廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

ワン・コインの名盤(2)

2020年10月31日 | Jazz LP (Roost)

Bud Powell / Bud Powell Trio featuring Max Roach  ( 米 Roost RLP 2224 )


ルースト録音を12インチに纏めたアルバムとしてよく知られているアルバム。オリジナルはSPなので、そこから数えると第3版なのか、
第4版なのか、まあよくわからない。演奏についての感想は以前書いているので、ここでは触れない。レコード漁りをしていて問題に
なるのは、これを見かけた時に買うかどうかで迷うということではないか。今回のテーマはこれである。

結論から言うと、安ければこれは「買い」である。最初に気になるのは音質だろう。音の鮮度は10インチのほうが若干いいが、
盤の材質が悪くて傷がなくてもノイズが出る。一方で12インチの材質は傷がなければノイズは出ないから、聴感はこちらのほうがいい。
このアルバムはどちらのサイズもColumbiaカーヴ、もしくはNABカーヴで聴くといい。この2つのカーヴは名前こそ違うけれど、
実際はほぼ同じカーヴなので、違いを気にする必要はない。

古いレコードを心地よく聴くには複雑に絡み合ういろいろな要素を1つずつ紐解いていく必要があるので、まあ面倒ではある。
ただ、昔からやっている作業なので、慣れてしまえば無意識的に対応できて、私自身はこういうのは苦にならない。
カレーを作るにあたり、玉ねぎやジャガイモの皮を剥いて、角切りにして、茹でて、という作業をやるのと何も変わらない。

あと、溝があるかないかとか、フラットかグルーヴガードか、というような話もあるけど、既に初版から遠く離れたところにある以上、
この版でそういうところにこだわる必要はないのではないか。コンディションがまずまずで安ければ迷う必要はない。

と、こういう一連のことを、500円で転がっているのを見つけた時に頭の中で5秒くらいの間で考えて拾うのが安レコ漁りの醍醐味。
この快楽のせいで、もう安レコしか買う気になれない体質になってしまった。私がレジに持ってきたレコードを見て、顔なじみの
ユニオンの店員さんがガッカリした顔つきになるので申し訳ないと思うけれど、これが面白いんだから、まあしかたがない。


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ワン・コインの名盤

2020年10月29日 | Jazz LP

Marian McPartland / Solo Concert at Haverford  ( 米 Halcyon HAL-111 )


ペンシルベニア州デラウェアにあるハバーフォード大学で1974年4月に行われたソロ・コンサートを収録したアルバムで、
彼女のピアノの上手さを堪能するのにこれほど適したアルバムは他にないかもしれない。

リラックスした雰囲気で明るく朗らかな演奏に終始しているが、基礎がしっかりとしていることがよくわかる。リズム楽器がいなくても
テンポを見失うことなく、音楽は常に安定して堅牢である。バラードでは品のいい抒情が漂うし、音数もうまくコントロールされていて、
ソロ・ピアノにありがちな耳障りな煩さもない。なんて聴かせ上手なんだろう、と感嘆しながら聴き終えることになる。
打鍵が適切で、ピアノの音がソリッドで立っている。そこが一番の快楽だ。

HALCYON Records というレーベルは彼女が1969年に興したレーベルで、自身の演奏をメインにデイヴ・マッケンナやジミー・ロウルズらも
アルバムを残している。ジャズがビジネスとして成り立たない時代に、自分のやりたいことをやるための策だったのだろう。
何からも制約されない中で、こうして良質な音楽が展開されていたのだ。

廃盤としての価値はゼロで、私もワン・コインで拾ったわけだが、本当にピアノ音楽が好きな人なら間違いなく気に入るアルバムだと思う。
そういう心ある人に聴いて貰いたい。


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遅すぎた再評価

2020年10月25日 | Jazz LP (Vocal)

Mark Murphy / Midnight Mood  ( 独 SABA SB 15 151 )


誰が考え付いたのかはわからないけれど、すごい組み合わせだ。60年代に入ってマーク・マーフィーはロンドンへ移住し、欧州レーベルに
録音をいくつか残していて、その流れのセッションだったのだろう。アメリカでジャズの仕事が無くなったこの時期、多くのミュージシャンが
欧州へ流出したが、その彼らが現地で合流し、このような優れたアルバムを残したのはなんとも皮肉なことだ。

