廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

憧れのソロ・ギター Ⅱ

2016年02月28日 | jazz LP (Pablo)

Joe Pass / Virtuoso #2  ( Germany Pablo 2310 788 )


ジャズの世界でソロ・ギターを作品として認知させたのは、ジョー・パスのヴァーチュオーゾ・シリーズだ。 ケニー・バレルなんかも無伴奏ソロ演奏を
アルバムの中で披露してきたけど、あくまでもアクセントの1つとして1曲だけ収録するというもので、それだけで1つの作品としたのはおそらくこの
シリーズが初めてのことだったと思う。 華の50年代に20代を送ったにも関わらず麻薬禍にあったせいで作品が残せず、全く認知されていなかったのに、
この作品群のお蔭で一躍ジャズ・ギターの第一人者としてもてはやされるようになった。 ノーマン・グランツの企画の勝利で、さすがの手腕だ。

第1集は歌物のスタンダードをアンプラグドで、第2集はミュージシャンが作ったオリジナル曲をアンプを通して、第3集は自身のオリジナル曲を、
第4集は1集時の録音から選に漏れたものを、とそれぞれテーマを持って編まれているが、私はこの第2集が一番気に入っている。 チック・コリアの曲を
2つも取り上げていたり、ブレッドの "If" までやっていたりと選曲が面白いし、何よりマイルドなフルアコの音色が心地いい。

このシリーズは昔からずっと聴いてきた鉄板アルバムだけど、「名盤100選」(相変わらずこの手の本はよく出版されている)なんかに当たり前のように
この第1集が載っているのを見るたびに、首を傾げてしまう。 もちろん名演であることは間違いないけれど、主たる読者であるはずの聴き始め諸氏に
このシリーズを薦めるのはちょっと違うんじゃないか、と思う。 1曲のうちの95%くらいがアドリブラインで占められた楽曲群を、ジャズを聴き始めた
ばかりの人が心の底から愉しめることはあまりないんじゃないだろうか。 延々とギターだけの演奏が続くし、構成としての起承転結もなく、美しい
メロディーラインがあるわけでもない。 ジョー・パスの演奏は他のギタリストとは違ってリズム感をあまり重視せず、スイング感を演出することもない。
代理コードやリハーモナイズを多用しているから和音の響きには少しクセがある。 聴き手が心地よくなることをまったく前提にはしていない演奏で、
そういう意味ではパーカーの時代の演奏スピリットで成り立っている少し抽象的で古風な音楽だ。 本当に愉しめるようになるには時間がかかると思う。

でも、ケニー・バレルはテクニックを出し惜しみするし、ジム・ホールは起きてるんだか寝ているんだかわからない時があるし、タル・ファーロウはホーン
奏者のようなシングルトーンが一本調子なところがあるし、とギター小僧の演奏家魂をなかなか満たしてくれないビッグネームたちが多い中、この
ジョー・パスはテクニカルな面でのカタルシスを感じさせてくれる稀有なギタリストの1人かもしれない。


そういう訳で、ソロ・ギターの入り口としてはヴァーチュオーゾ・シリーズはあまり向いていないから、聴くなら例えばこれがいいかもしれない。


Jonathan Kreisberg / One  ( New For Now Music 0003 )

ロック・ギターからジャズに転向したという経歴が示す通り、まずは楽曲の支柱をしっかりと杭打ちして、その中でメロディアスなフレーズをセンスよく
紡いでいく演奏をするので、非常にわかりやすい音楽に仕上がっている。 フレーズもジャズ・ギタリストがやりがちなスケール練習もどきのそれでは
なく、原メロディーを尊重したコードワークを上手く使うので楽曲の良さが殺されずにしっかりと生きているし、落ち着いたリズム感をキープするのも
とても上手いので、音楽に深みを感じる。 このアルバムはスタンダードが中心なので、この人のそういういいところがばっちりとハマっている。
特に "Summertime" などは素晴らしい出来で、裏ジャケットに映っているような夕暮れの風景によく似合う抒情性に酔わされる。 素晴らしい1枚。


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憧れのソロ・ギター

2016年02月27日 | ECM

Ralph Towner / Solo Concert  ( 西独 ECM 1173 )


すべてのギター小僧にとって、ソロ・ギターというのは永遠の憧れであり、最終目標地点だ。 1つの楽器でリズム・和音・メロディーを簡単に鳴らすことが
できるのはピアノとギターくらいしかないけど、ピアノは正規の教育をきちんと受けないと上達が難しいが、ギターはそういうものが必須というわけでは
ないし、楽器の大きさもコンパクトで持ち運びが楽だから、数ある楽器の中でもギター人口はダントツで多い。

