廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

ハンク・ジョーンズ再考

2016年11月27日 | Jazz LP (Savoy)

Hank Jones / The Trio  ( 米 Savoy MG-12023 )


DU Jazz Tokyo の元旦恒例セールがいつものマイルスではなくハンク・ジョーンズで特集を組む、という。 なんで今頃?という気もしないではないが、
それでもこれは一つの見識だと思う。 常々書いてきたことだけど、日本でのこの人の評価はあまりに低過ぎる。 トミー・フラナガンの実態にはあまり
そぐわない過大評価もどうかとは思うが、それ以上にこの人への過小評価には大いに不満がある。 もしかしたら、山田太郎、みたいな名前のせいで
損をしているのかなあと思ったりもするけど、一番の理由はやはり50年代にピアノ・トリオ形式で3大レーベルにレコードを残さなかったことなんだろうと思う。 

3大レーベルが50年代にピアノトリオの傑作を連発していた頃、ハンク・ジョーンズはサヴォイやキャピトルと契約していたために、そちらではリーダー作が
出せず、せいぜいサイドメンとして参加するのが関の山だった。 当時はサヴォイやキャピトルのほうが契約条件は良かっただろうから、そういう意味では
ハンク・ジョーンズ自身は恵まれた状況にいたんだと思う。 ただ、サヴォイはピアノトリオの作品作りが下手だったし、キャピトルは大衆音楽を供給する
レーベルだから、ジャズという音楽に対して特別な思い入れはなかった。

困ったことに日本の愛好家の多くは3大レーベルを通して見ることでしかジャズという音楽を認識できないところがある。 だからこれらのレーベルを出発点
とした、もしくは通過したミュージシャンばかりが人気を得ることになる。 パウエル、、モンク、ソニー・クラーク、ガーランド、フラナガン、ケニー・ドリュー、
そしてビル・エヴァンス。 

やはり、ジャズ・ピアニストはピアノ・トリオのレコードこそが名刺代わりになるのだから、そういう意味では名盤100選を選出しようということになれば
ハンク・ジョーンズという名前は大抵漏れてしまうし、ここで選外になるとファンの視界からは消えてしまう。 そして、60年代の荒波の中で、ある者は
不摂生が原因で亡くなり、ある者は欧州へと逃れ、ある者は演奏から身を引き、50年代のビッグネームの数が大幅に減ってしまった頃になってようやく、
人々はそうだ、ハンク・ジョーンズがいるじゃないか、ということに気が付くことになる。 そして、70年代後半頃からこの人の作品が本格的に作られる
ようになるのだ。 でも、残念ながら時すでに遅し、の感は否めない。

そんな歯車の上手く嚙み合わなかった50年代に残された数少ないトリオ作品の1つがこのサヴォイのレコード。 ビ・バップの残り香を少し漂わせながらも、
非常に端正な演奏に終始している。 録音は当然RVGで、ピアノの音はソニー・クラークの音とよく似た感じになっている。 ただし、ピアノの弾き方が
まったく違うから、ソニ・クラを思い出すようなところはまったくない。 ハンク・ジョーンズらしい、破たんのない、ある意味完璧な演奏をしている。

ただ、この作品はコアな愛好家からは褒められることはあっても、名盤100選に選ばれることはない。 その原因は、たぶん、ドラムのケニー・クラーク。
そのあまりに中道保守的な演奏が音楽全体を上手くまとめ過ぎていて、覇気のようなものを削いでしまっている。 聴いていて、面白味に欠けるのだ。
モダン・ドラムの開祖と評価の高い人だけど、レコードで聴く限りではそのドラミングに感銘を受けたことはあまりない。 たぶん、フィリー・ジョーが
叩いていたら、このレコードは名盤の仲間入りしていただろう。 ハンクは競演者に感応するタイプだからだ。 でも、個人的にこのレコードにはどこか
惹かれるところがあって、好きな1枚としてレコード棚の中に残っている。 ハンクのトリオ作品という意味では得難いレコードだ。




Cannonball Adderley / Somethin' Else  ( 米 Blue Note BLP 1595 )


