黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

体調崩し、しかし仕事は……

2009-07-13 09:41:28 | 文学
 1学期が終わり成績登録も済ませたからというわけではなかったのだろうが、「外」に出ることが億劫になってしまい、先々週末から先週末まで1週間あまり、ずっと家からでない生活をしていた。別に風邪を引いたとか、どこかが悪くなったということではなく、単にただ「外」へ出る気力がなくなったというだけだったのだと思うが、これまでにも何年かに1度そのようなことがあったので、別にどうということはなかったのだが、心配してくれる人もいたので、ちょっと前置き的に書いておきたかった、ということである。
 さて、学期末試験から「引きこもり」の期間まで、この間何をしていたのかということになるが、今月初めに『村上龍―「危機」に抗する想像力』が刊行され店頭に並びはじめたということも含めて、どなたか匿名のコメンテーターが「(黒古は)文壇からも学会からも相手にされない」などと知った風なことを書いていたことを裏切ることになるが、書評2本と評論2本を書くという、結構多忙な日々を送っていたのである。
・書評は、『週刊読書人』に相次いで頼まれたもので、1つは『憎しみの海・怨の儀式―安達征一郎南島小説集』(川村湊編 インパクト出版会刊)で、安達征一郎という作家については知っていたが、実際に作品を読むのは初めてで、琉球弧(沖縄)・トカラ列島を舞台にそこの出身であることを発語の根拠とする作品群、村上春樹や村上龍といった現代文明の最先端と渡り合う文学とはまた異なった作品は、大変面白かった。(この書評は現在発売中の『読書人』に掲載されているので、興味のある人は読んでみて欲しい。因みに『読書人』は、どこの公共図書館・大学図書館でも常備してあるのではないか、思う)
 もう一つは、同じく『読書人』から依頼されて書いた立松和平の新作『人生のいちばん美しい場所』(東京書籍刊)についての書評、である。これはまだ掲載されていないので詳しくは書けないが、僕らの世代が直面せざるを得ない「老い」(と、アルツハイマー)の問題を二組の夫婦の姿を通して描いたもので、非常にリアリティのある作品に仕上がっていて、身につまされる思いで読んだ。今週末か次週末に掲載されるのではないか、と思う。
 実は書評に関しては、もう1本、日本近代文学会から依頼されて今月末に10枚ほど書かなければならないのだが、それはこれからの仕事ということになる。
・次に論文の方だが、1つは「『雨ニモマケズ』論争について」、これは周知の宮沢賢治の人口に膾炙した「雨ニモマケズ」を巡って1960年代の半ばに、谷川徹三と中村稔を中心にして起こった論争に関して、それが中途半端なまま終わってしまった理由について30枚ほどの文章で論じたものである。5月半ばに着手したのだがなかなか進まず、少しずつ書いてきてようやく7月始めに終わったのである。宮沢賢治に関心のある人には是非読んで欲しいものである。「デクノボー」がキーワードになっている評論である。刊行は9月になると思うが今月末に創刊号が出る『月光』という文芸誌の2号に掲載される予定になっている。
 もう一つは、中国の社会科学院・外国文学研究(日本文学研究所)に頼まれて、今まさに書いている「辻井喬の文学」である。あと4,5日で書き終わる予定なのだが、セゾン・グループの総帥として活躍してきた「堤清二」と詩人・小説家の「辻井喬」の文学について、そのアウト・ラインを描く仕事、そこには「文学の原点」があるように僕には思われ、今では書いている評論よりは更に突っ込んだ作家論を書きたい、とも考えるようになってきている。論文の骨格はもう決まっているので、後は書くだけなのだが、さてどうなる事やら。

 というように、それなりに仕事はしてきたので「引きこもり」状態というのは、単に「外」に出ないということのようにも思えるのだが、今は世の中(の動き)とある一定の距離を置くというのも悪くないな、とその効用を嬉しがっている僕がいるのも事実で、これからも疲れたら「体調不良」で「引きこもり」になろうかな、とも思った。