黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「言葉」が届かなくなった?!

2009-07-25 08:37:28 | 文学
 文壇(を特に意識しているわけではないが)でも、また論壇でも近頃とんと見かけなくなったのは「論争」である、とはもう何年も前から言われていることであるが、昨今のテレビ(政治)討論を見ていても、あるいはささやかなこのブログの「コメント」などを読んでも、どうも「言葉」が正面からぶつかり合うことがなく(つまり「論争」的なやり取りになることがなく)、「すれ違い」や意識的な「ズレ」によって、結果的に「揶揄」や「誹謗・中傷」「蔑み」になってしまい、共同(協働)して何かを創ろうという意欲が全く見えない状態になっているのではないか、と思わざるを得ない。
 このような状態が「幸福」でなく、関係を構築する際の障害にしかならないのは自明のことだが、いつからこのような世の中になってしまったのか。時は、麻生首相によって発動された解散・総選挙状態になっているが、顧みるに、このような「言葉」が正面からぶつかり合わなくなったのは、「ワンフレーズ」首相と言われた小泉さんが首相になったころからであり、その傾向が顕著になったのは、「郵政選挙」によって与党が3分の2の議席を獲得し、野党がどんなに反対しても(野党が多数を占めている参議院で反対の議決をしても)与党案が国会を通過してしまうことが繰り返されるようになってからではないか、と思う。
 そして、国会におけるそのような「悪しき傾向」は、このネット社会の「悪=とりあえず「匿名性」が象徴するもの、としておく」と連動して、他者との「共同性=共生への意思」を破壊し、個と個の関係をバラバラにし、一人一人の孤立を深める傾向を助長するようになっている。――唐突に聞こえるかも知れないが、新作「1Q84]を含めて村上春樹の文学が若い人たちを中心に受け入れられているのは、登場人物達がこの社会を反映した「孤立状態」にあり、そのような作品世界に読者が共感するからだ、と考えられる。
「共同性=共生への意思」を失ったとき(あきらめたとき)、例えば他人の批判など端から聞く耳を持たない「烏丸御池」氏のように「唯我独尊」(もう少し格好つけた言い方をしてやれば「孤高の紳士」の独り言)であることを自認せざるを得なくなるか、それとも「みつ」氏のように何の根拠(論理)も示さず他者を口汚く罵ることに「快感」を見出すような「下品」さーーやっかいなのは、この「下品」さを党の本には全く自覚していないということである――の世界に生きるしかなくなってくる。つまり、「匿名」で他者を批判する者達は、初めから「言葉」が他者に届くかどうかなど問題ではなく、一方的に「自己主張」すれば、それでことが足りたような気持になる、という「言葉」の本質、つまり言葉の「伝達」機能を無視した人たちなのだろうと思う。
 僕がこの社会はおかしくなっているのではないかと思うのは、言葉の届く範囲が非常に狭くなっている、つまり「言葉の公共性」とも言うべきものの有効性が希薄なっているからに他ならない。なぜそのようになってしまったのか。表層的には、先に挙げた「政治」の世界における堕落、がその理由の第一番に上げられるが、本質的には、「情報」としてではなく、「知=哲学」を向上させるための「読書」が廃れてきたからだ、と僕は思っている。つまり、エンターテイメントとしてではなく本を読む習慣が廃れてきたが故に、他者への想像力(好奇心)を欠いた、他者と言えば「敵」としか思えない思えない人間が増えてきたのではないか、それが現在に「悪」を醸成しているのではないか、と思うのである。
 言葉が相手に届かないというのは「哀しい」ことである。

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5 コメント

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拝見しました (みやこしひろゆき)
2009-07-25 11:12:51
ぼくは黒古先生が体験してきた時代の空気を知らないので、一概に「昔に比べて今は、、」といった比較はできません。しかし、僕の周辺を見る限り、言葉のちからを信じている人は少数だと思います。
言葉や知識がどれだけ無力か、みんななんとなく気づいています。それらは僕らの生活を良くする為でなく、金持ちの金儲けの道具になっているように思われます。
いや、言葉に関してはその可能性を棄てたわけではありませんが、言葉そのものの力だけで相手に意志を伝えることは不可能だと思います。音楽だったりマリファナだったりがそこに必要ですが、残念ながら路上での規制は最近厳しく、マリファナはそのよしあしを議論する以前に取締られています。
僕らがみんなで意思疎通をするのに必要なものが、規制されています。ぼくらは言葉を取り上げられたようなもんです。
残された方法はそれこそ、宗教に入るなり歩行者天国にトラックで突っ込むなりして自分の中のバランスをとるしかないです。一人の人間が発する言葉より、一人の人間が犯す犯罪のほうが、はるかに手っ取り早く「公共性」のあるコミュニケーションだと思います。
ただ僕自身のモラルの問題としてそういうことはしないですが。

