昨日は、台風一過の秋晴れにもかかわらず、仕事部屋に閉じ籠もって「図書新聞」から頼まれたエッセイ(「立松和平全小説」について)を書いていたのだが、合間合間にテレビのニュースを見ていて、ノーベル賞各賞が発表される数日前まではあれほどまでに騒いでいた「村上春樹、今年こそノーベル賞か」といった類の喧噪がなりを潜めているのを不思議に思いすごしていたところ、いつまでたっても「臨時ニュース」は入ってこないわ、BSニュースでも報じないわで、ああ今年もダメだったんだなと思っていたら、案の定、NHKの夜9時のニュースで、台風被害について大々的に報道した後、ひっそりと今年のノーベル文学賞受賞者がドイツの女性作家ヘルタ・ミュラー(56歳)に決まったことを伝えていた。
あることがきっかけで原題の外国文学(翻訳されたもの)を読まなくなった(村上春樹が翻訳しているアメリカ文学については例外)僕は、彼女については全く知らず、名前だけはイギリスのブック・メーカーが今年のノーベル文学賞候補として村上春樹と同じ「6位」に挙げていたので知っていたが、今朝の新聞を読んで彼女が、あの「恐怖政治」を行ったチャウシェスク政権下のルーマニアから亡命した作家で、その時の経験を基に創作(小説・詩)を行ってきた作家だと知って、「なるほど妥当だったのかも知れない。村上春樹もブック・メーカーのオッズは彼女と同じ6位だったが、負けたのは当然かも」と思った。
前にもこの欄で村上春樹の『1Q84』が刊行された際に書いたことなので、重複は避けるが、その時あれほど「鳴り物入り」(ノーベル賞受賞も影で目論んで、あるいは5年ほど新作を出していなかったハンデを解消すべく意図的に、と言ってもいいが)で新刊の紹介が行われ、2ヶ月足らずでBook1・2合わせて200万部以上を売り上げたとされる「お化け」小説(当然のことながらその後は売り上げは停滞したようで、10月に入っても8月頃の発表「223万部発行」は変わっていなかった)を発表したにもかかわらず、僕が危惧していたように「受賞成らず」で、今回の「狂想曲」は終了した。
「残念至極」と言えばいいのか、はたまた「当然」と言えばいいのか、僕個人としては正直言って複雑な心境であるが、マスコミなどにコメントを求められたとき僕がいつも答えていた、「村上春樹の作品には<社会性・歴史意識が乏しいので、その点がマイナスに評価されるのではないか>」が今回も当て嵌まってしまったようで、その意味では「残念」だが「当然」と思う気持ちが強い。特に、紹介によれば(繰り返すが、僕は実作を読んでいないので)ルーマニアのチャウシェスク政権下の現実を基にした作品と、詳しい僕の考えは是非「月光」第2号に載せる「『1Q84』をめぐって」という50枚余りの評論を読んでいただければご理解いただけると思うが、「コミューン主義」(モデル:ヤマギシ会)やカルト教団(オウム真理教)の犯罪、等「社会性・歴史性」を踏まえ、「善」と「悪」を相対化する思想を披瀝したように見えた『1Q84』であるが、ノーベル文学賞選考委員がこの村上の新作を読んだ上での評価であったかどうかは定かでないが(あれほど鳴り物入りであったのだから、それなりに読んだのではないか、と思われる。特に日本人推薦人の一人である大江健三郎は絶対読んだはずであるから、彼がどのようにこの新作を評価したかが、もしかしたら鍵だったのではないか、と下司の勘繰りを承知で書き添えておく)、ヒロインの「青豆」が最後にピストル自殺する設定は、村上春樹の思想の「曖昧さ」「中途半端さ」を象徴しており、そのような「曖昧さ・中途半端さ」が選考委員に敬遠された理由だったのではないか、と思う。
なお、この村上春樹の考え方(思想)の「曖昧さ」はエルサレム賞授賞式のスピーチにも現れていた(このことについても、先の「月光」の原稿は指摘している)と僕は思っているのだが、そのような村上春樹の考え方の「ふらつき=曖昧さ」については、拙著『村上春樹―「喪失」の物語から「転換」の物語へ」(07年 勉誠出版)で、僕は「村上春樹の<迷走>」として僕の考えを述べているが、今回のノーベル文学賞の「落選」によって、自画自賛になるが、僕の考えに間違いはなかったのではないか、と確信を持った。