クラーク・ボーラン楽団はアメリカのジャズと欧州ジャズのハイブリッドを目指して成功した珍しい事例だったが、その音楽性を変えずに
そのまま歌ってしまうマーク・マーフィーの力の凄さが炸裂している。楽曲の半分が楽団メンバーのオリジナルで、それらに歌詞を付けて
歌ったものがどれも最高の出来。特に、ベースのジミー・ウッドが作った "Sconsolato" が素晴らしい。

デビュー時、デッカやキャピトルからシナトラ・スタイルのアルバムを出したがこれが見事に失敗。彼の持ち味をまったく生かせず、
駄作を量産してしまったが、オリン・キープニューズが軌道修正させてようやく生き返ることができた。これ以降は駄作がなく、
どれも素晴らしい。時代の空気に逆らわず、その時期に最適なオリジナルな音楽を作り続けた。

クラーク・ボーランのような本格派と互角に組めるヴォーカリストはほとんどいない中で、その伴奏が霞んでしまうようなアルバムを
作ってしまうのだから、まあすごいとしか言いようがない。独SABAの最高品質な音場の中で聴くマーフィーの歌声は圧巻。
誰よりも正確な音程を取りながら自由にアドリブし、それが常に最適なフレーズであることにただただ感嘆しながら聴くしかないのだ。
晩年になってようやく時代が彼に追い付いて再評価された、というのはあまりに遅すぎた。反省が必要である。


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クラリネットでジャズを演る狙い

2020年10月24日 | Jazz LP (Decca / Coral)

Tony Scott / In Hi-Fi  ( 米 Brunswick BL 54021 )


トニー・スコットがワンホーンで滑るようになめらかに演奏した佳作。出てこい出てこい、と念じていたら、ちゃんと出てきた。
念ずれば通ずる、レコード漁りの不思議である。

当時のモダン・クラリネットは、トニー・スコットとバディ・デ・フランコがポール・ウィナーを巡ってデッドヒートを繰り広げていた。
入れ替わり立ち代わりという感じだったようだが、この2人は作る音楽のタイプが結局違っていたので、途中からは道が分かれて、
お互いがそれぞれ別の道へと進んで行くことになる。このアルバムは、わが道を行く前のオーソドックなスタイルを捉えたもの。

ただ、そうは言っても、他のクラリネット奏者たちとは一線を画す独特の浮遊感を見せている。サックスやトランペットのように
大きな音で音楽をリードすることには元々向いていないが、音楽を丸ごと包み込んでフワッと浮かせて柔らかく漂わせるような芸当が
クラリネットにはできる。トニー・スコットがこの時期にやろうとしていたのはそういうことだったのではないか。

わざわざクラリネットでモダン・ジャズをやるということは、サックスやトランペットとは違うことを狙ってのことだろう。
トニー・スコットにはその自覚が明確にあったように感じる。そして、それは上手くいった。このアルバムがそれを証明している。


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R.I.P. 近藤等則

2020年10月21日 | Classical

Lev Nikolayevich Oborin / P.I.Tchaikovsky "Four Seasons"  ( 露 Melodiya D-4101 )


近藤等則が亡くなったことをネットのニュースで知った。ものすごく驚いてしまい、動揺すら覚えた。今年は身近な人を含めて、
大勢の人の訃報を聞いたけれど、やはり日本人で、TVなどで楽しそうに話しをしている姿を昔から観ていただけに、海外の人が亡くなった
時と比べると親近感のようなものが元々違うから、動揺してしまうのだろう。うちからさほど遠くはない登戸に住んでいたということも
個人的な親近感にも繋がっていた。

こういう場合、本人のアルバムを以って追悼するのが正しいわけだけど、今は手許にそういうアルバムがない。何年か前にピット・インで
ブロッツマンの音を目の前で全身に浴びた時から、こういうパワー・ミュージックをレコードやCDで聴くことへの限界感や苛立ちを感じる
ようになり、その手の媒体からすっかりと遠ざかってしまっている。ライヴじゃなきゃダメだよ、なんてうそぶく気にはなれないけれど、
なぜか聴く気になれない心境が続いている。何枚か持っていたアルバムやブロッツマン名義のものも、今はmp3音源しかない。

