3日前の「広島平和記念式典」における安倍首相の「空疎」な挨拶にあきれていたところ、「東京新聞」その他のメディアに「首相スピーチ『コピペ』――平和式典『昨年と冒頭酷似』指摘』(「東京新聞」8月8日)なる記事が載った。
8月6日のどこか「上の空」のようなスピーチを聴き、「あれっ、どこかで聞いたような言葉だな」と思い、「内容空疎」な「他人事」のような挨拶だなと思っていた矢先に、「東京新聞」記事の指摘。彼の記事はご丁寧に2年分のスピーチを起こしていて、それに拠れば冒頭の3段落(字数にして約370字余り)が、昨年にあった「蝉時雨が今もしじまを破る」の一文が今年はないだけで、その他は一字一句違わない、一国を代表する首相にはあるまじき行為を世界各国の代表が集う「平和式典」で行う、という何とも情けない振る舞い(スピーチ)。
あきれてものが言えないとはこのことだが、そんなこともあって、今日(9日)の長崎における式典での挨拶はどうか、と注視していたところ、実際はテープ起こしをしていないので詳細については断言できないのだが、今度は「広島の式典」とほぼ同じ内容のものだったのではないか、という印象を持った。
田上長崎市長や被爆者代表が安倍内閣が閣議決定した「集団的自衛権行使容認」について、それは「戦争への道」であり、「核廃絶」や「平和」への志向と真逆な思想であり、日本国憲法の「平和思想」を裏切るものだから「撤回すべき」と強調しているのに、そのスピーチを他人事のように目をつぶって「聞いているのかいないのか」分からないような態度でやり過ごしたあとの、前にも書いたが「集団的自衛権」の「じ」も言わない「空疎」な安倍首相のスピーチ。これは、被爆者代表や田上長崎市長が、フクシマや原発再稼働・原発輸出の危険性について触れているのに、そのことに何も答えない態度と通底している。
この人の感覚は、どうなっているのか。集団的自衛権行使容認を主張する記者会見などでは、「国民の命と暮らしを守る」などと言って、アメリカの艦船が幼子を抱いた母を載せて戦場から非難させているのに、日本の自衛官(軍隊)は何もしなくていいのか、などとあたかも「人命尊重」を前面に押し出して、何が何でもアメリカ(軍)の言いなりになる――アメリカの始めた戦争に日本国民と自衛隊(軍隊)も巻き込まれる――ことを主張していたのに、広島と長崎の「平和式典」では全く「心のこもらない」ありきたりの演説をして終わりにしてしまった。本当にこの人は被爆者の「痛み」や「辛さ」を分かっているのか、と思わざるを得なかった。「日本の核武装」を密かに目論む石破茂自民党幹事長や石原慎太郎といった軍国主義者(極右政治家」に支持されて安倍首相の政治姿勢の反映で、何故僕らが「反戦・反核」を願うのか、彼の理解の範疇を超えているのだろう。
たぶん、この人の頭の中には、「被爆者」はもちろん「日本国民=庶民」の姿などなく、あるのはアメリカと財界のお偉方、あるいは自分の権力を守ってくれる自民党(公明党)の議員たちの顔だけなのだろうと思う。腹立たしいことだが、何とも情けない首相を僕らは持ったものである。
もちろん、安倍首相の広島・長崎の「記念式典」における挨拶文は、安倍晋三本人が書いたものではなく、官僚(スピーチ担当の秘書官)が書いたものなのだろうが、昨年と今年のスピーチが同じで、広島と長崎でも同じ挨拶文を「使い回す」、この日本が「モラル・ハザード」の様相を呈しているのも、仕方がないのかも知れない。
">早く、この「鈍感」な極右首相には退陣してもらわなければならない。今日は、本気でそう思った/font>。
それにしても、何とも「イヤーな」気持にさせられそうな「暑い8月」である。
8月6日のどこか「上の空」のようなスピーチを聴き、「あれっ、どこかで聞いたような言葉だな」と思い、「内容空疎」な「他人事」のような挨拶だなと思っていた矢先に、「東京新聞」記事の指摘。彼の記事はご丁寧に2年分のスピーチを起こしていて、それに拠れば冒頭の3段落(字数にして約370字余り)が、昨年にあった「蝉時雨が今もしじまを破る」の一文が今年はないだけで、その他は一字一句違わない、一国を代表する首相にはあるまじき行為を世界各国の代表が集う「平和式典」で行う、という何とも情けない振る舞い(スピーチ)。
あきれてものが言えないとはこのことだが、そんなこともあって、今日(9日)の長崎における式典での挨拶はどうか、と注視していたところ、実際はテープ起こしをしていないので詳細については断言できないのだが、今度は「広島の式典」とほぼ同じ内容のものだったのではないか、という印象を持った。
田上長崎市長や被爆者代表が安倍内閣が閣議決定した「集団的自衛権行使容認」について、それは「戦争への道」であり、「核廃絶」や「平和」への志向と真逆な思想であり、日本国憲法の「平和思想」を裏切るものだから「撤回すべき」と強調しているのに、そのスピーチを他人事のように目をつぶって「聞いているのかいないのか」分からないような態度でやり過ごしたあとの、前にも書いたが「集団的自衛権」の「じ」も言わない「空疎」な安倍首相のスピーチ。これは、被爆者代表や田上長崎市長が、フクシマや原発再稼働・原発輸出の危険性について触れているのに、そのことに何も答えない態度と通底している。
この人の感覚は、どうなっているのか。集団的自衛権行使容認を主張する記者会見などでは、「国民の命と暮らしを守る」などと言って、アメリカの艦船が幼子を抱いた母を載せて戦場から非難させているのに、日本の自衛官(軍隊)は何もしなくていいのか、などとあたかも「人命尊重」を前面に押し出して、何が何でもアメリカ(軍)の言いなりになる――アメリカの始めた戦争に日本国民と自衛隊(軍隊)も巻き込まれる――ことを主張していたのに、広島と長崎の「平和式典」では全く「心のこもらない」ありきたりの演説をして終わりにしてしまった。本当にこの人は被爆者の「痛み」や「辛さ」を分かっているのか、と思わざるを得なかった。「日本の核武装」を密かに目論む石破茂自民党幹事長や石原慎太郎といった軍国主義者(極右政治家」に支持されて安倍首相の政治姿勢の反映で、何故僕らが「反戦・反核」を願うのか、彼の理解の範疇を超えているのだろう。
たぶん、この人の頭の中には、「被爆者」はもちろん「日本国民=庶民」の姿などなく、あるのはアメリカと財界のお偉方、あるいは自分の権力を守ってくれる自民党(公明党)の議員たちの顔だけなのだろうと思う。腹立たしいことだが、何とも情けない首相を僕らは持ったものである。
もちろん、安倍首相の広島・長崎の「記念式典」における挨拶文は、安倍晋三本人が書いたものではなく、官僚(スピーチ担当の秘書官)が書いたものなのだろうが、昨年と今年のスピーチが同じで、広島と長崎でも同じ挨拶文を「使い回す」、この日本が「モラル・ハザード」の様相を呈しているのも、仕方がないのかも知れない。
">早く、この「鈍感」な極右首相には退陣してもらわなければならない。今日は、本気でそう思った/font>。
それにしても、何とも「イヤーな」気持にさせられそうな「暑い8月」である。
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