でも、楽器というのは訓練・練習がすべてで、それ以外に上達の道はない。 だからある程度のところで大半の人は挫折する。 バンドを組んで、その中の
パートの1つとしてなら参加できても、ジェフ・ベックやラリー・カールトンのようにソロ・ギタリストとして人前に立てるなんて人はごく一握りだ。 

だから、ギター小僧はソロ・ギターに憧れる。 それが如何に困難な道のりであるかを知っているから、嫉妬することすらない。 そこに自分の夢の姿が
あるかのように、ただ熱い羨望の眼差しを送るのだ、自分もいつかああなれる日を夢見て。

その他大勢のギター小僧の中の1人である私も、だからギター作品には目がない。 アルバム単位でこれは好き/これは嫌い、というのは当然あるけど、
貶すことはない。 それは自分の憧れだからだ。 ピアノは正規の教育を受けたけれど練習が大嫌いで苦労したから愛憎半ばする複雑なところがあって
どうしても厳しい目線で見てしまうけれど、ギターは純粋に趣味として始めたから楽しい想い出しかない。 練習嫌いは同じでただのお遊びでしかないけど。

私がECMのレコードを少し買うようになったのは、きっかけはキースのレコードの音の良さだったけれど、結局はギター作品に魅せられたからだと思う。
ラルフ・タウナーのこの作品は昔から聴いているけど、やっぱりレコードで聴く音場感は圧倒的に素晴らしい。 ライヴ録音だけど、この人はスタジオも
ライヴも演奏はまったく変わらない。 ホール・トーンの自然な残響感が見事に捉えられていて、音楽の素晴らしさを最高に引き立てている。 

12弦のスティールギターと6弦のガットギターで演奏されていて、12弦ではコードワーク中心、6弦ではシングルトーンを多用している。 プログラムの
目玉はもちろん "Nardis" で、6弦でとても上手く演奏されている。 こんな風に弾けたらどんなにいいだろう、という溜め息しかでてこない。

ラルフ・タウナーのギターはその演奏スタイルもやっている音楽もジャズのフィーリングは希薄で、アメリカのフォーク・ロックを基盤にしている。
アイヒャーがタウナーをたくさん録ったのは、まさにそこが大事だったからだ。 メインストリームのジャズの匂いが少しでもすれば採用されなかった
はずで、そういうところへの感度は異様なほど敏感だった。 ビル・エヴァンスのレパートリーを入れることをよく許可したなあ、と驚いてしまうけど、
アイヒャーの審美観ではこれが許容できるギリギリのところだったのだろう。

素晴らしいソロ・ギターの作品で、ギター小僧にとっては満点の内容だけど、これはそういう楽器経験の有無を不問とする豊かな音楽になっている。
ギターという楽器の素晴らしさ、ギター音楽の素晴らしさをこんなにも赤裸々に提示してみせた作品は少ないと思う。



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もう少しスコープをはっきりさせれば・・・

2016年02月21日 | Jazz LP (Roost)

Sonny Stitt / Sonny Side Up  ( Royal Roost LP 2245 )


このアルバムではほとんどの曲でスティットはテナーを吹いている。 さすがに上手いテナーで、完全にマスターしていたんだなあと感心する。 
アルト奏者がテナーを吹く時によく見られる、「アルトよりちょっと嵩張るんで・・・」とでも言いたげな少しまったりとした取り回し感があって、
アルトの演奏よりも落ち着きがある。 フレーズはなめらかで、適切な節度が保たれていて、歌っているような暖かみもある。

という訳でスティットには何の問題もないのだが、このアルバムは聴いていてもあまり面白いとは言えない。 アルバムを通して、どの曲もみんな同じ
リズムとスピードで、あまりにも変化に乏しく、前の曲と今聴いてる曲の違いがさっぱり感じられない。 これじゃ、曲を変える意味がないよなあ、と
思ってしまう。 その原因は明白で、バックのピアノトリオがそれだけ画一的な演奏に終始しているからだ。 ジャケットにメンバーの記載がないので
調べてみると、ピアノはジミー・ジョーンズ、ベースはアーロン・ベル、ドラムはロイ・ヘインズ。 もしこの面子が本当だとすると、制作サイドとしては
スティットを歌手に見立てた布陣を考えたようだけど、インストものなんだからもう少し音楽に積極的に関与してもよかったんじゃないかと思う。 
ワンホーンカルテットは4人全員で音楽を創るもので、そこが歌手の歌伴とは根本的に違うところだ。