競演者に感応することでハンクが怪演を残したのが、このアルバム。 この作品が誰もが認める名盤になったのは、ここで聴かれる演奏の中に怪しく漂う
一種の不気味な雰囲気にある。 そして、その不気味な雰囲気を作っているのが、ハンク・ジョーンズの音数の少ないピアノなのだ。 どことなくセロニアス・
モンクを意識したかのような、重々しくたどたどしい、黒光りするピアノ。 サヴォイでの演奏とは、まるで別人のようだ。

マイルスのサウンド・ディレクションの下に演奏されているのは明白だけど、ハンク・ジョーンズのピアノ演奏はこのアルバムを境にして明らかに変化した。
ここで聴かれる「間」と共存するスタイルがこれ以降の彼のスタイルの基盤になる。 そういう意味でも、これはハンク・ジョーンズにとっても重要な作品
だったのではないだろうか。


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Low Price Goes On

2016年11月26日 | Jazz LP (Vocal)

Sarah Vaughan / Sings George Gershwin  ( 米 Mercury MGP-2-101 )


新宿に寄るとロー・プライス品がたくさん出ていて、楽しい漁盤ができた。 買おうと思う盤自体たくさん混ざっているわけではないけれど、パタパタと
めくっていくだけで無条件に楽しい。 一通りチェックし終えて改めて店内をぐるりと眺めてみると、レコードって本当にたくさんあるなあ、と思った。
自分に引っかかるものや実際に買えるものはごく僅かだけど、それでもたくさんのレコードたちがこうやって棚の中で見染められるのを静かに待っている
様子はどことなく愛おしい。 営業時間が終わり、部屋の灯りが消え、従業員がみんな帰った後、レコードたちは何やらヒソヒソと話しをしているのかも
しれない。 「今日も誰にも手に取って貰えなかったよ」「もうちょっとで買って貰えそうだったんだけどなあ、残念」とかね。

サラのこのレコードもずいぶん久し振りに見かけたような気がする。 最近はこういう古い歌物は人気がないようで、全然流通しなくなった。
おかげで出てきた時には二束三文の投げ売り状態になっているから、その中から丁寧に拾っていくのだ。

マーキュリー時代のサラはキャリアの中でも安定期で、レコーディングもたくさん行ったし、歌唱も極めて安定していた。 こういうスタンダード作品も
まだ需要があった時期だし、レコードもたくさんプレスされた。 だからレコードは珍しくもなんともないので、また今度でいいや、と後回しにしがちになる。

高級シルクのように上質でリッチなオーケストラの演奏をバックに、深みのある澄んだ声で丁寧に歌い継がれていく。 2枚組というボリュームなのに
飽きることなく聴き通せるのは、サラの歌がただただ素晴らしいからだ。 歌い方もオケの演奏も本当に丁寧だし、録音が抜群にいい。 部屋の中いっぱいに
鮮度の高い音楽が拡がる。 ジャケットのインディゴ・ブルーのイメージ通りの素晴らしい内容に時間を忘れて聴き惚れてしまう。

こんなに満ち足りた内容なのに、1,296円。 なんだか申し訳ない。




Dick Haymes / Souvenir Album  ( 米 Decca 5012 )


白人クルーナーの雄としてビング・クロスビーと人気を二分したディック・ヘイムズのデッカの10インチは昔はまったく手に入らず稀少盤だった。
このレコードも存在は知っていたけど、現物を見たのはこれが初めてだ。 SP音源の33回転での切り直しで、古い真空管ラジオから流れてくるような
何とも言えない雰囲気が味わえる。 

シナトラがトミー・ドーシー楽団から独立する時に自分の後任に推薦したのがこの人で、シナトラよりも低音域で歌う本格派のクルーナーとして鳴らした。
デッカと契約していたのはSP期だったので、この時期に録音された歌のLPは10インチしか出ていない。 

こういう古い音楽は純粋に大衆が愉しむために作られているので、ややこしい話抜きに愉しめる。 1日の仕事が終わり、疲れて帰ってきた後にラジオから
流れてくるこういう歌を聴いて人々は癒された。 もともとそういう聴き方をするのが正しいので、私もそういう聴き方をする。

30数年で初めて手にしたレコードなのに、540円。 だから、今はロー・プライス品から目が離せないのだ。


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ハービーの新たな色彩

2016年11月23日 | Jazz LP (Columbia)

