民主党政権の「政治主導」、あるいは「マニフェスト(公約)実行」の最大問題となっているように思える「八ツ場ダム」の建設中止問題に関して、地元群馬で暮らす人間として、また僕が学生だった頃(40数年前)に群馬大学や高崎経済大学を拠点としていた新左翼(過激派)が、「第二の成田」を目指して反対運動に介入した経緯をいくらか知っている者としては、放っておけないと思い、このところずっと考えていたのだが、この問題の根本は、誰かが言っていたことだが、戦後の日本を牽引してきた保守党による「土建国家」「土建行政」がいよいよ行き詰まり、そのような戦後の歴史が「転換点」を迎えていることの象徴としてある、ということだろうと思う。
昨日も、首都圏の関係する知事たちが現地を訪れて建設中止の反対を声高に叫んでいたが、その中での石原東京都知事の発言にあった「このような気候変動の時代にあって、(ダムを造らず)洪水になったらどうするのだ」についてだが、この八ッ場ダム建設の最初の根拠であった「治水」は、僕も微かに覚えているカスリーン台風による大被害(一九四七年)を根拠としたものであるが、僕が今住んでいる赤城山麓の地域もこの台風やその後の「ジェーン台風」などでも死者を何人も出す被害を受けた所だが、地区の長老に聞くと、そんな被害が出たのは、あの当時赤城山は戦時中の材木切り出しや「松根油」用の松の木伐採などで「丸坊主」状態になっていたからであって、その後植林して木が大きくなっているので、心配はいらない、現にあの当時の台風から後に「台風被害=洪水」は一度も起こっていない、と赤城山系の「治水」はうまくいっている、とのことだった。
もし本当に八ッ場ダムが「治水」上必要不可欠なものであれば、なぜ四〇年間、五〇年間放置して「完成」させなかったのか。今になって「治水」云々は、為にする発言に過ぎない。
また、「利水」という問題に関しても、ダム建設反対派が集めたデータでは、首都圏の水はずいぶんと余っていて、工業用水も含めて今のところ「全く必要ない」とのことである。利根川水系にはたくさんのダムなどがあり、また中小の町工場が首都圏から環境のよい場所に移転したということもあって、今は「水余り」の状態になっているのだろう。それと、これは全くマスコミ・ジャーナリズムが触れていないことだが、八ッ場ダムが建設される予定になっていた「吾妻川」は、かつては上流に硫黄採掘鉱山や精錬所があり、また温泉場がたくさんあるために、その処理水が流れ込んだため魚やその他の生物が全く住めない「死の川」だったこと(今は、中和剤の混入や鉱山閉鎖、温泉施設の汚水処理の向上によって、叙情に魚も住むようになっているが、上流地区はいざ知らず、未だに下流域で「魚釣り」をする人はいないのではないか、と思う。もう数十年前になるが、吾妻川と利根川が合流する地点(渋川市)で、明らかに水の色が違っているのを目撃したものである。
今はテレビで見る限り「清流」に見える吾妻川だが、(たぶん今でも)地元の子供たちは水遊びしないのではないか、と思う。地元から通って板大学の友人が「毒の川」と言っていたのを、今でも鮮明に覚えている。
「治水」も「利水」もダメ、ならば「観光」ということになるが、油量豊富な「ひなびた温泉宿」で結構人気のあった川原湯温泉をあそこまで寂れさせたのは誰か?群馬以外の人は余り知らないかも知れないが、群馬県内各地の特色や偉人を読み込んだカルタで有名な「上毛カルタ」の「や」は、あのダムが完成すれば水没してしまう渓谷を歌った「耶馬溪しのぐ吾妻峡」である。僕は何十回となくその「吾妻峡」を車や電車で通ったが、紅葉に染まった秋の吾妻峡は、本当に美しいところである。それがなくなってしまうことに、心痛めていた人もたくさんいたのではないか。
土建屋(ゼネコン)とそれに癒着した官僚たち(と、それに踊らされた地元の小政治家たち)が計画した「無駄な公共建築物」である八ッ場ダム、本体工事が全く進んでいない現段階で「中止」になったのは、歓迎すべきことである。先に書いた赤城山でも他の山でも良いのだが、これまでのでたらめな林業政策によって山は「疲弊」している。そのために「林道」の整備や「砂防ダム」の建設といった「公共事業」の緊急の必要性に迫られているように思う。山菜採りに行っても、木イチゴ採りに行っても痛感するのは「山の荒れ具合」である。そちらの「整備」にお金を投入することの方が、巨大ダムを造るよりどれほど経済効果があるか、そんなことも考えるべきである。