ソニー・スティットはアルバムを1つの独立した「作品」という捉え方をせず、スタジオへ行って上手く演奏して帰ってくる、ということで終わらせて
しまっていたのかもしれない。 自分でこういう作品にしようと考えて、それを実現できるメンバーを選び、スコアを用意し、リハーサルを重ねるなど
事前に入念な準備をして、という作り方ではなかったのだろう。 だからどのアルバムもいい演奏が収録されてはいるけれど、どこを切っても同じ表情に
なってしまう。このアルバムも、もう少しスコープを明確にしてメンバーもそれに合わせて変えていれば、もっと違う印象の作品になっていたに違いない。

かつてマイルスは自分のバンドのテナーがいろんな理由でライヴでの演奏に来れない時や次のテナーが見つかるまでの繋ぎの期間に、よくスティットに
声をかけて代役を務めてもらっていた。 スティットは難なくライヴをこなし、マイルスもそれで公演の契約に穴を空けずに済んだ。 でも、結局のところ
彼は古いタイプのハードバッパーで自分がこれからやろうとしている音楽には当然合わない、ということで都合のいい便利屋以上にはなれなかった。

私自身、なんで今頃ソニー・スティットにこだわっているのか自分でもよくわからない。 わからないけれど、それでもその理由を考えてみると、たぶん
こんなところだ。 この人は音楽家やサックスを趣味で練習している人からはとても評判がいい。 ところが私のようなただの音楽おたくにはお世辞にも
有り難がられているとは言えないような気がする。 この人のレコードにいわゆる高額レア盤が存在しないのがそれを象徴している。 人気がないのだ。
私にはそれが歯がゆいのかもしれない。 半分諦めモードであることは認めつつも、気長に聴いていくしかないと思っている。


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洗いざらしの感覚

2016年02月20日 | Jazz LP (Pacific Jazz / World Pacific)

Laurindo Almeida Quartet featuring Bud Shank  ( Pacific Jazz Records PL-1204 )


まるで洗いざらしのTシャツとジーンズのような肌触りで、本当に飾り気のない音楽が詰まっている。 アルメイダの演奏はあまりブラジル臭くなくて、
飽きのこない音楽になっているのが好ましい。 野心的な所もなく、一般にはあまり知られていない楽曲を集めているので、いつだって新鮮に聴こえる。
だから、苦手なこのレーベルの中では例外的によく聴くレコードになっている。 

バド・シャンクがアルト1本で参加しているところも良い。 私はこの人のフルートが苦手なので他のリーダー作は聴く気になれないけれど、ここでは
ハスキー気味なトーンでメロディーをゆっくり確かめるように吹いていて、素朴な風情がいいと思う。 西海岸には何といってもアート・ペッパーがいて、
どうやっても彼には勝てないと思っていたに違いない、だからフルートを多用するようになったんじゃないだろうか。 でも、こうやってアルバム1枚を
通してアルトを吹いているのを聴いていると、この楽器1本だけで十分やっていけたと思うよ、と言ってあげたくなる。

このレコードは1953年と54年の2つのセッションが収められているけれど、こんな早い時期に、クリード・テイラーがゲッツにやらせた10年も前に、南米の
音楽とジャズを違和感なくブレンドした上質な音楽を何気なくやっていたというのは、よく考えると凄いことだ。 カリフォルニアには他の地域よりも
メキシコや南米の文化がずっと自然に根付いていたとは言え、日常風景からそれらを上手く切り取って新しく提示し直している様に感心してしまう。

アルメイダのギターは基礎的な訓練が十分に積み上げられたことがわかる演奏で、好感がもてる。 実直に音楽に取り組んできたんだな、と思う。
普通ならジャケットには本人の顔が大きく写ったデザインがされるのがアメリカのレコード制作の常道だけど、初版の2枚の10インチも含めて、そういう
デザインを避けているのも、この人が派手なことを嫌ったからなのかもしれない。 