Miles Davis / My Funny Valentine  ( 米 Columbia CL 2306 )


これはハービー・ハンコックが主役のアルバム。 旧い歌物のスタンダードが、まるで初めて聴く曲のように新しい色に全面的に塗り替えられている。
それまでのバップという概念はここには影も形もない。 まるで、ドビュッシーのピアノ曲を聴いているような錯覚に陥るくらい、何もかもが新しい。
これは、アメリカ生まれの音楽の中に初めて「印象派」が登場した瞬間だったかもしれない。

1964年2月12日にリンカーン・センターのフィルハーモニック・ホールで行われたチャリティー・コンサートにノーギャラで出演したマイルス・バンドの
演奏をミディアム・サイドとアップ・サイドに仕訳して、まるでそれぞれ別のコンセプト・アルバムであるかのように編集したテオ・マセロが一体どこまで
深読みしていたのかはわからないけれど、結果的にこの時期のマイルス・バンドのやっていた音楽の独自性がくっきりと浮き彫りになる。 

捉えどころがないような不思議な浮遊感、清流から汲み取った冷水のような透明感、自由なのに一糸乱れぬ統一感、これらが互いに干渉することなく
同居するさまは凄まじい。 そういう意味でも、このアルバムの後世への影響の大きさは計り知れないものがあるだろう。 これまでのジャズの歴史の中で
こういう音楽をやった事例はおそらくない。

瞑想の中に深く沈んでいくような時間と、ふっと我に返ってリズムが戻って来る時間が交互に立ち現れる。 それはまるで人の意識の流れのように。
既成のものから解放された音楽はこうまで身軽で気持ちのいいものなのか、と思う。 やはり、音楽としての次元が違うというのを感じる。



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ジョージ・コールマンを軸に

2016年11月20日 | Jazz LP (Columbia)

Miles Davis / 'Four' & More  ( 米 Columbia CL 2453 )


抑制と洗練を信条としてきたマイルスが隠していた牙を剝き出しにしたような激しい演奏をしたことで驚異をもって迎えられたこの作品には、そういう
外見上の話とは別に興味深いことがわかる作品でもある。

まず、バンドに入って間もないハービーのまだ未熟さが垣間見れるところ。 マイルスがソロを取っている時にはマイルスのフレーズや音を異様に真剣に
聴いている様子が手に取るようにわかるのが可笑しい。 細心の注意と緊張感をもって親分の一挙手一投足を見守っており、マイルスのフレーズに合わせて
自分のピアノのフレーズを即座に反応させている。 まだまだ小僧だったハービーが親方の話をメモを片手に大袈裟に頷きながら聞いているような感じで、
ちょっと笑ってしまうのだ。 その証拠に、マイルスが吹き終わってジョージ・コールマンのパートになるとまるでホッとしたかのようにリラックスした雰囲気に
変わって、ただコードを鳴らすだけの演奏になり、次にやってくる自分のソロ・パートのために箸休めするかのように力を温存している。

それに、ここに収められたようなアップテンポの曲ではまだまだ従来のハードバップのピアニストたちと似たような演奏でしか対応できておらず、後の彼を
知る我々には意外なほど凡庸なピアノに聴こえてしまう。 他のメンバーたちの速い演奏に煽られて、自分も速いパッセージを弾かなきゃ、という感じで
ちょっと我を忘れているように思える。 "Joshua~Go-Go" のような斬新な曲では途中でギアを入れ替えるためにシフトチェンジして、コードを脱落させて
いくような下降のカデンツァを入れるなどかなり工夫はしているけれど、それでもちょっと音を弾き過ぎだよな、という感じは否めない。 対になるもう
1枚の "My Funny Valentine" の中ではハービー特有の間を十分に生かした新しい響きを持った和声で全体のトーンを支配し始めているけれど、
トータルではまだ発展途上の状態にある彼の姿がこんなにも生々しく捉えられているのがこの2枚のすごいところだと思う。

次にトニーのドラムはもちろん速くて凄まじいけれど、ショーター参加以降のものと比べるとまだまだ表情は単調で深みに欠ける。 タイムメーカーの
天才であるところは十分にわかるけれど、トニーの本当の凄さはこの後に明らかになってくるので、ここでの演奏は私にはちょっと物足りない。

