廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

パーカー、禁断のレコード

2019年08月31日 | Jazz LP

Charlie Parker / A Night At Carnegie Hall  ( 米 Birdland BLP 425 )


ダイアル・レーベルを興したロス・ラッセルが書いたチャーリー・パーカーの評伝を読んでいると、ドキッとする記述に出くわす。

"1947年9月29日の夜、カーネギー・ホールで行われた演奏は劇場の階上にある録音設備で収録された。アセテートのマスターから複製が作られて、
海賊盤ができ、ブラック・デュウスという気まぐれなレーベルの名前から3枚組の78回転レコードが発売された。カーネギー・ホールの夜―と銘打った
そのブラック・デュウスのレコードは大きなレコード店のカウンターで堂々と売られていた。ブラック・デュウスはオフィスがどこにあるのかも知られて
いず、いったい誰がやっているのかもわからなかった。小売店は現金買取でレコードを仕入れた。取引の記録は一切残されていない。何軒かの大手の
小売店に発売禁止命令が出されると、レコードはやがて店頭から消えた。最終的には原盤はサヴォイが買い取り、正式な手続きを経て同レーベルから
発売されることになった。"

如何にもレーベル・オーナーだったラッセルらしい記述で、普通の評論家には書けない視点だ。 結局この演奏はいろんなレーベルからいろんな形で
世に出ていて今では簡単に聴けるわけだが、33回転LPの初出がこの10インチ盤になる。 残念ながら"Ko Ko"が未収録だが、おそらくスペースの都合で
落とされている。

このコンサートはビ・バップを広く一般に紹介するために開かれたもので、メイン・イヴェントはガレスピーのビッグ・バンドだった。 そこにパーカーは
ヨレヨレで虚ろな目をして現れたが、演奏は短いながらもいつものキレッキレのフレーズを決めている。 芳醇でファットな音量で、正に"神アルト"。
長いジャズの歴史の中でも、結局、この人を超える者は誰1人現れなかった。

パーカーの演奏の部分のみを生かして途中で曲がカットされている、パーカーのレコードではお馴染みの編集手法だし、"Birdland" というテキトーな
レーベル名で他に発売されたタイトルも見当たらないことから、誰がこのレコードを作ったのかはおおよその見当は付く。 誰とは言わないが、それは
おそらくブラック・デュウスというSP盤を作って平然と売り出したのと同一人物で、その謎の人物はここでも暗躍していたわけだ。 大らかと言えば
大らかな時代で、こういうことができる隙間がいくらでもあったというのは、今のこの世知辛い世の中から見ると羨ましい気がする。

禁断の海賊盤とは言え、カーネギー・ホールの録音機材で録音されているから、47年にしてはまずまずの音質で、デッカ・カーヴで聴けば十分に楽しめる
レコードだ。 いい加減なレコード制作の時代に生きたパーカーの演奏は正規盤よりも海賊盤のほうが遥かに数が多く、その殆どが聴くに耐えない音質
だが、その中ではこれはかなりマシだと言っていい。 熱狂的なマニアが録音技術という当時は目新しかったテクノロジーに出会った時、彼らは仕事を
辞め、ポータブル録音機器を買い込んでお目当てのアーティストの行く先々に現れては舞台裏の薄暗い階段やトイレの前で息を殺して録音した。
そういうマニアがいてくれたからこそ、我々はこうしてその恩恵に与かれる。 彼らは師の福音を後世に伝えたキリストの12人の使徒と同じだった。
唯一違っていたのは、片方は禁欲的にやせ細った崇高な姿で、もう片方はクスリでドロンと濁った眼をした享楽的に太った男だったということだ。

それでも、パーカーの演奏はどれだけ音質が悪かろうと聴きたくなる。 人生を投げうってストーカーと化した男たちの気持ちが私にはよくわかる。

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ごった煮の中で光る抒情

2019年08月25日 | Jazz LP (Prestige)

Jaki Byard / Solo Piano  ( 米 Prestige PRST 7686 )


このアルバムを聴いていると、ソロ・ピアノでアルバムを作るというのは難しいことなのだということを改めて思い知らされる。 ピアノという楽器は
メロディー、和音、リズムを1人で演奏できるので、ソロ演奏することが大前提になってはいる。 ただそれをジャズという音楽領域でアルバムという
形にすることは、クラシックとはまた違う難しさがあるのだということがよくわかる。

収録された楽曲の半分以上がバイアードの自作であるが、それらも含めてほとんどの曲がオールド・タイム・ジャズの形式や色調を帯びている。
ファッツ・ウォーラーやアート・テイタムの、あの世界。 ただ、もちろんそういう古風な演奏の再現をやっているわけではなく、それを土台にして
自身のオリジナルな演奏を展開している。 彼はショパンやストラヴィンスキーなどの近代作曲家を独自に研究していたそうだが、ここでの演奏には
単なるジャズの語法だけには終わらない、近代クラシックピアノ音楽の要素が同居している。 