それにしても、村上春樹のノーベル賞受賞を目論んで、もしかしたら「捕らぬ狸の皮算用」をしていた人たち(さしずめ、『1Q84』をどう読むか、などといった「オマージュ本」に加担した人たち)は、今回の結果をどう考えるのか、是非とも感想を聞きたいものだが、たぶん僕の所には届かないだろう。
あることがきっかけで原題の外国文学(翻訳されたもの)を読まなくなった(村上春樹が翻訳しているアメリカ文学については例外)僕は、彼女については全く知らず、名前だけはイギリスのブック・メーカーが今年のノーベル文学賞候補として村上春樹と同じ「6位」に挙げていたので知っていたが、今朝の新聞を読んで彼女が、あの「恐怖政治」を行ったチャウシェスク政権下のルーマニアから亡命した作家で、その時の経験を基に創作(小説・詩)を行ってきた作家だと知って、「なるほど妥当だったのかも知れない。村上春樹もブック・メーカーのオッズは彼女と同じ6位だったが、負けたのは当然かも」と思った。
前にもこの欄で村上春樹の『1Q84』が刊行された際に書いたことなので、重複は避けるが、その時あれほど「鳴り物入り」(ノーベル賞受賞も影で目論んで、あるいは5年ほど新作を出していなかったハンデを解消すべく意図的に、と言ってもいいが)で新刊の紹介が行われ、2ヶ月足らずでBook1・2合わせて200万部以上を売り上げたとされる「お化け」小説(当然のことながらその後は売り上げは停滞したようで、10月に入っても8月頃の発表「223万部発行」は変わっていなかった)を発表したにもかかわらず、僕が危惧していたように「受賞成らず」で、今回の「狂想曲」は終了した。
「残念至極」と言えばいいのか、はたまた「当然」と言えばいいのか、僕個人としては正直言って複雑な心境であるが、マスコミなどにコメントを求められたとき僕がいつも答えていた、「村上春樹の作品には<社会性・歴史意識が乏しいので、その点がマイナスに評価されるのではないか>」が今回も当て嵌まってしまったようで、その意味では「残念」だが「当然」と思う気持ちが強い。特に、紹介によれば(繰り返すが、僕は実作を読んでいないので)ルーマニアのチャウシェスク政権下の現実を基にした作品と、詳しい僕の考えは是非「月光」第2号に載せる「『1Q84』をめぐって」という50枚余りの評論を読んでいただければご理解いただけると思うが、「コミューン主義」(モデル:ヤマギシ会)やカルト教団(オウム真理教)の犯罪、等「社会性・歴史性」を踏まえ、「善」と「悪」を相対化する思想を披瀝したように見えた『1Q84』であるが、ノーベル文学賞選考委員がこの村上の新作を読んだ上での評価であったかどうかは定かでないが(あれほど鳴り物入りであったのだから、それなりに読んだのではないか、と思われる。特に日本人推薦人の一人である大江健三郎は絶対読んだはずであるから、彼がどのようにこの新作を評価したかが、もしかしたら鍵だったのではないか、と下司の勘繰りを承知で書き添えておく)、ヒロインの「青豆」が最後にピストル自殺する設定は、村上春樹の思想の「曖昧さ」「中途半端さ」を象徴しており、そのような「曖昧さ・中途半端さ」が選考委員に敬遠された理由だったのではないか、と思う。
なお、この村上春樹の考え方(思想)の「曖昧さ」はエルサレム賞授賞式のスピーチにも現れていた(このことについても、先の「月光」の原稿は指摘している)と僕は思っているのだが、そのような村上春樹の考え方の「ふらつき=曖昧さ」については、拙著『村上春樹―「喪失」の物語から「転換」の物語へ」(07年 勉誠出版)で、僕は「村上春樹の<迷走>」として僕の考えを述べているが、今回のノーベル文学賞の「落選」によって、自画自賛になるが、僕の考えに間違いはなかったのではないか、と確信を持った。
それにしても、村上春樹のノーベル賞受賞を目論んで、もしかしたら「捕らぬ狸の皮算用」をしていた人たち(さしずめ、『1Q84』をどう読むか、などといった「オマージュ本」に加担した人たち)は、今回の結果をどう考えるのか、是非とも感想を聞きたいものだが、たぶん僕の所には届かないだろう。