黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

核軍縮は可能か?

2009-10-01 16:58:27 | 近況
 ずっと気になっていたことがある。それは、アメリカ大統領オバマの「核軍縮」提案に関してである。天邪鬼と言われるかもしれないが、どうも世界中がオバマ大統領のプラハ及び国連での「核軍縮」演説を単純に(楽天的に、あるいは期待感を持って)聞きすぎているのではないか、という思いを禁じえないのである。
 つまり、戦中から戦後を経て現在に至るまで「核開発」を強力に推し進め、現在もその精度や破壊力において他を圧倒する核兵器を保有している、ということは「核抑止力」神話が生きている国・アメリカということになるが、そのアメリカがそう簡単に「核抑止理論」に反する「核廃絶」を是認するか、根本的に疑問が絶えないのである。オバマが登場してきたとき、政策として「イラクからのアメリカ軍撤退」が掲げられていた。それを知ったとき、「ああよかった、これで無辜の民が死ななくて済む」と思ったのだが、イラクからは撤退するけれどもアフガニスタンの駐留米軍は「テロリストの巣窟・タリバーン」殲滅のために増強する、という平和主義者でもなんでもない、アメリカ人の「限界」を露呈する思想を披瀝してしまった。ベトナム化=泥沼化しつつあったイラクからは撤退するが、アメリカ軍が優位を保っているアフガンには、敵殲滅のために増派する。こんな便宜主義的な(矛盾した)論理の持ち主が唱える「核軍縮」、にわかには信じられないと思ったのは、僕だけだろうか。
 と同時に、オバマの「核軍縮」の提唱は、絶対的な核保有国であるアメリカの「有利」を保ちつつ、イランや北朝鮮の核保有をけん制する意味しかないのではないか、それは「核廃絶」を真に望む私達の願いを実は踏みにじるものではないのか、とも思わざるを得ないものである。僕は「懐疑派」ではなく、どちらかと言えば「楽観的」に物事を考える性質だが、こと「核・原爆」に関しては、文学的(情緒的)なイッシューではなく、純粋に軍事(政治)の問題だと思いつつ、悲観的に考えざるを得ない習慣になってしまっている。政権交代が成って、民主党が同考えるかは今のところ分からないが、歴代の政権は、「核軍縮」は建前で、「密約問題」が象徴するように「非核三原則」さえ守ってこなかったし、およそ30万人も存在する「被爆者」に対しては、「放置」してきたとしか思えない処遇の歴史であったことを思うと、残念ながら素直にオバマの「核軍縮」提案を信じることができないのである。
 自国の「核」を優位のままにして、他国の「核開発・核保有」については、厳しい態度をとる、どこか不自然である。「隗より始めよ」という言葉があるが、本当に「核軍縮」を望むならば、大統領の権限で自国の「核兵器」を半分でもいいから減らしてから、他国に「核軍縮」を望むべきなのではないか。「核軍縮」という口当たりのいい言葉にだまされてはならないのではないか。「核実験」についてだって、「核実験禁止条約」を結びながら、かつてアメリカは「臨界前」だからという口実で、地下核実験を続けてきた、という歴史がある。
 たしかに、アメリカ初の黒人大統領となったオバマは違うかもしれないが、本当に違ううかどうか、民主党が本当に国民=市民のための政治を行うかどうか、と同じように、もうしばらく時間が経たないと分からないのではないか、と思う。
 石原慎太郎が、オリンピックのために「敵」の鳩山首相をヘルシンキまで引っ張り出したように、「政治」は基本的には便宜主義そのものである。僕らはその「原理」を忘れてはならないだろう。