また、この録音は人工的な音響装飾を排して目の前の演奏をその場の空気ごとそのまま録ったような生々しさで、これがいい。 後のこのレーベルの
音に感じるような違和感がなく、素朴な演奏の雰囲気が等身大で目の前に現れる。 エンジニアは Philip Turetsky。 ロサンゼルスの北西にある
ローレル・キャニオンの自宅に小さなスタジオを構えて、このレーベルのいくつかの録音に携わっていた。 LP期に入って間もない時期なのに、これは
いい仕事を残してくれたと思う。 スタジオで演奏された音楽をバイアスを気にせず、ありのまま愉しむことができるのは心地よい。



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金曜の夜に更新なんて滅多にしないのに

2016年02月19日 | Jazz CD

Jeremy Pelt / #JiveCuture  ( High Nite HCD 7295 )


平日の、しかも金曜の夜にブログを書くなんて滅多にないことだけど、これはできるだけ早く書き記しておくほうがいい気がしたので。

現代のジャズシーンのことがまったくわかってない、ということは十分自覚しているつもりだけれど、さすがにこんなにいいトランぺッターのことを
知らなかったという事実を考えると、これからの猟盤生活を根底から見直さなければいけないんじゃないのか?と思わずにはいられなくなる。 
DUの中古フロアに行けば既にちゃんとこの人の独立コーナーがあって、自分が完全に出遅れていることを思い知らされもした。

最近発売になったジェレミー・ペルトの最新作で、とにかく、なんじゃこれ?というふざけたジャケットに脱力させられるけど、これがとてもいい
トランペットのワンホーン作品なのだ。 たまたま試聴可能になっていたので何の興味もなく聴いてみたら、ヘッドフォンが外せなくなって、1曲目を
丸ごと聴いてしまった。

どちらかと言えば線の細いトランペットで、アート・ファーマーのような暖色系トーンだけど、とにかく素直に気持ちよく伸びるフレーズが感じがいい。
アドリブラインはとてもセンスがよく、しっかりとスピード感もある。 そしてこのアルバムを素晴らしい作品にしているのは、ドラムのビリー・
ドラモンド。 上品で上手いスティックさばきで絶妙なタイム・キープをしていて、どの楽曲もこの人が裏から音楽を作り上げているのがよくわかる。
このドラムの演奏には感動させられた。 ついでに、ロン・カーター大先生も珍しく好演している。 この2人の重鎮がいるお蔭で、音楽全体が非常に
安定していて、いい具合に渋味も出ているのだ。 派手なところはなく地味かもしれないけど、ワンホーン名作の黄金律を備えていると思う。

随所に過去の数々のトランペットのワンホーンの名作たちの面影がちらつくようなところがあって、そういう遺産の最も優れた部分をこの一か所に
ギュッと凝縮したような懐かしさが漂っている、なんだか不思議なところがある作品だ。 それでいて懐古趣味的なチープさはなく、ちゃんと現代の
活きたジャズを無理せず気持ちよくやれている。 過去の名作群を聴いてきた諸兄諸氏なら、この作品の良さにはグッと来るんじゃないだろうか。

おちゃらけジャケットには目をつぶってもらって、聴いてみて頂きたい。 推薦できる自信が私にはある。


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後期のバド・パウエルは本当にダメなのか

2016年02月14日 | Jazz LP (Verve)

Bud Powell / Bud Powell's Moods  ( Norgran MG N-1064 )


我々が普段聴いているバド・パウエルの演奏と言えばヴァーヴ系列やブルーノートのレコードになるわけだが、50年代中期のLP期に入ってからの演奏、
つまり後期のバド・パウエルの演奏はまったくダメだ、という話が未だに根強く残っているのを見かけることがあって、これには正直言って驚かされる。
個々の作品単位にこれは優れている/イマイチだ、好きだ/嫌いだという話は芸術鑑賞上当然のことだし、元々そうあるべきだと思うけど、アーティストの
活動経歴を便宜的に区切って、その中のある時期しか認めない、という言い草は好きになれない。 まあ個々の議論をしてると話が長くなるから要約して
いるだけのつもりかもしれないが、我々は芸術の話をしているのであって、今日の天気や為替レートの話をしているんじゃない。 長くなるのは当然だ。

バド・パウエルについてまわるこの話の火元は、もちろんマイルスの証言だ。 内向的な性格で芸術家としての自覚が強かったパウエルは1944~45年頃の
ある日、サヴォイ・ボールルームに金を持たずに入ろうとして(ただ顔パスで入れると思っていただけだ)入り口にいた用心棒に拳銃で頭をしこたま殴られて
しまい、大怪我を負った。 それ以来、それまでは酒もドラッグもやらなかったのに、一人前のミュージシャンとして認められるために、とドラッグや
酒に溺れるようになる。 そして、言動がおかしくなったり発作を起こすようになったので、母親がニューヨークのベルビュー病院の精神科病棟に入院
させた。 そこで重症疾患と診断されてショック療法を施されて、退院後のパウエルはそのせいで人が変わってしまい、以前のような演奏ができなく
なってしまった。 これは1946年の出来事だった。 マイルスはそう証言している。

