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廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

セシル・テイラーを聴きながら街を歩くと

2021年12月29日 | Free Jazz

Cecil Taylor / Garden Part 1, 2  ( スイス hat ART CD 6050, 6051 )


街中の雑踏を歩いている時に、ふと、セシル・テイラーを聴きたくなる時がある。
人々の歩く足音や交わす会話、車の行き交う音などの無軌道な交差がそう思わせるのかもしれないし、そういう雑音の背景にある虚無感
のようなものに重なるものがあるからなのかもしれない。

そういう時のためにiPodに音源を入れて常に持ち歩いているのだけれど、彼のCDは意外と入手が難しく、好きな作品でも手に入らない
タイトルがたくさんある。この "ガーデン" は好きなアルバムだが、そもそもCDが出ているということを知らなくて、これはレコードで
聴くしかないものとばかり思い込んでいた。ところがひょんなことからPart1が転がっているところに遭遇して軽い衝撃を受けた。
いささか高値が付いていたが、文句を言う間もなくレジへと向かった。

その後、Part2を探す羽目になったが、これがなかなか見つからない。送料を払うのがバカバカしいので、リアル店舗で根気よく探して
半年ほどしてようやく手に入った。レコード漁りが壊滅的な状況の中、今年意志を持って探した唯一の音盤がこれだったと思う。

音が良く、何の不満もなく楽しめる。ライナーノートを読んで元々デジタル録音だったことを知り、なるほどと思った。
アナログ盤よりもひんやりとしてキリッと締まった音が何より好ましい。

街の喧騒の中で聴くセシル・テイラーの打鍵はより鋭く耳に響き、風景とよくマッチすることを再確認した。



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聴き所はどこに?

2020年11月21日 | Free Jazz

Albert Ayler / Bells  ( 日本フォノグラム BT-5004 )


3管編成であることから、アイラーのサックスにどっぷりと浸ることはあまりできない故、このアルバムの聴き所は何処か、
と問われると、その答えは難しいなあと思う。後半にいつもの軍隊マーチの旋律が出てきて、そこをユニゾンで吹くところなんかは
サウンドがカラフルで楽しいけれど、ラッパやタイラーのサックスは結局アイラーの演奏をコピーしているだけではないのか、という
醒めた目線から離れることができない以上、3管である必然性に説得力を感じない。

まあ、タウンホールでのライヴということで、音楽性の追求や創造という狙いは元々なく、聴衆を前提にした彼らの考える"現代(今)"を
披露したということだろうから、これはこのまま受け取るしかないのだろうと思う。裏面のライナーノートで評論家が「フリージャズの極北」
とか「情念力」とか「情動性」という言葉を用いて熱弁を奮っているけれど、当時の空気感からは完全に断絶したこの現代において、
アイラーをそういう用語で語られても、その解説は聴き手の理解の補助にはならない。

ジャズのグループ演奏というのはいろいろ難しくて、例えば、パーカーとディジーのコンボのようにお互いが刺激し合いながら音楽を
高めていくという姿を見る時、聴き手は自然と興奮を覚えるものだし、マイルスのバンドでコルトレーンが急速に成長していく様子が
ある種の感慨を引き起こしたり、とグループ内での化学反応というか人間の姿の変容が一般的には深い感動をもたらすものだ。

ところが、アイラーのこのグループでの演奏にはそういう雰囲気があまりなく、巨人の演奏スタイルを(言い方は悪いが)そのまま
コピーして、それを持ち寄った形で合奏(競奏ではない)している様子には、イマイチ乗り切れないものを感じる。
フリー・ジャズはごく短期間のうちに急成長したジャンルだから、この分野の各人が先駆者のコピーの域を出るまでの時間があまり
確保できなかったという事情があるのはわかるけれど、だからこれはこれでいい、と寛容になれるほどこの分野に偏愛がある訳でもない。

このライナーノートのように、アルバート・アイラーという高名な人のアルバムだから何でも素晴らしい、という態度には疑問がある。
私自身は、この有名なアルバムにはあまり聴き所が無いと思っている。


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R.I.P Gary Peacock

2020年09月12日 | Free Jazz

Albert Ayler / Spiritual Unity  ( 日本 ビクター MJ-7101 )


私がゲイリー・ピーコックの演奏を初めて聴いたのは、20代半ば頃に買ったこのレコードでだった。その時点ではまだキースのスタンダーズは
聴いていなかったし、オーネットも知らなかったので、リズム・キープをしないベースを聴いたこと自体初めてだった。ただ、レコードを買った
目的はガイド本に載っていたアルバート・アイラーという人を聴くことであって、彼のベースは結果的に知ることになったということだった。

