1学期が終わり成績登録も済ませたからというわけではなかったのだろうが、「外」に出ることが億劫になってしまい、先々週末から先週末まで1週間あまり、ずっと家からでない生活をしていた。別に風邪を引いたとか、どこかが悪くなったということではなく、単にただ「外」へ出る気力がなくなったというだけだったのだと思うが、これまでにも何年かに1度そのようなことがあったので、別にどうということはなかったのだが、心配してくれる人もいたので、ちょっと前置き的に書いておきたかった、ということである。
さて、学期末試験から「引きこもり」の期間まで、この間何をしていたのかということになるが、今月初めに『村上龍―「危機」に抗する想像力』が刊行され店頭に並びはじめたということも含めて、どなたか匿名のコメンテーターが「(黒古は)文壇からも学会からも相手にされない」などと知った風なことを書いていたことを裏切ることになるが、書評2本と評論2本を書くという、結構多忙な日々を送っていたのである。
・書評は、『週刊読書人』に相次いで頼まれたもので、1つは『憎しみの海・怨の儀式―安達征一郎南島小説集』(川村湊編 インパクト出版会刊)で、安達征一郎という作家については知っていたが、実際に作品を読むのは初めてで、琉球弧(沖縄)・トカラ列島を舞台にそこの出身であることを発語の根拠とする作品群、村上春樹や村上龍といった現代文明の最先端と渡り合う文学とはまた異なった作品は、大変面白かった。(この書評は現在発売中の『読書人』に掲載されているので、興味のある人は読んでみて欲しい。因みに『読書人』は、どこの公共図書館・大学図書館でも常備してあるのではないか、思う)
もう一つは、同じく『読書人』から依頼されて書いた立松和平の新作『人生のいちばん美しい場所』(東京書籍刊)についての書評、である。これはまだ掲載されていないので詳しくは書けないが、僕らの世代が直面せざるを得ない「老い」(と、アルツハイマー)の問題を二組の夫婦の姿を通して描いたもので、非常にリアリティのある作品に仕上がっていて、身につまされる思いで読んだ。今週末か次週末に掲載されるのではないか、と思う。
実は書評に関しては、もう1本、日本近代文学会から依頼されて今月末に10枚ほど書かなければならないのだが、それはこれからの仕事ということになる。
・次に論文の方だが、1つは「『雨ニモマケズ』論争について」、これは周知の宮沢賢治の人口に膾炙した「雨ニモマケズ」を巡って1960年代の半ばに、谷川徹三と中村稔を中心にして起こった論争に関して、それが中途半端なまま終わってしまった理由について30枚ほどの文章で論じたものである。5月半ばに着手したのだがなかなか進まず、少しずつ書いてきてようやく7月始めに終わったのである。宮沢賢治に関心のある人には是非読んで欲しいものである。「デクノボー」がキーワードになっている評論である。刊行は9月になると思うが今月末に創刊号が出る『月光』という文芸誌の2号に掲載される予定になっている。
もう一つは、中国の社会科学院・外国文学研究(日本文学研究所)に頼まれて、今まさに書いている「辻井喬の文学」である。あと4,5日で書き終わる予定なのだが、セゾン・グループの総帥として活躍してきた「堤清二」と詩人・小説家の「辻井喬」の文学について、そのアウト・ラインを描く仕事、そこには「文学の原点」があるように僕には思われ、今では書いている評論よりは更に突っ込んだ作家論を書きたい、とも考えるようになってきている。論文の骨格はもう決まっているので、後は書くだけなのだが、さてどうなる事やら。
というように、それなりに仕事はしてきたので「引きこもり」状態というのは、単に「外」に出ないということのようにも思えるのだが、今は世の中(の動き)とある一定の距離を置くというのも悪くないな、とその効用を嬉しがっている僕がいるのも事実で、これからも疲れたら「体調不良」で「引きこもり」になろうかな、とも思った。
さて、学期末試験から「引きこもり」の期間まで、この間何をしていたのかということになるが、今月初めに『村上龍―「危機」に抗する想像力』が刊行され店頭に並びはじめたということも含めて、どなたか匿名のコメンテーターが「(黒古は)文壇からも学会からも相手にされない」などと知った風なことを書いていたことを裏切ることになるが、書評2本と評論2本を書くという、結構多忙な日々を送っていたのである。
・書評は、『週刊読書人』に相次いで頼まれたもので、1つは『憎しみの海・怨の儀式―安達征一郎南島小説集』(川村湊編 インパクト出版会刊)で、安達征一郎という作家については知っていたが、実際に作品を読むのは初めてで、琉球弧(沖縄)・トカラ列島を舞台にそこの出身であることを発語の根拠とする作品群、村上春樹や村上龍といった現代文明の最先端と渡り合う文学とはまた異なった作品は、大変面白かった。(この書評は現在発売中の『読書人』に掲載されているので、興味のある人は読んでみて欲しい。因みに『読書人』は、どこの公共図書館・大学図書館でも常備してあるのではないか、思う)
もう一つは、同じく『読書人』から依頼されて書いた立松和平の新作『人生のいちばん美しい場所』(東京書籍刊)についての書評、である。これはまだ掲載されていないので詳しくは書けないが、僕らの世代が直面せざるを得ない「老い」(と、アルツハイマー)の問題を二組の夫婦の姿を通して描いたもので、非常にリアリティのある作品に仕上がっていて、身につまされる思いで読んだ。今週末か次週末に掲載されるのではないか、と思う。
実は書評に関しては、もう1本、日本近代文学会から依頼されて今月末に10枚ほど書かなければならないのだが、それはこれからの仕事ということになる。