問題は、この1946年という年。 我々が普通に聴くことができるパウエルの一番古い音源はルーストセッションで、これは1947年に行われている。
つまり、「人が変わってしまった」以前の演奏なんて、現代の我々は誰も知らないのだ。 なのに、初期の演奏と比較して後期の演奏はダメだ、という
話が後を絶たず出てくるのはなぜだろう。

もちろんこれらは随分古い話なので、年号に誤差はあるかもしれない。 第一、パウエルの頭を殴ったのは人種差別主義者の警官だった、という風に
今では間違って伝わっているくらいだ。 それにパウエルはその後何度も入退院を繰り返しているので、現在語られる「退院後」の年号は混乱していて、
マイルスの語ったのとは別の入退院にいつの間にかすり替わっている可能性は高い。 私の理解だと、巷で言われる神がかった絶頂期というのは3つの
SP録音、つまりルースト、マーキュリー 、ブルーノートの "Vol.1~2" のことを指していて、ダメな演奏というのはそれ以降に録音されたレコード群の
ことを言っているようだ。 つまり、マイルスの証言からは全体的に5年ほど後ろにズレている。 パウエル名義のLPをただクロノロジカルに並べて、
マイルスの話を5年ほどずらして当てはめて便宜的にあるところで区切って、後半はダメだと断じているだけだ。 でも、マイルスの証言がもし無ければ、
こういう論調はもともと無かったんじゃないだろうか。 これだと、ここに挙げたノーグランの "Moods" を聴かない人が出かねない。

私にはここで聴かれる演奏がダメなものだとはとても思えない。 "鬼気迫る" と表現されるSP録音のものと比較してのことかもしれないが、そもそも
なぜ比較する必要があるのだろう。 "Moods" では猛スピードで疾走するような演奏が聴けないからだろうか。 でも、マーキュリー録音の "テンパス・
フュージット" だって、曲の中盤までは確かに快調に飛ばしてはいるものの、最後に戻って来た主題では指が追い付かず、弾かなければいけないいくつもの
音を飛ばしてしまっていて、演奏はかなり乱れている。

体力や運動機能の低下に伴い運指が遅くなっていくのは、例外なく全てのピアニストにとって避けられない宿命だ。 バックハウスやポリーニのような
わかりやすい事例を挙げるまでもなく、若い頃に凄腕のテクニックで鳴らした人ほどその落差の大きさは目立つ。 でも、例え運指が衰えてきても、
真の芸術家たるピアニストであればその代償として別の物を手にしていることが多い。 グールドのゴールドベルグ、なんて話はもういいだろう。

パウエルのように心と身体が死に向かって急速に堕ちて行った人の場合、短い間にそういう劣化が起こったのは当然だ。 特にB面の最後の
3曲は酷くて、まともにピアノが弾けていない。 音がまるで川面に置かれた飛び石のような途切れ方をしていて、モンクのピアノかと思うほどだ。
とてもレコーディングなんかできる状態じゃなかったのは明らかで、ベースとドラムが呂律の回らないピアノに気の毒なくらい一生懸命合わそうと
している様子が手に取るようにわかる。

でも、それでも、このアルバムで鳴っているピアノの音はどこをとってもバド・パウエルそのものの音で、しかもその音の風格みたいなものは以前と
何一つ変わっていないし、たどたどしいフレーズにも関わらず、かつてのあのスピード感が1つ1つの音の中にしっかりと息づいているのが驚くほど
よくわかる。 それはまるでパウエルの体内時計は以前と何も変わず今まで通り正確に時を刻み、彼の中ではかつての意識がはっきりとしていた時に
自身が感じていた踊るように疾走するグルーヴ感がうねっているようで、そういう内的な活動を生々しく演奏の中に感じることができる。