マレイのシンバル・ワークに向かって、サックスとベースが同等の関係で歌いかけるような位置関係にあるのがとにかく不思議だった。ベースは
ドラムとペアで音楽の土台になるものだと思い込んでいたから、こういう演奏はその時はうまく馴染めなかった。フリー・ジャズというのは
こういう演奏をするものなのか、という程度の理解で終わって、その時はゲイリー・ピーコックという名前は頭にはインプットされなかった。

それからしばらく時間が経ってスタンダーズを聴き、そこでのベースの木材の質感に触れた時に、ああ、そう言えば・・・とこのレコードの演奏を
思い出して、ようやくゲイリー・ピーコックという人が自分の中で顔と名前と演奏が一致する存在となった。

外見から受ける印象と彼のキャリアの内容から、学究的な人なんだなという印象がずっとあった。それから更に時間を置いて、ECMの音楽に
触れるようになって、彼の考える音楽を知るにつれて、その寡黙で知的な雰囲気にジャズという騒々しい音楽の世界にもこういうタイプの人が
いるんだ、とどこか安心したような気がしたものだ。

ベース弾きとして終始アコースティック・ベースにこだわり、魅力的な音色を聴かせてくれた。アイラーのこのアルバムでは既に彼の演奏
スタイルは完成していて、アイラーとまったく互角の演奏をしているのが圧巻なのだ。アイラーも彼のソロを聴かせるためにちゃんと
スペースを用意しているくらいだから、その力量を認めていたのだろう。まるでもう1人のリード奏者のように屹立していて、
このアルバムが傑作になったのは間違いなく彼の存在も一役買っているということが今はよくわかる。この人がいなければ、キースの
スタンダーズもなかっただろう。

自宅での安らかな最後だったそうなので、心からよかったと思う。 R.I.P ゲイリー・ピーコック。素晴らしい音楽を本当にありがとう。


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落ち着きと明確なイメージ、「庭」と断片集

2019年01月06日 | Free Jazz

Cecil Taylor / Garden  ( スイス Hat Hut Records ART 1993/94 )


1981年11月、バーゼルで行われたコンサートの模様を収録した、レコードは2枚組のボックスセット。 それだけで、もう聴く前から嬉しいではないか。

まずは、歌のような、唸りのような、祈りのようなヴォーカル・ソロで幕が開く。 そして、ゆったりとピアノが始まる。 不協和音の少ない濁りの無いコードが
流れていく。 コード自体は濁っていないが、その進行(というか羅列というか)が互いの関係性を断絶した並びになっている。 それらがコマ落としで繋がれた
フィルム映像のように、連続性を失った流れる静物画のように進んで行く。 徐々にスピードがアップしていくが、打鍵は正確で、ミスタッチもない。
ピアノを触ったことがある者からすれば信じ難い神技にしか見えないが、まあいつものセシル・テイラーのピアノであり、彼の演奏としてはどちらかと言えば
落ち着いた雰囲気の第一楽章である。

続いて、内省的な雰囲気のフレーズとコードの組み合わせで第二章が始まる。 ここではコードは控えめで、両手で旋律を紡いでいく面積が大きい。
アルバムタイトルにもなっている "Garden" という言葉から連想されるある種のイメージ、例えば休暇で訪れた見知らぬ土地の宿泊客のいない寂れた古いホテルの
よく手入れされた広い中庭に1人佇み、眺めるともなくぼんやりと眺めながら物思いに沈んでいるような、そういう何かを伝えようとしてくる演奏に感じられる。
明らかに何か明確なイメージがセシル・テイラーの頭の中にはあるような、そういう雰囲気がある。 曲の終わり方も、さあ、これで終わりますよ、という
段取りを踏んでいる。 その場の思い付きの即興ではなく、予め1つの楽曲として構想されていたのはまず間違いない。

第三章は、多量の雨を含んだ重い雨雲が拡がる低い空を見ているようなムードで始まる。 空気は湿り始め、風が吹き、雨の予感がする。
低音域で旋律が唸っている中、高音域へ移ったかと思うと、雨が降り出したかのように粒立ちのいい単音の乱舞が始まる。 雨脚が強くなったかと思えば
すぐに弱くなり、更に風に流されて横殴りになる。 途中、風は弱まり小雨へと移行するが、最後はまた雨脚が強くなるなど、大きな起伏を描いていく。
調子が出てきたこの楽章は、流れるフレーズのなめらかさ、劇的なコードの響きが素晴らしい。 曲想の展開も良く、この章が一番内容が優れている。

最後は小さな断片を集めた短編集。 「Zへのイントロダクション」「ドライヴァーは語る」「ペミカン(先住民族の携帯保存食品)」「点」、どれも魅力的な
タイトルではないか。 小品には小品だけの良さがある。 エッセンスだけを抽出した一滴のアロマオイルのようなものかもしれない。