キャリア初期はボストンで活動していてニューヨークに出てくるのが遅かったことや、移住後すぐにミンガスやドルフィーと活動したため、何となく
ニュージャズ世代の人という印象があって、こういう古いタイプの音楽をやっているのを聴くといささか面を喰らう。 自身のルーツを棚卸しして
自身のジャズピアニストとしての総括をしようとしたのかもしれない。 一聴して一番近い雰囲気として思い出されるのは、セロニアス・モンクが
コロンビアに残したソロ・ピアノ集だ。 

ただ、バイアードのピアノはストライド奏法だったり、クラシカルなタッチだったり、といろんな要素がごった煮にされている感じで、この人自身の
オリジナルなピアノ演奏のスタイルが確立されているとは言えない。 モンクのソロ・ピアノとは当然そこが決定的に違う。 器用に何でもこなせる
けれど、これぞバイアードのピアノだというものは見られない。 そこにこの人の哀しみがあったのだと思う。

唯一強く印象に残るのは、"Hello, Young Lovers" や "Do You Know What It Means To Miss New Orleans" でみせる濃厚な抒情感。
前者は若い頃のシナトラも真っ青のドリーミーさだし、後者の夕暮れ時を想わせる切ない哀感は素晴らしい。 このあたりはジャンルの狭い枠を
大きく超えた表現力を発揮していて、一音楽家としては際立っていたことを伺わせる。 

プレスティッジ時代の作品は一癖あるものが多いので、そういう意味ではこのアルバムは彼のピアノを純粋に堪能するにはちょうどいい。 
色々と感じるものはあるから、これを聴いてバイアードという人への理解がもっと進んでくれればいいのにと思う。


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何かカッコいいジャズを、と問われたら

2019年08月24日 | Jazz LP (Impuise!)

Elvis Jones And Richard Davis / Heavy Sounds  ( 米 Impulse! AS-9160 )


ジャズ好きを公言していると、「何かカッコいいジャズを教えて!」と求められることがある。 そんな時に間髪入れず答えられるようにしておくのが
紳士の嗜みというものであろう。 そして、そういう時は気色ばんで喋ってはいけない。 あくまでもクールに対応してこそ、である。

さらにやってはいけないのは名盤100選の皆さんを挙げることである。 名盤100選のタイトルはもちろん名盤で人に推すには何の問題はないし、
どこに出しても恥ずかしくないものばかりだが、カッコいいジャズを所望している目の前の人はそういうものを期待してはいない。 そういう時に
サキコロだのカインド・オブ・ブルーの名前を出そうものなら、「ああ・・・」と軽い失望感の混ざった力ないリアクションが返ってきて、場は気まずい
雰囲気に覆われるだろう。 相手はディープなジャズおたくしか知らないディープな情報を求めているのであって、そういう機微な感覚を理解しない
野暮なやつだ、と思われるとジャズの話ができる友人は増えていかない。 尤も第一問で正解を出してしまうと、もっと教えて、だの、次は?だのと
矢継ぎ早に質問の刃が飛んできて、それはそれでウザいことになる訳だけど。

私がこの手の質問をされたら真っ先に挙げることにしているのがこの "Heavy Sounds" である。 このアルバムは別にマニアしか知らないディープな
ものということでは全然ないが、このアルバムを推すと2つのいいことがある。 1つ目はこのおどろおどろしいジャケットに恐れをなして半分くらいの
人が実際には聴くことなく終わり、第2の矢が飛んでこないというメリットがあること。 もう1つは本当に最高にカッコいいということである。

エルヴィンとデイヴィスのサウンドを核にして寡黙なピアノとテナーが寄り添うサウンドが非常にハードボイルドでダンディでカッコいいのである。 
私は普段フランク・フォスターのテナーを聴いて感動することなどないんだけれど、ここでのテナーは最高にカッコよくてシビれる。
こういう意外とモダンなフィーリングで吹いていることに驚かされるが、音色もしっとりと深く艶があり、なめらかなフレージングと抑制された
音数に男の色香が漂う。 これこそが我々が求めてやまぬテナーの理想ではないか。

エルヴィンがアコギでブルースを弾く曲も余技とは思えぬ味わいがあり、見事な出来だと思う。 楽曲もメロディー重視の良い曲が並んでいる。
デイヴィスのベースもクッキリとした音像で録れているし、インパルスのステレオサウンドも極めて良好な仕上がりで音楽に多大な貢献をしている。
RVGが絡んでいないので非常にナチュラルな音場感で、そのクセのなさがこの音楽の元々持っているカッコよさをそのままストレートに表現している。