つらつら書いてお邪魔しました。
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自覚の欠如? (匿名)
2009-07-26 20:04:08
うーん、俺は黒古さんを罵倒して貶めるつもりはないんだけど、黒古さんが、「言葉が届かなくなった」と感じている一番の理由は、彼自身の他者への想像力の欠如だろうね。このブログを読んで俺が思うのは、黒古さんは、人が自分の書いた文章を読んで、人がどう思い感じるのか、という基本的な想像力が欠落していること。今回もそう。社会や読み手の共同性の欠如、なんてことは関係ない。黒古さんの他者への思いやりの欠如こそが、罵倒や人格否定を呼び起こしているのだと思う。批評家は何より、そういう反省的な思考に長けていなければならないのでは?罵倒や人格否定を行う人間もおかしいが、黒古氏はそういう自分について考えたことはないのか?
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不毛地帯 (烏丸御池)
2009-07-26 21:06:20
黒古さん
独りよがりの持論を書き連ねて、自己陶酔なさるのも、いいかげんになさいませ。
貴方が、お口を開けば、自分の立場を正当化する内容ばかり。恥をさらすだけですよ。
私のような匿名のコメントに拘るよりも、きちんとお名前を示して、貴方に投げかけた疑問への回答を待っていらっしゃる皆さんに、これ以上もう逃げたり、気づかぬふりをなさらず、正面からお答えしてさしあげたらどうですか。

「論争」というものは、相手が論理的思考のできる人間でなければ成り立ちません。
論理的に思考を進めるには、その大前提として、「言葉」を正確に使うことが必要です。論争するA、Bの両者にとって、言葉が共通の意味を表すものでなければ、論争は成立しませんからね。
自己の外側にある「事物」や「現象」。自己の内側にある「思考」「感覚」、そして「体験」等々を深く考察し、検証して、それらに最も相応しい「言葉」を与えて表現(定義)する…。
この作業が正しく身にいていない人間が相手では、論争など成り立つ筈がない。
こういう人間を相手にする場合は、その人間の発言内容の細部が矛盾だらけであることを指摘してさしあげるくらいでじゅうぶん。

自分に不都合な事柄には耳を塞ぎ、都合の良いことだけを並べ立て、ひたすら自己正当化に終始する。
そのような愚かな人間が相手では、多くの人々が途中で呆れ果て、ブログに見切りをつけて立ち去るのも当然です。それに気づかぬことこそ哀れですね。
私も、いいかげん厭きれました。まさに不毛地帯です。
それでは、これで失礼させていただきます。
せいぜいお励みくださいませ。
ほな、さいなら。

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Unknown ()
2009-07-26 23:58:37
そう思います。
作家が反論できないと思って揶揄ばかりしていた評論家(とまではいかずに書評家、と自称して責任を逃げてる人)達は、作家が名をかけて反論したら、みとごに皆黙ってしまいました。
自分の書いた評価に責任を持つということをしない。「笑い」や「ネタ」に転化して、ジョークのように触れ、勝ったつもりでいる。
それどころか匿名の素人に対しては甘く見て当然という感じで、間違いを指摘しても無視する。無視した上でこっそり修正していたりする。
まったく今の世はどうなってしまったことでしょう。
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Unknown (wake)
2009-07-29 02:51:51
>こういう人間を相手にする場合は、その人間の発言内容の細部が矛盾だらけであることを指摘してさしあげるくらいでじゅうぶん。

矛盾というのは、違うレベルにある命題どうしを同じレベルにもってくれば簡単に導くことができるので、論争相手をやっつけるのには有効かもしれないけれど、なんだか大人気(おとなげ、だいにんきではない)ないな、という印象はぬぐえません。それでは何も前に進まない。とくに文学の場合は相手にする作家も彼らが生み出すテクストも多層構造をしていて、小さいテーマに絞れば矛盾はいくらでも見つかる。けれど、だれもそれでその作家やテクストの価値が下がるとは考えません。黒古先生のおっしゃっていることは、あるレベルではむろん正論なのです。ようするに「一緒にやろうよ」と言っているだけです。こういうタイプの先生は大学にはあまりいない。せいぜい就職をえさにして、ゼミ生や院生を囲いこむくらいです。ほんとうに貴重な部類だと思う。
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