そして、やっぱりこのアルバムのジョージ・コールマンは最高の出来ではないだろうか。 黒人テナー奏者にしてはどことなく内向的で小粒な印象があり、
そういうところがマイナス要因として見られがちなのだが、ここでは正確なタイム感と抜群の技術力で勢いのあるパッセージを連発しているし、理知的に
コントロールされて成熟してシックな音色が素晴らしい。 こんないいテナーは意外と他にはいないんじゃないだろうか。 マイルスがこの人のことを
気に入っていたのは当然だろうと思う。 このアルバムは、ジョージ・コールマンを軸に聴くのが一番いい。

コルトレーンやガーランドがいた頃が第1期、ショーター加入後が第2期、と言われるので、この時期のバンドはまるでプレ2期みたいな扱いになっている
けれど、私はこのバンドのサウンドがとても好きだ。 若いリズムトリオの初々しいサウンドカラーが大人の雰囲気をもったテナーを際立たせていて、
マイルス・バンドの歴史の中では最も清々しい色合いを放っていたと思う。 このサウンドカラーは忘れがたい。


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元祖チャイドルの代表作

2016年11月19日 | Jazz LP (Vocal)

Toni Harper / Toni  ( 米 Verve MG V-2001 )


9歳の時に初レコーディングした "キャンディ・ストア・ブルース" がヒットして一躍有名になり、アルバムを3枚残して29歳で引退した早熟の歌手として
ヴォーカル好きにはよく知られたトニ・ハーパーのファースト・アルバムで、彼女が18歳の時の作品だ。 その年齢が嘘のような落ち着きとしっとりとした
雰囲気に包まれている。

声質はエセル・エニスによく似ていて、黒人シンガーのアクの強さを敬遠する人にも歓迎されるあっさりとした質感が持ち味で、バックのピーターソンや
ハーブ・エリスの歌伴のシンプルさも相俟ってしっとりとした穏やかな作品に仕上がっている。 ただ、声質は似ていても、エセル・エニスはサラ・ヴォーンの
影響を受けている一方で、トニにはあきらかにエラ・フィッツジェラルドの歌い方の影響があって、そこが嗜好の分かれ目になる。

ずいぶん久し振りに聴いたが、以前は気が付かなかった "Little Girl Blue" の繊細な表情が素晴らしいと思った。 年を取ると、歌の良さに対する
感じ方がずいぶん変わって来る。 若い頃はメロディーの歌わせ方やサウンド全体のインパクトなんかに意識が向いていたけれど、今は地味な曲の中に
ある小さなさざ波みたいなものに聴き耳をたてるようになっている。 落ち着いて音楽を聴けるようになってきたのかもしれない。

昨日、仕事帰りにいつも通り新宿に寄ったら、US買い付けのロー・プライス品(2,000円以下)が新着コーナーに出ていて、その中にこれがあった。
値札は1,512円で、更に週末の値引きで-10%。 このレコード、こんなに安かったっけ? 昔はもっと高かったような気がするんだけどなあ。
とにかく、レコードが安いのだ。 お財布に優しい猟盤の日々がゆるゆると続いている。



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隙間を縫うちょうど良さ

2016年11月15日 | Jazz LP (Europe)

Rudi Brink / Teach Me Tonight  ( 蘭 CNR 657.508 )


今日は私用があり年休を取ったのだが、空き時間に先週の漁盤で拾ってきた安レコを聴いて時間を潰す。 そういう聴き方に丁度いい内容だ。

オルガン、ギターらをバックにテナーのワンホーンでゆったりとスタンダードを吹くムード音楽一歩手前の内容だが、バックの演奏がとても控えめで、
テナーの邪魔をしない趣味のいい演奏をしている。 ルード・ブリンクのテナーは適度に硬質でフレーズも端正で優等生な感じが好ましい。 1973年の
ジャズが下火になっていた時期の録音で、いい意味で力の抜けた作品になっている。 深夜のバーなんかでかかっていると、おっと思うような感じで、
それ以上でも以下でもないけれど、これ以前の時代のジャズはどれも力のこもった内容が多いし、これ以降になるとジャズがジャズらしくなくなるから、
そういう意味ではある種の需要にはその隙間を縫ったちょうどいい感じなのかもしれない。