指折り数えてみればもう40年近く前の演奏になる。 この頃の演奏は何かを強く表現したがっていて、それは「表現主義の時代」だったのかもしれない。
何となくセシル・テイラーを聴くなり語るなりする場合は初期のアルバムになることが一般的には多いように思う。 そちらの方が取っ付き易いということなのかも
しれないが、実際は後年の方が音楽的には落ち着きがあり、まとまっていると思う。 怖れることなく、中期以降も広く聴かれるようになればと思う。


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私が惹かれた理由

2018年08月04日 | Free Jazz

Cubic Zero / Flying Umishida  ( 野乃屋レコーズ Nonoya 003 )


待望の吉田野乃子さんの新作ということで、楽しく聴いた。 先週届いて、今週の通勤の行き帰りで聴いていたから、1週間で10回は聴いたことになる。
新譜を買うことがほとんど無くなってしまった現在、こういうのは私にしてみれば珍しいことで、今は新作が待ち遠しい数少ないアーティストの1人だ。

今回は前作とは打って変わり、ザ・エレクトリック・バンドになっているが、私は今回のサウンドの方が好みだ。 冒頭の出だしから、あ、これはいい、と
すぐに思った。 そこから最後まで一気に訊き通せる。 途中でダレるところもない。 よく出来ているなあ、というのが素直な感想だ。 じゃなきゃ、
10回も続けて聴こうとは思わない。

最近は60~70年代のフリージャズの作品への興味が薄れてしまってほとんど聴かなくなっている。 まあ聴き過ぎてちょっと飽きたというのもあるけど、
その頃の音楽には「時代の空気に強制されてやってました」という側面が多かれ少なかれあって、それがだんだん煩わしく感じられるようになってきたからだ。

「座ってきれいなメロディーを吹いている場合じゃなかった」というブロッツマンの言葉に象徴されるように、そこにはある種の閉塞感が漂っていて、
それがこの分野の音楽を重苦しいものにしていた。 そして、このまま行っても先はないんじゃないか、ということに気付き始めた気配が作品の中に
現れ出すようになる。 コルトレーンのように自分が始めたやっかいな音楽の後始末を自分ですることなく逝ってしまうことに嫉妬したアーティストも
中にはいたんじゃないだろうか。 荷が重すぎて結局は抱えきれず、路上生活に堕ちる人も出始めた。

そういうこととは遠く距離を置かれているから、私はこのアルバムが好きになったのだろうと思う。 この5人は自分たちが今一番面白いと思っている音楽を
楽しんでやっているように見える。 そういう純粋さが感じられたからこそ、こちらの心も動かされたのだと思う。 形式上、それがアヴァンギャルドなのか
主流派なのかというようなことは、当たり前のことだがどうでもいいことだ。 ICPやFMPには感じられなかった「純粋な愉しさ」がこのアルバムには
こぼれんばかりに溢れている。 それが素直に表現されていて、何より素晴らしいと思った。

今作はグループとしての音楽だからアルトサックスは1人だけで前に出るということはなく、他の楽器と互角な位置にいる。 私は彼女のサックスの音が
好きなのでもっとたくさんその音が聴きたかったけれど、まあそれは次のお愉しみにとっておくことにしよう。


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皮肉な結果

2018年05月20日 | Free Jazz

Chick Corea / Circle 1, Live in German Concert, Circle 2, Gathering  ( 日 CBS/SONY SOPL 19-XJ, SOPL 20-XJ )


金曜日の夜、DU新宿の新店舗1Fで拾った安レコ。 未だに新店舗に慣れてなくて、どこに何が置いてあるのかがまだよくわかっていない。 エレベーターを
待っている時に1Fの奥に何気なく目をやると、ジャズのレコードが置いてあるのに気が付いた。 行ってみると、国内盤中心の中古コーナーだった。
どうやら1Fはロックなどオールジャンルの国内盤中古をメインにした一般ピープル向け、3Fは我らが変態オタク向け専門フロアということらしい。

チックのサークルは聴いたことがなかった。 チックが一時的に齧ったフリーということは知っていたが、そもそもが彼の音楽をあまり聴かないせいもあって、
これまで聴く機会もなくきた。 内容を知らない初めて聴くレコードを買って家に帰る帰り道はいつも楽しい気分になる。

第1集はドイツでのライウ、第2集はニューヨークのスタジオ録音。 ライヴ演奏は聴衆を楽しませる要素がふんだんに織り込まれていて、スタジオ録音のほうは
緻密に計算されたガチンコの実験的な現代音楽。 第2集の方が完成度が圧倒的に高いけれど、私自身は第1集のライヴの方がずっと楽しかった。