訃報を聞いて以来、チャイコフスキーの "舟歌" が頭から付いて離れない。あの物悲しいメロディーがずっと鳴り響いて止まない。
レフ・オボーリンの弾く "舟歌" の寂寥感が、今の自分の心境に相応しい。リヒテルやギレリスのようなパワー・ヒッターが高く評価された
ロシアでは、オボーリンのようなピアノはあまり陽が当たらなかった。そういう姿が近藤等則の姿にダブる。今は、このメロディーが
葬送の音楽として私の耳には聴こえている。

R.I.P. 近藤等則。でも、これからもあなたの音楽は聴くのだから。


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10インチの中の古き良きアメリカ音楽

2020年10月18日 | Jazz LP (Vocal)

Jackie Paris / That "Paris" Mood  ( 米 Coral CRL 56118 )


ジャッキー・パリスはその声質が嫌いなタイプの典型なので一切買わないが、このレコードだけはなぜか例外的によかった。
古いコーラルの10インチで、誰からも顧みられず、エサ箱の片隅で1人寂しそうに転がっていた。

静かなビリー・テイラーのピアノトリオにチャーリー・シェイヴァースが加わり、これまた静かにオブリガートを付ける。
選曲の趣味が良く、地味ながらも心温まるメロディーが切なく歌われる。エヴァンスも取り上げた "Detour Ahead" を歌っている。
全曲がスロー・バラードとしてアレンジされていて、ジャッキー・パリスがとても丁寧に歌っているのがいい。

寒い季節、暖炉で薪がパチパチと音をたてて燃える中、ジャッキー・パリスの静かなバラードを聴いているような光景が浮かんでくる、
そういうタイプの音楽。本人の名前にかけてパリの街並みがデザインされているけれど、内容はそれとはまったく関係なく、
古き良きアメリカの優しい音楽。この手の古い10インチのレコードでしか味わえない独自の世界が素晴らしい。


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グルダの本音はどこにあったか

2020年10月17日 | Classical

Freidrich Gulda / J.S.Bach, Prelude and Fugue No.32, W.A.Mozart, Sonata No.8  ( 英 Decca LXT 2826 )


フリードリヒ・グルダの本業はもちろんクラシック。ウィーンで生まれ、モーツァルトを最も敬愛し、「モーツァルトが生まれた日に
自分も死ぬ」と公言し、本当にそうなった。まあ、変わった人である。

ジャズへ転向すると言って世間を騒がせたり、似合わない変な帽子をいつも被っていたり、とクラシックの世界ではその演奏力は
認められていたにも関わらず、一般的にはやはりちょっと変わった人という感じで見られていたように思う。

グルダの演奏を順を追って聴いていくと、やはりジャズにハマっていた前と後では、その演奏が変わっていることがわかる。
私は彼が再びクラシックに軸足を置くようになった後期の演奏はどうも好きになれずまったく聴かないが、前期のデッカと契約していた
頃の演奏には興味深いところが色々あって、面白いと思いながら聴く。

彼のレパートリーは基本的に保守的で、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンをメインにしていた。そして、そういう正統的な
保守派の音楽の中に型破りな新しい風を吹かそうと常に模索していくという、ちょっとややこしい音楽家だった。そういう思考が
彼をジャズへと走らせた訳だが、そういう片鱗はまだ若かったデッカ時代の演奏の中にも見て取れるのが面白いと思うのだ。

ここにはバッハの平均律とイギリス組曲から1曲ずつと、モーツアルトのイ短調のソナタとロンドが収録されている。
バッハの方はまずまずオーソドックな演奏なのだが、問題はモーツァルトの方だ。この第8番にはグールドの怪演があって、
あれが耳から離れないわけだが、その二十年も前にグルダは前哨戦のような演奏を残している。

