黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

若者は「自己表現」が苦手?

2009-10-28 06:09:01 | 文学
 このところ、ずっと「若者」(20代の男女)が書いた「論文」やら「論文もどきの文章」を読んでいるが、そこで気付いた(感じた)ことがある。それは、彼ら・彼女らは「おのれ」を語ることがどうも不得意なのではないか、自分の「内面=考え方や感じ方」を隠すことにきゅうきゅうになっているのではないか、ということである。
 例えば、「論文」あるいは「論文もどきの文章」であるが、「論文」に必要なのは、もちろん第一には「論理的整合性」であるが、その論理的整合性を下支えする「批評」及びその前提となる対象の「分析」ができない、あるいは微妙に「批評」や「分析」を避けているという印象(感じ)を彼ら・彼女らの「論文=文章」から受けるのである。――ここで断っておきたいのは、僕自身もそのような若者の文章に対して「印象を受ける」とか「感じがする」というような書き方をしていて、具体例を挙げた論理的な言い方をしていないが、それは具体例を挙げると、その文章を書いた人が特定される恐れがあると思うからである――。
 何故なのか。おそらく、今の若者たちは、日頃の言動を見ていてもそのように思うのだが、極端に「自己を晒す」ことを恐れる、あるいはそのような「自己を晒す」ことによって築く人間関係を小さいときから忌避することに慣れ親しんできたが故に、必然的に「自己を語る」ことになる「批評」やその対象の「分析」を避けることになってしまったのではないか。だから、マニュアルに従った、あるいは「自己を晒す」必要のないレポートや試験(覚えたことを書けばいい)などでは好成績を収めるのに、究極的には「おのれのこと」を書くことになる「批評」、つまり「論文」が書けなくなってしまうのだろう、と思う。
 このことは、翻って、何年か前からブームになっている「ケータイ小説」などにも言えることである。一般的に「ケータイ小説」は、「真実」を装うのに最適な「告白体」で叙述されている。なので、読者もそれをあたかも作者が「正直」に「おのれを語った」物語だと信じた振りをして読み、その「虚構=うそ」の物語を愉しむ。どうも「ケータイ小説」には、そのような「ルール」が作者(発信者及びサイト管理者やそれを書籍化した場合の版元)と読者の間に暗黙の了解事項として存在するように思える。もちろん、確かめてみないと分からないが、「ケータイ小説」の作者のほとんど(全てと言ってもいいように思う)が、「ペンネーム」つまり「匿名」であるということも、この「自己を語らない」ということに通底しているのではないか、と思えてならない。
 何故それほどまでに「おのれ」を隠そうとするのか。「近代(現代)社会」の未来(なれの果て)は、もしかしたら孤立した「個」が「他者」のことを何も知らず寂しく生きていく社会なのではないか。というようなことを思ったのは、「個人情報」の過度の保護によって教師が教え子の年齢や民族、家族関係(結婚しているかどうか、等)について何も知らない、という何とも希薄な人間関係が現実として存在した10年前のアメリカ生活でのことであったが、どうも今の日本もそのような頑なに「おのれ」を防御する人(若者)が増えているのではないか、と思えて仕方がない。
 そんな「おのれを語らない」状態を保持したままでは「論文」など書けようながない。そこには「他者」に対する関心(好奇心)など欠片もないからである。「批評」は、強烈な「他者」への関心によって支えられること、そのことを自戒を込めて確認しておきたいと思う。
 それにしても、「ケータイ小説」を「文学」などといって持ち上げる「いい大人」がいるが、本当にあのような「嘘」(虚構ではない)で固められたような「小説もどき」を「文学」と認めるとは、僕には考えられない。(と書くと、またまた「反撃」されるかな?)