廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

国内盤の底ヂカラ その2

2019年10月27日 | Jazz LP (国内盤)

Barney Wilen / Barney Wilen Quartet In Paris  ( 日本グラモフォン LPPM-1012 )


こんなレコードまでペラジャケで出ていることに、まずは驚く。裏ジャケットに消えかかった手書き文字で「61.4/8(名前、読めず)」という
書き込みがなんとか判読できる。おそらくは最初の所有者が書いたのだろう。昭和36年にこのレコードの予備知識があった人なんていたのだろうか。
定価は1,500円。当時の国家公務員キャリア組の平均初任給は12,900円、そういう時代だ。

日本人が如何にモノを大事にするかがよくわかる。ジャケットはシワが少しあるくらいできれいなもんだし、盤には傷一つない。
私なんて見た目も中身も傷んでしまって、盤質で言えば「甘めのB-」くらいなのに。

ジャケットはコーティングのフリップバック、盤は分厚いフラットディスクで重量は201gと丁寧な作り。音質はブライトなモノラルサウンドで、
コロンビアカーヴで聴くと耳が痛くなるような高い音圧で鳴る。裏ジャケットの解説は野口久光氏で、マイルス・デビス、メランコリイ・ベビイ、
ハッケンザック、と時代を感じる表記が満載だ。

このアルバムのバルネはフレーズも音色も単調で、内容はつまらない。A面のスタンダード集もB面のモンク集も聴くべきところは何もない。
バルネらしい陰影感や深みは皆無で、何だか別人の演奏を聴いているようでさっぱり面白くない。だから私には国内盤で十分で、質のいい
国内盤があるというのが重要になってくる。こんなマイナー盤ですら60年も前に製造されているのだから、国内盤は侮れないと思う。
「パリのジャズ巨匠シリーズ 第一集」という企画だったようなので、他にも色々リリースされたのだろう。
果たして当時、どれだけの人が買い求めたのかはわからないけれど。

日本で作られた国内盤は何もペラジャケの時代まで遡らなくても品質は一流だ。海外では日本盤に対する一定の需要があるようだし、
我々ももう少し見直していいだろうと思う。値段が安く、中古の盤質で苦労することもなく、細かく見て行けばプレス時期ごとに音質の違いが
あって聴き比べの愉しみもある。特にオーディオにこだわりがあり、それなりの機器が揃っている環境であれば、国内盤は意外といい雰囲気で
鳴って目から鱗が落ちることがある。優劣を付けて切り捨てるより、違いを違いとしてそのまま愉しむほうがずっと面白いと思う。

海外リイシューの雄であるOJCの音質がいいというのは今では常識になっているし、このブログでも日本ビクターのレコードの音質の良さを
何度も書いてきたように、国内盤だって負けてはいない。レコード蒐集を始めるとオリジナル盤しか眼中に入らなくなる時期というものが
確かにあって、それはまあ仕方がないことだと思うけれど、いずれ目が醒める日が来る。そうなった時に初めて、もう1つ別の新しい楽しみ方が
できるようになって、見える風景が大きく変わっていることに気が付くだろう。






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国内盤の底ヂカラ

2019年10月26日 | Jazz LP (国内盤)

Tommy Flanagan / Overseas  ( 日本 Top Rank MJ-7010 )


ジャズのレコードコレクターの世界において国内盤は昔からバカにされる存在で、その風潮は今も変わらない。その理由は音質の悪さだったり、盤や
ジャケットの作りの悪さのせいだ。確かにそういう面で比較した時、大きく劣るものが多いのは事実なので致し方ない部分はある。ただ、全てがそうか
というと、必ずしもそうではない。何の遜色もないタイトルはいくらでもあって、基本的には先入観による物言いになっているだけだろうと思う。

私も若い頃はガチガチのオリジナル至上主義で国内盤をバカにしていたクチだけど、マニア遍歴が2周、3周した今は国内盤の良さを素直に享受できる
ようになった。昨今のレコード復権の中でレコードでジャズを聴き始めた人たちはSNSに溢れるオリジナル自慢の記事に自分の持っているレコードの
ことを気恥しく感じるかもしれないけど、そんな風に思う必要はまったくないよ、と言ってあげたくなる。どんなハード・コレクターだって元を正せば
国内盤を聴いて育っているわけで、単にそのことを封印しているに過ぎない。