時々見かける別に珍しくもないレコードだけど、この初版の紺レーベルは数が少ないかもしれない。 ジャケットも艶ありで写真の発色がきれい。
とにかく安い値段で転がっていて、更に色別割引の対象だったのでその値段の安さに負けて買ってしまったが、これはこれで悪くないと思う。



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買い取りの分岐点

2016年11月13日 | Jazz LP (Europe)

Bjarne Rostvold Quartet & Trio / Jazz Journey  ( デンマーク HIT H-r 701 )


今や市場価格は50万円だそうだ。 それだけ弾が無いということなんだろうけど、デンマークという国は元々音楽が文化としても産業としても他の欧州
諸国と比べると地味で、地場の音楽であるクラシックの世界でも輩出した作曲家といえばニールセンやホルンボーくらいだし、レコードもほとんど生産
されていない。 そんな中でジャズのレコードが作られていたことは異例なことで、弾数が少ないのは仕方がない。

アメリカのジャズへの憧憬もここまで徹していると、逆にすがすがしい。 憧れ度合が純度100%でひねくれたところがないので、驚くほど爽やかな雰囲気だ。
きっと、そういうところが受けるのだろう。 自分のジャズへの憧れをぴったりと綺麗に重ね合わせることができるという感覚が心地よいのだ。

一番耳につくのはB面のピアノトリオ群。 ベント・アクセンのビル・エヴァンスへの傾倒振りは徹底していて、"You Don't Know What Love Is" では
ブロック・コードの弾き方やコード進行をエヴァンスの手癖で完全に固めている。 世にエヴァンス派と言われるピアニストは星の数ほどいるけれど、
ここまで完コピの精度が高い人はあまりいないだろう。 ビャルネ・ロストヴォルドのブラシワークはシェリー・マンのそれだし、ウォーキングベースは
レイ・ブラウンそのもの。 つまり、リヴァーサイド時代のエヴァンスがレイ・ブラウンとブラシを持ったシェリー・マンをバックに演奏したような感じだ。

A面はトランペットが入ったワンホーンだが、テンポ設定やアレンジの方向がヴァーヴ系に見られる中庸的な路線で、いくら "Mr. PC" が取り上げられて
いるとはいえ、モダンの雰囲気は希薄だ。 ノーグランやクレフのレコードを聴いて勉強したんだろうというのが手に取るようにわかる。 

そういう本場のジャズへの強い志向性が高い演奏力と欧州の高級な録音技術で録られているので、音楽的なオリジナリティーは何もなくても、アメリカの
レコードにはない品質の高さが担保されている。 でも、だからと言ってそんな非常識な価格にしてしまうと今度は買い直しが効かなくなるという意識が
働いて、かえってレコードが流通しなくなるんじゃないだろうか。 買い取り価格を吊り上げればレコードが集まるという法則の中にも分岐点は存在する
ように思う。


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対話の謎解き

2016年11月12日 | Free Jazz

Cecil Taylor & Derek Bailey / Pleistozaen Mit Wasser  ( 西独 FMP CD 16 )


巨匠同士の競演は1988年になってこうしてここに実現した。 インプロヴィゼ-ションに対する考え方が(おそらくは)違うであろう2人は一体何を語るのか。

音を「鳴らす」ベイリーと音を「弾く」テイラーでは各々の演奏論からしてそもそも違う訳だから、これは単なるフリージャズ奏者の競演というような
単純な話ではない。 演奏論が違うのはインプロヴィゼーションに対する考え方が違うからであって、だからこそ2人が世に放つ音がこうも違ってくるのだ。
一方は音の実存を希求し、もう一方は平均律からの逃走を夢見る、という感じだけど、それにしてもベイリーの音は猥雑で世俗的だし、テイラーの音は
澄み切っていて清らかだ。 