グールドほどは振り切れていないけれど、かなり似たような感覚でこのソナタを演奏している。少なくとも、当時他のピアニストが
演奏していたマナーとは全然違う弾き方をしている。尤も、その戦略は周到に隠されていて、パッと見はわからないように
細工されてはいる。まだこの頃は型破りな芸風は大っぴらにはできない、と考えていたんだろう。でも、どれだけ隠そうとして
みても、隠しきれない想いが溢れ出ているのがわかる。

この演奏を聴いていると、グルダがジャズ・ピアニストになると言って周囲を驚かせた気持ちが私にはよくわかるのである。
コロンビア盤で伸び伸びと気持ちよさそうに演奏していた姿は、彼の素の姿だったに違いない。


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Columbia のステレオを愉しむ(2)

2020年10月14日 | Jazz LP (Columbia)

Billie Holiday / Lady In Satin  ( 米 Columbia CS 8048 )


ステレオ方式という技術は元々はクラシックの交響曲を豊かに再現するために磨き上げられた技術だから、こういうオーケストラをバックにした
アルバムをステレオで聴くというのはそれが本来の姿だろうと思う。特にこのレイ・エリスのスコアとそれを演奏するオケは圧巻の出来で、
この繊細な表情を聴くにはステレオが向いている。

ビリー・ホリデイはこういう大編成の演奏をバックにしたものが少なかった。美声を震わせて朗々と聴かせるタイプの歌ではなく、スモール
コンボの中であたかも楽器の1つであるかのように歌うタイプだと思われてせいかもしれない。声量のない彼女の歌声の背後に大編成のオケを
付けるのは向かない、と考えるのが普通だったのだろう。

ところが、その常識を覆したのがこのアルバムの凄いところだった。深い憂いと抒情に満ちたオーケストレーションの中で歌う彼女は
まるで優美なドレスを身にまとった女王のようだ。その歌声とオーケストレーションの対比によるギャップ感が大きくなればなるほど、
音楽は深みと凄みを増していく。オーケストラの演奏はまるで彼女の心情が乗り移ったかのようで、この2つは不可分な関係になっている。

モノラル盤はオーケストラが彼女の背後から背中をグイッと押し出し、彼女がステージの前面でスポットライトを浴びているような
印象に仕上がっているが、ステレオ盤はオーケストラのサウンドが彼女のまわりを大きく取り巻いているような浮遊感があり、
その独特の空間表現が素晴らしい。キンキンのハイファイ・サウンドではなく、ノスタルジックな印象で全体をまとめたところが
このアルバムには何より相応しくて、それがいいのだと思う。


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Columbia のステレオを愉しむ

2020年10月12日 | Jazz LP (Columbia)

Freidrich Gulda / Ineffable  ( 米 Columbia CS 9146 )


値段が安かった、というだけの理由で拾ったのが2年前。すぐに飽きるかなと思っていたが、予想に反して結構気に入って、今も聴いている。

居場所の無さが創り上げた世界 - 廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

そんな中、更に安いステレオ盤が転がっていたので拾ってみたが、案の定、音がいい。楽器の音のクリアさ、各楽器の配置、音場の拡がり、
どれをとっても申し分ない。モノラルも悪くないけど、やはりステレオプレスのほうが自然な音である。

この音場感で聴いていると、やはりピアノの上手さの違いがはっきりとわかる。特に弱音で弾いてる時の音の粒立ちの良さが他のジャズの
ピアニストだちとはまったく違う。如何にもクラシックで鍛えられた豪腕だが、不思議とジャズとの親和性が高い。クラシック臭さがなく、
しっかりとジャズ・ピアノになっている。「スイングしなければ~」というような話の次元はとっくに超えている。

ジャズやクラシックなどのジャンルを問わず、ピアノを聴く音楽にはピアニストの腕前を聴く音楽と元々の楽曲を愉しむ音楽の
2種類に分かれるような気がするけど、このアルバムは言うまでもなく前者のタイプ。そして、その方がもちろん面白い。


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村上春樹さん、もっとレコードの話を語ってください

2020年10月10日 | Jazz Book



「文學界」なんてもう何年も読んでいなかったけれど、村上春樹のインタビューが載るというので久し振りに買って読んだが、
これがとにかくつまらなかった。ファンならみんな知っているお馴染みの話をただなぞっているだけで、目新しい話が何もない。
ただ、これは本人の責任ではなく、「村上春樹とスタン・ゲッツ」という紋切り型の退屈な企画と、そこから新しい話を何も引き出せない
インタビュアーの責任である。