ブルーノートのオリジナルとキング盤を比較してどうのこうのという話は今でも見かけることがあるけれど、ブルーノートのオリジナル盤にたくさん
触れていて本当に熟知している人はオリジナルには美点しかないというわけではないことをよく知っているから、そういう発想にはならないだろう。
ありのままに見る、人目を気にしない、というのは煩悩の多い我々には難しいことだけど、それに近づくことで音楽の楽しさの幅は間違いなく拡がる。


天下の名盤として不動の地位にあるこのアルバム、みんなどういうフォーマットで聴いているのだろう。オリジナルのメトロノームEP盤で聴いている
人なんてごく少数だろうし、オリジナルでもないのに異様な高額になっているプレスティッジ盤初版となればもっと少ないだろう。大半の人が普通の
国内盤かCDで聴いているはずで、私ももちろん国内盤レコードで聴いている。国内盤はたくさんのヴァージョンがあって、いくつか聴き比べた中では
このペラジャケ版の音が1番古臭くて雰囲気がよく出ているような感じだったから、これに落ち着いている。

国内盤のペラジャケにはそれ専門のコレクターもいる、それなりに人気のある分野。このペラジャケは日本でレコードが製造されるようになった初期の
時代のもので、海外から原盤のスタンパーを借りて製造されたものが多いと言われている。ただ、私が聴いた範囲では必ずしも音質が優れているものが
多いという印象はなく、かなりバラつきがあるように思う。そんな中で、このオーヴァーシーズはいい出来だ。

このレコードは縦横両方の振動を拾うモノラル・カートリッジで聴けば、何の不満もない音で鳴る。エルヴィンの唸り声はしっかりと再生されるし、
酔っぱらったフラナガンの粗挽きなタッチも生々しく聴ける。ウィルバー・リトルのベース音も大きなレベルでカッティングされていて、迫力も
満点だ。ピアノ・トリオの演奏としては珍しく粗っぽい演奏だけど、そこは超一流の演奏家らしく破たんなく着地させているから名盤ということに
落ち着いた。7インチEPは再生が面倒だし、プレステ盤は高過ぎて買えるはずもないから、国内盤を上手く鳴らす工夫をして聴けば大丈夫。
このアルバムの一番大事な部分はきちんと手に入れることができる。

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つくづく難しい人

2019年10月22日 | Jazz LP

Al Haig / Today!  ( 米 Mint Records AL-711 )


アル・ヘイグが最もアーティスティックに弾いた演奏はこれだろう。50年代のレコードは、アルバム制作のコンセプトが一般リスナーが気軽にジャズを
愉しめるものを、という感じでおそらくは作られたので、そもそも方向性が違う。彼は単にレコード会社の意向に沿って演奏をしていただけであって、
このアルバムと比較してどちらが優れているかという話になるんだったら、それは違うと思う。強いて言うなら、どちらの音楽が自分の好みに合って
いるか、という話だろう。

1964年に制作されたということで、これが本当なんだとしたら相当浮世離れした演奏ということになる。スタンダードにジャズメンのメロディアスな
オリジナル曲をブレンドした非常にわかりやすい内容で、64年にこれをレコードとして出してくれるのはこういうマイナーレーベルしかなかっただろう
と思う。ただ、無理して流行に乗った素材を選ばなかったせいか、この人の本性が見事に浮き彫りになった音楽になったのは幸いだった。

通して聴くと、既存のスタンダードは印象が薄く、彼自身のオリジナル "Thrio"、トゥーツ・シールマンスの "Bluesette、オスカー・ブラウンJr.の
"Brother,Where Are You"、ベースの Eddie DeHaas の "Saudade" といった曲の方が遥かに素晴らしい出来になっているのがよくわかる。
つまり、アル・ヘイグは従来からあるスタンダードの解釈が元々あまり上手くなかったんじゃないか、という気がしてくるのだ。それに比べて、あまり
手垢の付いていないオリジナル曲では曲想の表現が自由に展開できていて、伸び伸びと演奏できている。メロディーの歌わせ方も素晴らしい。
片や古いスタンダードの方は何となく委縮した表現に留まっているような印象を受ける。過去の名演たちの面影に縛られているような。

