黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

えっ、オバマが!?

2009-10-10 03:50:57 | 近況
 昨日の「ノーベル平和賞」の受賞者名を聞いて吃驚したのは、僕だけだろうか。確かに、オバマ・アメリカ大統領は下馬評には挙がっていた。しかし、まさか、受賞するとは誰も思っていなかったのではないか。
 何故なら、「平和賞」受賞理由になった「国際的な外交努力に大きな役割を果たした」ということの具体的現れであるイラク戦争からの撤退、及びプラハでの「核軍縮」の呼びかけにしても、この間の経緯を見れば、オバマ個人の資質や思想とは関係なく、オバマは客観的・結果的に「マッチポンプ」的な役割を果たしているだけ、と思えてならないからである。つまり、イラク戦争からアメリカ軍を撤退させるというのは、もちろん世界の「平和」に貢献することではあるが、そもそもイラク戦争はアメリカ(ブッシュ)が始めた戦争であり、「撤兵」だってイラク国民の持続する反撃によって「ベトナム化=泥沼化」しつつある現実を受け入れなければならなかった結果に他ならなかった、ということである。そして、オバマはイラク戦争からは「撤退」することになったが、返す刀でもう一つの「ベトナム化=泥沼化」しつつあるアフガニスタン戦争へは「増派」を決め、何が「平和主義者か?」と思わせるものがあったが、このことだけを取り上げても本当に「ノーベル平和賞」に値する「外交努力」の賜物だったのか、と思わざるを得ない。
 「核軍縮」の呼びかけにしたって、世界で最も精密で強力な核兵器を持っているアメリカの大統領が初めて「核軍縮」の声を上げたことは評価に値するかも知れないが、まず「隗よりはじめよ」で、最強核保有国のアメリカが率先して現在保有している「核兵器」を半減でも三分の一減でもし、「臨界前核実験」などというごまかしを辞めたら、「核軍縮」の呼びかけもそれなりに説得力があるが、そのことはひとまず措いて、他の核保有国及び「核」を持たない国(あるいは「核開発」を行おうとしている国)に「核軍縮」を呼びかけるというのも、イラク戦争からの「撤兵」と同じように、僕には「マッチ・ポンプ」的な振る舞い=パフォーマンスとしか思えない。昨年のリーマン・ショックをきっかけに始まった世界同時不況の波をまともに浴びたアメリカが「戦争」の継続・「核開発」といった軍需産業(関係も含む)から民需へと転換する過程(共和党から民主党への政権交代は、その象徴)で生まれたのがオバマのイラク戦争からの撤退であり、「核軍縮」の呼びかけである、というような僕の見方は、偏ったものだろうか。
 ただ、このような見方をするのには、ある理由がある。僕がまだ若かった頃、ベトナム戦争が終わりに近づいてきた1973年、世界を飛び回って「ベトナム和平会議」を実現させたとしてアメリカの国務大臣キッシンジャーがノーベル平和賞を受賞し、翌74年には同じような理由でベトナム戦争に加担していた(ベトナム特需と言われた好景気の恩恵を受けた)日本の首相・佐藤栄作が同賞を受賞するということがあった。ベトナム戦争を激化させた張本人の一人(佐藤栄作を含めれば二人)が、国内外のベトナム反戦運動の進展にも後押しされて、戦況が悪化したからといって「和平会議」を画策したらノーベル平和賞を受賞した、何と今回のオバマのケースと似ていることか。あの70年代半ば、キッシンジャーがノーベル平和賞をもらうのであれば、もう一方の当事者でベトナム戦争に勝利してベトナムに「平和」をもたらしたホーチミンも受賞の資格があるのではないか、また佐藤首相が沖縄返還・ベトナム和平との関係で「平和」に貢献したという理由で受賞するなら、沖縄返還に最も貢献した屋良朝苗かべ平連の小田実だってよかったのではないか、というような思いを強く持っていた。
 どうも「ノーベル平和賞」というのは、「マッチ・ポンプ」的な人物が受賞することからも分かるように、時の政治に左右される傾向があるように思われる。もっとも、そんなことはスエーデン・アカデミーの「自由」だ、と言われればそれまでであるが、佐藤栄作やキッシンジャーが今や色褪せてしまっているように、「核軍縮」が進まなかった、あるいはアフガン戦争が更に泥沼化した、というようなことが原因で、オバマの「ノーベル平和賞」受賞も何年かしたら忘れられてしまわないことを祈るばかりである。
 とここまで書いてきて、配達された新聞の第1面を飾っている「オバマ大統領、ノーベル平和賞受賞」の記事を読んでいたら、イラク戦争からの撤退は受賞理由になっておらず、その代わりに「地球温暖化対策に貢献」(ブッシュ時代、「京都議定書」に最後まで調印しなかった国はアメリカなのに)とか「イスラームとの会話」とかが理由として上げられ、何よりも「核軍縮」の呼びかけが最大のものとして上げられていた。それと、オバマは「実績」としては何もないに等しいが、未来への期待から賞を与えたのだ、とも書いた記事があり、なるほどそのようにしてオバマを縛るのか、それも一つの方法だな、と思った。
 ただ、「核軍縮」に関して、どうも記事はみな「楽観的」過ぎるのではないか、と僕は思った。過去に何度も「核軍縮」への動きがあったが、いつも最終的には核超大国の「反対」にあって挫折してきた。過度に「悲観的」になる必要もないが、オバマをそんなに信用していいのか、という思いは僕の中から相変わらず消えない。

 

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1 コメント

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細かいことで恐縮ですが (ネットで騒いでいる輩の一人)
2009-10-23 16:49:57
はじめて書き込みをさせていただきます。細かい事ですが、気になったので一つ。ノーベル平和賞の選定をするのはスウェーデンアカデミーではなく、ノルウェーのノーベル平和賞選考委員会ですよ。

ttp://www.norway.or.jp/About_Norway/2/organizations/prize/

個人的にはアメリカの核削減は、現在のアメリカの国際戦略とも合致するので、今後数年間の間に多少なりとも成果は出ると思いますよ。アメリカや日本が核削減のための費用を負担する形なら、増えすぎた核を持て余しているのはロシアも中国も同じですからね。アメリカにとってはそういった国の核がテロリストに利用される可能性の方が、国家間でのにらみ合いよりもよほど危険なのはいうまでもありません。もっとも、ロシアがどの程度交渉の材料にこれを使うかは不明ですが。

それよりも、むしろ現実的な問題としては「核」という軍事的な象徴に捉われずに、生物化学兵器など、核兵器よりもある意味では凶悪な兵器が存在しているにも関わらず先進国が十分な危機感をもっていないこと、さらにそういった兵器を作る技術があるのは何も先進国に限ったことではなく、どんな貧しい国でも、あるいはテロリストでさえも作製し使用することが可能であるという世界の情勢に目を向ける必要があるかと思います。

事実、日本では地下鉄サリン事件という前例があり、アメリカでも炭素菌によるテロが起こっていますからね。

文学論的な観点からいえば、現代社会の問題は他者というものがけして理解できないものである、という根底的な問題にそろそろ立ち返るべきではないか、ということのような気がします。いうならば存在性の孤独でしょうか。社会の構造の問題以上に、誰しもがテロリストになりえる社会という姿の方はよほど病的かも知れませんが、また一面極めて妥当だと個人的には思います。それを社会における強者と弱者の問題に集約させるのは少々強引ではないでしょうかね。
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