チックはこのサークルというユニットでは過去の音楽が生み出した全てのものを統合しながら更に新しいサウンドをつくろうとしたのだと語っていて、
正にこの言葉通りのものが第2集で聴くことができる。 「過去の音楽を統合して」というのがミソで、よくも悪くもこれ以前のフリーや現代音楽の様々な部品が
ここにギュッと凝縮されている。 ただ、ここにそれまでの音楽には無かった新しい響きがあるのかどうかは私にはピンと来なかった。 録音当時には何か
新しいものがあったのかもしれない、ただ今の耳で聴くとそれらはどれもがどこかで聴いたことがあるような気がする。

一方、ライヴはチックの軽快なピアノソロから始まる。 まあ、とにかくチックらしい明るく軽いピアノで、このミスマッチ感が今までのフリーには見られなかった
まったく新しいタイプの響きだ。 フリーや現代音楽について回るある種の胡散臭さを上手く吹き飛ぼしていて、これは面白いと思った。
これこそがチック・コリアがフリーに取り組む意味なんじゃないか、とさえ思えてくる。 練りに練ったスタジオ録音が不発で、自分らしく弾いたライヴの方が
斬新だった、というのは何とも皮肉だ。

尚、この第2集は発売当時、スイングジャーナル誌がゴールド・ディスクに認定したんだそうだ。 何とも困った雑誌である。


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RIP, Cecil Taylor、でも・・・

2018年04月07日 | Free Jazz

Cecil Taylor / Indent  ( 米 Unit Core Records 30555 )


このレコードは初版がプレスされた直後に火事でその大半が原盤と共に燃えてしまい、現存するオリジナル盤はごく僅かしか残されていない。
昔、そういう話を廃盤専門店(トニーだったか、コレクターズだったか)で聞いたことがある。 ただ、この手の話はどこまでが本当なのかはよくわからない。
当時はあまり出回っていなかったのかもしれないけれど、今はそんなに稀少だという印象もない。 海外のディーラーが日本人に高く売りつけるために
ねつ造した作り話だっただけなのかもしれない。

そんな訳で、昔は高くてとても買えるシロモノじゃなかったこの初版盤も、今では身近な存在になっている。 私もワンコインで買った国内盤のすぐ後に
適価の初版を見つけて、喜んで買い直した。 特に音がいいということもないけれど、愛聴盤だからこんなことが嬉しかったりする。 
そんな風に、私にとってのセシル・テイラーは、楽しみながらレコード漁りをする他の多くの好きな演奏家たちの一群の中の一人である。
音楽の素晴らしさだけではなく、レコード漁りの愉しさまで提供してくれる人だった。

一昨日、ブルックリンの自宅で89歳で亡くなったということで、残念だと思う。 ただ、だからと言って、今頃慌てて饒舌に語り出す気にもなれない。
このブログでもこれまで折に触れて彼の音楽を語ってきたし、それはこれからも変わることはない。 彼のカタログのまだ半分も聴いていないだろうし、
しばらくはゆるゆると続くであろうレコード漁りの日々の中で、セシル・テイラーのレコードとの楽しい出会いもまだまだあるだろう。 

RIP, Cecil Taylor、でも、私にとってセシル・テイラーの音楽は未だに現在進行形。 いつまでも私の中で鳴り続けている。



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吉田野乃子というサックス奏者

2017年12月24日 | Free Jazz

トリオ 深海ノ窓 / 目ヲ閉ジテ 見ル映画 Blind Cinema                    吉田野乃子 / Lotus


遅ればせながら、吉田野乃子さんの作品を聴くことができた。 心ある愛好家から静かに支持される、アヴァンギャルドなサックス奏者/作曲家である。
2006年から2015年までニューヨークで単身修行し、帰国後は北海道岩見沢を拠点に活動しているということで、まだまだ彼女についての情報は少ない。
先日30歳になったばかりの若さで、これからキャリアを積み上げていく人だから、そういう意味では同時代的に見守っていくことができる愉しみがある。

評判のいい "目ヲ閉ジテ 見ル映画" はピアノ、ベース、サックスのトリオ形式だが、硬質な抒情に貫かれた素晴らしい作品だ。 こういう言い方は不本意かも
しれないけど、ピアノが奏でる主旋律たちはまるで "風の谷のナウシカ" の中で流れていてもおかしくないような寂しげな美メロで、風景や映像を意識した
音楽になっているのはアルバムタイトルが示す通りだ。 そういう風景の中にそっと忍び込むようにサックスの旋律が鳴り始め、やがて高ぶった感情が
溢れ出るように激しい咆哮へと姿を変えていく。 そういう情感の生々しさが美しいヴィークルの上で移ろうように流れていき、これは心に深い印象を残す。
この音楽は作り物じゃなく、生きているなあ、というのが素直に感じられる。