私が初めて村上春樹のことを知ったのは「ノルウェーの森」が発売されて、新宿の紀伊國屋書店の2Fの店内の壁一面が赤と緑の本で
埋め尽くされた時だった。今まで見たことがないその強烈なディスプレイで「一体、何事か」と驚いたのがきっかけだった。
それ以来、彼の本はすべて初版で読んできた長年のファンとしては、こういう出来の悪いインタビューが世に出るのを見るのは悲しい。

それに比べて、少し前に出版された「SWITCH」はとても面白かった。自宅のオーディオセットが観れたり、海外でのレコード漁りの話
が聞けたり、とその内容は圧倒的だった。村上春樹本人も生き生きと話をしているのがよく伝わってきて、とてもよかった。

本というのはレコードと一緒で、制作する側の質が作品の質を大きく左右する。文藝春秋もジャズやレコードのことが何もわかっていない
のならスタン・ゲッツを通して文学に切り込めばいいものを、スコープのはっきりしない仕事をしてどうするんだ?という話だ。
一方、「SWITCH」は制作側のレコード愛、オーディオ愛が本人のそれとぴったりとマッチして、稀有な素晴らしい記事となった。

村上春樹のレコード漁りのおもしろい話の原点は、例えば、こういうところに見られる。





これは、彼が30代のころに月刊「PENTHOUSE」に寄稿した5ページに渡る長文の記事だ。記事だけ切り抜いて本は捨てたから、
何年の何月号だったかはもうわからない。

これが非常に面白い内容で、どの本にも収められていない、これでしか読むことができない若い頃の文章だ。アメリカの各都市で
彼が漁った2ドル~7ドルあたりの安レコの話がふんだんに記載されていて、これはもう、我々の日常生活とそっくり同じである。
文壇の大作家風を吹かすことのない、村上春樹という人の魅力の原点がぎっしりと詰まっている。彼の書く文章に魅力があるのは、
彼の人柄に魅力があるからなのだ。

個人的にはノーベル文学賞なんてとって欲しくない。そんなものより、こういう楽しいレコードの話をもっと書いて欲しい。
村上春樹さん、もっとレコードの話を語ってください。


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秋の匂い

2020年10月08日 | Jazz LP (Vocal)

Mark Murphy / September Ballads  ( 米 Milestone M-9154 )


秋の気配を感じるようになると聴きたくなるアルバム。尤も、だんだん秋という季節が短くなりつつある現状では、このアルバムを取り出す
時期も後ろにずれていくような気がして、いろいろと心配になるけれど。

1987年9月から11月にかけて録音された本作は、ジャズというよりはAORに寄せた雰囲気になっている。そして、それは悪い話ではなく、
逆にうまく成功した形になっている。これはプロデュースの勝利だったと思う。

アルバムの最初から最後までを通して、夕暮れの涼しい秋風に吹かれているような心地よい爽やかさに満ちていて、これが素晴らしい。
しっとりと落ち着いた雰囲気で、アルバム・タイトルやジャケットの写真からもわかるように、「秋」という季節への憧れと親愛が
全体を通したコンセプトになっている。

1曲1曲が哀愁溢れる美しいメロディーで、何と素晴らしいバラード集となっていることか。マーク・マーフィーの歌は円熟の極みを
見せて、元々の歌の上手さにさらなる磨きがかかっている。"Crystal Silence" のような音程の取り辛いメロディーをこんなにうまく
歌えるのは、この人をおいて他にはいないだろう。

マーク・マーフィーのアルバムはどれも素晴らしいが、後期の作品群においてはこれがダントツの出来だと思う。
風の中に感じる秋の匂いを愉しみながら、日々、しみじみと聴いている。


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先入観は捨てて

2020年10月06日 | Jazz LP (Verve)

Charlie Haden / Quartet West  ( 米 Verve 831 673 )


