黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「核」の容認、許せるか?

2007-08-24 09:23:56 | 文学
 「外交」という名の経済進出のお先棒を担ぐ安倍首相のインド、インドネシア、等への外遊中の発言で、ああこの人はダメだ、と思ったのは、アメリカとインドの核(開発)協定に対して、「核廃絶」の立場から毅然として反対を唱えるのではなく、靖国神社参拝問題と同じように、明確に「意思表示」しないという態度に終始したことを知ったからである。
 御手洗経団連会長以下250人もの経済界の連中を引き連れての「外遊」、そこにおける核保有国インドに対する「核」問題に対する曖昧な表現、この人の顔はどこを向いているのか、全く理解できない。こういうのを税金の無駄遣いと言うのだろうが、「核」に対して毅然たる態度を取れない歴代保守政権の最高権力者たち。ここからは、アメリカ追随志向一辺倒でこの62年間過ごしてきた日本の戦後社会の在り方が問われてしかるべきである。
 その意味では、「作らない・持たない・持ち込ませない」の非核三原則のうち「持ち込ませない」が形骸化し、実際には沖縄を始め、横須賀・佐世保などのアメリカ軍艦船に核兵器が搭載されているのは今や常識になっているが、安倍首相は経済効果が大きい「軍需産業」と同等と見られている「原子力産業」(=具体的には核兵器を開発して日本を核武装科する)の振興を目論む経済界の思惑通りに発言・行動している、と考えられる。
 人も同植物も、核兵器が一発爆発すれば、この地上の存在が何もかも破壊される「核」に対して毅然とした態度が取れないが、「美しい国」建設などと、それこそよく言うよ、である。自分の思想(考え方)の矛盾に気が付かないのだろうか。たぶん、そんな「アホ」ではないだろうから、矛盾に気が付きながらも美辞麗句で本音(核武装論)を述べたのが、今回のインドでの曖昧な発言で、インドと日本の国民並びに全世界のこの地球の破壊を許さない人々の願いを欺くものであったといわねばならない。本当に度し難いお坊ちゃんである。
 だからこそ、A級戦犯であった祖父たちを「擁護」したとされるパル判事の息子のところへ行って、ゴマをするパフォーマンスを平気で行って恬として恥じないのだろう。パル判事が南京大虐殺や戦争中の日本軍の蛮行を認めていなかったということなどは、きれいさっぱり忘れて、「日本国民はパル判事を尊敬している」などと言ってしまう無神経さ(というか、政治的配慮)には、怒るというより、あきれてものが言えない。
 その意味で大切なのは、今回のインド訪問時における安倍首相の発言の深意は何か、想像力を働かせることに他ならない。そのような想像力を日常的に働かせることによってしか、また現代文学を批評するエネルギーも生まれてこないのだと思う。本当に腹が立った。