ただ2人に共通するのは、自らが考えるインプロヴィゼーションを実現するために生み出したはずの演奏論が、いつの間にかインプロヴィゼーションそのものを
追い越してしまい、演奏論が産み落とす音たちが勝手に一人歩きを始めてしまっていることにある。 それはまるで人間が作り出したコンピューターが
いつの間にか自我に目覚めて産みの親である人間を駆逐し出す、というSF的グロテスクイメージによる悪夢のように聴くものを脅かし始める。 だからこそ、
聴き手は音そのものの確かな手応えに魅了されながらも、内面に沸き起こる不安定な想いを解決することができない。

1曲目ではテイラーは奇声を発しながらピアノの弦を擦ったりはじいたりしながらベイリーに呼応し、2曲目になって初めて鍵盤に向かう。 ベイリーの音は
道端に佇んで旅人をだまくらかして取り込もうと待ち構える悪魔が手に持つ杖であり、テイラーの音はそこへやって来る旅人の傷んだ靴である。
両者は出会い、何事かを語り出す。 でも、その声はよく聞き取れない。 2人は長々と話し込んでいる。 そして、何かを合意し密約を交わしたのか、
それとも対話は決裂したのか、突然、ぷつりと演奏は終わる。 いつか、謎は解けるだろうか。



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バーバーショップ・コーラスの快楽

2016年11月06日 | Jazz LP (Vocal)

The Mills Brothers / Famous Barber Shop Ballads  ( 米 Decca DL 5050 )


今から70年も前の録音だというのに、この洗練された感覚はどうだろう。 優れた感覚というのは不変で、時間を飛び越える。

バーバーショップ・コーラスと言われるスタイルだけれど、よく聴くと教会の讃美歌などの影響があることがわかる。 街中の床屋に人々が集まって世間話を
したり遊んだりしていた中から自然発生した庶民の音楽がルーツだと言われているが、集まった人々の感情表現を一段持ち上げて音楽という形へ昇華する際に
宗教的な感覚がそこに付与されるというのはキリスト教社会ではごく自然なことだったのだろう。 下町の讃美歌として親しまれたんだろうなあと思う。

ミルス・ブラザーズの結成は1928年で、メンバーの死去などに伴ってメンバーの入れ替えをしながら1982年まで活動して2,000曲を超えるレコーディングを
行ったというのだから驚かされる。 アメリカのポピュラー音楽の底力というのは恐ろしい。

中音域を厚くしたハーモニーが独特な雰囲気を醸し出していて、4人の声質は終始柔らかい。 ハーモナイズの和音の分散の仕方もセンスが良くて、よく
考えられていることがわかる。 SP録音の音源を集めた10インチなのでどの曲も短くて、あっという間に再生が終わってしまうのが残念だ。

ジャズという音楽は振り幅が広い。 こういうポップスに寄ったノスタルジックな歌謡から訳の分からない無調の音楽まであって、不思議なことにそのどれもが
「ジャズ」という音楽のカテゴリーに違和感なく収まっている。 だからそこ、愉しみは尽きないのだ。


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同時代としてのジャズヴォーカル

2016年11月05日 | Jazz LP (Vocal)

Mark Murphy / The Artistry of Mark Murphy  ( 日 KING RECORD K26P 6242 )


最も好きなジャズシンガーの1人であるマーク・マーフィーの作品の中でも、最も好きなアルバムの1つ。 ミューズ原盤だけど、アメリカ盤のジャケットは
ひどいデザインで持つ気にはなれず、この国内盤で聴いている。 こちらのほうがジャケットや盤の作りが丁寧で、日本盤をバカにしてはいけない良い見本だ。
30年来の愛聴盤で、思い入れの強さが他の作品とはちょっとばかし違う。

この人の素晴らしさは、その音程の正確さと音感の良さ。 この一言に尽きる。 ジャズ界では他の追従を許さない。 音程の正確さというのは音楽技法の
中では最も重要な要素の1つで、ジャズ・シンガーの世界ではエラ・フィッツジェラルドやバディ・グレコが秀でているけれど、マーク・マーフィーの場合は
ちょっと正確さの次元が違う。 楽器は上手い下手が明確にわかるからごまかしようがないけど、ボーカルの世界は雰囲気だけ良ければ許されるような
いい加減なところがあって、そういう中でマーク・マーフィーのような本物は一般的にはちょっと煙たがれる存在かもしれない。

