黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

ネット時代の文学(軽薄短小?)

2007-08-30 09:48:11 | 文学
 先日、あるところで「黒古さんはケータイ小説についてどう思いますか」と聞かれた。それまでにも、新聞や雑誌の広告でよく目にしていた「ケータイ小説」については、書店に行ったときなどパラパラとめくってみていたのだが、正直言って「へえー、これがケータイ小説か。本当にこれを小説と言っていいのだろうか」というような感想しか持っていなかった。
 そこで、遅ればせながらちゃんと読んでみた(と言っても、購入する気持ちが希薄だったので、書店には申し訳ないが「立ち読み」させてもらい、結局「購入するに値しない」と判断した)。結論的には、以前に思っていた「これが小説か?」という疑問を覆すような要素は何ら見つけることができず、「身辺雑記」(しかも、恋愛体験を綴ったものが圧倒的であった)としか言いようがないのではないか、という感想を持った。「ニューウエーブ」でも、新機軸でもなく、よしもとばななの初期作品を大量の水で薄めたようなもので、これではまったく「ポスト・モダン小説」などとは呼べない、と思った。
 こんなことを書くと、誰かに「だから、年寄りはダメなんだ」と言われそうであるが、僕は「文学の役割」というものは、大江健三郎が「歴史的存在である人間の、過去と未来を含みこんだ同時代と、そこに生きる人間のモデルをつくり出すこと」、つまり社会や世界の在りようと文学は深い関係がある、といったことより他にない、と思っているので、そのことに照らし合わせると「ケータイ小説」は、社会や世界と全く無関係であるという点において、「文学=小説」とは認めがたいのである。もちろん、「文学の役割」の一部分として、「娯楽=エンターテイメント」的要素があるということを認めつつ、やはり「ケータイ小説」はサブ・カルチャーとしての運命を辿るのではないか、と確信したのである。通勤・通学の途中で「気軽に」読めることが第一の要件である「ケータイ小説」、それはまさにネット時代の「暇つぶし」を象徴するものなのではないか、と思った。
 そのことを確信したのは、このブログをよく読んでいる人はお気づきかなと思うのだが、「コメント」欄に「abc」さんという人が何回かコメントを寄せてくれていて、そのうちの大部分は「小説を書いているのだが、読んで欲しい。ついてはメールで送るから読んで感想を」というものであった。僕は、ネット上で読むのはページを戻ったりする煩わしさのことを考えて、「プリントアウトしたものを送って欲しい。住所、等は文芸年鑑などの著作者名鑑を調べれば分かる」と返信したところ、作家希望者は貧乏だから、批評家の黒古がそれらのことは全部負担すべきだ、というような乱暴きわまりない返事をいただきたということがあったのだが、この「小事件」なども「ケータイ小説」の流行と根っこのところで繋がっているのではないか、と思わざるを得ない。
 総体的には、「想像力の欠如」=他者への無関心=「ジコチュウ」という現代社会の「病」に多くの人が冒されている、としか考えられない。そんな状況下で「文学」に関わり続けることの意味は何か、自問自答の日々が絶えることはない。
 というような「不満」だらけの日々、トルコからのメールで「文部科学省の国費留学生試験に受かったので、黒古のところで「原爆文学」の研究をしたい」と女子学生から連絡があった。日本でさえ「原爆文学」などは若い人に敬遠されがちなのに、トルコの学生が何故、と思わないわけにはいかない。来年の4月に来日するという、楽しみである。