Can't Get Started     ジョージ・ムラーツ(b)
    4.Alice in Wonderland    レイ・プライス(ds)
    5.I'm All Smiles               録音
    6.Cute                         1971年3月/ロンドンBBCスタジオ
 

どこが、どんな レア?かというと、
複数のディスコグラフィーを参照してもこのアルバムは存在しない。
つまり43年も眠ったピーターソンが目を覚ましてくれた訳だ。
アルバム発掘の経緯は、添付のライナー・ノーツを読んでいただきたい。
(隠れレア…このアルバムを制作したSSJレーベルは、ホームページでライナー・ノーツ全文が読める──www.sinatrajapan.com/)
ピーターソン・ディスコグラフィーに、70年には4枚のアルバムがあり、うち2枚は西独で録音されジョージ・ムラーツがJiri Mrazでクレジットされている。
さらに71年7月(日は不明)も同じスタジオの盤があり、まだJiri Mrazである。
しかし71年7月10日フランスで録音した『トリオ・イン・コンサート』では、ジョージ・ムラーツに替わっている。
70年11月から71年10月までアメリカでの録音がないので、『ザ・レア・1971…』はライナー・ノーツで紹介のとおりヨーロッパ滞在中に誕生したレア盤に違いない。
ジョージ・ムラーツは、1944年チェコ共和国ピーセック生まれ。
バークレー音楽院を卒業後ピーターソンに見いだされ初レコーディングしている。
“本名はJiri Mrazであり初期のレコーディングなどにはJiri Mraz の名でクレジットされているが…中略…Jiri 名義はニューヨークでの音楽活動初期時代の貴重な音源といえる”
“英語の発音では表現が違い、母国の発音で読むJiri が音としてジョージにちかいため通称名をGeorge に変更している”(ウイキペディアより)
そこで気になるのはJiri Mrazの読み方──
恥ずかしい限りだが筆者がムラーツを見直し(聞き耳を立てた)のは、
『四季/秋吉敏子』(1990:クラウン)からだ。
秋吉敏子(p)ジョージ・ムラーツ(b)ルイス・ナッシュ(ds)のトリオで、春から冬の名曲名演盤。
ライナーノーツに初めて(前例があるときはご容赦)ジョージ・ムラーツの本名について触れている。
“…ジョージ・ムラーツの本名はイルジ・ムラージュ、チェコの出身である…”
本番のライナー・ノーツでは、
“…チェコ語の発音を出来るだけ近い表記でカタカナにすると、イリ・ムラース…”
[発音ガイドForvo:チェコ語サイト]で、
筆者の耳には、
お二方を合わせたようなイジリ・ムラースに聞こえた。
まあ古典的空耳英語、“掘った芋いじるな”…
(What time is it now ?)…の差だが(*^。^*)
  *そんな些細なことで文章を長くするな、と叱責されそう
【蛇足の注】
秋吉敏子にはジャズ・オーケストラによる「組曲:フォー・シーズンズ」を中心にした『フォー・シーズンズ』(1996:BMG)というアルバムがあるので間違え易い。

     

 『四季/秋吉敏子』            『フォー・シーズンズ/秋吉敏子』 
【蛇足の注:2】 
ムラーツが参加した『エクリプソ/トミー・フラナガン・トリオ』(1977:エンヤ)は、
トミー・フラナガン(p)ジョージ・ムラーツ(b)エルビン・ジョーンズ(ds)が〈裏オーバー・シーズ〉の演奏で…お勧め盤なり。
レイ・プライスは、西独で録音したピーターソン・トリオの2枚しか存在しないレアなドラム奏者のようだ。
2枚のうち最初の『Walking The Line』(MPS:輸入盤)で、
ピーターソン傘寿記念(2005年)のリマスター盤でも、
ジャズ・ジャーナリスト:リチャード・パルマ―は、
“現在ジョージ・ムラーツの名前でよく知られているJiri Mraz&レイ・プライスが…”と解説しているだけ。
個人情報は守られ(?)正体不明。
ついでに添えると、クレジットはJiri“George”Mrazである。
実はこの二人、『ザ・レア・1971…』録音直後、71年4月に3回目のピーターソン・トリオで来日していた。
1988年版来日ジャズメン一覧の資料は、George Mraz(b:Jiriではない)Ray Price(ds)になっているが、正体不明は続いていたらしく、プログラム作成に苦心の跡がある。

    

 B4サイズ26ページの公演プログラム(写真:左)の内容だが、
どこを見ても出演者の記載がない。
大写しのピーターソン写真ばかりの中に、小さく上下に人物が(写真:右)無名のまま掲載されている。
上は紛れもなくムラーツだ。
とすれば下の若く見える人(なにしろ生年月日が不詳)がプライスになる。
6人の著名評論家氏も解説されておられない。
筆者も厚生年金会館大ホール聴衆の一人だったが、
も・う・し・わ・け ないけれど印象に残らなかった。

響庵流分析だが、“ザ・トリオ”の好感音バランスは、
ピアノ5:ベース3.5ドラムス1.5である。
好感音という用語はない…例えば、
ピーターソンの場合は2等辺3角形の鋭角にピーターソンがいて左右の鈍角にブラウン、シグペンが従う演奏が〈最も心地よく聴こえる〉度合いのこと。
そして『ウォーキング・ザ・ライン』あたりになると、ピアノ4:ベース3:ドラムス3…ほぼ正3角形になり、ベース・ソロの比重も増している。
ちょっとプライスのブラシ・プレイが、
バシャバシャし過ぎるのが、いただけないけれど。
『ザ・レア・1971…』は直近の『ウォーキング・ザ・ライン』と同じメンバーながら正3角形は、
正4面体の音彩(ココだけの造語:音色に彩りを増すこと)に変化した。

1曲目「星影のステラ」、4曲目「アリス・イン・ワンダーランド」と5曲目「アイム・オール・スマイル」は、
良妻ブラウン似:賢妻ムラーツ&ブラシ名人シグペンを若くした:長男プライス…久しぶりに聴く“新・ザ・トリオ”ファミリー・サウンドではないか!
レアな音彩が2曲ある。
#2「レッツ・フォール・イン・ラブ」は偶然にも『オスカー・ピーターソン・トリオ・プレイズ』(バーブ:1964録音)の2曲目に収録されている…ミディアム・テンポのバラード。
ブラウンのベース・ソロが純愛の鼓動のようだ。
『ザ・レア・1971…』の恋は、アップテンポの激情型。
ピーターソンの快奏(快走のパロディー)を追いかけるプライスはベース・ソロのあとチェイスで煽る…10指が受けて暴れまわる…こんなにも〈向きになった〉ピーターソンは初めてだ!
ドラムスをフィーチャーしたラスト曲「キュート」は、
正にレア・セッションだろう。
正体不明のプライスが本性を現した。
3分40秒の大爆発ドラム・ソロを、
ピーターソンがどんな顔で見ていたか想像できない。

               おわり

【付録】
そのほかの〔ジャズ・レジェンド・イン・ヨーロッパ・シリーズ〕
Vol.1『ソニー・ロリンズ/イン・コペンハーゲン・1968』
Vol.2『デクスター・ゴードン/ゾーズ・ワー・ザ・デイズ』
Vol.3『ハンク・モブレー/ブルー・ボッサ』
Vol.4『セロニアス・モンク/スカンジナビアン・ブルー・1966』
Vol.5『アル・コーン=ズート・シムズ/マイ・ファニー・ヴァレンタイン』

       

 XQAM-1628                   XQAM-1629                    XQAM-1630

    

 XQAM-1631                   XQAM-1633

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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