"Lotus" はサックス1本だけで臨んだ本気度満点の作品で、無伴奏ソロだったり、オヴァーダブで複雑に編み込まれていたり、という渾身の1枚。 
鳴っている音には只ならぬ強い想いが込められていて、生半可な気持ちで近づくと触れた途端にあっという間に弾き飛ばされてしまいそうな張りがある。
それはまるで、"ウォール・オブ・サクソフォン" だ。 ただ、それは例えばブロッツマンのような巨大な音の塊というのではなく、1曲1曲にその成り立ちの
ストーリーがあり、それが楽曲の中に埋め込まれている。 感情だけに任せた音楽ではない。 そこがかつての「日本のフリー・ジャズ」とは決定的に違う。
どちらかと言えば、この作品のほうが彼女の本音に近いんじゃないだろうか。

彼女のサックスの音色は重く硬質で少し濁りがある。 この「濁り」がとてもいい。 この音が聴きたい、と思わせる何かがある。

まあ、褒めてばかりじゃ何だから少し違うことも書いておくと、所々で硬さを感じるところがあると思う。 何というか、それは身体的な硬さのようなもので、
それが音楽を縛っているようなところがあるのを感じる瞬間があった。 これは時間が解決するのかもしれないけれど、これがほぐれた時にはどんな音楽が
出てくるのかなあと思ったりもする。

この時代に、しかも日本で、こういう音楽をやっていくことの困難さについては私の想像を絶するものがある。 彼女はこの難問をどう解決していくのだろう。
それをこれからも見守っていきたいと思った。 東京でライヴをやる時は観に行きたい。

今のところ、これらの作品を含めて、彼女のアルバムは自主製作でご本人に直接コンタクトして入手するしか手がない。 送られてきたCDには、手書きで
彼女のメッセージが書かれた小さなメモと、"Lotus" に関する彼女が書いた解説書が同封されていた。 それらを読みながら、アーティスト本人がこういうことを
しなければいけない音楽界の現状を恨めしく思った。 日本の資本はどうして志のある若い芸術家に手を差し伸べようとしないのだろう、というこれまで何度も
口にしたボヤキが、ここでもまた口をついて出てしまう。 尤も、「野乃屋レコーズ」という屋号は秀逸だけどね。


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フリーな安レコ

2017年09月16日 | Free Jazz
モンクのレコードにうつつを抜かしていた間にも、安レコ漁りはボチボチとやっていた。 モダンの合間を縫って、フリーにも偶に出物がある。
フリーも有名どころになるとオリジナルの値段は高く、バカバカしくてそんなのは買えないから聴くこともなくこれまではやり過ごしてきたけど、
足で探せば拾い物が見つかる。



Cecil Taylor / Indent  ( 日 King Records K18P 9393 )

ずっと聴きたかった盤だけど、初版はそこそこの値段が付くので手を出しあぐねていたところに国内盤がワンコインで転がっていた。 この時代の作品は
CDの音がダメなので、レコードで聴きたかった。 セシル・テイラーがソロに転向したのは菅野沖彦氏が録った日本録音が契機と言われることがあるけど、
それは間違いで、これが本格的なソロ活動の第一弾になる。

ミディアムテンポのシックな演奏から始まり、やがて激情と抒情が入り乱れる打鍵の舞へと進んで行く。 圧巻の演奏で素晴らしい。
国内盤でも音質は良好で、何の問題もなく愉しめる。




Anthony Braxton / 3 Compositions Of New Jazz  ( 米 Delmark Records DS-415 )

ブラクストンのデビュー作で、訳の分からないタイトルの曲名が並ぶ。 現在の耳で聴くと、時代を先取りしなきゃ、という強迫観念に囚われているようなところが
透けて見える感じがする。 うるさいところはまったくなく、非常に聴きやすい。 でも、これはブラクストンの本音じゃない、と感じる。




Steve Lacy / Lapis  ( 日本コロンビア YQ-7014-SH )

これもオリジナルは1万円を超える値段が付いて、買う気にはなれず放置してきた。 レイシーがフランスで一人ソプラノやパーカッションやテープ録音された
素材を使って作り上げた。 孤独な意識家の内省的な作品で、繊細な演奏に終始する。 ジャケットはこっちのほうがいいと思う。




Francois Tusques / Free Jazz  ( 英 Cacophonic 20CACKLP )

初めてレコードで再発になったとのことなので、昨晩仕事帰りにユニオンに寄って買った。 これは長らく聴きたいと思っていたけれど、オリジナルは
恐ろしい値段になるので、聴くのは無理だなと諦めていた。 

これは最高にいい。 チュスクは、やっぱり根っからのフリージャズ奏者じゃなかった。 これはどう聴いても、新しい感覚で演奏された普通のジャズである。
バス・クラ、サックス、トランペットの3管セクステットによるインテリ感の強い真っ当なジャズが展開されている。 なぜ、これがフランス初のフリージャズと
言われているのか、私にはよくわからない。 

