黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

デモクラット・小田実の死(追悼文「図書新聞」)

2007-08-12 05:58:14 | 文学
 前にお約束した小田実さんへの「追悼文」をここに転載します。「図書新聞」の2007年8月18日付の1面に掲載されたものです。

「デモクラット・小田実の死」
                              黒古一夫

 小田さんの死が、憲法改正をもくろむ保守政権に国民が「NO」を突きつけた参議院選挙の結果が明らかになった日と同じであったことは、戦後民主主義を後退させる様々な勢力と戦ってきた小田さんの七十五年の生涯を思うと、何とも不思議な思いがする。
周知のように、小田さんは高校二年(十七歳)の時に書いた『明後日の手記』(一九五一年)で戦後の文壇に登場するが、それ以前の『十四歳』という現存する最も古い小田実作品(詩)に「焼野原になった/ふしぎにおもしろかった/笑い事ではない/やがて おれも/バケツをかついで走った/天井丈が焼けて/月が見えた/戦争がすんだ(後略)」と書いた、一九四五(昭和二〇)年八月一四日未明の大阪大空襲の体験が、作家小田実の原点になっていた。この終戦前日に生じた大阪大空襲による「無意味な死」「理不尽な死」――これを小田さんは「難死」と言っていた――を目撃したことこそが、小田実をして生涯反戦運動・市民運動にコミットさせる最大の要因であった。
小田さんの口癖は、懇願されて色紙などに言葉を寄せるときにも使用する「人間みなチョボチョボや」というものであったが、この言葉に込められている「対等・平等」意識、つまりデモクラット(民主主義者)として生きる覚悟は、全ての小説、全ての評論・エッセイに貫流する人間観・世界観(思想)であった。もちろんそれは、フルブライト留学からの帰国に際して一日一ドルで各国を歩き回ってきた体験を書いた『何でも見てやろう』(六一年)によって多くの若者を魅了したベストセラー作家が、ベトナムの地で今もなお「難死」が起こっている現実に対して、「ベトナムに平和を!市民文化人連合」(通称ベ平連)を鶴見俊輔や開高健、大江健三郎たちと結成した、その行動力(実践)を支える思想であった。ベ平連の合い言葉「殺すな!」は、まさに「焼野原」から出発した小田実(の世代)や活動の中心を担った全共闘世代(団塊の世代)の心情と思想を見事に言い表すものであった。
とは言え、小田さんと僕が直接出会ったのは、一九八一年の後半から翌年、翌々年にかけて盛んになった文学者の反核運動(「核戦争の危機を訴える文学者の声明」運動とその後の講演会や『日本の原爆文学』全一五巻の刊行など)の過程においてであった。それ以前に大田洋子や原民喜、あるいは井上光晴や林京子などの「原爆文学」に興味を覚えていた僕は、八一年の六月に刊行された小田さんの『HIROSHIMA』を読んでいて、そのことを伝えたことがきっかけであった。『HIROSHIMA』は、それまでの原爆文学とは異なり、「原爆・核」の問題を「ヒロシマ・ナガサキ」を原点としながら、そのことからは自由に、人々の現在と未来を脅かす存在である「核」に対して根源から「異議申し立て」を行っているところに最大の特徴があった。反核運動に関わる何かの会合で最初に会った時、そんな『HIROSHIMA』に対する僕の感想を伝えると、にやっと笑い、「みんな、そのことがわかんねんだよなー。黒古さん、あんた珍しい人だよ」と言って、握手をしてくれたのである。
あれから二十五年、密になり粗になりながら、小田さんと僕とは作家と批評家という関係を続けてきたが、何よりも忘れがたいのは、ベトナム戦争終結後の「正義」の在り様を七五〇〇枚余の大長編で問うた『ベトナムから遠く離れて』(全三巻 九一年)について誰よりも早く最初に書評したことである。長大な作品を目の前にして、自分自身の人間観・世界観はもとより文学観をも問われるような気がして、必死で小田実の文学世界と格闘せざるを得なかった。この時の経験が後に拙著『小田実―「タダの人」の思想と文学』(〇二年 勉誠出版刊)執筆へと繋がっていくのだが、それにしても今更ながら「戦後文学の巨人 逝く」という思いが尽きない。二五年間の交遊が走馬燈のように蘇るが、刊行を喜んでくれた拙著を前に、シャイだった小田さんの冥福を心から祈りたいと思う。合掌。

 少しだけ「注記」しておけば、小田さんが渾身の力を注いだ7500枚の大長編『ベトナムから遠く離れて』を読了した人が何人いるか、連載中に何人も代わった「群像」の担当編集者さえ読了していなかった事実があり、余程の小田実ファンでも読了していないのではないかと思っている。また、小田さんが「シャイ」であるというのは、小田さんをよく知る人たちの共通認識で、あの怒髪天を衝くような有様も、実は「シャイ」な心情の裏返しに他ならなかったのである。
 小田さんが逝って2週間、この頃しきりに思うのは小田さんは「末期の目」で何を見ていたのか、何を見ようとしていたのか、ということである。答えは分からないが、この問いを忘れずにこれからを生きていこうと思った。