そういう意味で、私自身は50年代のエソテリックやピリオドのレコードよりは、こちらの方が好きだ。ここで聴ける演奏はいい意味でも悪い意味でも
アル・ヘイグという人の本質が剥き出しになっているようなリアルな肌触りがあって、そこに聴き応えを感じる。ジャズのピアノ・トリオの音楽として
一流かと言われるとそうではないと思うけれど、ここにはこの人の素の姿が生々しく記録されているのは間違いないと思う。


もう1つの話題は2種類あるレーベルデザインの件。グリーン・ミントとブラック・ミント、どちらがオリジナルかという例の話題だ。"MINT" というのは
単なるレーベル名であって、このレコードはDel Moral Recordsが制作している訳だけど、このレコード会社はどこまでまともに活動していたのか
よくわからない会社で、ジャズではエサ箱でよく見かけるJohn Gambaのピアノトリオが1枚あるくらい。言っちゃ悪いけれど、企業としてはあまり
信用できるレベルではなくて、だからこそ後年の人々が混乱することになったんだと思う。

私の経験から言うと、この2種類は同じ時期に製造されたんだと思う。ブラック・ミントは弾数が少なくて、過去に3回しか手にしたことがないけれど、
ジャケットの質感も盤の手触り感もグリーン・ミント同じだったからだ。但し、ブラック・ミントは3枚ともひどいカゼヒキで、とても聴く気には
なれないような再生音だった。そんなだから、ブラック・ミントは製造不良品として販売ルートには乗らなかったんだろうと思う。だた、廃棄するに
してもそれはそれでコストがかかるから、倉庫の片隅に追いやられていたんじゃないか。こういうのはよくある話である。

もしそうだったと仮定した場合、どちらがオリジナルかということになると、当然ながら正規販売されたグリーン・ミントがオリジナルということで
いいんじゃないか。プレスの時間的な順番がどちらが先だったかなんてわからないけれど、品質検査で不合格になった製品をオリジナル盤として
認識することに何か意味があるのか、と思う。売り物にならない不良品は、本来的には商品としては存在してはいけないものなのだ。
製造過程で一定数発生する不良品は他のレーベルでもあったはずで、普通に品質管理していた会社であれば、それらは当然テスト工程で排除される。
このレコード会社はそれをしなかった、あるいはできなかったということなんだろう。

そもそも、グリーン・ミントだって盤面にプレスミスがあるものが多く、総じてモノづくりの品質管理がいい加減だったのは間違いない。
ただ、グリーン・ミント盤にはカゼヒキがほとんどなく、その再生音は音圧が高く楽器の音も鮮度が高くで極めて良好だ。
だから、迷うことなくグリーン・ミント盤を買えばそれでいいと思う。

こういう面倒な話がついて回るのも、アル・ヘイグという人の、他の人には見られない特徴だ。つくづく付き合うのが難しい人だと思う。

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秋が来ると聴きたくなるアルバム その3

2019年10月20日 | Jazz LP

Chet Baker / Soft Journey  ( 伊 Edipan NPG 805 )


秋の肌寒さを感じるようになると、このアルバムを想い出す。こんなにも叙情的な音楽は他に探すのは難しい。静かでメロディアスで優しくダンディズム
に溢れてリリカルで、とどれだけ形容詞を付けても追い付かない。言葉を超えた、音楽でしか表現できないものをやっているという意味では正に究極の
音楽と言っていい。この流れるような美しさは一体何なんだろう、とため息しか出てこない。