もちろん、「ダム建設中止」でこれまでの何十年間痛み付けられ続けてきたた地元の人たちに対するケアは、十分に行われなければならない。十分な「補償」と「生活再建」の手助け、それが実現したとき、本当の意味で「政権交代」を選択した国民の意を汲んだ政治、ということになるのではないだろうか。
昨日も、首都圏の関係する知事たちが現地を訪れて建設中止の反対を声高に叫んでいたが、その中での石原東京都知事の発言にあった「このような気候変動の時代にあって、(ダムを造らず)洪水になったらどうするのだ」についてだが、この八ッ場ダム建設の最初の根拠であった「治水」は、僕も微かに覚えているカスリーン台風による大被害(一九四七年)を根拠としたものであるが、僕が今住んでいる赤城山麓の地域もこの台風やその後の「ジェーン台風」などでも死者を何人も出す被害を受けた所だが、地区の長老に聞くと、そんな被害が出たのは、あの当時赤城山は戦時中の材木切り出しや「松根油」用の松の木伐採などで「丸坊主」状態になっていたからであって、その後植林して木が大きくなっているので、心配はいらない、現にあの当時の台風から後に「台風被害=洪水」は一度も起こっていない、と赤城山系の「治水」はうまくいっている、とのことだった。
もし本当に八ッ場ダムが「治水」上必要不可欠なものであれば、なぜ四〇年間、五〇年間放置して「完成」させなかったのか。今になって「治水」云々は、為にする発言に過ぎない。
また、「利水」という問題に関しても、ダム建設反対派が集めたデータでは、首都圏の水はずいぶんと余っていて、工業用水も含めて今のところ「全く必要ない」とのことである。利根川水系にはたくさんのダムなどがあり、また中小の町工場が首都圏から環境のよい場所に移転したということもあって、今は「水余り」の状態になっているのだろう。それと、これは全くマスコミ・ジャーナリズムが触れていないことだが、八ッ場ダムが建設される予定になっていた「吾妻川」は、かつては上流に硫黄採掘鉱山や精錬所があり、また温泉場がたくさんあるために、その処理水が流れ込んだため魚やその他の生物が全く住めない「死の川」だったこと(今は、中和剤の混入や鉱山閉鎖、温泉施設の汚水処理の向上によって、叙情に魚も住むようになっているが、上流地区はいざ知らず、未だに下流域で「魚釣り」をする人はいないのではないか、と思う。もう数十年前になるが、吾妻川と利根川が合流する地点(渋川市)で、明らかに水の色が違っているのを目撃したものである。
今はテレビで見る限り「清流」に見える吾妻川だが、(たぶん今でも)地元の子供たちは水遊びしないのではないか、と思う。地元から通って板大学の友人が「毒の川」と言っていたのを、今でも鮮明に覚えている。
「治水」も「利水」もダメ、ならば「観光」ということになるが、油量豊富な「ひなびた温泉宿」で結構人気のあった川原湯温泉をあそこまで寂れさせたのは誰か?群馬以外の人は余り知らないかも知れないが、群馬県内各地の特色や偉人を読み込んだカルタで有名な「上毛カルタ」の「や」は、あのダムが完成すれば水没してしまう渓谷を歌った「耶馬溪しのぐ吾妻峡」である。僕は何十回となくその「吾妻峡」を車や電車で通ったが、紅葉に染まった秋の吾妻峡は、本当に美しいところである。それがなくなってしまうことに、心痛めていた人もたくさんいたのではないか。
土建屋(ゼネコン)とそれに癒着した官僚たち(と、それに踊らされた地元の小政治家たち)が計画した「無駄な公共建築物」である八ッ場ダム、本体工事が全く進んでいない現段階で「中止」になったのは、歓迎すべきことである。先に書いた赤城山でも他の山でも良いのだが、これまでのでたらめな林業政策によって山は「疲弊」している。そのために「林道」の整備や「砂防ダム」の建設といった「公共事業」の緊急の必要性に迫られているように思う。山菜採りに行っても、木イチゴ採りに行っても痛感するのは「山の荒れ具合」である。そちらの「整備」にお金を投入することの方が、巨大ダムを造るよりどれほど経済効果があるか、そんなことも考えるべきである。
もちろん、「ダム建設中止」でこれまでの何十年間痛み付けられ続けてきたた地元の人たちに対するケアは、十分に行われなければならない。十分な「補償」と「生活再建」の手助け、それが実現したとき、本当の意味で「政権交代」を選択した国民の意を汲んだ政治、ということになるのではないだろうか。