ジャケットから受ける印象からはほど遠いカッコよさで、これではさすがに冒頭のわがままな客もグーの音も出ないだろう。 


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2019 夏休みのお買い物

2019年08月21日 | Jazz雑記
夏休みの空き時間はいつも通りブラブラと猟盤して過ごした。 

大型セールには興味が湧かない。 その前後の方が圧倒的に面白いのだ。

ゆったりとした気持ちで売れ残りを漁る。 すべて割引き対象だった。




ディスクユニオン新宿ジャズ館にて、ダラー・ブランド祭り。 B.テイトとの共演盤、びっくりするほど音がいい。 知らなかった。

もちろん、どちらも安レコ。





ディスクユニオン吉祥寺ジャズ館にて。 どちらも千円なので半端だけど、まあ、いいか、と。





HMVコピス吉祥寺にて。 

ミルト・ジャクソン盤はあまり面白くないんだけど、イマドキ1500番台の完オリ美品が2万円で買えることはないので、

取り敢えず拾っておく。 タル・ファーローは盤もジャケットも新品同様で驚いた。 きれいなものは無い、と諦めていたから。

これが一番うれしかったなあ。



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リーダー作があまりない人 ~その4~

2019年08月18日 | Jazz LP (Storyville)

Ellis Larkins / Perfume And Rain  ( 米 Storyville LP 316 )


エリス・ラーキンスをこのタイトルで括るのはおかしいかもしれない。 デッカにリーダー作が数枚残っているし、近年にも数枚リリースされているし、
伴奏者としても多くの演奏が残っている。 しかしデッカのアルバムは軽音楽の度合いがより強くて私のようなジャズオヤジには手を出しにくいし、
伴奏物はあくまでも伴奏者としての演奏なので本人の本領が発揮された内容とは言えない。 そう考えると、目ぼしいところはストーリーヴィルの
2枚ということになる。 実際のところ、エリス・ラーキンスのアルバムは?と言われれば、その2枚以外は頭に浮かんでこないのである。

趣味の良さでは右に出る者はおらず、レイドバックした内容とは言え、完成した世界がある。 このピアノを聴いていると、案外レッド・ガーランド
なんかもここを目指したんじゃないかと思えてくる。 2人の音楽の質感には似ているところがある。 

歌伴でもソロでも決してペースを崩すことなく、出しゃばったり脱線することなく、淡々と弾き続ける。 そういう穏やかな演奏を聴いているうちに、
音楽は目に映る光景や記憶の中にじわじわと溶け込んでいき、ピアノ音楽を聴いているという感覚はゆっくりと消えていく。 時間の感覚を失った
ようにゆらゆらと漂う感じが続き、気が付くと音楽が終わっている。

誰かと競うことなく、争うこともなく、自分らしさを貫いた人だけが作れる世界だろう。 それを維持し続けるには相応の厳しさも必要だったはずで、
そういう中で贅肉は落ち、純度は上がっていき、まるで美しく研ぎ澄まされた工芸品を見ているような感覚になる。

少しくぐもったような音場感なのに音楽は凛として鳴っている。 脆く繊細なようでいて、容易には壊れない芯の強さをも感じる音楽である。




Ellis Larkins / In An Ellington Mood  ( 米 Storyville STLP 913 )


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リーダー作がほとんどない人 ~その3~

2019年08月17日 | Jazz LP (Jazz Line/Jazz Time)

Dave Bailey Sextet / Bash !  ( 米 Jazz Line JAZ-33-01 )


フランク・ヘインズの場合はリーダー作がほとんどないどころではなく、1枚もない。 "Frankly Speaking" というタイトルのリーダー作を録音したが、
発売されなかった。 理由はよくわからない。 テープを探し出してディスクユニオンあたりから発売してくれないだろうか。 
そうすればちょっとした事件になる。 どうでもいいアート・ペッパーの再発なんかやってる場合じゃないだろうと思うんだけれど。

共演で参加したアルバムがさほど多くないにもかかわらずマニアの間でその名前がよく知られているのは、デイヴ・ベイリーの稀少盤に参加している
からだ。 稀少な高額盤にメンバーとして入っているからそれに引きずられて演奏もなんだか良く聴こえるというパターンで、過大に評価されがちな
ところがあるのがちょっとどうかとは思うが、例えばこのアルバムの場合だとドーハムやフラーがショボショボのプレイをしているせいで骨太で
しっかりしたテナーの音色が1番立派に聴こえる。 ロリンズの曲をやっていることもあり、無意識のうちにロリンズの影がちらついたりもする。