トム・ハレルやジョージ・ムラーツら一流どころが名を連ねるバックの演奏も素晴らしく、音楽全体がセピア調の抒情的でせつない雰囲気でまとめられている。
ギターだけをバックに歌う "I Remenber Clifford" はこの曲のヴォーカライズとしては最高の出来だし、ガーシュインの "Long Ago And Far Away"と
ジェームス・テイラーの "Long Ago And Far Away" をメドレーで繋いでしまうなど、各楽曲のクオリティーの高さは圧倒的だ。

昔からジャズ本では "Rah" や "Midnight Mood" ばかりが判で押したように取り上げられるけれど、この人の本懐はミューズ時代にある。 ジャズを
懐古趣味のものとしてではなく、同時代の音楽としてリアレンジして自分だけの音楽に仕立てて作品を作り続けた。 そのおかげで、ダイアナ・クラールや
ノラ・ジョーンズのような人たちが活躍できる場ができたんじゃないだろうか。


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本当に名盤!

2016年11月03日 | Jazz LP (Blue Note)

Ornette Coleman / At The "Golden Circle", Stockholm Vol.1  ( 米 Blue Note BLP-4224 )


ロリンズのヴァンガードでのライヴを聴くたびに思い出すのがこのゴールデン・サークルで、年代には少し隔たりはあるけれど、二卵性双生児と言っても
いいような内容だ。 ロリンズは1957年にスタンダードという素材を使ってハードバップからの飛翔を試み、オーネットは1965年に欧州ツアーでの
心象風景を抒情的に歌うことで、奇しくも接近することになる。 ロリンスは右から左へ寄り、オーネットは左から右へ寄ることで互いに近似している。

ロリンズはヴァンガードでニュー・ジャズの到来を予言したかった訳だけど、如何せん、自身でそれを演奏するには準備不足だった。 彼は自身のバンドを
持つことを好まず、天才プレーヤーの宿命として自分一人で全てをやらないと気が済まない人だったから、練習不足を解消するために結局2度目の雲隠れに
入らざるを得なかった。

ロリンズの予言はあまりに時期が早過ぎて、その当時それに気付いた人は誰もいなかったけれど、唯一マイルスだけは黙って準備を進め、59年春に
モードの傑作を「チームで」やり遂げる。 そして同じ時期にオーネットが「来たるべきもの」を録音する。 だから、ロリンズのヴァンガード(1957.11)
➡ マイルスのモード(1959.3)、来たるべきもの(1959.5) ➡ ロリンズの雲隠れ(1959.8)は一本の糸で繋がっている。

一方、この一連の動きの原動力だったオーネットは、バンドメンバーのドラッグ問題に悩んでいた。 バンドでドラッグをやらなかったのはオーネットただ
一人だけで、モントレー・ジャズ・フェスティバルに出演した時は、フラフラになったドン・チェリーをオーネットが殴り、唇が切れて演奏ができなくなった
チェリー抜きのトリオで演奏した。 チャーリー・ヘイデンは医者からしばらく演奏活動を止めるよう指示されて、バンドを辞めることになった。
更に有名になったのと引き換えに安いギャラで過酷なスケジュールでの活動を強いられるようになり、オーネットは1961~62年に演奏活動を止めてしまう。

そして、3年間の引退生活を経て新しいメンバーと活動を再開してほどなく欧州へ演奏ツアーを行い、スウェーデンで2週間ゴールデン・サークルに出演
した際の録音がこのアルバムだ。 録音は現地のエンジニアであるルネ・アンドレアソンが行い、RVGがマスタリングを行い、ブルーノートが発売した。
ロリンズの盤とは対照的に、こちらは音がとてもいい。

汲めども汲み尽くせないほど、フレーズは溢れ出てくる。 込み入ったことは何もやっておらず、おおらかに歌っている。 驚くほどシンプルな音楽だ。
そのあまりの素朴さに心を打たれる。 迷いの無さが強い説得力を生み、聴くものを黙らせる。 形式上の話など無意味だとすぐにわかるだろう。
音楽の世界は信念のある人しか生き残れないのだということを教えてくれる。




Ornette Coleman / At The "Golden Circle", Stockholm Vol.2  ( 米 Blue Note BLP-4225 )

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