チャーリー・ヘイデンのキャリアを考えると、こういうユニットが出来たことには軽い驚きを覚える。オーネットの初期のバンドを支え、
時代の闘士と言うべきアルバムも作り、先鋭的なイメージが強かった若い頃には考えられない内容だ。最初は日本人が企画・プロデュース
したのかと思っていたが、そうではないということを知った時も驚いた。アメリカ人もこういうことを考えるのか、と。

私がこのユニットを知ったのは20年くらい前で、シリーズ化された連作はすべて聴いたが、その時に聴いたCDの音の冴えなさにがっかりして、
その場限りの鑑賞で終わってしまった。ところが初期の何枚かはレコードでも出ていたことを最近知って、これを聴いてみるとその音質が
まるで別物であることがわかり、ようやく自分の中で行き所を無くしていたこのユニットの居場所が見つかった。

これはこのユニットの第1作目で、1987年にリリースされている。ちょうどCDが出始めた頃で、レコードの生産が減り始めた時期にあたる。
結局、レコードは第2作目までで終わり、その後はCDでしか聴けない。

回を追うごとに耳当たりのいい音楽へと進んで行った訳だが、このアルバムはまだ硬派なジャズの要素があって、本来はコルトレーン派だった
アーニー・ワッツがそれっぽい演奏をする曲も入っている。そこでのヘイデンのプレイはオーネット時代のそれを彷彿とさせるもので、
懐かしい肌触りにニヤリとさせられる。こういうのをやらせたら、この人の右に出る者はやはりいない。パーカーの "Passport" をソプラノで
演奏するなんて、普通は考えないではないか。そして最後はヘイデンのソロ・ベース曲で静かに幕が下りる。

レイモンド・チャンドラーの描くフィリップ・マーロウの夜の世界の中で流れる音楽、というありそうでなかったコンセプトに正面から
取り組んだ意欲作で、今こうして再聴すると非常によく出来た内容であることがわかり、うれしい気持ちになる。アーニー・ワッツは
ロックやフュージョンの人、というイメージが正しい評価を邪魔しているが、なんと上手いサックスを吹くことか。色眼鏡は外し、
先入観を捨てて聴くと、このユニットの音楽を心から楽しむことができる。


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洗練の極みに聴き入る

2020年10月04日 | Jazz LP

Pee Wee Russell / Portrait Of Pee Wee  ( 米 Counterpoint CPT 565 )


「洗練」とは、このアルバムのためにある言葉だったのではないかと思う。そして、その洗練というのは都会的なでスマートなそれではなく、
古都の旧い街並みだったり、手入れの行き届いたお寺の境内を歩いた時に感じる、あの雰囲気である。悠久の時の流れと澄んだ心が生み出す
静謐な佇まい。このアルバムにあるのは、そういう一種独特なムードである。

ピー・ウィー・ラッセルのクラリネットは他の奏者たちの吹き方とは全然違う。まるでサックスのような情感で吹いている。だから、その音楽には
古臭さが感じられない。音色もいわゆるクラリネットっぽさは希薄で、サックスの質感がある。ここではバド・フリーマンが参加しているけれど、
かなり近い質感がある。とても美しい音色だ。

ヴィック・デッケンソンやルビー・ブラフも加わる4管編成だが、ナット・ピアースらしい抑制が効いたアレンジのおかげでガチャガチャと
騒々しい中間派のセッションにはならず、しっとりと落ち着いた佇まいになっているのが素晴らしい。

カウンターポイントというレーベルはアル・ヘイグのアルバムしか知らなかったが、こういうのもあるのかと驚いた。
完成された上質なモノラル・サウンドで、見事な音場感で音楽が鳴る。





Pee Wee Russell / Portrait Of Pee Wee  ( 米 Conterpoint CPST 562 )


エサ箱にはモノラル、ステレオの両方が転がっていたので、両方とも拾ってきた。このステレオ盤がまた素晴らしい音場で、モノラルとは
別の世界を見せてくれる。同じ内容なのに、違う演奏を聴いているかのようだ。これはどちらも甲乙つけ難い。


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印象が180度変わるステレオプレス

2020年10月03日 | Jazz LP (Riverside)