プレイは非常に安定していて、音色もテナーという楽器の良さがよく出ている鳴り方だ。 吹き方にも勢いがあるし、フレーズもなめらか。
リーダー作があってしかるべきだと思うけれど、一番いい時期に録音までされたのにリリースがなかったというのは本当にツイてない。 
1965年に37歳の若さで亡くなったというのだから、思い残すことがたくさんあっただろうと思うと本当に気の毒になる。

この "Bash!" というアルバムは傑作が連なるデイヴ・ベイリーのアルバム群の中では内容的には出来が落ちる方だと思う。 でも、日本ではこの
アルバムは一定の人気があって、その中で奮闘しているヘインズのことに目を向けて好きになる人が多いのはとてもいいことだと思う。
リーダー作がなくても、見ている人はちゃんと見ているということだ。

それはそうと、デイヴ・ベイリー名義のアルバムを聴いていると無駄なソロパートを作って叩きまくったりしない奥ゆかしさに心底感心してしまう。 
例のお方にその爪の垢を煎じて飲ませてやりたいと思うのはきっと私だけではないだろう。





このアルバムジャケットの裏面にヘインズの貴重な顔写真が載っている。


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リーダー作がほとんどない人 ~その2~

2019年08月16日 | Jazz LP (Savoy)

Allen Eager / New Trends In Modern Music Vol.2  ( 米 Savoy MG-9015 )


一般的にアレン・イーガーに最も触れる機会が多いのは、トニー・フラッセラのアトランティック盤だろう。 共演者としての参加なので演奏を十分堪能
できるというほど聴けるわけではないが、それでも "His Mastre's Voice" や "Blues Serenade" の淡麗な語り口に魅了されない人はいないだろう。
よし、ではリーダー作を探そうということになる訳だが、これが途方に暮れてしまうことになる。

この人の単独リーダー作はSP音源を集めたサヴォイの10インチが2枚、81年のUptown盤、日本でリリースされた放送音源くらいしかない。 後者の2枚は
どうも食指が動かず未聴のままなのでどういう内容なのかはわからない。 前者の2枚は若い頃の短いSP録音なので、あまり楽しめる内容とは言い難い。
サイドメンとして参加しているものはそこそこ残ってはいるけれど、それはあくまでサイドメンとしての演奏で本人の実像にはなかなか迫れない。

この人の略歴はWikipediaに詳しく出ているので割愛するが、ドラッグ問題でシーンからは早々に離脱したというお決まりのパターンだったようだ。
時々思い出したように楽器を手に取ったみたいだが長続きしなかったらしく、これではリーダー作どころではなかっただろう。 いいテナーを吹くので
ただただもったいない。 別に音楽なんてやらなくても人間は生きていけるから他人がとやかく言う話ではないが、それでも彼の演奏の片鱗に触れた
ことがある人からすれば、もっとその演奏を聴いてみたかったと思うのが人情ではないか。

40年代後半のサヴォイと言えば当時のトップ・レーベルであり、自己名義で録音できるというのはかなり凄いことだったはずで、それなりにジャズ界では
注目されていたということだ。 このアルバムでも粗削りながらも覇気のある演奏をしており、あともう少し持ちこたえていれば我々レコードオタクを
喜ばせる作品が残ったに違いない。 それぞれ事情を抱えていたと言え、こういう無いものねだりをしたくなるミュージシャンが当時はたくさんいた。


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リーダー作のほとんどない人 ~その1~

2019年08月15日 | Jazz LP

Buddy Childers / Sam Songs  ( 米 Liberty LJH 6009 )


その名前はそこそこ知られているのになぜかリーダー作がほとんどない人がいる。 その理由は様々なようで、ビッグ・バンドでの活動がメインだった、
定住を嫌い放浪癖があった、麻薬の不法所持で監獄にいた、ソロでは喰っていけず辞めた、人生いろいろである。

このバディ・チルダースもビッグバンドの活動がメインだった人でリーダー作はほとんどないけれど、このお題にもっと適した人がこの中にいる。
それはテナーのハービー・スチュワードである。

ウディ・ハーマンの1947年のセカンド・ハードにいた4人のサックス奏者がフォー・ブラザーズと呼ばれて有名になったのはよく知られている。 
スタン・ゲッツ、ズート・シムズ、サージ・チャロフ、そしてこのハービー・スチュワードだったが、彼はソロをあまり取らせてもらえないという
理由でこのビッグバンドを半年も経たないうちに辞めている。 その後もミュージシャンとして活動していたようだが、その足跡はよくわかって
いない。 共演者としての参加だったり、10年に1枚程度のリーダー作(これが誰にも知られていない)があるだけで、事実上、レコード産業とは
無縁の人生だったようだ。 どうやら性格的に難しいところがあったみたいだけれど、それにしてもこの有り様は酷いものである。