音質もとても良好で、オリジナルがどんな音なのかはもちろん知らないけれど、これ以上のものを求める必要なんて特にないんじゃないだろうか。


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対話の謎解き

2016年11月12日 | Free Jazz

Cecil Taylor & Derek Bailey / Pleistozaen Mit Wasser  ( 西独 FMP CD 16 )


巨匠同士の競演は1988年になってこうしてここに実現した。 インプロヴィゼ-ションに対する考え方が(おそらくは)違うであろう2人は一体何を語るのか。

音を「鳴らす」ベイリーと音を「弾く」テイラーでは各々の演奏論からしてそもそも違う訳だから、これは単なるフリージャズ奏者の競演というような
単純な話ではない。 演奏論が違うのはインプロヴィゼーションに対する考え方が違うからであって、だからこそ2人が世に放つ音がこうも違ってくるのだ。
一方は音の実存を希求し、もう一方は平均律からの逃走を夢見る、という感じだけど、それにしてもベイリーの音は猥雑で世俗的だし、テイラーの音は
澄み切っていて清らかだ。 

ただ2人に共通するのは、自らが考えるインプロヴィゼーションを実現するために生み出したはずの演奏論が、いつの間にかインプロヴィゼーションそのものを
追い越してしまい、演奏論が産み落とす音たちが勝手に一人歩きを始めてしまっていることにある。 それはまるで人間が作り出したコンピューターが
いつの間にか自我に目覚めて産みの親である人間を駆逐し出す、というSF的グロテスクイメージによる悪夢のように聴くものを脅かし始める。 だからこそ、
聴き手は音そのものの確かな手応えに魅了されながらも、内面に沸き起こる不安定な想いを解決することができない。

1曲目ではテイラーは奇声を発しながらピアノの弦を擦ったりはじいたりしながらベイリーに呼応し、2曲目になって初めて鍵盤に向かう。 ベイリーの音は
道端に佇んで旅人をだまくらかして取り込もうと待ち構える悪魔が手に持つ杖であり、テイラーの音はそこへやって来る旅人の傷んだ靴である。
両者は出会い、何事かを語り出す。 でも、その声はよく聞き取れない。 2人は長々と話し込んでいる。 そして、何かを合意し密約を交わしたのか、
それとも対話は決裂したのか、突然、ぷつりと演奏は終わる。 いつか、謎は解けるだろうか。



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物憂げな独白

2016年09月10日 | Free Jazz

Peter Brotzmann / Nothing To Say : A Suit Of Breathless Motion, Dedicated To Oscar Wilde  ( 独 FMP CD 73 )


あまり見かけない珍しいブロッツマンの作品があったので、すかさずゲット。 1994年9月にベルリンで録音された無伴奏ソロだ。
複数種の管楽器を曲ごとに使い分けており、飽きさせない構成になっている。

オスカー・ワイルドに捧げる、という副題の通り、ワイルドの詩や戯曲から得た印象をブロッツマン風に描いた作品だが、ワイルドのことはほとんど何も
知らない(ドリアン・グレイや幸福な王子くらいしか読んだことがない)私にはこれが如何にもワイルドから得たインスピレーションなのかどうかは
さっぱりわからない。

耽美派文学の先駆者に捧げた作品ということもあって、全体的にはいつもの激情は影を潜め、物憂げな独白という様相を呈している。
ゆったりとした穏やかな表情の演奏が多く、こういう姿は珍しい。 抒情的ですらある。 自身の語法で何事かを語りかけてくる。
フリー系の怪物としてスタートした彼だが、ある時期を境にそういうフォームからは脱皮して1人の芸術家として我々の前に立ちはだかるようになった。
この作品も明らかに1つの自立、独立して完成された芸術品としての佇まいがあって、そういうものを見た時に共通して受ける感銘がある。

あまりの多作ぶりに鑑賞が追いきれないが、それでも丁寧に聴いていくとやみくもにリリースされているわけではなく、留まることのない自身の内的活動を
うまく作品化することに長けていただけなんだろうということもわかってくる。 本気で対峙するにはこちらもすべてを投げ出してかからないといけない巨峰だが、
私にはとてもそこまでできる覚悟はなく、こうやってちまちまと中古を漁ってはこそこそと聴くのが関の山だ。

それでも、あきらめることなく、これからもぼちぼちと聴き続けていくことになるのだろう。 それだけは今のところはっきりとしている。


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全てを否定したら

2016年07月09日 | Free Jazz

Derek Bailey / Lot 74 - Solo Improvisations ( 英 INCUS 12 )