晩年のチェットは欧州を拠点に活動していた。それが彼の音楽を大きく変えていったであろうことは容易に想像がつく。欧州の古い街並みの持つ独特の
雰囲気に溶け込んだかのような彼の音楽は明らかに現代ジャズの先駆けであったことは今となっては自明のことで、欧州に移住した他のミュージシャン
たちが成しえなかったことをやったということはもう少しはっきりと評価されていい。チェットが欧州でやった音楽のコピーキャットは巷に溢れかえって
いるけれど、チェットの音楽ほど心に残るものは本当に少ない。

トランペットの音色やなめらかに歌うようなフレーズも50年代のものとは別人のように進化している。見た目のやつれた容姿の印象とは違い、彼の演奏は
成熟しながらもみずみずしい感性に溢れていて、彼の音楽は晩年の欧州でようやく完成した。50年代の演奏や歌は単なる下地に過ぎない。

ピエラヌンツィが書いた静謐なバラードもジャンマルコの知的で硬質なテナーも素晴らしいの一言だけど、それらはあくまでもチェットの音楽の一部に
過ぎない、と思わせるほどよく馴染んでいる。共演者の持つ美質を最大限に引き出して、それらを自分の音楽の中へ取り込んで完成させていく。

チェットの良かったところは、どこに行っても柔軟に自分を溶け込ませることができた点だった。だから、行く先々で常に新鮮な作品を残すことに
成功している。共演者の良さと上手く共存することができているアルバムが多いのが欧州時代の特徴の1つだろうと思うけれど、このアルバムは
その中でも筆頭の出来の1つと言っていい。音質も非常にいい仕上がりで、音楽の素晴らしさを余すところなく伝えてくれる。


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秋が来ると聴きたくなるアルバム その2

2019年10月19日 | Jazz LP

Al Haig / Jazz Will-O-The-Wisp  ( 米 Counterpoint CPT-551 )


秋の空気の匂いを感じるとこのアルバムを想い出す。 このアルバムを初めて聴いたのは学生時代の初秋の頃、地下にあったDU新宿のジャズフロアで
中古の国内盤を見つけた時だった。枯れ草のようなジャケット、冒頭の "Autumn In New York"、それらが秋のイメージとピッタリで、私の中では
秋の音楽として定着した。"Autumn In New York" を聴いたのは、これが初めてだったと思う。

この国内盤はなぜか音が非常に悪くてうんざりするような感じだったけれど、ジャズという音楽に飢えていたあの頃はそんなことは言ってられず、
砂地に水が染み込んでいくように音楽が自分の中に入っていった。だから個人的な体験として、このアルバムは秋に聴く1枚となった。

以前にも書いたが、この演奏は1954年3月13日にエソテリック社が録音したもので、最初はエソテリックの10インチに8曲、仏スイングの10インチに
8曲という形でリリースされたが、その時に選から漏れた5曲をのちにカウンターポイントという新しいレーベル名で10インチの8曲に追加して
12インチとして切り直された。つまり、録音自体は全部で少なくとも21曲あったわけで、大変な仕事だったことがわかる。聴く側も3枚揃えて初めて
コンプリートとなるわけで、何だか面倒くさい。

ここで聴ける演奏は一聴すると軽やかなラウンジ音楽のような感じで、アル・ヘイグの危ない本性は巧妙に覆い隠されている。 それは1日で大量の
楽曲を録音するという無茶な仕事をこなすために、どの曲もほぼワンテイクでさらっと演奏されたからだ。 1曲入魂、という弾き方ではない。
ところが12インチの両面すべてを聴き通した後に残るのは、エディ・ヘイウッドやエリス・ラーキンスのようなカクテル・ピアノとは全く違う何かである。
その何かは微かな量だけど、この目の前に流れる音楽の向こう側には間違いなく何かがある。

アル・ヘイグは50年代にアルバムをほとんど残せなかったから、本当の実像はよくわからない。 これらのセッションもピリオドの録音もその内容は
アーティスティックなものではないから、この人の音楽家としての姿は現代の我々には実はよくわからない。何となく人々の間で作り上げられた
ぼんやりと霞む蜃気楼のようなある種の共通したイメージしかない。

そういうもどかしくはっきりと見定めることができない何かを掴み取りたい、と繰り返しレコードを聴くけれど、未だにそれは叶わない。
30年以上聴き続けても、この人は難しいピアニストのままだ。

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秋が来ると聴きたくなるアルバム

2019年10月14日 | Jazz LP (Warner Bro.)