"Moonlight In Vermont" と "It Never Entered My Mind" という2曲のスタンダードではアドリブラインが全くなく、ただ原メロディーをカデンツァ風に
弾き流しているだけなので、これでもジャズピアノと言えるのか? という疑問もあるかもしれない。 パウエルはもはやインプロヴィゼーションなんて
できなくなってしまったのだ、と。 でも、それも違う。 パウエルはSP期のころから、歌物のスタンダードをやる時はインプロを極力排してただ単に
ラプソディックに弾いてきた。 これはパウエルの元々の演奏ポリシーだったのだろう。

後期のバド・パウエルの演奏は・・・、と切って捨てるのはどうかと思う。 少なくともレコードで聴ける範囲においては、バド・パウエルはいつだって
バド・パウエルであり続けたように感じる。 その中で、アルバム1枚ごとに自分の感じるものを深めていければ、それでいいのではないだろうか。


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時々思い出す音たち

2016年02月13日 | ECM

Alfred Harth / Just Music  ( 西独 ECM 1002 ST )


このレコードがとても気に入っている。 採譜することはきっと不可能な内容にも関わらず、ここから流れてくる断片のような音たちや氷点下の空気の
ような冷たさは自分の中にそのまましっかりと残っていて、街の中にいる時などにもなぜか時々フッと蘇ってくることがある。

例えば人はある風景を前にした時、何かしらの音楽を無意識のうちにそこに重ねてはいないだろうか。 もしくは、いつの間にか自分の中である音楽が
鳴り始めたりするようなことが。 また、音楽を聴いていると何かの光景が目に浮かぶことが。

音楽がもし通常の定義とは別に、ある風景と対になって世界を構成する機能だったり、ある情景を何か意味のあるものとして呼び出す装置として機能する
ものと定義することができるのだとしたら、私の中でこのレコードから流れてくる音たちがそのどちらをも果たす以上、その原則に沿っているのだから
私がこれを音楽として語ることはおそらく可能だと思う。 

音が鳴っている面積と音が鳴っていない面積を比較すると後者のほうがはるかに大きいにも関わらず、またそうであるが故に、断片化された音はその1つ
1つは意味を増し、重みを持っていく。 キーやハーモニーで縛られることのない、紐が解かれた花束のように、音がバラバラと落ちて散っていく様が
素晴らしい録音技術で美しく録られている。 無意味に点在するように置かれた音をその意味を図るように眺めるのは自分の中では悪くない感覚だ。

アイヒャーはプロデュースしていないとは言え、ECMがこれを出したのには音楽に関するとても高い見識を感じる。 それまでの欧州で録られていた
フリージャズが顧みて来なかったなかった美観というか、音楽のみが持つことを許されているある種の美しさがきちんと録られているところに他の
レーベルにはない自覚的な知性を見ることができる。

アルフレッド・ハルトは元々ジャズミュージシャンという括りには収まらないマチルタレントで、それが却ってよかったのかもしれない。 売れない音楽を
生業としている人らしく、作品はたくさん出しているようだ。 彼を擁護する変わり者がこうして1人くらいいても、まあ構わないだろう。



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Zoot Sims 最後の1枚

2016年02月10日 | Jazz LP (United Artists)

Zoot Sims / In Paris  ( 米 United Artist UAJ 14013 )


私にとってズート・シムズという人は、30年前に私を廃盤マニアに本格的に引きずり込んだ因縁の人。 昭和62年の11月に寺島氏の「辛口JAZZノート」
と「ジャズ批評 No.59」が相次いで出版され、前者にはフォンタナ盤のクッキン、後者に同じくクッキンとクラブ・フランセ盤が掲載されて、それまで
当時まだ地下1FにあったDU新宿店のジャズフロアで買った中古の国内盤でのんびりとズートを聴いていた私を驚かせました。

ジャズ批評は印刷の悪いモノクロ写真でその時はあまりピンとこなかったのですが、「辛口~」のほうはカラー写真だったので印象が強かったし、
「最高作ダウン・ホームと肩を並べる」という今考えると?な謳い文句のせいで、これは聴いてみたいと思うようになり、それがきっかけで都内の
廃盤専門店に本格的に通うようになった。 結局、2年ほど経ってようやく西新宿のコレクターズにこのレコードが入り、学生の慎ましいバイト代の
すべてを使ってこれを買った。 その時は、このなけなしの金を使ってしまったら(当時付き合っていた)彼女とデートができなくなる、どうしよう、と
随分悩んだものです、アホみたいな話ですが。 それだけ、今よりもずっと真剣にジャズを欲していた。