このアルバムを聴くと、スチュワードのテナーの上手さと存在感に驚かされる。 チルダースには申し訳ないが、いつの間にかテナーの音色ばかりに
気を取られて、ラッパのことはつい忘れがちになる。 展開される音楽は特に印象に残るところはなく、Sam という名前が入った曲で構成されている
とは言え、知っている曲は1つもなく、音楽としての愉しみは希薄だ。 ただ、その個性の無さが楽器の演奏や音を浮き彫りにしてくれる。

久し振りにこれを再生した時(既に内容のことは何も覚えていなかったが)、共演者のことなど何も気にかけることなく聴いていたが、すぐにテナーの
魅力に耳が釘付けになり、ジャケットをよく見てみるとそれがハービー・スチュワードだということがわかった。 ズートをもっとナチュラルな感じに
したような音色とフレーズ作りが素晴らしい。 アドリブラインもなめらかで自然に流れていく。

50年代にリーダー作がないことがつくづく惜しい。 こういうミュージシャンがゴロゴロいるというところに、アメリカのジャズの凄さがある。


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異様なほどの静けさ

2019年08月14日 | Jazz LP (Riverside)

Chet Baker / Chet  ( 米 Riverside RLP 12-299 )


ラーナー&ロウ集の半年前に同じメンバーによって録音されたもう1つのアルバムで、こちらは一般的なスタンダードで固められた。 ペッパー・アダムス
のバリトン、ハービー・マンのフルートという人気のない2人が入っていて、楽器の組み合わせとしても異色な構成だが、これが不思議とベストマッチな
相性を見せている。 そして極めつけはビル・エヴァンスで、このしっとりと落ち着いた雰囲気は "Blue In Green" や "Flamenco Sketch"の世界観だ。

異様に遅いテンポの中、管楽器を重奏させずに各々のソロを繋いでいくやり方がこのアルバムの成功の要因だ。 特に目立つのがペッパー・アダムスの
深く重い音色で、トランペットやフルートの高音域帯との見事な対比を見せる。 エヴァンスも極力音数を減らし、全体的に隙間が多く、広い空間が
拡がっていく。 弾かないこと、吹かないことに徹する美学に貫かれたアルバムだ。

チェットのトランペットはヴィブラートが一切ないフラットな音で、金属感のない柔らかい音色で非常に安定している。 こういう音色はマイルスや
チェット以外では聴いたことがない。 チェットが楽器の演奏についてどう考えていたのかは語録が見当たらないのでよくわからないけれど、人と違う
音を手に入れるためにはそれなりの苦労があったのだろうと思う。

ジャズの喧騒感とは一切無縁のこの静かさは一体どこから来るのだろうか、と聴く者を考え込ませてしまう何かがここにはある。 元々チェットの作品
には独特の静寂感があるけれど、これはちょっと行くところまで行った感がある。 リヴァーサイドの制作陣がチェットのそういう特質みたいなものを
わかった上でこれを作ったのだとすればすごいことだ。 このレーベルにはこういう作品を作る芸術的に秀でた力があり、それがブルーノートや
プレスティッジとは一味違うところだったのだと思う。






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アラン・ジェイ・ラーナーとフレデリック・ロウ (2)

2019年08月13日 | Jazz LP (Riverside)

Chet Baker / Plays The Best Of Lerner And Loewe  ( 米 Riverside RLP 12-307 )


ラーナー&ロウ作品集と言えば、ジャズ界ではこれが一番知られているのではないだろうか。 但し、それは内容が優れているからということではなく、
目にする機会が圧倒的に多いからである。 このレコードはとにかくよく出てくる。 比較的足も速くて程なくして店頭から姿を消すけれど、またすぐに
出てくる。 売りやすく、買いやすいレコードということだ。 これはとてもいいことだと思う。 回転が速いというのはそれだけ愛好家の手に触れる
機会が多いということだし、店側にとっても儲けが出やすい。 中古レコードというのは売る側にとっても買う側にとっても回転率が命なのだ。

このアルバムには "The Heather On The Hill" という名曲が入っていて、チェットが静謐なバラード奏法で悩殺してくる。 ラーナー&ロウの曲は
おふざけモードの楽曲がある一方でこういう素晴らしい名曲もあって、その辺のバラエティー感が当時は受けたのかもしれない。 ガーシュインや
アーヴィング・バーリンのような大家ではなく、通好みのソング・ライター・チームとしてアルバムも作りやすかったのかもしれない。