Paul Desmond / First Place Again  ( 米 Warner Bros. Records W 1356 )


もうここ何年も日本の四季から秋が消えて無くなってしまったかのような感じだったけど、今年は秋を感じる時間がある。 そんな時間にふと聴きたく
なる音楽がある。 秋になると聴きたくなる音楽、冬になると聴きたくなる音楽。 四季のある国に生きる我々のある種の特権のようなものだ。

ピアノのいないギター・トリオをバックにポール・デスモンドが縦横無尽に吹いていく様子は饒舌と言っていいくらいだけれど、デスモンドの柔らかく
穏やかな音色は空間を淡い色調に染めるだけで、それ以上出しゃばることはない。 一体どうすればこういう音色で吹けるのかはよくわからないけれど、
アルトの巨人、第一人者たちとは常に距離を置いたところにいて、自分だけの世界を作ってきた。 音色だけではなくフレーズの組み立ても上手く、
ありふれた定石のパターンは使わず、スタンダードを演奏することが常だった中で原メロディーの無数の変奏でフレーズを紡いでいくような感じだ。
リー・コニッツもそういう吹き方をしたが、彼のフレーズは長続きしない。 ブツブツと途切れる。 デスモンドは途切れない。 延々と続いていく。

この4人のメンバーでの録音はRCA Victorにたくさんあり、内容もバリエーション豊富でイージーリスニング的に楽しめるが、このワーナー盤は曲数が
少なめでデスモンドの演奏を落ち着いてじっくりと聴くことができる。 RCA盤よりもジャズの本流に寄った作りになっているのが好ましい。
ジム・ホールにM.J.Qのリズムセクションというこれ以上ない趣味の良い伴奏を背景に、デスモンドのアルトがどこまでも飛翔していく様が圧巻だ。
アルトの名盤はたくさんあるけれど、このアルバムはそれらとは一線を画す独特な存在として輝き続ける。

外観はしっとりとして落ち着いた音楽だが、実際は高度な演奏技術に支えられて厳格なまでにジャズとしてのマナーとフィーリングを維持した内容で、
それがこのアルバムを孤高の名盤に仕上げている。 容易にはその凄さを感じさせないところに彼らの一流としての矜持があったのだろう。

デスモンドの涼し気な音色と4人の作る静謐な空間が、秋の空気によく似合う。 だからこの時期になると聴きたくなるのだろう。

録音も優れていて、アナログで聴いてもCDで聴いても深く静かな残響の中で4人の楽器が生々しく鳴っている様子を愉しむことができる。
奥行きや立体感もうまく表現されていて、名演がきちんと名盤になるよう後押ししている。 


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ブルーベック・カルテットの凄みとは何か

2019年10月13日 | Jazz LP (Columbia)

The Dave Brubeck Quartet featuring Jimmy Rushing / Brubech And Rushing  ( 米 Columbia CL 1553 )


ブルースが弾けない、スイングしない、歌心がない、と言われて硬派なファンからは完全無視されるブルーベック・カルテット。 大手コロンビアと
契約したおかげで稀少盤もなく、コレクターからもまったく相手にされない。 わかりやすいもの、メジャーなものは価値がないという思い込みが
素直に音楽を聴こうとする姿勢を邪魔する。 ブルーベック・カルテットの演奏の凄みを本当の意味で知るには、 "Time Out" なんかを聴くよりも
このジミー・ラッシングとの共演を聴く方がいいのではないかと思う。 そしてこの共演盤とラッシングの別のアルバムとを比較することで浮かび上がる
相対化されたブルーベック・カルテットの演奏の本当の価値に唖然とすることになるだろう。

このアルバムを聴けば、ブルースができない、スイングしない、という話がでたらめだということがわかる。 ブルーベックはきちんとブルースの
フレーズでオブリガートを付けているし、ジョー・モレロのブラシ・ワークがスイングしまくっている。 ラッシングの歌が一区切りついてデスモンドに
リードが引き継がれて間奏が始まる時の雰囲気がガラリと変わる瞬間の凄さはどうだろう。 古い素材がデスモンドの透明な世界の中で安定しながら
何の違和感なく同居する不思議さ。 ジミー・ラッシングの個性を殺すことなく音楽が完成していく様子が驚異的だと思う。