ズート・シムズという人には、どこかそういうところがあると思います。 ジャズをようやく愉しめるようになったばかりの初心者を誘惑して、ジャズの
更なる深みに引きずり込むようなところが。 アート・ペッパーなんかもそうじゃないでしょうか。 コレクター初心者が最初に引っかかる、危険な罠。
だから、ズート・シムズやアート・ペッパーのことを語るのは未熟だった自分の姿と重なるところがあってとても気恥ずかしい。 


このアルバムは、渡仏したズートがパリにある映画スタジオでピアノのアンリ・ルノーとドラムのジャン=ルイ・ヴィアールと正体不明のベーシストと一緒に
ライヴ形式で録音したと言われていて、録音年月日もはっきりしないレコード。 尤も場所はパリのナイトクラブ "ブルーノート" だったという説もあるし、
ベーシストの名前も3人くらい候補の名前が出ている。 にもかかわらず、ここでの演奏は柔和でなめらかな上質さを誇る最高の出来です。
ブルースとゆるやかなスタンダードが交互に配置されているのに弛緩したところはなく、よく伸びるロングトーンと繊細なヴィブラートが心地よい。
この人のアルバムはほとんど聴きましたが、私にはこれ以上に心に迫ってくる演奏は他にない。 アンリ・ルノーもこの演奏が一番いいと思います。
だから、私にはズートのレコードはこれだけあればもう十分です。




Zoot Sims / In Paris  ( 英国 EMI / United Records ULP 1044 )


こちらは英国盤、EMIがプレスしている。 何か違いがあるのかと思って聴いてみましたが、値段が安いということ以外、特に何がどうということもなく。
米国盤以外では日本盤とこれしか見たことはありませんが、この人の場合はもしかしたらウルグアイ・プレスがあるかもしれません。 
パリの映画スタジオでという話やベーシストが誰だかわからないという話は、この英国盤の裏ジャケットに記載されています。


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ソニー・スティットの名盤って?

2016年02月07日 | Jazz LP (Roost)

Sonny Stitt / Plays Arrangements From The Pen Of Quincy Jones  ( Royal Roost RLP 2204 )


かねてからソニー・スティットのレコードで何か1枚だけ手許に残しておこうと思ってぼちぼち聴いているのですが、どれも今一つピンとこない。 
この人の一番いいレコードはどれなんだろう? という問いが解決しない状態が長年ずっと続いています。

40年代のビ・バップ期から亡くなる80年代初頭まで現役を貫き通し、日本を愛してくれて、100枚以上の作品を残したと言われる偉大なミュージシャンですが、
ことレコード芸術ということになると、どうもこの人は分が悪い。 

パーカーに似ていると言われるのを嫌い、一時はテナーだけを吹いていたというけれど、レコードで聴く限りにおいてはパーカーを思い出すことはない。
音の張りは少し似ているけどフレーズにスピード感はなく、節回しはどちらかと言えばソニー・クリスなんかのほうに近い感じだと思います。
技術的にはものすごく上手くてハードバップの世界では吹けない演奏なんかなかっただろうし、テナーだけではなくバリトンも吹いていたから、演奏家
としては無敵の存在だったはずですが、アルトの音の質感が全体的に均一で陰影に乏しくて、このせいでどうしても単調な印象になってしまう。
演奏した音楽もブルースやスタンダードなどのハードバップスタイル・オンリーで難しいことも凝ったこともやらなかったから、結局どれを聴いてもみんな
同じで、たいして変わらないじゃないかという風になってしまう。 何にでも対応できるから、共演者にも無頓着でこだわりを見せなかった。

そんな状況を見かねたのか、ルーストが用意してくれた豪華な企画のこのレコードも本来ならこの人の代表作になってもおかしくなかったはずなのに、
やはり何かが欠けているという感じが拭えないのはなぜだろう。 バックのビッグバンドの演奏もあまりに器用に纏まり過ぎていて、スリルに欠ける。
万全の状態ではない中で作られたパーカーのストリングスものやビッグバンドものの足もとにも及ばない。

こうしてソニー・スティットの「最後の1枚」探しの旅はまだまだ続く。 終わりはなかなか見えない。



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今週のお買い物

2016年02月06日 | Jazz CD
久し振りのCDネタです。 以前ほどではないですが、現代モノもぼちぼちとチェックしています。 新旧織り交ぜていいものが見つかりました。