東海岸のレーベルにとって50年代後半のチェット・ベイカーは喉から手が出るほど欲しい存在だったようで、リヴァーサイドも豪華なメンバーを揃えて
チェットのレコーディングを御膳立てした。 たくさんの管楽器がいる割には変なアレンジを施さずに全体を上手くまとめたセッションに仕上げている。
有名なメンバーを要所要所で登場させる贅沢な作りになっていて、まるで後期スティーリー・ダンのようだ。 チェットはドラッグ漬けで体調が悪かった
ようで、基本的には原曲のメロディーをなぞるように吹き流すだけだが、そこがかえって良かったように思う。 イージーリスニング風にもならず、
不思議とジャズのとてもいい雰囲気に満ちた作品になったのは幸いだった。

風呂場で録音したような過剰な残響感は評価が分かれるところだが、私はこの奇妙なサウンドが結構好きだ。 変にデッドで乾いた音場感でなくて逆に
良かったと思う。 チェットの妖しい雰囲気、ペッパー・アダムスの深いバリトンの音色、エヴァンスの知的なタッチがよく映える音場感になっている。
リヴァーサイドらしい柔らかい質感がとてもいいと思う。


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アラン・ジェイ・ラーナーとフレデリック・ロウ

2019年08月12日 | Jazz LP (RCA)

Shorty Rogers / "Gigi" In Jazz  ( 米 RCA Victor LPM-1696 )


ラーナー&ロウの作詞・作曲コンビで一番有名なのは何と言っても "My Fair Lady" だけど、その後にもいくつか映画音楽を作っていて、その中の1つが
この "Gigi" になる。 私自身はこの映画は観たことがないし、映画そのものもあまりヒットはしなかったようだ。 マイ・フェア・レディの後に
作られたのでそれなりに派手なパブリシティーをかけたようで、映画の公開後すぐにこのレコードも作られている。

ショーティー・ロジャースはジャズ・ミュージシャンというよりはハリウッドのスタジオ・ミュージシャンとしての仕事のほうが比重が大きかったようで、
有名な割にジャズ愛好家からはまともに相手にされない。 私もこの人は苦手でこれまでまったく手を出せずにいたが、このアルバムはすっきりとした
演奏で悪くないと思った。 メンツだけ見ると典型的な西海岸ジャズで一番苦手なタイプだが、ピート・ジョリーとラルフ・ペニャが入っていることから
試聴してみると如何にもRCAらしい清潔な内容で、変なアレンジも施されておらずちゃんと聴ける内容だった。

西海岸のジャズはハリウッド映画産業と共に育つというちょっと特殊な構図の中にあったので、東海岸のハードバップとは当然まったく異なる進化を
遂げている。 それはあくまでも娯楽としての音楽であり、ジャズという音楽をしょって立とうという気概はなかったように思う。 東海岸でジャズが
どんどん変化していったのに比べて西海岸のジャズがそのフォームを変えることなくずっと安定していたのは、まずは人々に提供される娯楽としての
使命があったからかもしれない。 そのためにジャズミュージシャンの多くがスタジオに入り、小銭を稼いでいたのだろう。

ショーティー・ロジャースは良くも悪くもそういう中の代表格だったように思う。 トランペットの腕前は確かだし、音楽作りのバランス感もあって、
基礎がしっかりとしている印象を受ける。 このアルバムを聴いていると、タイプが違うというだけのことであって、何も東海岸のジャズばかりが
一流ということではないんだろうなあと思えるようになってくる。 少なくとも、コンテンポラリーやパシフィックジャズというレーベルの中の
一定数の作品群よりはこちらのほうがずっと本流のジャズに近いような印象を受ける。 もう少しこの人を聴いてみるか、という気にさせてくれる
アルバムだった。


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ドルフィー最後期の姿と倒れるほどのハードな行軍

2019年08月11日 | Jazz LP

Charles Mingus / The Great Concert Of Charles Mingus  ( 仏 America Records 33 AM 003-004-005 )


ドルフィー、ジョーダン、コールズの3管を擁したバンドは精力的にライヴを行ったが、そのハイライトは欧州へツアーへ出かけたことだろう。 
この時の演奏は各国で録音されていて音源はたくさんあるが、すべてを揃えて聴くのはちょっとしんどい。 その中で一番ボピュラーなものがこの
タイトルだが、これですら3枚組という重厚さ。 ドルフィー最後期の姿が記録されているという意味でジャズ史的には重要な演奏になるはずだが、
なぜかドルフィー愛好家たちはこの時の演奏にはさほど興味を示さない。 やはりリーダー作じゃないと面白くないということか。 
まあ、デッドなモノラルサウンドだし、そこも嫌われる要因なのかもしれない。