Jimmy Rushing / The Jazz Odyssey Of James Rushing ESQ.  ( 米 Columbia CL 963 )


ジミー・ラッシングのアルバムの中で1番好きなのはこのコロンビア盤。 ラッシングの代表的歌唱が凝縮された至宝だ。 アーニー・ロイヤル、
ヴィック・ディッケンソン、ハンク・ジョーンズ、ミルト・ヒントン、ジョー・ジョーンズらが演奏する古き良きスタイルの演奏を聴いていると、
そこから1直線に伸びていく道のはるか彼方にブルーベック・カルテットの演奏があって、この2つはしっかりと繋がっているのを感じることができる。
ブルーベック・カルテットの演奏は洗練の極みを見せていて外形上は違うスタイルだけど、それでもこの2つの演奏は道から外れることなく、途中で
寄り道することなく、1本の線で繋がっているのがよくわかる。 そして、ブルーベック・カルテットの演奏が何気に極めた頂点にいることもはっきりと
わかるのだ。 そうやって比較するとその凄さがわかるのに、単独で聴いている分には敷居の高さなどまったく感じさせることがない。 
ブルーベック・カルテットの演奏というのはそういう演奏だと思う。

ブルーベックをバックにラッシングが歌う "Evenin'" がとても好きで、これを聴くと世俗の憂さなどどうでもいいや、という気分になる。
幸せをもたらしてくれる素晴らしいアルバムだ。

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最初のピーク期に隣接した名唱

2019年10月12日 | Jazz LP (EmArcy / Mercury)

Sarah Vaughan / The Divine Sarah Sings  ( 米 Mercury MG 25213 )


サラ・ヴォーンの歌手としての最初のピークは1948~53年のコロンビア期だが、54年からマーキュリーに移籍した後も有名なブラウニーとの録音も含めて
たくさんのレコードを作っている。 その中でもコロンビア期に隣接する時期に録音されたこのアルバムは特に出色の出来になっている。

サラにしかできない帯域の広さを活かした声量を屈指して歌われる曲はどれも素晴らしい。 こんなに歌がしなやかに形を変えながら羽根のように軽く
漂っていくのは彼女にしかできない芸当だ。 聴いているうちにそれが人によって歌われているということすら忘れてしまう。

たくさんレコードがあるのはいいことだが、そのすべてが傑作と言ってしまうのは手抜き工事だ。 彼女の歌はどれも満点だが、その歌の素晴らしさと
互角に張り合えるバックの演奏がなければ、アルバムとしての聴き応えは無い。 ヴォーカルのアルバムはそこが難しいと思う。 その点、このアルバム
は彼女の歌を邪魔せず上手くサポートできていて、その歌唱の素晴らしさが浮き彫りになっている。 コロンビア期に確立した柔らかく伸びやかな唱法が
まだ色濃く残っている時期の良さを上手くパッケージできている。

ルックスの印象が人気や評価を左右する女性ヴォーカルの世界で彼女の人気は低いままである。 でも、私はそれくらいでちょうどいいと思っている。
そのおかげで彼女のレコードは安く、いつでも好きなだけ買って聴くことができるのだ。 私にとって、サラ・ヴォーンは女性ヴォーカルの世界では
不動の絶対的エース。 その位置付けは30年以上変わることはない。


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中古レコードのコンディション、どこまでなら許せる?

2019年10月05日 | Jazz雑記
中古レコードの盤のキズやジャケットの傷み、果たしてどこまでなら許せる?