不思議なもので、数多く残されたソロ作品はそれぞれ内容が違っている。 その違いがちゃんと聴き分けられるんだから、私も相当しつこくベイリーを
聴いてきたということなんだろう。 私のデレク・ベイリーを聴く動機になっているのは、知らないものへの興味であり、理解できないものを理解したい、
というこの1点に尽きている。 音楽を聴くという行為は、言い換えれば「既知のものを咀嚼する」行為だ。 でも、いくら "Kind Of Blue" が名作だから
と言っても、毎日聴くことはない。 そんなの飽き飽きするし、冗談じゃない。 ところが、ベイリーの演奏は何度聴いてもそのフレーズを覚えるという
ことなんてあり得ない。 覚えられる人も世の中にはいるのかもしれないけれど、私には無理だ。 だから、デレク・ベイリーの演奏は私にとっては永遠に
未知なるものであり、だからこそこうやってしつこく聴いているんだろう。 

ベイリーの演奏は、まず、大きなコンプレックスからスタートしている。 それは、「本場のジャズを真似てもしかたがない」というコンプレックスだ。
この人は、最後の最後まで、このコンプレックスが振り払えなかった。 ナイーブなのにも程があるだろうと呆れてしまうけれど、結局は全てがそこからの
逃走の軌跡だったんだと思う。

そのために既成の音楽的要素の全てを否定し尽くした上で、その極北の地に立つ最高のギタリストでありたいという想いだけが彼を支えていた。
ギターで彼の出しているような音を出すこと自体は簡単なことだ。 ただ、それを18分間もまったく同じやり方をせずに弾き続けることは不可能だ。
気が遠くなるような訓練がなければ絶対にできない。 苦行の上にだけ成り立つ演奏だからこそ、それがわかる人から崇拝されているのであって、
一聴して難解そうな音楽をやっているからではない。 こういう音を出したかったのではなく、全てを否定したらこれしか残らなかったのだ。

この作品はそれまでのソロ作品よりもラディカルな要素が強く、フィードバック奏法をやったり彼自身のヴォイスが入ったりする。 羅列される音たちの
相関関係の無さはますます顕著になっているし、空間を意識する度合いもより高くなっている。 彼のソロ作品の中では硬派な1枚と言っていい。
 
CDとどれくらい音が違うのか興味があって、売れ残りのレコードに手を出してみた。 これが初版なのかどうかは知識がないのでよくわからないが、
特に音がいいというほどではないにせよ、やはり出てくる音場の立体感や粒度のきめ細やかさはレコードのほうが優っている。 気長に安い出物に
出くわすのを待って聴いていこうかという感じだ。


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真の傑作

2016年06月26日 | Free Jazz

Michael Mantler / The Jazz Composer's Orchestra  ( 西独 JCOA LP1001/2 )


1968年に制作されたこの作品は、その当時の心あるジャズミュージシャン達の英知のすべてが結集して出来上がった1つの究極の成果となっている。
統制と解放、安定と不安、秩序と混乱、集合と離散、そういうありとあらゆる矛盾と背反のすべてを目の前で次々に片っ端から飲み込んでいく。
オーケストラは知的に譜面上に定義され制御されているにもかかわらず熱狂的で、ソリストとして指定された者たちは用意された限られた小節の中で
すべてを吐き出す。 

この作品を聴けば、セシル・テイラーというピアニストの本当の恐ろしさがわかるだろう。 2枚組のアルバムの2枚目の両面がテイラーの受け持つパートだが、
如何にラリー・コリエルが素晴らしい演奏をしていても、1枚目の演奏群はこの2枚目の単なる序曲に過ぎない。 セシル・テイラーの音楽が破壊と脱構の
音楽ではなく、創造と再構築の音楽であることがここまでわかりやすく理解できるケースはちょっと珍しいのではないだろうか。 
セシル・テイラー / アンドリュー・シリルの演奏があまりに凄すぎて、オーケストラが演奏を止めて、全員が食い入るようにその様子を見つめている様が
何とも生々しい。 テイラーのピアノそのものはいつもの様子と大きくは変わらないが、マントラーのコンセプトを的確に把握した上での音楽展開をして
いるので、楽曲としての仕上がりの良さはテイラー自己名義の作品群を遥かに上回る。

マントラーの頭の中には当然コルトレーンの "アセンション" やシュリッペンバッハの"グロ-ブ・ユニティー" のことがあっただろうが、幸いなことに
そういう先行事例とはまったく色合いの異なる至高の作品に仕上げることができた。 おそらくそれらを十分に聴き込んで、そこに足りなかったものを
きっちりと対策して臨んだ結果が功を奏したのだろう。 

長年CD→iPodという形で音量Maxの爆音で聴いてきたが、これはオリジナルのレコードでも持つ価値があると思い直して西独盤を探して買い求めた。 
見開きカヴァーを開くと多数の写真や譜面、解説などが閉じられた手の込んだ作りになっており、気合いの入り方の違いがよくわかる。