・次に論文の方だが、1つは「『雨ニモマケズ』論争について」、これは周知の宮沢賢治の人口に膾炙した「雨ニモマケズ」を巡って1960年代の半ばに、谷川徹三と中村稔を中心にして起こった論争に関して、それが中途半端なまま終わってしまった理由について30枚ほどの文章で論じたものである。5月半ばに着手したのだがなかなか進まず、少しずつ書いてきてようやく7月始めに終わったのである。宮沢賢治に関心のある人には是非読んで欲しいものである。「デクノボー」がキーワードになっている評論である。刊行は9月になると思うが今月末に創刊号が出る『月光』という文芸誌の2号に掲載される予定になっている。
もう一つは、中国の社会科学院・外国文学研究(日本文学研究所)に頼まれて、今まさに書いている「辻井喬の文学」である。あと4,5日で書き終わる予定なのだが、セゾン・グループの総帥として活躍してきた「堤清二」と詩人・小説家の「辻井喬」の文学について、そのアウト・ラインを描く仕事、そこには「文学の原点」があるように僕には思われ、今では書いている評論よりは更に突っ込んだ作家論を書きたい、とも考えるようになってきている。論文の骨格はもう決まっているので、後は書くだけなのだが、さてどうなる事やら。
というように、それなりに仕事はしてきたので「引きこもり」状態というのは、単に「外」に出ないということのようにも思えるのだが、今は世の中(の動き)とある一定の距離を置くというのも悪くないな、とその効用を嬉しがっている僕がいるのも事実で、これからも疲れたら「体調不良」で「引きこもり」になろうかな、とも思った。
「今は世の中(の動き)とある一定の距離を置くというのも悪くない」などと言っていてはいけません。
民主党に追い風が吹き、今こそ政治の季節ではありませんか。
黒古さんご自身も、あれほど政治に関心を持って欲しいと、主張していたでしょう?
もしかして、朝令暮改ですか?
麻生総理には、吉田茂さんと同じように今こそ「馬鹿ヤロウ解散」をお願いします。
引きこもりと言えば、小学校から大学の教員まで、およそ教員という人種には、独善的なタイプや社会的には疑問視されてもしかたがないような人間が意外に多い。
子供相手の上から目線で世間を見ているから、長い間にそうなってしまうのでしょう。
自分が指導者だと確信していたのに、ある日、突然、自己主張する児童生徒や学生、そして保護者たちが目の前に現れると、対応しきれなくなった世間知らずの教員は、引きこもりや出勤拒否となる。
学校は勿論のこと、どんな職場でも、基本は「不条理」。「儒教の世界」など期待すべきではない。
社会参加が出来ない(あるいは嫌いな)人間は教員になるべきではない。
大半の教員は、もはや教育者とも知識階級とも言えない時代になりました。勿論、大学の教員も同じです。やはり「ムラ社会」のシステムには、マンネリ化による劣化が避けられない。
いよいよ私も今週が祭りのハイライト。忙しくなります。
黒古さんもご自愛くださいませ。
週間読書人の書評『「南島文学」という新たな文学世界を開示してくれる』を拝見いたしまして大変感銘を受けました。
私は鹿児島本土で小中高の学生時代を過ごしましたが、実家にあった安達征一郎さんの小説を読んで衝撃を受け、奄美の血、島の血というものを自分の中に強く意識づけられた記憶があります。
編者の川村湊さんや黒古さんの考察は非常に的を得られたものだと思います。
私たち奄美の血を引く者は、特徴的なものを持ちながらそれを表現する言葉や物語を安達征一郎さん以来創作しえていないのでは、とずっと感じています。この本は早速入手して改めて読み直したいと思います。
突然、失礼いたしました。
かつてある新聞で「同人雑誌評」を担当していたとき、全国には多くの知られていない「優れた書き手」がいるものだ、と感心したことがありますが、安達征一郎の作品を読んで、僕らはもう一度文学の在り方を考え直さなければならないのではないか、とさえ思いました。
こんな思いにさせてくれたのも、昔からの知人とはいえ安達征一郎の「復活劇」を目論んだ編者川村湊のお蔭と思っています。彼の炯眼によって安達は見事に蘇ったと思います。
「syomu」さんも、是非応援してください。
今年は皆既日食や島津軍の琉球侵攻400年ということで、少なからず奄美に目が向けられるかと思いますが、来年以降は再び奄美は忘れ去られ、鹿児島は島津に沖縄は琉球王国にまどろみ続けるのだと思います。
私たち奄美の血を引く者はどちらにも属しませんから私たち自身が安達文学に続く南島文学、自分たちの言葉と物語を必要とします。
“島唄止まり”にならない私たち自身の物語の必要性を島んちゅにも訴えていきたいと思います。
コメントご返信いただきまして重ね重ねありがとうございました。
不都合がございましたらお知らせくださいませ。よろしくお願いいたします。
http://d.hatena.ne.jp/syomu/20090903/p1
甦る安達征一郎の南島文学【一】 - 凍てつく南島
川村湊とはまた違った意味での「思い入れ」を感じ、安達征一郎はこのような人に支えられていることを改めて思い、羨ましく思いました。どうぞこれからも「奄美・沖縄」にこだわっていただければ、と思います。
合宿から帰ったばかりで疲れています。短い文章で済みません。
ぜひ、一人でも多く安達征一郎さんの名作にふれてもらいたいと感じています。
それにしても川村湊氏は韓国関係の書物で名前は存じ上げておりましたが、解説で安達征一郎さんの南島文学とそのような因縁があったのかと分かり大変驚きました。
拙文を読んでいただきましてありがとうございました。