中古レコードを買う我が同胞たちは、常にこの問題と格闘している。 たくさんの購買候補を抱えてレジ台へ行き、山のように積まれたレコードを
1枚1枚睨みながら検盤している姿は、まさに「格闘」以外の何物でもない。 他の客からすれば迷惑行為以外の何物でもないが、でもその気持ちは
わからないでもないのである。

誰だって無傷でピカピカの盤面、破れやスレや汚れのない手の切れるようなパリッパリのジャケットがいいに決まっている。 でも、現実はそうも
いかない。 まず、そういうモノがほとんどないし、あったとしても非常識なくらい高額だ。 だから、普通はコンディションと値段のバランスを
吟味し、吟味に吟味を重ねて、買うかどうかを決めていくのである。 お金持ちにはこの悩みはない。 彼らの悩みはキレイなものがなくて買うに
買えない、ということだ。 もちろん、こういう悩みには同情も共感もできない。

ハードコレクターたちは口をそろえて「傷盤には価値が無い」と言う。 コレクターの目的は所有することなので、これは当然の価値観である。
盤やジャケットの傷みは値段に直結する。 傷があると値段は下がる。 コレクターにとって経済価値はイコール音楽価値だから、経済価値が
低いものには魅力を感じることができない。 だからコンディションにこだわる。

でも、普通の人はどうだろう。 果たしてそこまでこだわるだろうか。 つい先日、某廃盤店のご主人と歓談をしていた時、そのご主人は
「今、高いレコードを買っている人は、聴くために買っていない。 彼らは「持つ」ために買っている」と言っていた。 「そうですよね、
今は聴くだけならネットで無料で聴けますもんね」と私が返すと、「僕が若かった頃はそれでしか聴くことができなかったから、無理してでも
高い廃盤を買っていた。 今は以前じゃ考えられないようなマイナー盤ですら国内盤があるから、聴くだけならいくらでも聴ける。 だから、今
高いのを買っている人は、買うことが目的になっている。 そして買った後は棚に仕舞って、普段は国内盤を聴いたりしてる。」と寂しそうな
顔をしていた。 その気持ちは私にもよくわかる。

例えば、ブルーノートのレキシントン盤やクレフの分厚い盤は溝の切り方が深いから、表面に多少の傷やスレがあってもノイズが出ないものが多い。
だから、聴くことが目的の人は試聴して問題なければあまり気にせずに買っている。 そういうのは値段も相場より安くて割安感があるから、
普通の人は「ユニオンは専門店よりも安くていいなあ」という実感を持つことになって、だからユニオンは人気があって独り勝ちしているのだ。

ジャケットのコンディションにうるさい人も多いそうだ。 ちょっとでも傷んでいるとなんだかんだと文句を言ってきて、店としてはそういうのが
一番困るらしい。 そりゃそうだろう、彼らはただ仲介しているだけなんだから。

私の場合はどうかというと、盤に関しては傷の箇所を聴いてみて、イヤなタイプのノイズが出なくて、値段が妥当であれば見た目は気にせずに買う。
この「イヤなタイプ」というのがミソで、ノイズというのは気にならないタイプのノイズと、我慢できないタイプのノイズの2種類に分かれる。
この分かれ目は人によってバラバラで、正解はない。 あくまで自分の生理的感覚だ。 だから、私は原則ネットでは中古レコードを買わない。


 


この2枚の初版は、見た目がきれいなものなんてほとんどない。 うちの2枚も盤面は傷やスレが盛大にあるのに、ノイズがほとんどないのだ。
だから値段も3~4千円と割安で、今でも喜んで聴いている。 元々この演奏はクレフの12インチで聴いていたけれど、そこには入っていない曲が
2曲あって、10インチにはそれが入っていることを知ったので右のほうを買った。 その後で1枚だけじゃ収まりが悪いから、左のも手に入れた。
ゴールド・マーキュリーで盤もジャケットも "MG35010" の最初版だけど、見た目がよくないということだけで相場よりも随分安かった。
普通の人は、だいたいこういう買い方をしているんじゃないだろうか。


ジャケットは表面のスレが酷いものは基本的に買わない。 でも角が傷んでいたり、3辺がスレていたり破れているのは全然気にならないから、
それだけなら買う。 厄介なのはリヴァーサイドやノーグランのコーティングのないタイプのレコードで、中々満足のいくものが少ない。
だから、まずジャケットがダメで盤のきれいなものを買って(こういうのは結構ある)、後でジャケットが問題なくて盤がダメなのを買って
入れ替えることもごく稀にある。 面倒臭いので基本的にはやらないけれど、やむを得ない場合は仕方なく。