真の傑作、という言葉で締め括るしかない。








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二重のメロディー

2016年05月15日 | Free Jazz

Alexander Von Schlippenbach / Piano Solo  ( 西独 FMP 0430 )


何の予備知識もなく白紙の状態で聴くと、これはフリージャズというよりも単にピアノソロによる即興という語り方のほうがよりしっくりとくるなあと思う。

一般的にフリージャズと言われる音楽には、それがどのような種類のものであれ、その水面下にある種の共同幻想的な核のようなものが横たわっていて、
それは「混乱」や「喧噪」という形を借りながらかなり遠回しに表現されるものだけれど、このピアノソロを聴いていると、ここにあるのはそういうものとは
全く異質のものなんじゃないかと思えてくる。 

この人の頭の中では実はちゃんと調性に沿って作曲されたオリジナルのメロディーがあって、それを意図的に無調性に翻訳しながらピアノを演奏しているような
フシがどうも感じられてしまう。 現にラグタイム風の小節が途中で出てきたりするし、手が滑って上手く翻訳し損なった和製英語の言葉のような箇所も
たくさん出てくる。 人知れず積み重ねられた練習や研鑽で武装しながらも、フリーに徹しきれていない綻びのようなものが見えてしまうところがあるし、
何よりもどんなにメカニカルな無調フレーズを弾いていても、なぜかその裏では別の有調の旋律が並走しているのが聴こえてしまうような気がするのだ。
だから、そういう意味において、これは一般に言うところのフリージャズとはうまく重ならない。

西洋音楽理論の権化のような楽器であるピアノで完全無欠のフリーミュージックを演奏するのは困難を極める作業に違いないと思うけれど、何事においても
困難であればあるほどそれに憑りつかれてしまう人が世の中にはいる。 シュリッペンバッハも元々そういう傾向を持った人だったのではないだろうか。
普通にピアノを上手く弾けるし、普通に作曲もできるけど、そういう既にできることなんかには興味がなく、進んで困難な道に踏み込んだのだろう。

エヴァン・パーカーとのトリオの時やグローブ・ユニティーのような大編成時には感じられなかったのに、ピアノソロという素肌をさらす場面になった途端に
個性や素の部分が見えてくる、というのは人間味があってとてもいいことだと思う。 彼らだって、別に得体の知れない怪物というわけではないのだ。



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晩年の到達点

2016年05月08日 | Free Jazz

Cecil Taylor / The Willisau Concert  ( スイス Intakt CD 072 / 2002 )


セシル・テイラーの晩年のCDがゆっくりとだが増え続けている。 見かけるたびにぽつりぽつりと買っていると、いつの間にか20枚近くまで増えている。
同一アーティストの架蔵CD枚数としては、ついにこの人がトップに躍り出た。 どの演奏も示唆に富んでおり、聴き飽きることがない。

最近のお気に入りはこの演奏。 スイスのヴィリザウで毎年夏に行われるジャズ・フェスティヴァルに2000年に出演した模様を収録したもの。
とても音質が良く、テイラー独特の強くコクのあるタッチが愉しめる。 エヴァンスやパウエルも長生きして、こういう音質で作品を残してくれていたら
どんなによかったか、と考えずにはいられない。

全体的に流れるようなフレーズを紡ぐことに集中していて、滴り落ちるようなピアニズムの雫を浴びることができる。 ピアノという楽器の音や演奏を
こんなにも堪能できるということが何よりも素晴らしいことだと思う。 このピアノの確かな手応えは、完全にクラシック音楽のピアノと同一のものだ。
ジャズという音楽の範疇はとうに超えている。

長い1曲目の後半、ふと、"Ghost Of A Chance" のフレーズの断片のようなものが現れる箇所がある。 それはあまりに唐突に現れて、瞬く間に消えて
しまうけれど、その後しばらくはテイラーの脳内ではこの唄が流れているのではないかというこちらの想像上のメロディーと実際に鳴っているピアノの
フレーズが2重で聴こえているような錯覚に陥る時間を体験することができる。 普段ジャズを聴いていて、こんなトリップ感覚を経験できることはないだろう。

どことなく、これまでのソロ演奏のものよりも叙情的な印象がある。 純粋にピアノを弾くことを愉しんでいるような気配すらある。 フォルテッシモと
ピアニッシモとの対比のバランスも絶妙だし、あまりに自然過ぎる無調感が部屋の中の透明度を深めるかのようで、これが本来のあり方なのではないか
という気にすらさせる。 晩年のテイラーの音楽は、間違いなく到達点に達していると思う。 でなければ、こんな感銘を受けるわけがない。



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