18日間で9ヶ国17都市を回るというハードスケジュールで、フランスに入った初日の夜、"So Long Eric" の演奏中にジョニー・コールズが倒れて
しまい、急遽アメリカへ帰国するハメになった。 この録音はその翌日の公演なので基本的に2管演奏なのだが、1曲目の "So Long Eric" は前日の
コールズが倒れるまでの演奏と翌日の彼のいない演奏を繋ぎ合わせるという荒業で編集されている。 ミュージシャンも楽な商売じゃない。

ドルフィーのソロが始まるとさすがに場の空気は彼の色に染まるけれど、クリフォード・ジョーダンもジャッキー・バイアードもよく健闘している。
セットリストはお馴染みの曲ばかりなので、演奏も手慣れたものだ。 それはミンガス的予定調和かもしれないけれど、ハードな行軍の中では
ステージ上で新たな冒険をする余裕などあるわけもない。 シャンゼリゼ劇場の観客の盛り上がりは凄まじい。

そういうミンガス・ミュージックの総決算的内容を聴いていると、演奏力が高くないとこの音楽の良さは表現できないんだなということが実感として
わかってくる。 ちょうど、モンクの音楽をチャーリー・ラウズが支えていたように。 ただ単に楽器の扱いが上手いということではなく、曲想を理解
してそれを表現するということに長けた者だけがこの音楽を演奏することを許される。 "フォーバス知事の寓話" でのジョーダンの演奏を聴くと、
他のレーベルでは聴けない彼の本音がわかるような気がする。

このツアーが終わった後、ドルフィーはアメリカには戻らず、2カ月もしないうちに亡くなる。 彼の体調の悪さは顕著で、このツアーのギャラ配分は
ドルフィーのみ病院での治療費が上乗せされた。 欧州に残ったのはアメリカに戻っても演奏のスケジュールがなかったからだと言われているけど、
本当の心情はどうだったのかはわからない。 私には、それは亡くなる際には人前から姿を隠して1人静かに逝く猫の姿に重なる。


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難しい時期の演奏記録

2019年08月10日 | Jazz LP

Charles Mingus / My Favorite Quintet  ( 米 Charles Mingus JWS 009 )


ドルフィーが亡くなった後、フロントを刷新してライヴをした模様を収めたアルバム。 ドルフィーの後釜に座った気の毒なマクファーソンは指示を
受けたのか自ら進んでそうしたのかはよくわからないけれど、精一杯ドルフィーを演じている。 トランペッターもコールズを比べると格落ちで、
管楽器群が一時的に弱くなったのは、まあしかたないのかもしれない。

そのせいか、セットリストもスタンダードが半分を占めていて、ミンガスらしくない内容だ。 このバンドがスタンダードを演奏しても、それはいわゆる
スタンダードを美しく聴かせることが目的ではないわけで、バンドの音楽性を表現するには不向きな器だった。 そういう根本的なところがうまく噛み
合っていないせいで、おとなしい印象だ。 ライヴらしいおふざけタイムもあって会場の雰囲気はとてもいいが、ミンガスの音楽を聴こうとする向きには
いささか拍子抜けする。 特別な音楽の記録ということではなく、ミンガスがたまに見せる陽気で朗らかな一面を切り取ったポートレートだった。

このライヴが行われた頃はマイルスやコルトレーン以外のジャズミュージシャンたちは一体何をすればいいのかよくわからなくなっていた時期で、
それはミンガスも同じだったのかもしれない。 残酷なことに、ここでミュージシャンたちは一旦ふるいにかけられることになる。 そして残った
ミュージシャンたちは徐々に幅を利かせてくるロックの波に揉まれながら自分の道を模索することになる厳しい時代に入っていくのだ。

ミンガスが興したこの自主レーベルからのレコードリリースもこの後のUCLAでのライヴが最後になり、その後はミンガスのレコードを追い駆けるのは
難しくなる。 60年代の後半の5年間はミンガスでさえ音楽活動するのが難しくなる、ジャズミュージシャンにとっては一番つらい時期だった。
これはそのギリギリの際でミンガスが何をやっていたのかがわかる貴重なアルバムで、そういう背景がわかっていても聴いていて切なくなってくる。


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ドルフィーだけが素晴らしいわけではない

2019年08月04日 | Jazz LP

Charles Mingus / Town Hall Concert, 1964, Vol.1  ( 米 Charles Mingus JWS005-S )