Charlie Rouse / Takin' Care Of Business  ( 米 Jazzland JLP 9195 )


最近のステレオプレス聴きの中で気付くのは、単に音がいいというようなことだけではなく、その音楽がとても明るい印象へと変わることだ。
「明るい」というと誤解されるかもしれないが、言い換えるとその音楽の本当の姿が突然目の前に現れてくるということだ。これはかなり
重要なことのように思える。

ラウズのこのアルバムなんかはその典型で、モノラル盤を聴いていた時はなんて暗い音楽なんだろうと思っていたが、ステレオ盤を聴くと
これはブルーノートの1500番台後半のようなブライトでブリリアントな音楽だったんだ、ということがわかって驚いてしまった。
モノラル盤で聴いていた時の印象が180度ひっくり返ってしまったのだ。

CDが商用化された時、人間の耳には聴き取れない高周波帯域をカットしたために倍音などが消されて音が悪く聴こえるようになった、と
言われるが、その説明が正しいかどうかはさておき、ステレオ録音だったものをモノラルへリミックスしてプレスされたものも、これと
似たような現象が起きている盤があるのかもしれないな、と思うようになった。その時に消失したのは音色の艶やかさや音場の奥行き感
だけではなく、その音楽にとって重要な何かまでもが削れてしまったタイトルがあったのかもしれない。

1960年の録音だし、ラウズは元々新しい感覚を持っていた人だからいち早くニュー・ジャズの要素を取り入れたのかなと思っていたが、
そうじゃなかった。これは生き生きとした王道のハードバップだったのだ。他の4人のメンバーも明るくしっかりとした演奏をしていて、
良き時代のジャズの匂いが濃厚に漂う佳作だったんだなあと目から鱗が落ちた。ステレオ盤はモノラル盤の1/3以下の値段だし、
これはわざわざ高いものを買わされる必要はまったくないと思う。モノラル盤で聴いていてこのアルバムがあまり好きになれなかったら、
それは正しい感想なんじゃないか。その場合はステレオ盤で聴き直すと、きっと印象が変わって好きになる。


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モダンな感覚を先取り

2020年10月01日 | Jazz LP

Edmond Hall / Edmond Hall Quartette with Teddy Wilson  ( 米 Commodore FL 20.004 )


スイング・ジャズはノスタルジーな雰囲気一点張り、というわけではない。1930~40年代当時は最先端の音楽として大衆を楽しませながらも、
その舞台裏では演奏者独自の個性を核にしたオリジナルな音楽が披露されている。

この時代のジャズはクラリネットがリード楽器として幅をきかせていたので多くの名手が活躍していたが、このエドモンド・ホールは
かなり尖った演奏をする人だったようだ。当時クラリネットが好まれたのは、そのマイルドな音色が音楽を洗練された雰囲気にするから
だったのだろうと想像するけれど、エドモンド・ホールのクラリネットはそういう状況の中ではどちらかと言うと、異端だったように思う。

力強く息を吹きこんで音が濁るのも厭わない演奏は、どこかコルトレーンのソプラノの演奏を彷彿とさせる。もちろん、あそこまで
激しい演奏ということではないけれど、リード奏者としての姿勢や取り組み方に似たものを感じる。美しい音色で音楽をまとめようと
するのではなく、あくまでリード楽器として音楽を創り上げて引っ張って行こうとする意志の強さがこの後に来るモダン・ジャズの
感覚を先取りしているようところがある。

そういう個性はこのレコードを聴くとよくわかる。古い歌物のスタンダードをテディー・ウィルソンのピアノ・トリオをバックに吹いて
いるけれど、クラリネットが音楽をグイグイと引っ張って行き、モダンな感触にかなり近い。そのおかげで、退屈な娯楽音楽に堕する
ことなく、生き生きとした高い水準のジャズとして聴くことができる。

後にヴィック・ディッケンソンらとのセッションと合わせて12インチ化されるが、この10インチはテディー・ウィルソンとワンホーンで
吹き込んだものだけでまとめられており、アルバムとしての統一感が優れている。1945~47年頃のSP録音だが、LP化されたものは
音質も問題なく、楽しそうに演奏されているのが手に取るようにわかる。


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