黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

春の息吹を感じながら

2009-03-07 08:49:29 | 近況
 氷雨に打たれながら、それでも庭先の紅葉やツツジ、柿、白蓮、等の木々は確実に芽を膨らませており、春が近くにきていることを告げている。冬の間、春が来れば状況は好転するのではないか、と何となく期待もせず思っていたのだが、世の中はそんなに甘くなく、こちらが自分のこと(仕事、等)に忙殺されている間に、民主党の代表・小沢一郎の第一公設秘書が逮捕される、というような「大事件」が起こり、政界だけでなくこの「日本」という国家・社会そのものが、「発展途上国」と同じように、「近代化=民主化の途上」にある現実をまざまざと見せつけてくれた。
 今執筆している「村上龍論」は、いよいよ最後の段階に入ったのだが、その村上龍が1990年代の後半にあってしきりに口にしていたのが、「日本は1970年代において<近代化の終焉>を迎えたが、そのことに気付かない(あるいは、気付かないふりをしている)大人達の生き様しか模倣できない子ども達が、援助交際を行ったり神戸の酒鬼薔薇聖斗少年のような事件を起こしているのだ」(主旨)というようなことであった。この村上龍の時代認識に従えば、今度の民主党小沢一郎やその後続々と明らかになった自民党「大物議員」への「政治献金」や「パーティー券購入」という事実は、紛れもなくこの国の政界が「近代化の途上」(あるいは近代化以前)という状況にあることを物語っている、としか思えない。
 もちろん、村上龍の時代認識が絶対的に「正しい」とは言えない。というのも、村上龍の見解が「ポスト・モダン」論に立脚したものであり、僕が「ポスト・モダン」論議において決定的に欠如しているのではないかと思っている「未来へのビジョン」の未提示、および第三世界(発展途上国)の現状をどのように考えるか、というようなことを欠落させているのではないか、と思えるからである。それに、これは拙論「村上龍論」の中にも書いたことであるが、果たしてこの国の「近代化」は本当に1970年代に「終焉」したのか、という根本的な疑問が個人的にはある。「近代化」が不十分であり、まだまだそれを実現するための方策は様々に考えられるのではないか、と僕が考えているということがある。つまり、仮に「近代化」とは封建制(身分制社会)からの脱却・克服だとするならば、まだまだこの社会は充分に「近代化」されておらず、今はその途上(方向が定まらず、右顧左眄している時代)にある、とも考えられるのではないか。小沢一郎への「献金」疑惑のみならず、昨今のマスコミ・ジャーナリズムを騒がせている「企業の倫理=派遣切り、等の雇用問題」や相変わらずテレビや新聞を賑わしている「親殺し・子殺し」事件、等々、も皆この国がまだまだ「近代化」していない証拠であり、もしかしたら「近代化」というのは、僕らの「見果てぬ夢」であって、生きるということはその「夢」に向かって進んでいくことの謂いなのではないか、とも思われる。
 そんな現状にあって、どうにかこの困難な状況を抜け出すには、どうすればいいのか。最近考えているのは、今は詳述できないが、この国のバブル期に論議されたと記憶している「オルタナティヴ=もう一つの生き方」という考え方である。ずっと言い続けている「共生」の思想ともどこか通じ合うこの「オルタナティヴ」という考え方、いい意見を聞かせていただけないだろうか。

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