■ Avishai Cohen / Into The Silence  ( 独 ECM 2482 4759435 )
売れているそうである。 ECMだからなのか、アヴィシャイ・コーエンだからなのか。 誰も声高に騒がないけれど、こういう音盤が出ると黙って買って
帰って、家で静かに愛聴してるファンが実は大勢いるんだなあ、という現代のジャズ愛好家の好ましい実像が見えるような気がしました。

マイルスの第2期黄金カルテットを念頭に置いていることは明らかですが、それでも完璧にECMのコンセプトに沿ったECMらしい作品です。 現在のこの
レーベルにありがちな抽象的で退屈な曖昧さはなく、はっきりと現代のジャズを土台にした上で、今の時代においては見えにくくなった「静寂」を探して
歩くような趣きのある、静かで澄んだ音楽。 冒頭の "Into The Silence" のミュート・トランペットが物悲しく静寂を求めてさまよう様に心が揺すぶられる。
これは文句なしの必聴盤。 傑作です。


■ Stan Getz / Moments In Time  ( Resonance Records HCD-2020 )
とにかくうれしい未発表音源の発掘、1976年キーストーン・コーナーでのライヴ。 ジョアン・ブラッキーンのピアノトリオを従えたワンホーンです。
スタン・ゲッツのこういう発掘はどんどんやって貰いたい。 録音も十分な音質です。(但し、最後の曲はテープが痛んでいたようでダメ)

クラブでの演奏なので力のこもったものになっていますが、ゲッツはいつもと変わらない懐かしいあの音とプレイで、ただもうそれだけでうれしい。
選曲もとてもよく、冒頭の "Summer Night" の叙情味にこの時の演奏の素晴らしさが集約されています。 もうこれ以上の哀感は表現できないのでは、
と思わせるメロディアスな主題のラインにうっとり。 ああ、スタン・ゲッツは本当に素晴らしい、と胸に込み上げてくるものがあります。
これはしみじみと聴き入ってしまいます。


■ Jacob Garchik / Ye Olde  ( Yestereve Records 05 )
サン・フランシスコ生まれで現在はブルックリンを拠点に活動するトロンボーンをメインにしたマルチ奏者で作曲も精力的にする若手のアルバム。
3本のギター、ドラムに自身のトロンボーンという異色の編成による非常に意欲的な音楽で出来もよく、驚きました。

リー・コニッツのノネットに参加したり、クロノス・カルテットやブラックストンらとも活動を共にするなど、東海岸の先鋭的な音楽シーンで活動して
いるようです。 そういうこともあって、このアルバムもフリー/アヴァンギャルドのコーナーに分類されていましたが、内容はそういうジャンルにも
当てはまることはないもので、ギターにはディストーションがギンギンにかけられているのでハード・メタルっぽい雰囲気がベースになっていて、
そこにトロンボーンのくすんだ音が乗っかって展開していく、これがちょっとカッコいい音楽になっています。

TVのCMやサスペンス・ドラマの背景に流れると話題になりそうなイカした曲もあり、これはなかなか聴かせます。 ロックのフィーリングがとても上手く
取り込まれているのにロックともジャズとも違う独自に質感を持ったところにほとばしる才能を感じます。 ちょっと注目していこうと思いました。



Denny Zeitlin / Cathexis  ( Columbia CL 2182 )

コメント欄で薦めていただいたデニー・ザイトリン、まずは初リーダー作を聴いてみたかったので新品廉価CDを求めてDUに行くも、在庫切れ。 中古も出て
おらず、人気があるんだなあと驚きながら中古レコードを探してみると、ちゃんと在庫がありました。 急に聴きたくなったものがロスタイムなく買える、
DUはこういうところが凄い。

調べてみると単に私が知らなかっただけで、昔から誰もが認める鉄板人気アーティストだったんですね。 どうやって発掘されたのかはよくわからない
けれど、いきなり最大手のコロンビアからデビュー作が出るんだから、当時はアンファン・テリブルとしてさぞ騒がれたんだろうと思います。

聴いてみるといきなり1曲目でガツンとやられて、なるほどなるほど、こりゃあみんなやられるわけだ、と思いました。 知的で力強くクリアなタッチ、
劇的な展開を持つオリジナル曲、優れた録音、中だるみしそうになると "Round Midnight" で幻惑したり、と緩急も自在。 私は "Blue Phoenix" が
気に入りました。 セシル・マクビーのベースもよく効いていて、サウンド面の快楽度も高い。 コロンビアが喜びそうなわかりやすさで全体が上手く
まとめられています。 残りのコロンビア3作も順次聴いていこうと思います。


コメント (4)
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