 


このあたりはそうやって2段階で買って組み合わせを変えたもの。 1番のメリットは、片方がダメなものは人気が無く競争せずに買えることだ。
それに、2回の買い物の合計はきれいなものを1回買うより安く済むことが多いし、1度に出せる金額には限度があるから、時間がかかることさえ
我慢できれば案外有効な買い方だったりする。 ただ必ず上手く揃う保証はないから、危険な賭けではある。 こればかりは経験に基づく勘で
判断するしかない。

こんなことを考えながら、私もコンディション問題と「格闘」してレコードを買っている。 それはまさに「格闘」である。
でも、中古漁りはそれも含めて楽しいのである。 いつも言うように、中古漁りの楽しさの本質は「探すこと」にある。

中古レコードのコンディションをどこまで許容するかは個人の性格や好みの問題。 神経質で傷は許せない人もいれば、聴いていて問題がなければ
必要以上には気にしない人もいる。 それでいいのだと思う。 他人の目を気にする必要なんてどこにもない、自分だけの世界の話だ。
コンディションのことばかり気にしていてはストレスが溜まる一方だし、そうなっては音楽を愉しむどころではなくなるだろう。 
基準がどこにあるかが問題なのではなく、それも含めて楽しめるかどうかが大事だと思う。 結果はその過程の中で後からついてくるだろう。

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遠く輝く北極星のように

2019年10月05日 | Jazz LP

Steve Kuhn / Mostly Ballads  ( 米 New World Records NW 351 )


発売された時にリアルタイムで買って何十年も経った今も飽きずに新鮮な感動を以って聴き続けられるアルバムなんて、そうたくさんあるわけではない。
感受性の高い時期に聴いて感銘を受けたアルバムはその後長く聴くことになって愛着を持つことになるけど、感動の鮮度は多かれ少なかれ後退する。
だた、私にとってスティーヴ・キューンのこのアルバムにはそういうこちらの事情を超えた何かがあって、それがいつまでも私の心を惹きつける。

このアルバムが制作された頃はキースのスタンダーズが世界的に大ブレークしていて、それに刺激されたレコード会社がピアノの作品を粗製濫造
し始めた時期であり、我々愛好家は随分振り回された。 そんな中にあって、このアルバムは静かにその重みを私の中に残し続けた。
おびただしい新譜のリリースの一部を買ってはがっかりし続ける度に、このアルバムを聴いて自分の感性や価値観を何とか保ち続けていた。
まるで荒れ狂う大波に翻弄される小さな船が、遠くに輝く北極星を頼りに航海を続けるかのように。

そういう意味では、このアルバムは私にとっては "Walts For Debby" や "Sonny Clark Trio" や "Overseas" といったタイトルよりも遥かに
重要な位置付けにあると言っていい。 もちろんこのアルバムが万人に同じ価値があるわけではないが、誰にもそれと似たような自分だけの特別な
アルバムはあるだろう。 私の場合はこの作品がそうだった、という話に過ぎない。

一筋縄ではいかないスティーヴ・キューンというアーティストの作品の中では、このアルバムは商業主義に傾いた内容だと言われるかもしれないが、
私にはそんな話を相手にする気にはなれない。 それは音楽の感動とは何も関係ない話だからだ。 どんな題材であれ、どんなスタイルであれ、
そこに心に響く何かがあればそれでいいではないか、と思う。

アルバム最後に置かれた "Two For The Road" という曲を初めて知ったのはこのアルバムだったが、ここでの演奏を聴くたびに自分の心の中で
涙の雫が落ちるのを感じる。 ここでのスティーヴ・キューンの演奏はキースのように過度の感情移入することはなく、どちらかと言えば淡々と
弾いているくらいなのだが、だからこそ却って響くものがあるような気がする。 その魅力はブログの1ブロックだけでは語り切れない。
いずれまた取り上げて、書いてみたい。


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