ジャッキー・バイアードの美しいピアノが聴けるアルバムとして私の中で不動の地位を占めるのは先のピアノトリオではなく、こちらの方。 B面冒頭の
ドルフィーのフルートへのブリッジの美しさは忘れ難い印象を残す。 巨大なミンガス六重奏団の音楽の塊の中でも、バイアードのピアノは随所で光る。
このアルバムの一般的な焦点はドルフィーの演奏になるわけだが、私にはそれと同じくらいバイアードのピアノの印象が強い。

ドルフィーが亡くなる2カ月前のライヴであり、ここでの彼の演奏は意外と穏やかだ。 ミンガス・バンドの一員という立場だったこともあるだろうけど、
それにしても全盛期の彼の演奏を想うとこの演奏はおとなしめではないだろうか。 おそらく体調が既にあまりよくはなかったのではないかと想像する。
元々ドルフィーが嫌いな私にはこれくらいがちょうどよく、他のメンバーとのバランスのよさからこのアルバムは好きでよく聴く。

ブルーノートやリヴァーサイドのリーダー作を聴いてもどこがいいのかさっぱりわからないクリフ・ジョーダンも、同じくエピック盤を聴いてもどこが
いいのかさっぱりわからないジョニー・コールズも、ここでの演奏はまったく別人のようで圧倒的に素晴らしい。 特にジョニー・コールズの音色の良さ
が強く印象に残る。

アンサンブルにこだわり、楽曲そのものにもこだわったミンガスらしく、演奏力の際立つメンバーを擁したバンドでのライヴであっても音楽を俯瞰的に
眺めたコントロールが効いており、演奏の素晴らしさだけではなく音楽的な感動もしっかりとやってくる。 急逝したドルフィーへの追悼盤として
リリースされたという要素を抜きにしても、素晴らしい音楽として聴くことができる。 残念なのはこの1枚では短すぎるということくらいだ。

自主レーベルにも関わらずプレスの品質が良く、音質も何も問題ない十分なレベル。 debutレーベルの時の反省が効いているのかしれない。
もっとたくさんレコードを出して欲しかったと思う。

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試行錯誤の時期

2019年08月03日 | Jazz LP (Prestige)

Jaki Byard / Hi-Fly  ( 米 New Jazz NJLP-8273 )


ジャッキー・バイアードへの入り口は大抵ミンガス経由かドルフィー経由だろう。 その他ブッカー・アーヴィンやフィル・ウッズなど管楽器奏者たちとの
セット販売で語られる程度で、ピアニストとして独立した話になることはほとんどない。 ありきたりのピアノに飽きた頃に手に取って、今までには
ない質感にマニア心がくすぐられるタイプのピアニストだろう。

この人のピアノははっきりしない。 全体的にレガード過ぎてフレーズがはっきりしないし、不協和音や無調っぽいことをやろうとしても長続きせず
すぐに諦めてしまう。 ニュー・ジャズの全盛期に表舞台に立ったせいもあって、ありきたりなものはやらないぞという気持ちがあったのだと思うけど、
ピアノの腕が気持ちに追い付いていないところがあって、十分にはじけるところまでには至らなかったような印象がある。

このアルバムでは有名スタンダードを取り上げているが、とても独創的なアプローチをしていて印象的だ。 楽曲を壊すことなく、元々の曲想の核を
更に前に推し進めたような表現をしていて、そこには強い才能を感じる。 ただ、それがメロディー部分だけの演奏で終わっていて、その先への発展に
繋がらないのが惜しくて、聴き手には消化不良感が残ってしまう。

そんな中で唯一際立って素晴らしいのは、自作の "Here To Hear"。 幻想的な曲想の中から切ない情感が溢れ出す素晴らしい楽曲と演奏で、これは
圧巻の出来。 このアルバムはまだキャリアの浅い時期の作品でいろんなスタイルや要素を試していた時期だけど、この楽曲でやろうとしたことは
独創的で素晴らしく、この路線を推し進めても良かったんじゃないかと思う。 "Lullaby Of Birdland" や "Round Midnight" のメロディーの繊細な
取り扱い方なんかを聴いていると、この人は拠点を欧州に移してECM辺りからアルバムを出していれば大化けした可能性があったんじゃないかと思う。

このアルバムはこの人の代表作と言われるけれど、実際はこの後にミンガスのバンドで鍛えられることになるので、音楽家としてのピークはその後に
やってくる。 代表作というのはちょっと言い過ぎで、実際は試行錯誤の記録だと思う。

オリジナル盤はヴァン・ゲルダーが関与していて、典型的なヴァン・ゲルダー・サウンドに染まっている。 薄暗いトーンと適度な残響感に支配された
音場感で聴感は良好だ。 ピート・ラ・ロッカのドラムがよく聴こえる建付けになっているのがいい。 サウンド面は素晴らしい仕上がりになっている。


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