黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「原則」はどこへ行ったのか。

2008-08-29 10:05:36 | 近況
 札幌に行っている間は、久し振りの北海道ということもあって、朝から晩まで次から次へと「資料」を集めるために文学館へ行ったり、人と会ったり、久し振りに「勤勉」な日々を過ごしたので、ゆっくりテレビを見たり新聞を読んだりする時間を取ることができなかった。
 その意味で、アフガンでNPO法人「ペシャワール会」の活動家が誘拐された末に殺害されるという事件についても、ちらっと頭を過ぎった程度で、僕なりの見解を持つことができなかった。そして昨日、札幌からの飛行機の中で新聞を読み、「犯人逮捕」の報に接し、また様々な人がいろいろな見解を寄せていることを知った。そして、被害者の伊藤和也君が「高い志」を持ってアフガン復興のために活動してきたこと、多くの人が指摘してきたように、僕も彼の志と活動は「崇高」なものであり、今時の若者にしてはものすごく立派だと思った(彼以外にも世界中に同じような志を持って現地に飛び、活動している若者のいることを僕はいくらか知っているが、そのような若者が多く存在すること、このことも僕らは忘れるべきではないだろう)。
 ところが、帰宅途中のカーラジオのニュースが伝えるところに拠れば、町村自民党幹事長は、「だから、テロ撲滅のためのアフガン支援が必要なのだ」と、伊藤君の死を臨時国会における最大の課題である「アフガン・テロ特措法」の延長問題に利用しようという意図が丸出しの見解を述べたという。「政治」というものが、常にマキュアベリスティック(便宜主義)なものであることは百も承知していたが、「おいおいどうしたんだよ、自民党は」とツッコミを入れたくなるくらい、ぞの二枚舌ぶりに驚いてしまった。というのも、イラク戦争が激しさを増していたとき、ボランティアでイラクの子どもたちに援助の手をさしのべていた高遠菜穂子さんや湾岸戦争からイラク戦争にかけてアメリカ軍が使用した劣化ウラン弾について調査するためにイラク入りした「サッポロ・プロジェクト」のメンバーが、「ゲリラ」に拘束されたとき、自民党や与党の政治家たちは何と言ったか。流行語にもなった「自己責任」ということばであった。
 「崇高な志と活動」という褒め言葉と「自己責任」という突き放した言い方、伊藤君の活動と高遠さんの活動、どちらが立派で、どちらが下劣だ、と誰が言えるのか。原則無き政治、これもモラルが解体している証なのではないか、と思う。
 原則無き政治、といえば、大相撲のモンゴル場所を報道するマスコミの姿勢にも、この「原則無き」姿勢を痛感せざるを得なかった。朝青龍が「仮病」で2場所休場させられたとき、「辞めるべきだ」と大声を上げていたマスコミが、今度は一変して「凱旋将軍」であるかのように報道している姿を見て、改めてこんなところにも「モラル・ハザード」が及んでいるのだと再認識せざるを得なかった。掌を返すように、という諺はこんな時に使われるのだと、実感した。「長いものには巻かれろ」という諺も、思い出した。
 原則無き政治、のもう一つの出来事、これも昨夕飛び込んできた「3人が民主党を離党し、新党結成」というニュース。びっくりしたには、当選以来「不倫騒動」などでマスコミに追いかけられ続け、民主党の評判を下落させた姫井議員がそのメンバーの一人に入っていたことだが、そんなスキャンダルとは別に、民主党を離党したメンバーのうち二人が「比例区」での当選組だということ、周知のように比例区は個人名での投票も影響あるが、基本的(原則的)には「政党名」によって当選するという選挙の仕組みである。選挙民は、離党組の議員たちにも「民主党」の議員として全うすると思って投票したはずである。それが、途中で離党する。「改革クラブ」などと格好いい名前の政党になったが、僕など「次の選挙」で当選が覚束ないが故に、今の内に「政党助成金」をもらって(あるいは、与党に協力することで、「次」がねらえると思って)離党した、言ってみれば「崇高な理念」も何もない、単なる「私利私欲」のための離党、モラル・ハザードの極致を見た感じで、何をか況やである。
 原理・原則を踏み破らない、難しいことだが、これこそ僕らがあの「政治の季節」で学んだ最も大切な「仁義=モラル」ではないか、おのれを律せねば、と思った昨日・今日である。

