黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

三浦綾子・核(高濃度放射能)廃棄物

2009-10-19 09:35:15 | 文学
 先週の月曜日(12日)でちょうど「没後10年」を迎えた三浦綾子さんの文学と思想について、思いがけないところから執筆依頼があったのは、先々週の初めであった。思いがけないメディアというのは、日本共産党の機関紙「赤旗」であり、執筆依頼をしてきたのは、その文化部であった。これまで「赤旗」(文化欄)には『林京子全集』(全8巻 2005年)が刊行されたときに、その紹介を依頼されて書いたことがあったが、まさか三浦さんの文学と思想について書け、というのは意外であり、吃驚したので、思わず「思いがけない」という言葉が出てしまったのである――その他にも、実は僕の大学院時代の恩師小田切秀雄が日本共産党が最も批判の対象としていた「反党修正主義者」(共産党は、中野重治や野間宏、佐多稲子、井上光晴ら元共産党員の文学者たちにそのような言い方をしていた)だったために、また僕が学生時代にの本共産党の組織と敵対していたノンポリ学生だった、ということもあり、『林京子全集』について書くまでは、全く執筆依頼など無かったのである――。
 しかも、その執筆依頼の内容は、三浦さんと僕との交流史を交えたものにして欲しい、というものであった。詳細は、後で僕の文章を「転載」するのでそれを読んでもらえば分かって貰えると思うが、その依頼で僕が思い出したのは、三浦さんと初めてお会いした時のことである。僕は、あるメディアに連載が決まっていた「地域・人・文化」の第1回目に三浦さんに登場していただいたのだが、それは三浦さんがお住まいになっていた旭川から北の「幌延」という田園地帯に、高濃度に汚染された放射能廃棄物(要するに「核のゴミ」)の最終処分場が計画されていて、それに三浦さんが反対されていることを知り、是非とも『氷点』の作家にその真意を知りたい、と思ったからに他ならなかった。僕の意識の中で、クリスチャンと反核運動がストレートに結びつかなかったからでもあった。
 その時(89年6月、無くなる10年前)から、亡くなるまで(そして今日まで)三浦さんとは親しくさせてもらったが、本当に「真面目」な「前向き」な生き方を生涯貫いた文学者で、僕は彼女(及び、三浦光世氏)からは多くのものを教わった、と思っている。その成果の一つが『三浦綾子論―「愛」と「生きること」の意味』(94年 小学館)であり、今年の4月に刊行した『増補版』(柏艪社刊)である。
 「三浦綾子・没後10年」、是非もう一度彼女の文学と生き方(思想)を考えて欲しいと思う。
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三浦綾子没後一〇年
                              黒古一夫

 この一〇月一二日で没後一〇年になる三浦綾子さんに最初にお会いしたのは、お亡くなりになるちょうど一〇年前(一九八九年)、ある新聞に月一回の約束で連載を始めた「地域・人・文化」の第一回に登場していただいた時であった。その時の取材は、『氷点』(六五年)以来『ひつじが丘』(六六年)や『塩狩峠』(六八年)など、次々とベストセラーを生み出してきた流行作家の三浦さんが、なぜ宗谷岬に近い幌延町に計画されていた「高レベル放射能廃棄物」の貯蔵庫建設に反対するのか、を目的にしたものであった。それより前、一九八二年に始まった「文学者の反核運動」(正式には「核戦争の危機を訴える文学者の声明」署名運動)を手伝っていた私は、三浦さんが署名と共に多額の活動資金を寄せてくれていたのを知っていて、その取材において是非とも三浦さんの「反核」意識(思想)がどこから生じたものであるかをお聞きしたいと思っていたのである。
 私の質問に対する三浦さんのお答えは、実に明解であった。「核反対は、自然発生的なもので、そんな恐ろしいもの嫌よ、という素直な気持ちから出たもの。人間は神から自然の管理を任されているのに、利益優先のためなら何でもする、というのは子孫に対して残酷なことよ」というものであった。また、その時「平和」についても、「戦争がなければ平和というわけではないと思うわ。心の平和ということが大切なのよ」と言っており、ちょうど中国で「天安門事件」が起こったということもあって、「歴史的に見て、中国や朝鮮・韓国というのはお祖父さん、お祖母さんという感じね。尊敬と親しみを感じていたのに、何とも言えず悲しいわ。(民衆)は抑えられても抑えられても起き上がってくるものよ。権力の道具である軍隊が銃をどちらに向けるか、考えるだけで恐ろしいわ」とも言っていた。
 この取材から数年して、三浦さんは最後の長編であり私が三浦文学の最高傑作と思っている『銃口』(九四年)の執筆を始める。この作品は、戦時中の北海道で起こった「綴り方教育」弾圧事件を軸に、「正義=良心」と「生命」の尊さを守ろうとして権力から手酷い仕打ちを受ける主人公像を描くことで、「昭和」という時代は何であったのかを問おうとしたものである。まさに「軍隊が銃をどこに向けるか」によって恐ろしい社会を生み出してしまう現実に、最後の気力を振り絞って警告を発したのが、この長編であった。舞台も、北海道(旭川)から満州(中国東北部)、朝鮮半島と広い範囲にわたっており、登場人物も日本人だけでなく強制連行された朝鮮人から満州の中国人まで多岐にわたっていて、読み応えのある作品になっていた。『氷点』は、人間の「原罪とは何か」を問う作品であったが、『銃口』は社会や歴史の「闇=原罪」を明らかにする小説であった。
 三浦さんの文学は、処女作の『氷点』から最晩年の『銃口』まで、火山の爆発によって発生した土石流と闘う兄弟の姿を描いた『泥流地帯』(七七年)や、官憲に虐殺された小林多喜二の母親をモデル(主人公)にした『母』(九二年)がその典型と言っていいが、その特徴は作者の信仰(キリスト教)を超えて、「真面目」に「普通」の生活を送る人々が、襲いかかる「不幸」に負けず果敢に闘い、健気に生き抜いていく様を描くところにある。読者は、そんな三浦さんが紡ぎ出した物語を読んで「生きる勇気」を得、「愛」の存在を知るのだが、真摯に生きる人間と社会や歴史との緊張した関係を描く小説が少なくなっている昨今の文学界にあって、没後一〇年、三浦さんの文学はますます光彩を放ってきている、と言ったら過言だろうか。(「赤旗」10月9日号)


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