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3 コメント

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お疲れさまでした (コウ)
2008-08-29 11:21:03
黒古さん、おはようございます。
そして、お帰りなさい。

ところで、ペシャワール会医療サービスの総院長であられる中村哲さんは、火野葦平さんの甥子さんだそうですね。
いつも毅然とした態度で自分が今すべきことをきちんと遂行される姿にシンパシーを感じておりましたが、今回の事件で初めて憔悴した顔を見たように思います。

その中村さんの元で働いていた青年(伊藤さん)のような志ある人物がこういう最期を迎えるというのは、やりきれないものですね。
けれど、伊藤さんの父君の態度も立派でした。哀しみを堪えてのコメントに心打たれました。
その姿に、素晴らしい父子関係が窺えました。

黒古さんが仰る通り、あらゆるジャンルでモラルハザードの問題が進行しています。
ただ、我々としても手を拱いて嘆くのではなく、リテラシーの問題と捉え、想像し考える力を養って行く以外に道は無いと思ってもいます。
もちろん他者(=弱者と呼ばれている方々により多く)に対する行動を伴う実践としての想像力を駆使するということです。

そういう意味でも情報は力です。ただしその情報源は何か、何処からどういう意図で齎されたものなのかを読み解くこと(=リテラシー)が必要ですし、それこそが教育の現場で望まれることだと思います。

つまりこの国の問題の根底には間違いなく教育問題が横たわっていると私は思っているんです。


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そうなんですが…… (黒古一夫)
2008-08-29 16:07:42
 全く、仰るとおりで、「教育」こそ昨今次々と起こる僕らの理解を超えた様々な「事件」を解決する方法の根っこにあるものだと思うのですが、なかなか思うようにならないのもまた「教育」であって、絶望的になることも度々です。
 とは言え、僕も教育者の端くれであり、批評家という言葉を通しての(大きく言えば)「教育」に関わる仕事をしている身であることを考えれば、絶望などしている暇はないと考えなければなりません。内外の「ニヒリズム」と戦う日々、です。
 さて「コウ」さん、原稿届きました。来週から学部ゼミの合宿(2泊3日)なので、それが終わったら読ませていただこうと思っています。しばらくお待ち下さい。
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ありがとうございます! (コウ)
2008-08-29 17:01:19
わざわざ連絡下さりありがとうございます!
どうか宜しくお願い致します。

ところで、私が使った「教育」ですが、教育者や行政、システムとしての意味ももちろんですが、それ以上に社会全体の「教育力」の衰えを危惧しています。

かつての日本社会が本来包含していたはずの……矜持というか上位自我と呼べばいいのか……とにかく、そういう類の感覚の麻痺がこの国全体を久しく覆っているように思えてならないのです。
つまり、そもそもの人間力といったものが急速に衰えつつあることを、日々感じているんです。

若者たちの表情も乏しくなってきました。
本物の笑顔よりもガードとしての微笑や、冷笑、嘲笑という種類の笑い顔が目につきます。
当然のことながら、それは若者に留まらないのですが、人生を謳歌すべき世代がそれだと可哀想に思えます。

更にそれ以上に無表情の(あるいは表情を知らないか無理やり奪われた)人たちが増殖しているようです。
こちらの方が更に深い問題を孕んでいますね。

当然、こうして全体に敷衍して語ること(責任の所在を全体に求めること)が、ある種の責任逃れであることも踏まえた上で発言しています。
それでも尚、社会全体の(ひいては強者の、大人たちの、親たちの)問題であり責任だと私は考えています。
システム等、自らと切り離されたものに責任転嫁したくはないですからね。仮にそうだとしても、それでも尚自分にできることを模索したいのです。

そういう意味で、黒古さんは社会に向けて有意義な行動を起こし、発言されています。
その事実に勇気付けられるのです。

もちろん私も、自分に出来る範囲で行動しているつもりです。
まだまだ微力ではありますが、この一歩が大きな一歩に繋がることを信じています。
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